山本募
山本 募(やまもと つのる、1892年(明治25年)5月10日[1] - 1963年(昭和38年)10月27日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
山本 募 | |
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生誕 |
1892年5月10日 日本 福岡県 |
死没 | 1963年10月27日(71歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集福岡県出身。農業・山本勘四郎の三男として1892年(明治25年)に生まれた[1]。旧制東筑中学校を経て[1]、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校第26期卒業[1]。同年12月歩兵少尉に任官し[1]、歩兵第7連隊附となる[1]。1922年(大正11年)陸軍大学校第34期卒業[1]。1923年(大正12年)より歩兵第7連隊中隊長心得、陸軍兵器本廠附、陸軍省整備局課員、歩兵第1連隊附(日大附属中学校配属)、津軽要塞参謀、陸軍省整備局課員などを歴任[1]。
1936年(昭和11年)に台湾軍司令部附を経て[1]、1937年(昭和12年)に台湾軍参謀に就任。1938年(昭和13年)に陸軍歩兵大佐に進級[2]、1939年(昭和14年)4月に参謀本部附となり、汕頭に駐在する[2]。同年5月には兼大本営附兼第21軍附となり、「菊機関長」となる[1]。広東省・台北市・厦門市で工作を行い、特に福建省の有力者である林知淵との接触に成功した[3]。
同年9月に支那派遣軍総司令部附[2]、1940年(昭和15年)に支那駐屯歩兵第3連隊長として日中戦争に出動[4]。1942年(昭和17年)4月に第68師団参謀長に転じ[2]、8月に陸軍少将に進級[2]。1943年(昭和18年)に第33歩兵団長に就任し[4]、ビルマ方面に出動。インパール作戦敗戦後の退却で悪戦苦闘した[4]。1944年(昭和19年)に緬甸方面軍隷下の独立混成第72旅団長に転じた[4]。1945年(昭和20年)3月に陸軍歩兵学校附を経て[4]、4月に陸軍中将に進級し[2]、第214師団長に親補された[4]。宇都宮に司令部を置き、両毛地区の守備に当たった[4]。同年12月に復員[1]。
栄典
編集- 勲章
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 秦 2005, 168頁.
- ^ a b c d e f 外山 1981, 356頁.
- ^ 飯島典子「華南鉱山開発を巡る日中の攻防」『華南研究』第4巻、日本華南学会『華南研究』編集委員会、2018年、25-34頁、doi:10.32224/kanankenkyu.4.0_25、ISSN 2188-4846、NAID 130007659304。
- ^ a b c d e f g 福川 2001, 776頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
- ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。
参考文献
編集- 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。ISBN 4130301357。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。