正親町三条公治
室町時代中期から後期の公卿。正二位・権大納言。正親町三条家11代。
正親町三条 公治(おおぎまちさんじょう きんはる)は、室町時代中期から後期にかけての公卿。内大臣・正親町三条実雅の子。官位は正二位・権大納言。
時代 | 室町時代中期 - 後期 |
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生誕 | 嘉吉元年(1441年) |
死没 | 明応4年3月12日(1495年4月7日) |
改名 | 公躬(きんみ、初名)→公真(きんざね)→公治 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後花園天皇→後土御門天皇 |
氏族 | 正親町三条家 |
父母 | 父:正親町三条実雅 |
兄弟 |
公綱[1]、公治、公宣、公冬、三条実量室 養兄弟:足利義視 |
子 | 実興、実望、滋野井季国[2]、尊実[3]、鷹司兼輔室 |
生涯
編集叔母(父・実雅の妹)の尹子(ただこ)は室町幕府6代将軍・足利義教の正室となるなど、足利将軍家との繋がりが深く、義教が殺害された嘉吉の変(1441年)では、同席していた実雅も太刀を抜いて応戦したが負傷している(幸い一命は取り留めた)。子である公治が生まれたのはちょうどこの年である。
文安3年(1446年)、幼年にして叙爵。侍従・甲斐権介・右近衛少将・右近衛中将・下野権介・蔵人頭を経て、長禄2年(1458年)には参議となり、公卿に列する。その後、越前権守・讃岐権守・権中納言を経て、文明13年(1481年)に権大納言となり、延徳元年(1489年)まで務めた。