松平定芝
松平 定芝(まつだいら さだしげ)は、江戸時代後期の大名。伊予国今治藩の第8代藩主。定房系久松松平家8代。官位は従五位下・采女正、若狭守。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政3年9月22日(1791年10月19日) |
死没 | 天保8年7月16日(1837年8月16日) |
改名 | 安次郎、安之丞(幼名)、定芝 |
別名 | 甘裳、盾山(号) |
戒名 | 謙徳院 |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 |
官位 | 従五位下采女正、若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 伊予今治藩主 |
氏族 | 久松松平家定勝流 |
父母 | 父:松平定剛、母:土岐定経の娘・磯 |
兄弟 | 定芝、高力直行、大嶋義彬、松平某室、斉藤利伊正室、近藤徳用正室、酒井忠堅正室、石川正保正室、堀親孝室ら |
妻 | 正室:松平康任の娘・知 |
子 |
定法、久、善子、女子3人ら 養子:勝道 |
生涯
編集寛政3年(1791年)9月22日、第7代藩主・松平定剛の長男として誕生。文化2年(1805年)12月に従五位下、采女正に叙任する。後に若狭守に転任する。文政7年(1824年)6月5日、父の隠居により跡を継ぎ、父と同じように文治政策に尽力した。天保8年(1837年)7月16日、父に先立って死去した。享年47。
子のほとんどは早世し、残っていた3男・定法も幼少のため、従弟の勝道(第6代藩主松平定休の6男・池田政行の次男)を婿養子として跡を継がせた。