南進論(なんしんろん、旧字体南進󠄁論)とは、戦前日本で唱えられた「日本は東南アジアなど南方地域へ進出すべきである」という対外論であり、朝鮮・満州方面への進出を目指す北進論と対立した[1]

概要

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幕末佐久間象山などが唱えた開国論(外国の力を取り入れ、日本が植民地になることを防ぐという概念)に起源を持つ[2]1880年代には既に提唱されており、日清戦争による台湾領有、第一次世界大戦後の南洋諸島委任統治の際にも論じられ、特に支那事変の頃に主唱され、のちに日本のインドネシア占領の端緒となった。.

初期の南進論は必ずしも日本による領土拡張や軍事的進出と結びついたものではなかったが、1930年代以降、日本における「自存自衛」理念と結びつき、「武力による南進」が志向されるようになった。「北守南進論」とも称される。国際連合の報告では、日本軍占領下のインドネシアでは飢饉強制労働により、約400万人が死亡したとされる[3]

歴史

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明治維新から世界恐慌勃発まで

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南進論は横尾東作田口卯吉志賀重昂菅沼貞風竹越与三郎福本日南などの民間の論客が提唱したもので、自由貿易主義の流れを汲むものとアジア主義の流れを汲むものに大別され、彼らはオセアニア東南アジア島嶼部への貿易・移民事業を試みた。日清戦争中の南進論は台湾領有の具体的主張であった[4]

1870年代、大日本帝国琉球処分北海道開拓と共に小笠原諸島の回収(併合)に成功し、領土拡張の足掛かりを得る[5]。1880年代に、日本史上はじめて政財界・言論界で南進ブームが興る[6]。この初期南進論では北西ハワイ諸島から大東諸島への東西に延びた地域を指した[6]。こうして榎本武揚を中心に、小笠原以南への入植が行われるようになった[7]。小笠原群島への入植者が増えると、1885年(明治18年)に南洋公社が設立され、ミクロネシア(当時スペイン領)への過剰人口の移住が企図された[8]

日清日露戦争以降、日本の国策の基本は朝鮮満州中国大陸など東北アジアへの進出を図る北進論となったため南進論は民間・非主流派の対外政策論、および、台湾総督府による南洋航路開拓[9]等にとどまった(日清戦後のフィリピン独立革命1898年)の際、日本軍が独立派を支援することでこの地に勢力を扶植することが模索されたが、結局は断念された)。

日本海軍にあっては、日露戦争勝利後の1905年(明治38年)、徴兵保険を扱っていた大阪生命保険が不正支出により裁判所から解散命令を受け、南進論に傾斜した[10]

1914年(大正3年)の第一次世界大戦参戦にともない、日本海軍ドイツミクロネシアドイツ植民地帝国、南洋群島)を占領し、戦後この地が日本の委任統治領として事実上の植民地になると、南洋群島は「内南洋」ないし「裏南洋」、すなわち「外南洋」ないし「表南洋」(東南アジア島嶼部)への進出拠点と位置づけられ、一時的な南進ブームが高まった。この時期の南進論の主流は貿易投資移民を軸に平和的な経済進出を唱道するものであり[11]、軍事拠点化は禁じられていた[12]

1922年にはワシントン海軍軍縮条約が締結されて戦艦の建造は制限されたが、造船産業はその代わりに商船を建造した。陸軍は有事に商船を徴用できるため状況に対して受容的であったが、海軍は舞鶴海軍工廠が工作部に格下げになるなどの影響があり、南雲忠一帝国弁護士会などが軍拡論を提唱していた。

1925年(大正14年)には東京電燈の関連会社三ツ引商事インドネシア(蘭領印度)スラバヤに進出[13]

世界恐慌

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1930年代満州事変以降、英米との関係が悪化し、国際連盟を脱退した日本の国際的孤立化が進むと、大日本帝国海軍が石油資源を得ていた北樺太石油の試掘権利期限などの再々延長も認められず、1941年に終了することが決定した。「南進」はその後の国策の有力な選択肢の一つと考えられるようになり、場合によっては武力を伴ってでも実施すべきものであるとされた。

1933年、日本は国際連盟を脱退し、司法省ナチス法制の研究を開始した[14][15]

1936年(昭和11年)3月、オランダ太平洋協会総裁のE.D.ファン・ワルリー(元駐日オランダ領事)の『経済上から見た蘭領東印度と極東諸国の関係』の邦訳が出版され、当時の革新官僚はこれに感銘を受けた[16]。また、海軍が中心になって運営していた北樺太石油の試掘権が、国際連盟脱退の影響により1941年をもって終了することが決まった。8月7日には、廣田内閣五相会議で対外問題を中心とする重要国策が決定され、8月11日、『國策ノ基準』が閣議決定された。細部内容は公表されなかったが、帝国の根本国策が「外交国防相まって東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに南方海洋に進出発展するに在り」とされ、「東亜共栄圏」の盟主構想が、南方進出の方針として重要かつ正式な国策と決定された[11]。これによって海軍の南進論が力を得てきた[17]

1938年、国民精神総動員が拡大するなか、日蘭協会の会長は、大隈重信からワルリーに交代した。

第二次世界大戦

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南進実行時のアジア(1937-42年)
 
連合軍の反攻(1943-45年)

一方で、陸軍を中心にソ連の打倒を目的とする「北進論」も有力であった。しかしながら、1939年(昭和14年)におけるノモンハン事件の結果や同時期の独ソ不可侵条約締結を受け、この論調は勢力を次第に失っていった。同時、英国の敵性を優先に考慮し始めた日本海軍は、陸軍や外務省の対英協調論を一蹴し、執拗なまでに海南島占領を実現し、対英戦の準備を整えた[18]。その後、海軍の勢力地盤である海南島は南進の拠点として機能していた。

