安藤 利吉(あんどう りきち、1884年明治17年)4月3日[1] - 1946年昭和21年)4月19日[1])は、日本陸軍軍人陸軍大将正三位勲一等功二級陸軍士官学校16期陸軍大学校26期恩賜)。最後の台湾総督(第19代)。

安藤 利吉
『南支派遣軍』より
生誕 1884年4月3日
日本の旗 日本 宮城県仙台市
死没 (1946-04-19) 1946年4月19日(62歳没)
中華民国の旗 中華民国 上海市
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1904年 - 1940年
1940年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
除隊後 中華民国国民政府に拘束、のち自決
テンプレートを表示

経歴

編集

宮城県仙台出身。宮城県第二中学校を経て陸軍士官学校(16期[2])に進み、陸軍歩兵将校となる。陸軍大学校26期の卒業席次は6位[3]恩賜の軍刀を拝受[3]

イギリス大使館付武官の時に陸軍少将に進級し、日本に帰国して歩兵第1旅団長。陸軍中将に進級すると同時に第5独立守備隊司令官。教育総監部本部長、第5師団長、第21軍司令官を経て、1940年(昭和15年)2月10日、南支那方面軍司令官。同年6月に北部仏領インドシナへの進駐を指揮する(仏印進駐)。当初は政府方針に基づき武力に拠らない進駐を進める予定だったが、参謀本部第一部長富永恭次少将の独断により武力進駐となった。安藤はこの責任を負って10月に参謀本部付となり、1941年(昭和16年)1月に予備役に編入された。

同年11月に召集され、台湾軍司令官。1944年(昭和19年)1月7日、陸軍大将に親任される[4]。同年9月22日、新設された第10方面軍司令官。引き続き台湾軍司令官を兼ねる[5](台湾軍司令官は、昭和20年2月1日に「台湾軍管区司令官」と改称された[5])。 同年12月30日、台湾総督を兼ねる。総督の軍司令官兼務は極めて稀なこと、さらに海軍大将経験者を以って総督としてきた慣例を破る人事となった[6]

日本が連合国に降伏した後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国国民政府及び連合国の代表である陳儀と、台湾総督 兼 第10方面軍司令官 兼 台湾軍管区司令官の安藤が、台北公会堂において降伏文書に調印した。その後、台湾で捕虜になった米軍機搭乗員14人を裁判にかけ銃殺した件にて戦犯容疑で中華民国政府に逮捕拘束され、上海に移送され「責任は全て私にある」と証言し1946年(昭和21年)4月19日に上海の監獄で隠し持っていた青酸カリの服毒により自決した。[1]

年譜

編集

[7]

栄典

編集
位階
外国勲章佩用允許

脚注

編集

出典

編集
  1. ^ a b c 20世紀日本人名事典『安藤 利吉』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 72頁。
  3. ^ a b 秦 2005, pp. 545–611, 「陸軍大学校卒業生」
  4. ^ 昭和19年1月11日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120900200 
  5. ^ a b 秦 2005, p. 360, 「台湾軍司令官」
  6. ^ 安藤利吉台湾軍司令官が総督に(昭和19年12月31日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p148 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  7. ^ 秦 2005, p. 4, 「安藤利吉」
  8. ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。
  9. ^ 長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504700 

参考文献

編集
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

編集