東京拘置所
東京拘置所(とうきょうこうちしょ)は、法務省東京矯正管区に属する拘置所。通称「東拘(とうこう)」、所在地である「小菅」と呼ばれることも多い。
東京拘置所 | |
所在地 | 日本 東京都葛飾区小菅1-35-1 |
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座標 | 北緯35度45分31秒 東経139度49分03秒 / 北緯35.75861度 東経139.81750度座標: 北緯35度45分31秒 東経139度49分03秒 / 北緯35.75861度 東経139.81750度 |
現況 | 運用中 |
許容人数 | 3,010名 |
開設 | 1879年(明治12年) |
管理運営 | 法務省東京矯正管区 |
管轄 | 法務大臣 |
根拠法令 | 刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律 |
所在地
編集被収容者
編集収容定員
編集- 3,010名[1]
- 刑事被告人を収容する施設では、日本最大の規模を持つ。
沿革
編集前史
編集江戸時代初期は関東郡代伊奈氏の邸宅があった。江戸時代中期になると、将軍家鷹狩り時の休憩所である小菅御殿が設けられた。小菅御殿の名残として、庭に置かれていた石灯籠(葛飾区登録有形文化財)と手水鉢、庭石が拘置所官舎敷地内に移設されている。
大政奉還直後の1869年(明治2年)、明治政府はこの地に武蔵国内の旧幕府領・旗本領を管轄する小菅県の県庁を置いた。廃藩置県で小菅県が廃止、東京府に変わると日本初の煉瓦工場が建設された。
小菅刑務所
編集1878年(明治11年)、内務省は囚人に与える苦役の一つとして煉瓦の製造に従事させることができるのではないかと判断、県庁跡に小菅集治監を設置した。翌1879年(明治12年)、刑務作業としての煉瓦製造が始まる。その後、小菅監獄を経て1922年(大正11年)、小菅刑務所と改称した。
第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)10月、東京都豊島区西巣鴨(当時。現・東池袋4丁目の「サンシャインシティ」と「東池袋中央公園」)にあった東京拘置所の施設が、GHQに接収された。このため一時期、小菅刑務所に東京拘置所が同居する状態となっていた(東京拘置所の職員が小菅刑務所の職員を兼務)。A級戦犯は1956年(昭和31年)までに処刑または釈放され、B・C級まで含めた戦争犯罪者とされた者も1958年(昭和33年)5月までに全員釈放され、東京拘置所は巣鴨に復元された。
首都圏整備計画の一環として、東京拘置所を巣鴨の地から移転させることが必要になったため、1971年(昭和46年)に小菅刑務所は栃木県宇都宮市にあった宇都宮刑務所と統合の上、栃木県那須郡黒羽町(現・大田原市)に新設された黒羽刑務所(2022年3月31日に閉庁)へ移転。東京拘置所は再び小菅に移された。
- 1879年(明治12年):東京府南葛飾郡小菅村に内務省直轄の東京集治監を設置(銀座煉瓦街の煉瓦を焼いた煉瓦製造所を買い上げ、収容者が煉瓦製造に従事した)
- 1900年(明治33年):内務省から司法省の所管に移る。
- 1903年(明治36年)3月:小菅監獄と改称(監獄官制)。
- 1922年(大正11年):小菅刑務所と改称。
- 1923年(大正12年)9月:関東大震災で被害を受ける。
- 1929年(昭和4年):新庁舎が落成(蒲原重雄設計。当時の管理棟が現存)。
- 1945年(昭和20年):巣鴨の東京拘置所が接収を受けたため、東京拘置所が小菅に置かれる。
- 1958年(昭和33年):東京拘置所が巣鴨に復元される。
- 1971年(昭和46年):小菅刑務所が栃木県那須郡黒羽町(現・大田原市)に移転し、黒羽刑務所として供用開始。
- 2024年(令和6年)8月15日:旧庁舎が国の重要文化財に指定[2][3]。
東京拘置所
編集主に未決囚を収容する市谷刑務所が1937年に巣鴨(当時。現在の豊島区東池袋)に移転し、「東京拘置所」と改称した。建物の建設は府中刑務所の受刑者のべ約一万人が2年がかりで行った[4]。
1944年(昭和19年)、ゾルゲ事件の被告リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実が処刑された。
巣鴨の施設はGHQの接収により巣鴨プリズンとなり、戦争犯罪人(容疑者)を収容した(極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯東條英機らの死刑執行も巣鴨プリズン内で行われた)。
組織
編集所長の下に4部を持つ4部制施設である。
- 総務部(庶務課、会計課、用度課)
- 処遇部(処遇部門、指導部門)
- 分類部
- 医務部
総務部に調査官1名を置く。
構造
編集- 新舎房は地上12階、地下2階、高さ50 mで中央部の中央管理棟と南北に両V字形に伸びる北収容棟、南収容棟がつながる。延床面積80,239 m2。南北収容棟の屋上は雑居房収容者用、独居房収容者用の各運動場になっている。