1940年(昭和15年)当時の日本は、日中戦争の泥沼に陥っていた。同年4月から6月のドイツの電撃戦により東南アジアに植民地を持つオランダフランスがドイツに降伏し、イギリスも危機に瀕していた。さらに5月、ナチス・ドイツのオランダ占領ののち、外務大臣芳沢謙吉は原油交渉の日蘭会商も打ち切り(ABCD包囲網)、日蘭協会も活動を停止した。このため、東南アジア方面の植民地に「力の空白」ができ、対南方研究会等の海軍軍人たちは、これを機に再びドイツに接近して、武力南進を実行すべきと決意した[19]

親独派が親米派の米内内閣を倒し、第2次近衛内閣が樹立され、7月27日の大本営・政府連絡会議で『世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱』が採択された[19]。場合によれば武力を行使しても東南アジアに進出することが決められた[20]。この武力南進は、陸軍省軍務局長の武藤章の発案に基づき企画院鈴木貞一が調査企画を行ったが、周到に準備された国策というよりは泥縄式に決められた政策であった。

日本の武力南進は、最初はフランス領インドシナベトナム)であった。当時のインドシナは中国国民政府蔣介石政権)に対する英米の支援ルート(援蔣ルート)になっており、日本軍はフランスとの合意に基づき1940年9月この地に進駐した(北部仏印進駐)。

翌1941年(昭和16年)3月、ミュンヘン大学教授のカール・ハウスフォーファー『大東亜地政治学』の邦訳が出版されたが、この内容も「東亜建設の理念」に至るものである[21]。6月、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の第2次近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦し挟撃すべきとする松岡洋右外務大臣近衛文麿首相との間で閣内対立が起きる。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認した。

7月、南部仏印への進駐を実行すると、アメリカ合衆国石油の全面禁輸に踏み切る。この反応は日本政府の予想外のもので、これを契機に日米関係は悪化、最終的には対米戦争に突入する直接の原因となった。同年9月6日御前会議でイギリスやオランダ、アメリカが支配する南方へ向かう『帝国国策遂行要領』が決定された。これには近衛内閣と近い関係の尾崎秀実ゾルゲ諜報団のメンバー)による働きかけ[22]も有効であった。

日本が南進で確保を目指した資源

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日本画確保を目指した資源は、以下がある[23]

中国大陸
小麦綿花石炭鉄鉱石ボーキサイトタングステン
アメリカ領フィリピン
、小麦、砂糖木材タバコ、麻、ポプラ、石炭、鉄鋼硫黄クロームモリブデンマンガン
仏領インドシナ
米、トウモロコシゴムジュート、石炭、亜鉛、タングステン
イギリス領ボルネオ
米、砂糖、タバコ、石油
オランダ領東インド
米、とうもろこし、砂糖、ゴム、コプラ、キニーネ、石油、石炭、ボーキサイト、ニッケル、、金
イギリス領マレー
砂糖、綿花、ゴム、タバコ、石炭、鉄鉱石、錫、ボーキサイト、タングステン
タイ
米、砂糖、木材、タバコ、鉄鉱石、石炭、錫、亜鉛アンチモン、タングステン、マンガン
英領ビルマ
米、小麦、豆類、綿花、タバコ、石油、石炭、銅、錫、鉛、亜鉛、タングステン、ニッケル、金、

明治から昭和前期における論文・著作等

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関連項目

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脚注

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注釈
出典
  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 百科事典マイペディア
  2. ^ 小西四郎『日本の歴史19-開国と攘夷』中央公論社、1968年、p.8-347頁。ISBN 4124002998 
  3. ^ ダワー 2001, pp. 486–487.
  4. ^ 「台湾占領の意見書」(川上操六宛松方正義書翰、徳富蘇峰起草、内容から1894年11月下旬の旅順占領直後の起草と推定される)、徳富猪一郎著『台湾遊記』180~186頁 (1929年)、徳富猪一郎編述『公爵松方正義伝』坤巻546~552頁 (1935年)に収録。後藤乾一著『近代日本と東南アジア--南進の「衝撃」と「遺産」』(岩波書店、1995年)79~80頁に同意見書への言及がある。
  5. ^ 石原俊 2019, p. 9.
  6. ^ a b 石原俊 2019, p. 10.
  7. ^ 石原俊 2019, p. 11.
  8. ^ 石原俊 2019, p. 12.
  9. ^ 寺島成信「海運政策」講義、大阪工業大学紀要人文社会篇53-2 学術調査報告、2009年2月、16頁。
  10. ^ 等松春夫 2011, p. 143.
  11. ^ a b 等松春夫 2011, p. 133.
  12. ^ 等松春夫 2011, pp. 70–71.
  13. ^ 東京朝日新聞社 1925.
  14. ^ 司法省 1934.
  15. ^ 司法省 1936.
  16. ^ タイムス出版社 1936.
  17. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 136ページ
  18. ^ 周 俊 (2017). “海南島作戦をめぐる日本海軍の戦略認識 : 南進問題か対英問題か”. アジア太平洋研究科論集. 
  19. ^ a b 等松春夫 2011, p. 160.
  20. ^ 油井大三郎・古井元夫著、 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 pp.136-137
  21. ^ カール・ハウスホーファー 1941, p. 131.
  22. ^ 『ゾルゲ事件 獄中手記』P230 - 233
  23. ^ 太平洋戦争研究会編著、『オール図解30分でわかる・太平洋戦争戦争-太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて-』、2005年7月29日初版による[要ページ番号]
  24. ^ E. D. ファン・ワルリー 1936.

参考文献

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外部リンク

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