江州 (江西省)
概要
編集291年(元康元年)7月、西晋により揚州の豫章・鄱陽・廬陵・臨川・南康・建安・晋安および荊州の武昌・桂陽・安成の10郡を分離して、江州が立てられた。州治は豫章県に置かれた。307年(永嘉元年)、桂陽郡が湘州に移管された。340年(咸康6年)、東晋により尋陽県に州治が移された。後に庾翼が豫章に州治を戻したが、ほどなく再び尋陽が州治とされた。
南朝宋のとき、江州は尋陽・豫章・鄱陽・臨川・廬陵・安成・南康・建安・晋安の9郡65県を管轄した[1]。
南朝斉のとき、江州は尋陽・豫章・臨川・廬陵・鄱陽・安成・南康・南新蔡・建安・晋安の10郡を管轄した[2]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、尋陽郡と太原郡が廃止されて、江州に編入された。江州は湓城・彭沢の2県を管轄した。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、江州が九江郡と改称された[3]。
621年(武徳4年)、唐により九江郡は江州と改められ、湓城・潯陽・彭沢の3県を管轄した。622年(武徳5年)、湓城県が分割されて楚城県が置かれ、彭沢県が分割されて都昌県が置かれた。年(貞観8年)、楚城県が廃止されて潯陽県に編入された。742年(天宝元年)、江州は潯陽郡と改称された。757年(至徳2載)、至徳県が置かれ、潯陽郡に属した。758年(乾元元年)、潯陽郡は江州と改称された[4]。
北宋のとき、江州は江南東路に属した。1127年(建炎元年)、南宋により定江軍節度が置かれた。1131年(紹興元年)、江州は江南西路に転属した。江州は徳化・徳安・瑞昌・湖口・彭沢の5県を管轄した[5]。
1275年(至元12年)、元により江東西宣撫司が置かれた。1276年(至元13年)、江西大都督府と改められ、揚州行省に属した。1277年(至元14年)、都督府が廃止され、江州路とされ、龍興行都元帥府に属した。後に江西等処行中書省が置かれてこれに属した。1279年(至元16年)、黄蘄等路宣慰司に属した。1285年(至元22年)、再び江西行省に属した。江州路は徳化・瑞昌・彭沢・湖口・徳安の5県を管轄した[6]。1361年、朱元璋により江州路は九江府と改められた[7]。