堀田正亮
堀田 正亮(ほった まさすけ)は、江戸時代中期の大名、老中首座。出羽国山形藩主、下総国佐倉藩初代藩主。官位は従四位下・侍従。正俊系堀田家5代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳2年1月6日(1712年2月12日) |
死没 | 宝暦11年2月8日(1761年3月14日) |
戒名 | 青雲院陵阿松月渓惟心 |
墓所 | 東京都台東区西浅草の日輪寺 |
官位 | 従五位下相模守、従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、大坂城代、老中、老中首座 |
主君 | 徳川家重 |
藩 | 出羽山形藩主→下総佐倉藩主 |
氏族 | 堀田氏 |
父母 |
父:堀田正武、母:小林氏 養父:堀田正虎、堀田正春 |
妻 |
正室:松平定逵養女・千賀姫 側室:町田氏 |
子 |
正定、正泰、正順、正通、正時、園、 戸田氏英正室、松平忠祇正室、 本多助之正室、大久保忠喜正室、祥運院、上田義篤正室、横山知明正室 |
略歴
編集堀田正俊の四男・堀田正武の長男[1]。父が幼い時に死んだため、伯父の山形藩主・堀田正虎に養子に迎えられ、享保14年(1729年)の正虎の死後に3000石を与えられ旗本として別家を立てた。正虎の跡を継いだ正春が嗣子を残さずに早世した際、養子となり家督を継いだ。
寺社奉行、大坂城代を経て老中、老中首座となる。老中在職中に宇和島藩主・伊達村候と仙台藩主・伊達宗村の争いを調停した。また、老中在職中の延享3年(1746年)に佐倉へ転封となり、以後は幕末まで正俊系堀田家による佐倉の支配が定着した。
在職中に死去した。
年表
編集官歴
編集系譜
編集脚注
編集- ^ 依田学海『学海余滴』笠間書院、2006年、433p頁。