正院(せいいん)は、1871年(明治4年)の廃藩置県後に発布された太政官職制の最高機関。

1871年9月13日(明治4年7月29日)それまでの太政官を正院、左院右院の三つに分け、左右両院の上に立つ。政務を執る正院は従来の太政官に相当し、太政大臣納言参議、枢密正権大少史、正権大少史等で構成された[1]

正院にはまた、監部課[1]、式部局、舎人局、雅楽局の三局[2]が配属されたが、翌1872年(明治5年)には、舎人・雅楽局は廃止され式部局とともに式部寮に統合された[3]

その後、1873年(明治6年)5月の改革で権限はさらに強化され、天皇輔弼の責任が明確にされた。1875年(明治8年)4月、立憲政体の詔書に基づき元老院大審院が創設され、左右両院を廃止。同年7月3日に内史所管の法制課が廃止され、法制課の事務が内史本課へ合併されるとともに、内史の機能のうち法案の起草、勘査の機能のみを独立させて専門化した機関[4]として法制局が置かれた[5]

1877年(明治10年)1月18日(太政官達第10号)に正院の名称が廃され、以後は単に太政官と称した。

典拠

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  1. ^ a b 菊山正明『明治国家の形成と司法制度』御茶の水書房、1993年。//books.google.co.jp/books?id=OTA6AAAAMAAJ 
  2. ^ 美濃部達吉『日本国法学 上巻 上 総論』有斐閣書房、1907年、243頁。NDLJP:2387790 
  3. ^ 式部寮”. Yahoo! JAPAN 辞書. Mar-2012閲覧。 エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。 (日本国語大辞典, 国史大辞典)
  4. ^ 水野(2007)38頁
  5. ^ 明治8年7月3日太政官番外達「正院中法制課ヲ廃シ法制局ヲ置ク」

参考文献

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  • 川口由彦(1998)『日本近代法制史』(新世社)
  • 牧英正藤原明久編(1993)『日本法制史』(古井蒼生夫執筆部分)(青林書院
  • 水野京子(2007)「明治初年における行政・立法分離問題」書陵部紀要第58号

関連項目

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