橋戸信
橋戸 信(はしど しん/まこと(文献により一定していない)、1879年(明治12年)3月10日 - 1936年(昭和11年)3月23日)は、日本のアマチュア野球選手(遊撃手、投手)、新聞記者。ペンネームは「橋戸 頑鉄」(はしど がんてつ)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京府芝区(現・東京都港区) |
生年月日 | 1879年3月10日 |
没年月日 | 1936年3月23日(57歳没) |
選手情報 | |
ポジション | 遊撃手、投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1959年 |
選出方法 | 特別表彰 |
この表について
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経歴
編集東京府芝区(現・東京都港区)の浄土真宗本願寺派の寺院安楽寺 (東京都港区芝二丁目)の住職の子として生まれる。青山学院普通部(のちの旧制青山学院高等学部、及び旧制青山学院中学部)野球部でエースを務め、当時の強豪であった一高(現・東大教養学部)を二度破っている。
青山学院卒業後の1901年(明治34年)、東京専門学校(翌年早稲田大学に改称)文学部哲学科に入学するが、ベースボール部(現・野球部)にはすぐには入部しなかった。同年の冬になって、野球部部長・安部磯雄の説得により入部。翌年、初代主将の大橋武太郎(郁文館中学時代から押川清とバッテリーを組んでいた)が家庭の事情で退学したため2代目主将となる(ただし、この点については当時主将制を採っていなかったとして異論もある)。
1903年(明治36年)、早大の他の部員2名とともに慶應義塾野球部寮を訪問して「挑戦状」を差し出し、これに応じた慶應との間で行われた野球の試合が、現在の早慶戦のルーツといわれている。この時の挑戦状は野球体育博物館に保存されているが、これを書いたのは橋戸だと言われている。また、橋戸が“使者”となったのには青山学院当時に慶應の練習に参加しており、慶應の選手たちと旧知の間柄であったからだと言われており、そもそも早慶戦のアイデアを考えたのが橋戸だという説もある(異説もある)。
1905年(明治38年)には、野球部のアメリカ遠征のメンバーにも選ばれており、これは試合結果こそ芳しくなかったものの、当時まだ日本では知られていなかった数々の技術・戦略を学びとり、日本の野球技術を高めるのに一役買っている。また、これらの新技術について、野球部部長・安部磯雄の命によって同年『最近野球術』(博文館)という本にまとめ、広く紹介している。なお、この本の前書き(押川春浪筆)には、橋戸はこの頃から「頑鉄」の号を使っていたことが記されており[1]、このペンネームは後年の新聞記者時代に使われはじめたという説は誤りである。
1907年(明治40年)に大学を卒業すると、アメリカに渡り、約4年間暮らす。帰国後は萬朝報を経て1916年(大正5年)、大阪朝日新聞社に入社。全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の運営に関わった。
1920年(大正9年)には押川清、河野安通志らと日本運動協会(日本初のプロ野球チーム)を設立し(資本金9万円)、無限責任社員3人のうちの1人に名を連ねた。
1925年(大正14年)、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入社。ここで、早大時代の同期だった島崎新太郎の発案により、既にメジャーリーグで定着していたチームのフランチャイズ制度に着目していた、日本の都市を代表するチームを競わせようとする大会の実現に奔走。1927年(昭和2年)に都市対抗野球大会の開催にこぎつけた。
1936年(昭和11年)、肝臓ガンで入院し、一旦は退院するも3月23日に急性肺炎を併発して死去。57歳没。墓所は東京都港区芝の実家安楽寺(浄土真宗本願寺派)[2]。
橋戸の死去を受けて1936年の都市対抗野球大会では、橋戸の功績を讃え、大会最優秀選手に与えられる賞として「橋戸賞」が設置された。
その他
編集脚注
編集関連記事
編集参考文献
編集- 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年
外部リンク
編集- 公益財団法人野球殿堂博物館>殿堂入りリスト>橋戸信
- 『橋戸頑鉄』 - コトバンク
- 『最近野球術』 - 国立国会図書館デジタルコレクション