東八郎

日本のコメディアン (1936-1988)

東 八郎(あずま はちろう、本名:飛田 義一(ひだ ぎいち)、1936年昭和11年〉5月31日 - 1988年〈昭和63年〉7月6日[2])は、日本コメディアンタレント。昭和を代表するコメディアンの一人。妻との間に3男2女があり、次男はお笑いコンビ・Take2東貴博、三男はタレントの東朋宏。タレントの安めぐみは義娘(次男・貴博の妻。ただし、東の死去から23年後の2011年に結婚したため、生前に面識は無い)にあたる。

東 八郎
1965年
本名 飛田 義一(ひだ ぎいち)
ニックネーム あずはちさん[1]
生年月日 1936年5月31日
没年月日 (1988-07-06) 1988年7月6日(52歳没)
出身地 日本の旗 日本東京都台東区浅草
言語 日本語
師匠 田谷力三八波むと志佐山俊二深見千三郎
出身 浅草フランス座
トリオ名 トリオ・スカイライン
芸風 コント
活動時期 1952年 - 1988年
過去の代表番組 お笑いオンステージ
志村けんのバカ殿様
配偶者 一般人女性
親族 東貴博(次男)
東朋宏(三男)
弟子 萩本欽一
すず風金魚
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来歴

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東京府東京市浅草区 (現・東京都台東区浅草) 出身。父は岐阜県大垣市の出身で皇宮警察官であった。戦時中に家族とともに名古屋市に疎開し、名古屋時代の親友にプロゴルファー塩谷育代の父親がいた。

中学校卒業後にコメディアンを志して歌手の田谷力三に弟子入り。浅草公園六区浅草フランス座などで活躍する(芸名はフランス座を経営する洋興業創業者の松倉宇にちなんだものであった)。この頃のフランス座には、関敬六長門勇渥美清伊東四朗など後に有名になったコメディアンたちが出演していた。

浅草の東洋劇場では池信一、東八郎、石田映二の丁稚トリオを結成、のちにまだ駆け出しの萩本欽一が加わった[3]

テレビの台頭と共に浅草の演劇街が衰退してきたため、1964年小島三児原田健二[4]と共にトリオ・スカイラインを結成し、テレビに進出。コントを行い人気を博した。しかし、トリオ・スカイラインは1971年に解散。以降は単独で芸能活動を行い、三波伸介とともにNHKお笑いオンステージ』にレギュラー出演して、全国区の有名なコメディアンとなった。その後、東八郎劇団を結成して後進の育成にも力を注ぎ、全国各地で喜劇を演じていた。最晩年では『志村けんのバカ殿様』の城代家老役や額に「光」のシールを貼り、BGMにメンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲が流れる「ヨード卵光」のCMが有名であった。なお、萩本欽一は東の預り弟子であった[注釈 1]。東の直弟子には他にすず風金魚(すず風にゃん子・金魚)がいる。

また人気コメディアンとしてテレビや舞台を数多くこなし、RCAビクターから『娘へのバラード』(1981年)を発売するなど歌手活動も行っていた。『娘へのバラード』は、結婚披露宴で歌われる定番曲のひとつとして広く知られている。また1986年には芸能人養成のために私塾「笑塾」を開いた。

しかし、それから間もない1988年7月6日の昼過ぎ、自宅で眠っている最中に突然脳溢血を起こす。日本医科大学付属病院へ救急車で緊急搬送されたが、意識が回復することなく同日15時30分に急逝した(52歳没[5][6]

人物

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1986年から『志村けんのバカ殿様』に城代家老役でレギュラー出演する。バカ殿のネタは元々、東が浅草の劇場で演じていたネタでもあった。収録の合間には志村けんが大先輩である東に質問をすることもあった。志村いわく、コメディアンの宿命ではあるが子どもから直接バカにされることに内心、憤慨してしまったこともあると言い、「東さんはその歳になっても、なぜ徹底したバカな演技ができるのですか?」と尋ねられた。東は、「子どもにバカにされるのは芸人として当然のことで、怒っても仕方がない。わかる人は、演者がバカではないとちゃんと判ってくれている。むしろ芸人が利口面をしたがったり、文化人ぶったりするようになったらおしまいだよ」と話した。これを聞いた志村は感激し、以後ことあるごとにこのエピソードを披露して東に対する敬意を表している。東の死で「笑塾」が解散となった際、志村は「(当時の)自分には一人しか面倒を見てやれる余裕がないが、誰かの面倒を見たいね」と申し出た。この時、志村の付き人に採用されたのがジョーダンズ山崎まさやだった。[7]

