式守勘太夫 (7代)

大相撲の行司 (1924-2002)

7代 式守 勘太夫(ななだい しきもり かんだゆう 1924年10月16日-2002年9月30日)は大相撲の元三役行司。三役格としての在位期間は1988年1月〜1989年9月。鏡山部屋伊勢ヶ濱部屋所属。

7代式守勘太夫
7th Shikimori Kandayū
基礎情報
行司名 式守鶴夫 → 式守貢市 → 式守勘之助 → 式守更一郎 → 6代式守与之吉 → 7代式守勘太夫
本名 えがわ つるお
 江川 鶴夫
愛称 江川勘太夫、レレレの勘太夫
生年月日 1924年10月16日
没年月日 (2002-09-30) 2002年9月30日(77歳没)
出身 日本の旗 日本鳥取県境港市
所属部屋 鏡山部屋伊勢ヶ濱部屋
データ
現在の階級 引退
初土俵 1938年
幕内格 1961年11月
三役格 1988年1月
引退 1989年9月
趣味 地図のコレクション
備考
2017年1月13日現在

人物

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鳥取県境港市出身。本名は江川鶴夫。師匠は5代式守勘太夫6代鏡山勘太夫)である。

1938年に式守鶴夫の名で初土俵。以後貢市、勘之助、更一郎と改名し、1954年3月に式守勘之助の名で十両格に昇格。1958年7月6代式守与之吉襲名。1961年11月に幕内格昇格。1967年5月に7代式守勘太夫襲名。幕内格昇格から27年後の1988年1月に三役格に昇格。三役格を11場所務め、1989年9月場所後停年。最後の裁きは前頭8枚目両国(現境川) - 同筆頭水戸泉(現錦戸)。

2002年9月30日逝去。77歳没。

評価

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1972年に開始された行司抜擢制度の煽りを食った一人で、雑誌などの文献によると、木村筆之助とともに力量が劣っていたようで、22代木村庄之助24代木村庄之助からも名指しで「まずいねえ」と言われている[1]

そのため、幕内格筆頭まで進みながら8代式守錦太夫14代木村庄太郎6代木村庄二郎の3名に次々抜かれ、なかなか三役格に昇格できず、実に27年間も幕内格のまま据え置かれていた。 1987年10月、2代式守伊三郎の死去に伴い、翌1988年1月にようやく三役格に昇格、長年の苦労が報われた形となった。

エピソード

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  • 1987年10月に三役格の2代式守伊三郎が死去。同年11月場所では4横綱4大関の豪華布陣となり、三役格が14代庄太郎と6代庄二郎の2人しかいなかったこともあり幕内格のままで大関取組を裁いた(その日の大関最初の一番、6日目東大関小錦-東前頭2枚目板井[注 1]など)。彼が三役格に昇格したのは翌1988年1月であるが、場所前に横綱双羽黒が廃業。3横綱4大関の布陣となったため、三役格では大関の取組を裁くことなく停年を迎えた。
  • 高見山(前頭4枚目)が初優勝を決めた一番を裁いたのは彼である(1972年7月場所千秋楽、同7枚目旭國戦)。

履歴

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関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ この一番は張り手が武器の板井が小錦に張り手で倒された。(決まり手は突き倒し

出典

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  1. ^ 雑誌『大相撲』1972年5月号57-61頁。