松平頼真
江戸時代中期の大名。高松藩第6代藩主
松平 頼真(まつだいら よりざね)は、江戸時代中期の大名。讃岐高松藩の第6代藩主。官位は従四位下・讃岐守、左近衛権中将。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛保3年1月23日(1743年2月17日) |
死没 | 安永9年3月10日(1780年4月14日) |
改名 | 軽千代・右京(幼名)、頼真 |
諡号 | 定公 |
戒名 | 瑞麟院殿表蓮社陰誉義徳源定大居士 |
墓所 | 香川県高松市仏生山町の法然寺 |
官位 | 従四位下、讃岐守、左近衛権中将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 讃岐高松藩主 |
氏族 | 高松松平家 |
父母 | 父:松平頼恭、母:細川宣紀の七女・八代姫 |
兄弟 | 頼真、頼起、頼昌、頼周、頼裕、嘉代、元、戸沢正産正室、小笠原長堯正室、松平武寛正室、能、長姫ら |
妻 |
正室:徳川宗直の十女・薫姫 側室:即就院 |
子 |
頼儀、勝 養子:頼起 |
生涯
編集寛保3年(1743年)1月23日、第5代藩主・松平頼恭の長男として誕生した。明和8年(1771年)に父が死去したため家督を継いだ。安永元年(1772年)12月に従四位下・左近衛権中将に叙位・任官した。
風水害や高松の大火などの災害にたびたび悩まされ、困窮した領民からの租税を免除して救済に努めている。しかし父の時代に行なわれた改革の影響もあって、次第に藩財政は好転し、安永5年(1776年)6月には藩士の知行を元に戻すなどしている。安永8年(1779年)に藩校・講道館を創設し、初代総裁として後藤芝山を招聘した。
安永9年(1780年)3月5日、江戸で死去した。享年38。実子の雄丸(のちの頼儀)は6歳という幼少のため、跡を異母弟で養子の頼起が継いだ。