水泥古墳
概要
編集奈良盆地南西縁、丘陵先端部に築造された古墳2基の総称である。北側の丘陵地では群集墳である巨勢山古墳群の分布が知られるが、それらから離れた独立墳として所在する[1]。2基はそれぞれ「北古墳」・「南古墳」と呼び分けられ、いずれも埋葬施設を横穴式石室とし、北古墳の方が若干大きい規模になる[1]。南古墳の石室内の石棺に蓮華文を彫り出す点で特筆され、古墳文化・仏教文化の結合を示す数少ない例として知られる古墳になる[1]。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半-末頃(北古墳)・古墳時代終末期の7世紀初頭頃(南古墳)と推定される[2]。被葬者は明らかでないが、仏教を先進的に導入した有力首長の墓として、一帯を治めた古代豪族である巨勢氏(許勢氏)の盟主墳に位置づけられる[2]。古くから『日本書紀』皇極天皇元年(642年)12月条に見える蘇我蝦夷・入鹿の墓(今来の双墓/今木の双墓)に比定する説も挙げられるが[3][2]、近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。
遺跡歴
編集一覧
編集北古墳
編集水泥北古墳 | |
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石室開口部 | |
別名 | 水泥塚穴古墳 |
所在地 | 奈良県御所市古瀬 |
位置 | 北緯34度24分46.00秒 東経135度44分34.50秒 / 北緯34.4127778度 東経135.7429167度 |
形状 | 円墳 |
規模 | 直径20m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室(内部に石棺か) |
築造時期 | 6世紀後半-末 |
被葬者 | (推定)巨勢氏首長 |
水泥北古墳または水泥塚穴古墳(みどろつかあなこふん[5][2])は、円墳。直径約20メートルを測る[2]。現在は個人邸内に所在する。
埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する[2]。石室の規模は次の通り[5]。
- 石室全長:13.4メートル
- 玄室:長さ5.6メートル、幅3メートル、高さ3.3メートル
- 羨道:長さ7.8メートル、幅2メートル、高さ1.9メートル
石室の床面下には、排水管として瓦質の土管約20本が追葬時に敷設されている[3][5][2]。また石室内部には石棺を据えたと推測され、石棺石材とみられる凝灰岩片が検出されている[2]。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半-末頃と推定される[2]。
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石室展開図
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玄室(奥壁方向)
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玄室(開口部方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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墳丘
南古墳
編集水泥南古墳 | |
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墳丘・石室開口部 | |
別名 | 水泥蓮華文石棺古墳 |
所在地 | 奈良県御所市古瀬 |
位置 | 北緯34度24分42.45秒 東経135度44分33.50秒 / 北緯34.4117917度 東経135.7426389度 |
形状 | 円墳 |
規模 | 直径25m |
埋葬施設 |
両袖式横穴式石室 (内部に家形石棺2基) |
出土品 | 金銅製耳環・須恵器 |
築造時期 | 7世紀初頭 |
被葬者 | (推定)巨勢氏首長 |
特記事項 | 家形石棺に蓮華文を彫出 |
水泥南古墳または水泥蓮華文石棺古墳(みどろれんげもんせっかんこふん[6][2])は、北古墳の南約100メートルに所在する円墳。直径約25メートルを測る[2]。
埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する[2]。石室の規模は次の通り[6][1]。
- 石室全長:10.8メートル
- 玄室:長さ4.6メートル、幅2.4メートル、高さ2.6メートル
- 羨道:長さ6.2メートル、幅1.6メートル
玄室床面には円礫を敷き、礫床の下には排水溝を有する[1]。石室の構造としては茅原狐塚古墳(桜井市)とほぼ同一設計になるとして注目される[7]。石室内部には刳抜式家形石棺2基があり、1基は玄室に、1基は羨道に据えられている[2]。それぞれの内容は次の通り。
- 玄室棺(初葬棺)
- 羨道棺(追葬棺)
発掘調査では、石室内の副葬品として金銅製耳環・須恵器(高坏・𤭯・台付𤭯)が検出されている[9]。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀初頭頃と推定される[2]。
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石室展開図
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羨道・羨道棺
棺正面の突起に蓮華文を付す。 -
玄室棺展開図
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羨道棺展開図
文化財
編集国の史跡
編集- 水泥古墳 - 1961年(昭和36年)7月6日指定[4]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h 水泥南古墳(続古墳) 2002.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o ふるさと御所市 2012.
- ^ a b c 水泥古墳(平凡社) 1981.
- ^ a b c 水泥古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b c 水泥塚穴古墳(古墳) 1989.
- ^ a b c d 水泥蓮華文石棺古墳(古墳) 1989.
- ^ 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 66-69。
- ^ 竜山石は、かつて流紋岩質溶結凝灰岩とされてきたが、近年の調査によって流紋岩質成層ハイアロクラスタイト(水冷破砕岩)と判明している(宝殿石(竜山石)(兵庫県ホームページ)参照)。
- ^ a b 水泥南古墳 史跡説明板。
- ^ 河上邦彦『飛鳥発掘物語』扶桑社、2004年、pp. 54-56。
参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 水泥南古墳 史跡説明板(御所市教育委員会、1996年設置)
- 地方自治体発行
- 「ふるさと御所 文化財探訪」 御所市、2012年、其の43(文責は西村慈子)。 - リンクは御所市教育委員会文化財課「御所市の文化財」。
- 事典類
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)
- 「御所市古瀬「水泥蓮華文石棺古墳」および「水泥塚穴古墳」の調査」『奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報 第14輯』奈良県教育委員会、1960年。
- 「御所市水泥塚穴古墳」『奈良県古墳発掘調査集報II(奈良県文化財調査報告書 第30集)』奈良県立橿原考古学研究所、1978年。