国司就連
国司 就連(くにし なりつら)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 通称:助三郎 |
主君 | 毛利元就 |
氏族 | 高階姓高氏庶流国司氏 |
生涯
編集詳しい系譜や生年は不明だが毛利氏家臣の国司氏に生まれ、毛利元就に仕える。
享禄5年(1532年)7月13日付の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では、21番目に「國司助三郎就連」と署名している[注釈 1]。
天文9年(1540年)に始まる吉田郡山城の戦いにも参加し、同年9月12日の堀縄手における尼子軍との合戦注文の筆頭に「國司助三郎」と記されている[注釈 2][2]。また、10月11日の青山における合戦で首1つを得る武功を挙げ[3]、天文10年(1541年)1月13日に宮崎長尾の尼子軍を攻撃した際にも首1つを挙げている[4]。
没年は不明。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『毛利家文書』第396号、享禄5年7月13日付 福原広俊以下家臣連署起請文。この時連署状に署名した32名は、署名順に福原広俊、志道広良、桂元澄、福原元勝、坂広昌(元貞)、山中元孝、光永元隆、北就勝、井上元吉、粟屋元秀、井上就在、長屋吉親、井上元盛、井上元貞、国司有相、井上有景、井上元続、井上俊秀、井上良在、井上俊久、国司就連、粟屋元親、粟屋元国、赤川就秀、飯田広親、赤川元助(元保)、佐々部祐賢、南方親州、内藤元康、秋山親吉、三田元実、井原元師。
- ^ 堀縄手での合戦注文にはその他に長和四郎左衛門尉、粟屋與五郎、八幡原孫八郎(元直)、児玉木工助、佐藤彦三郎(元実)、末国左馬助(光氏)、末国與一、三戸孫五郎の名が記されている[1][2]。