日本丸 (山下汽船)

1936年就航の山下汽船のタンカー

日本丸(にっぽんまる)は山下汽船タンカー。いわゆる「川崎型油槽船」の一隻で、太平洋戦争では特設運送船(給油船)として活動した。

日本丸
日本丸
基本情報
船種 タンカー
クラス 川崎型油槽船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 山下汽船
運用者 山下汽船
 大日本帝国海軍
建造所 川崎造船所
母港 神戸港/兵庫県
姉妹船 川崎型油槽船12隻
信号符字 JHZJ[1]
IMO番号 40703(※船舶番号)[1]
建造期間 257日
就航期間 2,755日
経歴
起工 1935年10月18日[1]
進水 1936年4月24日[1]
竣工 1936年6月30日[1]
就航 1936年7月1日
処女航海 1936年7月1日
除籍 1944年3月10日
最後 1944年1月14日被雷沈没
要目
総トン数 9,974トン[1][2]
純トン数 5,849トン
載貨重量 13,553トン[1]
全長 160.2m[2]
垂線間長 152.40m[1]
型幅 19.8m[2]
型深さ 11.32m[2]
高さ 26.51m(水面から1番マスト最上端まで)
11.58m(水面から2番マスト最上端まで)
11.27m(水面から船橋最上端まで)
喫水 6.50m(空艙平均)[2]
満載喫水 8.98m(平均)[2]
主機関 川崎MANディーゼル機関 1基[2]
推進器 1軸[2]
最大出力 9,993BHP[2]
定格出力 9,000BHP[2]
最大速力 19.2ノット[2]
航海速力 16.0ノット[2]
航続距離 17.5ノットで21,000海里
乗組員 42名[2]
1941年9月7日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)
テンプレートを表示
日本丸
日本丸(1943年6月)
基本情報
艦種 特設運送船(給油船)
艦歴
就役 1941年9月20日(海軍籍に編入時)
連合艦隊/呉鎮守府所管
要目
兵装 不明
装甲 なし
搭載機 なし
徴用に際し変更された要目のみ表記
テンプレートを表示

船歴

編集

山下汽船はタンカーの建造を日本海軍の斡旋をうけて川崎造船所に発注[4]。これにより川崎型油槽船の1隻として建造されたのが日本丸で、1935年昭和10年)10月18日に起工。1936年(昭和11年)4月24日に進水し、同年6月30日に竣工した。

竣工した日本丸は竣工翌日の7月1日に処女航海で海軍省契約により神戸を出港し、北樺太オハにて石油を積み取った後、日本海軍の燃料廠があった徳山までこれを輸送した[5]。第2回航海も同じくオハから徳山までの石油輸送を行った[5]。以降もオハ、ボルネオ島北アメリカからの石油輸送に活躍した。

1941年(昭和16年)9月7日、日本丸は日本海軍に徴用され[6]、20日に呉鎮守府所管の特設運送船(給油船)として入籍[6]。徴用前の8月8日から同年10月15日まで川崎造船所で艤装工事が行われた。

真珠湾攻撃では、日本丸は第一航空艦隊の補給部隊として参加することになり、東邦丸飯野商事、9,997トン)、「東栄丸」(日東汽船、10,020トン)とともに連合艦隊に属して第二補給隊を編成[7]宿毛湾有明海などで洋上補給の訓練をした後、第一航空艦隊に編入され大分県佐伯湾に移動。その後艦隊と共に択捉島単冠湾へと向かった。11月26日、日本丸他補給部隊は艦隊と共に単冠湾を出港し、補給隊として活躍した。以降機動部隊に随伴してラバウル攻略作戦1942年(昭和17年)2月末のインド洋方面作戦、セイロン沖海戦ミッドウェー海戦にそれぞれ補給部隊として参加した。