- 独居房・雑居房には窓が設置されているが、強化ガラスのため、ハンマーで強く叩いてもガラスが割れない特殊仕様であるうえ、特殊な曇りガラスで窓から下の近隣住民の様子を見ることはできず、空しか見えない構造となっている。
- 新舎房での被収容者施設階への入退場は看守、施設職員のセキュリティICカード認証システムと指紋生体認証システムが採用されており、二つが一致しないと開錠されない。
- 中央管理棟屋上にはヘリコプター用の緊急離着陸場が設置されている。
- 被収容者を検察庁または裁判所へ押送(おうそう)するための車両駐車場は地下1階にある。
- 旧舎房は南舎地上3階建て、北舎地上3階建て、新北舎地上4階建て
- 死刑を執行する絞首刑施設(刑場)を地下に備えており、エレベーターで向かう。
- 医務部は「東京拘置所医務部病院」として医療法上の病院の指定を受けている。
- 職員専用の食堂が上階に設けられており、2019年に発生した令和元年東日本台風の際には地元住民の避難所として開放された。
死刑確定者
編集特記事項
編集- 新舎房2階が女区。
- 旧舎房南1舎1階、南2舎3階は当所執行受刑者の舎房。南2舎2階、新北舎1階雑居は、移送待ち受刑者の舎房。南舎・北舎とも古い施設ではあるが、北舎は南舎に比べ若干新しい。
- 死刑場設備の改築で、東京拘置所に収監された死刑囚の死刑執行は一時期、宮城刑務所(宮城県仙台市若林区)で行われた。そのため通称「仙台送り」が死刑の代名詞となっていた時代もある。→詳細は「宮城刑務所 § 外観・設備」、および「帝銀事件 § 死刑確定後」を参照
- 『有栖川宮詐欺事件』を起こした男女2人(夫婦)が同拘置所に収監されていたが、2004年、夫らから同拘置所内の妻に送られてきた手紙を同拘置所が紛失。さらに、紛失した手紙が、新潮社の週刊誌『週刊新潮』に掲載された。このためこの夫婦は、2007年4月に「精神的苦痛を受けた」として、法務省を相手取り、京都地裁に国家賠償訴訟を起こした。この裁判は、同地裁で2009年7月9日に、政府が手紙の流出を認め、妻に対し解決金150万円を支払い謝罪することで和解が成立した[7]。
- 2010年(平成22年)8月27日、千葉景子法務大臣の意向により、報道機関に死刑執行の刑場が初公開された[8]。
- 敷地内の官舎を取り壊し、四階建ての特別養護老人ホームを建設中。2019年4月完成予定[9]。
- 一般的な保釈は、面会所のある裏門から目立たぬように行われるが、1976年に田中角栄が保釈された際には、拘置所の周りを報道陣のほか一般人の見物人も多数取り囲んだことから正面玄関を使用せざるをえない状態となった[10]。また、2019年にカルロス・ゴーンが保釈された際には、弁護団の1人である高野隆の判断で、混乱を避けるために作業員姿に変装させて出所させている[11]。
- 拘置所内には、収容者が寄付をした書籍を集めた図書館がある。収容経験のある佐藤優によれば図書の半分が犯罪小説、1/4がヤクザのしきたりの本、残りはエロ小説であり、収容者の希望に即した究極の寄贈図書館であると評している[12]。
アクセス
編集最寄り駅
編集東武スカイツリーライン 小菅駅より徒歩3分(経路案内)。
脚注
編集出典
編集- ^ 黒川和久 (2016年1月4日). “各駅停話:553 東武スカイツリーライン:21 小菅 拘置所前、笑顔の喫茶店”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 夕刊 9面
- ^ 文化審議会の答申(国宝・重要文化財(建造物)の指定)(文化庁報道発表 、2024年5月17日)。
- ^ 令和6年8月15日文部科学省告示第107号。
- ^ 巣鴨に東京拘置所、市ヶ谷から移転『東京日日新聞』1937年(昭和12年)5月9日夕刊
- ^ 織田文二『巣鴨プリズン記録写真集』(1983年)P82-83。
- ^ 2013年(平成25年)5月16日法務省令第6号「刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規則の一部を改正する省令」
- ^ 「有栖川宮」詐欺:拘置所から手紙流出、週刊誌掲載 国謝罪、150万円で和解 毎日新聞 2009年7月10日 Archived 2012年7月14日, at Archive.is
- ^ 死刑の刑場、報道機関に初めて公開 Archived 2010年8月30日, at the Wayback Machine.
- ^ 2017年9月20日付、建通新聞より
- ^ 田中保釈 見物人つめかける 異例の「正門を使用」『朝日新聞』1976年(昭和51年)8月17日夕刊、3版、7面
- ^ “工事作業員の上着と帽子、マスクで“変装”、拘置所の外へ ゴーン前会長”. 毎日新聞 (2019年3月6日). 2021年2月15日閲覧。
- ^ “悪い図書館「究極の寄贈図書館は東京拘置所」…市民にとって気持ちいい図書館が本当に良いのか”. 産経新聞 (2015年5月16日). 2024年11月1日閲覧。