松平康乂
日本の江戸時代後期の大名。美作津山藩5代藩主松平康哉次男で、津山藩6代藩主(津山松平氏6代当主)。従四位下越後守
松平 康乂(まつだいら やすはる)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。美作津山藩6代藩主。官位は従四位下・越後守。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 天明6年9月8日(1786年9月29日) |
死没 | 文化2年7月13日(1805年8月7日) |
改名 | 徳丸、仙千代(幼名)、康乂 |
戒名 | 厳恭 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従四位下越後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 美作津山藩主 |
氏族 | 津山松平家 |
父母 | 松平康哉、柴田久悦娘 |
兄弟 | 仙千代、康乂、斉孝、維賢、信行、時敏、近藤用明、富丸、松平知豊正室 |
妻 | 藤堂高嶷娘 |
子 | 斉孝 |
生涯
編集5代藩主・松平康哉の次男として誕生。寛政6年(1794年)、父の死去により跡を継ぐ。
同年、浮世絵師の北尾政美(鍬形紹真、鍬形蕙斎)を藩のお抱えとして登用した。一介の町絵師であった北尾の正式採用は異例であったが、北尾は老中松平定信と親交が深く、また定信は康哉とも親交が深かった、という縁も指摘される。またこれは、ただ芸術家を保護したのではなく、北尾が得意とした「(それまでの平面的な地図・絵図ではなく)俯瞰構図と遠近法を駆使して景色を描く」という技術を藩政および軍事に応用しようとしたものである、とする説がある。