水野勝知
水野 勝知(みずの かつとも)は、下総結城藩の第10代藩主。水野宗家15代。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 大正時代 |
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生誕 | 天保9年2月26日(1838年3月21日) |
死没 | 大正8年(1919年)4月22日 |
改名 | 丹羽富以(初名)→水野勝知 |
別名 | 監物、将監、蔵人(通称) |
墓所 | 茨城県結城市の孝顕寺 |
官位 | 従五位下、日向守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜 |
藩 | 下総国結城藩主 |
氏族 | 丹羽氏→水野氏 |
父母 |
父:丹羽長富、母:松尾氏の娘 養父:水野勝任 |
兄弟 | 丹羽長国、稲葉正邦、勝知、矩姫、政姫 |
妻 |
正室:堀直格の娘 継室:内藤政民の次女(内藤政恒の養女)・作 |
子 | 養子:勝寛 |
経歴
編集天保9年(1838年)2月26日、陸奥二本松藩の第9代藩主・丹羽長富の八男として生まれる。文久2年(1862年)11月24日、第9代結城藩主・水野勝任の死去に際し、末期養子として家督を相続した。同年12月1日、将軍・徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・日向守に叙任する。元治元年(1864年)4月、日光祭礼奉行に就任した。同年7月10日、学問所奉行に就任した。
慶応4年(1868年)3月1日、旧幕府から彰義隊の指揮を任される。当時、藩内は佐幕派と恭順派に分裂していた。藩主の勝知は佐幕派に与し、恭順派は第8代藩主勝進の子の勝寛を新藩主として擁立した。3月26日、彰義隊の一部などを引き連れた勝知は、恭順派から結城城を奪い取った。しかし、同年4月、新政府軍の攻撃を受けて結城城は落城し、勝知は水路から脱出して上総成東や上野山内に潜伏したのち、実家の二本松にまで逃れた。閏4月5日、明治政府は勝知の官位を剥奪し、藩士の入京も禁止とした。5月20日、新政府に捕らえられて、伊勢津藩にお預けになった。明治元年(1868年)9月10日、上総鶴牧藩にお預けとなる。12月7日、明治政府から隠居を命じられる。所領も1000石減封された。
明治2年(1869年)2月24日、勝寛が家督を相続した。同年7月4日、二本松藩にお預けとなる。
大正8年(1919年)4月22日に死去した。享年82。
系譜
編集父母
正室、継室
養子