ミッドウェー海戦での機動部隊の敗北の後内地に帰還した日本丸は昭南に回航。その後メルギーに移動し、インド洋通商破壊作戦「B作戦」の補給艦として支援にまわった。その後ガダルカナル島の戦いに参加する艦艇の補給艦としてトラックを拠点に活動。1943年(昭和18年)5月末に内地に帰還した後、幌筵に進出してキスカ島撤退作戦に補給艦として参加。作戦終了後は佐世保に帰還した後バリクパパンへ向かい、以降はバリクパパン~トラック間での石油輸送や、トラック・ブラウン環礁での艦艇に対する補給に従事した。

12月11日[8]、日本丸は単独で第7111船団を編制し、駆逐艦早波の護衛を受けてトラックを出港[9][10]。14日、船団はパラオに到着[11][12]。23日、日本丸は給油艦石廊、健洋丸(国洋汽船、10,024トン)と共に第2516船団を編制し、早波、若竹の護衛でパラオを出発[13][14]。25日、早波が船団から分離し、パラオへ反転[14][15]。28日、タラカンに寄港し、29日にバリクパパンに到着した。

同地で重油12,000トン、ドラム缶詰め航空機用ガソリン2,000個を搭載した日本丸は健洋丸、国洋丸(国洋汽船、10,026トン)と共にク803船団を編制し、1944年(昭和19年)1月8日第102号哨戒艇の護衛を受けて出港。12日、パラオから来た早波と島風が船団に合流[16][17]。第102号哨戒艇は単独でパラオへ向かった。しかし、船団はアメリカ潜水艦ガードフィッシュUSS Guardfish, SS-217)、アルバコアUSS Albacore, SS-218)、スキャンプ (USS Scamp, SS-277)で構成されたウルフパックに狙われていた[18]。また、船団には駆逐艦が加わる予定であった[19]

14日、アルバコアが魚雷を4本発射し、うち2本が漣に命中して漣は艦体を三分されて沈没した[20][21]。続いてスキャンプが魚雷を6本発射[22]。魚雷は日本丸の左舷船尾機関室に2本、船体中央部に1本が命中。大爆発と同時に大火災が発生し、2分で沈没した[22]。指揮官の竹原九一郎大佐以下乗員として乗っていた海軍兵約80名中3分の1、および船員50名中16名が戦死した。沈没地点はウォレアイ島南西410km地点付近、北緯05度02分 東経140度43分 / 北緯5.033度 東経140.717度 / 5.033; 140.717

同年3月10日、除籍・解傭[6]

監督官等

編集
監督官
  1. 植田弘之介 大佐:1941年9月20日[23] - 1942年11月10日
  2. 平塚四郎 大佐:1942年11月10日[24] - 1943年5月25日
指揮官
  1. 平塚四郎 大佐:1943年5月25日 - 1943年10月15日
  2. 竹原九一郎 大佐:1943年10月15日[25] - 1944年1月14日 - 戦死 ※同日、海軍少将に特進。

同型船

編集
川崎型油槽船
  • 東亜丸(初代)(飯野商事)
  • 極東丸/旭東丸/かりほるにあ丸(飯野商事/日本油槽船)
  • 東邦丸(飯野商事)
  • 建川丸(川崎汽船)
  • 玄洋丸(浅野物産)
  • 厳島丸(日本水産)
  • 日栄丸(日東汽船)
  • 東栄丸(日東汽船)
  • 国洋丸(国洋汽船)
  • 健洋丸(国洋汽船)
  • 神国丸(神戸桟橋)
  • 久栄丸(日東汽船)

脚注

編集

参考文献

編集
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C05035364900『呉鎮機密第3号24 11. 8. 18 自昭和十一年十月至同十二年五月人員主要軍需品其の他輸送見込調 (4)』、50頁。 
    • Ref.C08030106900『昭和18年12月1日~昭和19年2月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030101800『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030102000『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030630700『昭和18年9月21日~昭和19年5月31日 第102号哨戒艇戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08050081100『昭和十七年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一(上)』、11頁。 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。 
  • 田村俊夫「昭和19年の特型(1)」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年、128-139頁。ISBN 978-4-05-606020-1 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 

外部リンク

編集