朝久野勘十郎
朝久野 勘十郎(あさくの かんじゅうろう)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従三位勲二等功三級[1]。
生誕 |
1869年3月21日 日本 豊後国 |
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死没 | 1953年2月11日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1892年 - 1924年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴・人物
編集1869年3月21日(明治2年2月9日)[2]、朝久野武八の次男として豊後国(現・大分県)にて生まれる[1]。1892年(明治25年)陸軍士官学校第3期卒業[3][4]。1901年(明治34年)陸軍大学校第15期を優等で卒業[3][4]。
1904年(明治37年)2月に第1軍参謀に任官し、日露戦争に従軍[3][4]。
その後、1905年(明治38年)12月に陸軍大学校教官、1911年(明治44年)9月に陸軍歩兵大佐、1912年(明治45年)3月に歩兵第1連隊長、1913年(大正2年)8月に第15師団参謀長、1914年(大正3年)8月に陸軍大学校幹事を経て、1916年(大正5年)8月に陸軍少将・歩兵第3旅団長に任ぜられた[2][3][4]。
さらに、1920年(大正9年)1月に第13師団留守司令官、同年8月に陸軍中将、1921年(大正10年)6月に第14師団長を経て、1924年(大正13年)2月4日に待命、同月26日に予備役に編入した[2][3][4]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。1953年(昭和28年)2月11日、埼玉県川越市内の自宅にて死去した[6]。
栄典
編集親族
編集脚注
編集- ^ a b c 『人事興信録』第8版、ア95頁
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』23頁。
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』102頁。
- ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』24頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
- ^ 『読売新聞』埼玉版昭和28年2月13日朝刊、第8面の訃報より
- ^ 『官報』第2957号「叙任及辞令」1893年5月11日。
- ^ 『官報』第4689号「叙任及辞令」1899年2月21日。
- ^ 『官報』第6214号「叙任及辞令」1904年3月23日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第1236号「叙任及辞令」1916年9月12日。
- ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
- ^ 『官報』第3489号「叙任及辞令」1924年4月14日。
参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。