水谷勝晴
水谷 勝晴(みずのや かつはる)は、江戸時代前期の備中国備中松山藩の世嗣。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天和元年(1681年) |
死没 | 元禄6年11月27日(1693年12月23日) |
改名 | 彌七郎(幼名)、勝晴 |
戒名 | 見徳院朝華日理 |
藩 | 備中松山藩世嗣 |
氏族 | 水谷氏 |
父母 |
父:水谷勝阜、母:妻木頼保娘 養父:水谷勝美 |
兄弟 | 勝晴、勝比、勝秀、本多正庸、妻木頼勝、勝中 |
略歴
編集天和元年(1681年)、水谷勝阜の長男として誕生。母は妻木頼保の娘。幼名は彌七郎。元禄6年10月6日(1693年11月3日)、備中松山藩主・水谷勝美が嗣子無く没したため、勝美の末期養子となった。本来ならばそのまま家督を継承するはずであったが、約1ヵ月後の同年11月27日(1693年12月23日)に疱瘡のため僅か13歳で死去した[1]。戒名は見徳院朝華日理。
そのため、水谷家から改めて勝美の弟が養子として申請されたが[2]、「末期養子の末期養子」は認められなかったため、備中松山藩水谷氏は無嗣廃絶により改易となった。