「笑塾」の出身者は他に桂米多朗ぴろき斎藤哲也らがいる。

東の持ちネタである「頑張れ、強いぞ、僕らのなまか〜」は、テレビアニメ赤胴鈴之助』のテーマ曲の替え歌で、「仲間」が訛って「なまか」となった。「なまか」は後に、フジテレビドラマ『西遊記』で主演した香取慎吾扮する孫悟空の口癖として使用された。

晩年は長期にわたって糖尿病を患っており、逝去の数ヶ月前には病状が悪化していた。しかし、その後も家族や関係者の反対を押し切って新宿コマ劇場での舞台公演に出演し、これが生涯最後の舞台となった。

死去の数日前に家族で外食した際には、「俺が死んだら、この子たちはどうなるんだろうなあ」と語ったり、夫人に「俺は苦しんだりせず、朝起きたら俺の顔を覗き込んで『あら、死んでるわ』っていう死に方が理想なんだ」と語るなど、自身の死期を悟っていたふしが見られ、奇しくも自身の理想に近いかたちの最期を遂げた。

出演番組

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バラエティ

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テレビドラマ

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映画

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アニメーション

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※東八郎が唯一「声優」として声をあてたテレビアニメーション作品。

演じた俳優

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音楽

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シングル

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発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
クラウンレコード
1979年9月 EP CW-1868 A 小銭マン さいとう大三 泉八汐 池多孝春
B 人生サーカス
東芝EMI
1979年12月 EP TP-10661 A ディスコ・ケンコー(牛のチチ体操) 伊藤アキラ 井上忠夫 宮川泰
B DISCO KENKOH
RVCレコード
1981年10月21日 EP RHS-48 A 娘へのバラード さいとう大三 ひだよしかず 京建輔
B 今夜は泣いてもいいよ 鳥井実
1983年4月 EP RHS-98 A 沙留の里の子守唄 木の根かおり 泉八汐 京建輔
B おふくろ さいとう大三
1985年 EP RHS-181 A 流しのテッちゃん[注釈 2] みや秀和 中山大三郎 京建輔
B 気が向くことがあるならば さいとう大三 泉八汐

関連書籍

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  • 飛田裕子『天国へ逝った満点パパ―東八郎の浅草人情物語』ハート出版 1989/7

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、萩本との年齢差は5歳しかなく、師匠というよりは同じ劇場に出演している面倒見の良い兄貴分といった関係であった。
  2. ^ 第17回日本作詩大賞新人賞受賞作品[9]

出典

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  1. ^ 小林幸子オフィシャルブログ「Sachiko Diary」『またまた、弟できちゃいました!』2015-11-03
  2. ^ 東八郎』 - コトバンク
  3. ^ 『なんでそーなるの! - 萩本欽一自伝』日本文芸社、2007年、p.106
  4. ^ 原田健二さん死去 「赤上げて白上げて」”. 朝日新聞デジタル (2019年4月11日). 2024年2月8日閲覧。
  5. ^ 東貴博「おやじが乗り移ってかんじゃった」父東八郎さんの命日に舞台”. 日刊スポーツ (2021年5月31日). 2021年5月31日閲覧。
  6. ^ 芸人ヤク中暴露…立川談志、覚せい剤逮捕を見抜いていた!? zakzak 2010年8月19日
  7. ^ 東貴博、志村さんから父八郎氏とのバカ談義聞き感激”. 日刊スポーツ (2020年3月31日). 2022年10月19日閲覧。
  8. ^ 『毎日新聞 縮刷版』毎日新聞社、1983年12月24日、798頁。 番組広告
  9. ^ 第17回 日本作詩大賞 - 日本作詩家協会(2021年6月7日閲覧)

関連項目

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  • 青空球児 - 初期のトリオ・スカイラインのメンバー。