式守伊之助 (14代)
大相撲の行司 (1870-1925)
14代 式守 伊之助(じゅうよんだい しきもり いのすけ、1870年 - 1925年12月26日)は大相撲の立行司。
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基礎情報 | ||||
行司名 | 2代式守与之吉 → 3代式守勘太夫 → 14代式守伊之助 | |||
本名 |
ひらき けんじろう 平木 兼次郎 | |||
生年月日 | 1870年 | |||
没年月日 | 1925年12月26日 | |||
出身 | 日本・東京府東京市本所区横網町 | |||
所属部屋 | 伊勢ノ海部屋 | |||
データ | ||||
現在の階級 | 引退 | |||
最高位 | 立行司(式守伊之助) | |||
初土俵 | 1884年5月 | |||
幕内格 | 1902年 | |||
三役格 | 1906年 | |||
立行司 | 1926年1月 | |||
引退 | 1926年1月 | |||
備考 | ||||
人物
編集本名は平木兼次郎。出身は東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区本所)の横網町[1]。
7代式守伊之助に入門し(のち伊勢ノ海部屋へ)、1884年5月場所に2代式守与之吉の名で初土俵を踏み、1899年3代式守勘太夫を襲名。ちなみに式守勘太夫の名跡は、現代では幕内格以上の行司が襲名するイメージが強いが、この3代式守勘太夫は式守勘太夫の名跡を襲名した当初、番付掲載上4段中3段目の比較的小さな文字で書かれていた。1902年には幕内格に、1906年には三役格に昇進する[2][3]。三役時代には5代式守与太夫(のち19代庄之助)、3代式守錦太夫(のち松翁20代庄之助)とともに「名行司三太夫」として知られた。
1925年5月場所後に、当時の13代伊之助が翌1926年1月場所から19代庄之助を襲名するのに合わせて、勘太夫が14代式守伊之助を襲名することが決定し、吉田司家から立行司免許も発行された。しかし、襲名後最初の本場所を迎える直前である12月26日に病気のため亡くなったため、伊之助としては土俵に上がることができず、1番の取組も捌けなかった。
ただし番付上は1926年1月場所に、死跡ではあるが勘太夫改式守伊之助として在位1場所が記録されている。
関連項目
編集参考文献
編集- 根間弘海『大相撲行司の伝統と変化』専修大学出版局、2010年7月1日。ISBN 978-4881252567。 NCID BB0258871X。
脚注
編集- ^ 二十二代庄之助一代記〈第九回〉 泉林八(22代木村庄之助)手記に14代式守伊之助についての記載あり
- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “式守伊之助(14代)(しきもり いのすけ)とは”. コトバンク. 2020年6月21日閲覧。
- ^ 『大相撲行司の伝統と変化』では1900年5月紅白房(幕内)、1907年1月緋房(三役)としている。