松平頼済
江戸時代中期の大名。常陸府中藩第6代藩主
松平 頼済(まつだいら よりすみ)は、江戸時代中期の大名。常陸国府中藩6代藩主。官位は従四位下・播磨守、侍従。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 享保5年11月29日(1720年12月28日) |
死没 | 天明4年5月29日(1784年7月16日) |
改名 | 貞五郎(幼名)→頼済 |
戒名 | 寂照院撫誉風航玄津 |
墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞龍山 |
官位 | 従四位下播磨守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 常陸府中藩主 |
氏族 | 守山松平家→石岡松平家 |
父母 |
父:松平頼貞、母:茂(松本氏) 養父:松平頼幸 |
兄弟 |
頼尚、頼寛、定賢、津治姫、頼恭、 頼済、勝之助、七郎、染姫、与米姫ら |
妻 |
正室:石川総慶娘・愛姫 継室:徳川宗直六女・賢姫 |
子 | 頼前、太田頼陽、頼贇 |
略歴
編集陸奥国守山藩主・松平頼貞の七男。母は茂(松本氏)。幼名は貞五郎。
寛保2年(1742年)、先代藩主の松平頼幸が嗣子なくして早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。同じ支藩の守山藩主・松平頼寛(頼済の実兄)と共に老中堀田正亮の役邸に呼び出しを受けて水戸藩の財政改革を行うことを直接命じられ、これが水戸藩の宝暦の改革となった。天明4年(1784年)5月29日に65歳で死去し、跡を長男・頼前が継いだ。
年表
編集※日付=旧暦