大湊 (むつ市)
概要・歴史
編集古くは陸奥国糠部郡に属して安渡(あんど)と呼ばれ、安東氏が支配していた。ところが15世紀に入ると根城南部氏が安東氏を蝦夷地に追って支配下とし、続いて三戸南部氏の影響下に入る。元和3年(1617年)、正式に盛岡藩(三戸南部氏)が支配した。
戊辰戦争では盛岡藩は会津藩とともに明治政府と戦ったが敗北し、その結果盛岡藩は減封によって大湊を失い、代わりに明治3年(1870年)下北半島に移されて斗南藩と名乗った旧会津藩に属した。翌年、斗南藩は安渡村と隣の大平村を合併して大湊町として開港場にすることとしたが、旧両村の利害対立から廃藩置県後に再分離、安渡村は大湊村と改称した。1873年(明治6年)に開拓使が函館との間に汽船弘明丸を就航させ、それぞれ月3往復を運航[1]。
明治の大合併によって再合併の動きが高まり、明治22年(1889年)に今度は(西南から)城ヶ沢村、大湊村、大平村の3村合併で新たに下北郡大湊村となった。
その後、地の利に目をつけた日本海軍によって明治38年(1905年)に大湊要港部が設置され、以後軍港(大湊港)として機能することになる。昭和3年(1928年)に町制施行で大湊町となる。昭和17年(1942年)のミッドウェイ作戦において、アメリカ軍の注意をミッドウェイ島からそらすためのアリューシャン攻撃部隊(空母機動部隊)が大湊から出撃し、ダッチーハーバーを空襲している。昭和3年には単独で町制施行し、下北郡大湊町。
昭和34年(1959年)に田名部町と合併して大湊田名部市となったが、昭和35年(1960年)に市名を「むつ市」と改称した。第二次世界大戦後も海上自衛隊が大湊地方隊を設置するなど、本州防衛の要として機能し、また日本最初の原子力船の母港となった。しかし、昭和49年(1974年)の原子力船「むつ」の放射線漏れ事故を機に反対運動が起こり、むつ市関根浜に新母港を建設し原子力船「むつ」は回航された。
なお同県平内町には大湊の対として小湊という町名がある。
地理
編集交通
編集鉄道
編集大湊駅(JR大湊線のターミナル駅)が最寄駅として挙げられる。
道路
編集出典
編集- ^ 函館市史通説2 p839-p841
参考文献
編集- 函館市史 通説編2