内藤政恒
内藤 政恒(ないとう まさつね)は、江戸時代後期の大名。陸奥国湯長谷藩11代藩主。官位は従五位下・播磨守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保7年11月22日(1836年12月29日) |
死没 | 安政6年10月23日(1859年11月17日) |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の光明寺 |
官位 | 従五位下・播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家定→家茂 |
藩 | 陸奥湯長谷藩主 |
氏族 | 戸田松平家→内藤氏 |
父母 |
松平光庸、久世広誉娘・伊保子 内藤政民 |
兄弟 | 小笠原長国、松平光則、政恒、戸田光芬、戸田光遠、野々山義比、松平康載(板倉勝観)、貞、孝ら |
妻 | 内藤政民娘 |
子 |
政養ら 政敏、作 |
略歴
編集天保7年(1836年)、のちの信濃国松本藩主・松平光庸の三男として誕生した(光庸が藩主に就くのは翌年で、当時の藩主は先代の松平光年)。安政2年(1855年)、10代藩主・内藤政民が死去したため、その婿養子として跡を継ぐ。
系譜
編集父母
正室
- 花月院 ー 内藤政民の娘
子女
- 内藤政養(三男)生母は花月院(正室)
養子、養女