斯波義郷
室町時代中期の守護大名。斯波氏(武衛家)8代。斯波義教の次男。従四位下、左衛門佐、治部大輔。室町幕府 越前・尾張・遠江守護。
斯波 義郷(しば よしさと)は室町時代中期の守護大名。斯波氏(武衛家)8代当主。斯波義教(初め斯波義重)の次男。母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。7代当主の斯波義淳は異母兄。同母弟に斯波持有がいる。子に義健。官位履歴は従五位下から従四位下。治部大輔そして左衛門佐。
時代 | 室町時代中期 |
---|---|
生誕 | 応永17年(1410年) |
死没 | 永享8年9月30日(1436年11月8日) |
改名 | 瑞鳳(法名)→斯波義郷(還俗後) |
別名 | 勘解由小路殿 |
戒名 | 宝泉院殿道慶祥岩 |
官位 | 従四位下、左衛門佐、治部大輔 |
幕府 | 室町幕府越前・尾張・遠江守護 |
氏族 | 斯波氏 |
父母 | 父:斯波義重(義教)、母:甲斐教光の娘 |
兄弟 | 義淳、義郷、持有 |
子 | 義健[1] |
概要
編集初め僧籍にあり、瑞鳳と名乗り相国寺の鄂隠和尚の弟子であった。永享5年(1433年)11月、兄義淳が重病となると、6代将軍足利義教の命により還俗し、斯波氏の家督を継ぎ、また義教より偏諱(「義」の字)を賜って斯波義郷と名乗る[2]。永享6年(1434年)2月に室町幕府に出仕。越前・尾張・遠江の守護職を継承する。義教は義郷を気に入ったらしく、家督を継いだ直後の永享6年2月4日には義郷邸を訪問(『満済准后日記』)し、同年12月26日に義郷が正式に元服した際には加冠役を務めている(『看聞日記』)。
家督を継いで3年後の永享8年(1436年)9月29日、正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教正室・尹子の兄)宅訪問の帰路、陸橋から馬もろとも転落し、翌30日に死去した。享年27。法名は宝泉院殿道慶祥岩。家督は子の千代徳丸(斯波義健)が2歳で継いだ。
偏諱を受けた人物
編集義郷時代(斯波氏当主時代)