土方氏(ひじかたし)は、武家華族だった日本氏族織豊期から江戸期近世大名家で、江戸時代には伊勢国菰野藩主家と陸奥国窪田藩主家の2家が外様大名となったが、窪田藩は1684年改易になり、菰野藩のみ廃藩置県まで存続し、維新後は華族の子爵家に列する[1]

土方氏
家紋
三つ巴
本姓 清和源氏
家祖 土方季治
種別 武家
華族子爵
出身地 大和国土方村
主な根拠地 伊勢国菰野
著名な人物 土方雄久
支流、分家 窪田藩主家
凡例 / Category:日本の氏族

概要

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清和源氏宇野氏族の末裔と称する[2]。祖とされる季治大和国土方村に住したのに始まるとされる。信治の代に織田信長に仕えるようになり、その子である土方雄久ははじめ織田信雄、信雄没落後は豊臣秀吉に仕え、慶長4年(1599年)に徳川家康暗殺を計画したとされて常陸国太田に流されたが、翌年の関ヶ原の戦いの時に赦免されて軍功をあげた[2]

雄久の家督を継いだ次男雄重陸奥国窪田藩2万石を領する外様大名となり3代続いたが、雄隆の代の1684年改易に処された[2]

これとは別家として雄久の長男雄氏の系統も伊勢国菰野藩1万2000石を領する外様大名として存在しており、同家は廃藩置県まで続いた。幕末維新期の当主土方雄永は戊辰戦争で藩論を尊皇でまとめ、官軍に参加[3]。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で菰野藩知事に任じられるとともに華族に列した。明治3年(1870年)9月に雄氏が致仕し土方雄志が最後の菰野藩知事に就任し、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた[4]

版籍奉還の際に定められた家禄は572石[5][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、2万670円47銭5厘(華族受給者中221位)[7]

明治17年(1884年)7月8日、華族令の施行に伴い華族が五爵制になると雄志は旧小藩知事[注釈 2]として子爵家に列した[1]。土方雄志子爵は工部省台湾総督府の官僚を務めた後、貴族院の子爵議員に当選して務めている[9]

歴代当主

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窪田家

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菰野家

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脚注

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注釈

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  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[6]
  2. ^ 旧菰野藩は現米5720石(表高1万1000石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[8]

出典

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  1. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 335.
  2. ^ a b c 世界大百科事典 第2版『土方氏』 - コトバンク
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『土方雄永』 - コトバンク
  4. ^ 新田完三 1984, p. 339.
  5. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 21.
  6. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  7. ^ 石川健次郎 1972, p. 50.
  8. ^ 浅見雅男 1994, p. 150.
  9. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 338.

参考文献

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  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。