南北国時代(なんぼくこくじだい)は、「統一新羅(南)が渤海(北)と並立していた」と見なす歴史認識に基づいて、主に韓国1970年代から用いられ始めた朝鮮史時代区分である。北朝鮮1960年代から同様の歴史認識をしているが、「南北国時代」なる用語は使わず、渤海及び後期新羅時期(ぼっかいおよびこうきしんらじき)と表記している[1]

南北国時代
新羅・渤海併存時代の地図(830年頃)
各種表記
ハングル 남북국 시대
漢字 南北國 時代
発音 ナムブッククシデ
ローマ字 Nambukguk-sidae
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渤海及び後期新羅時期
各種表記
ハングル 발해 및 후기신라 시기
漢字 渤海 및 後期新羅 時期
発音 パレ(パルヘ) ミッ フギシルラ シギ
ローマ字 Parhae mich Hugisilla-sigi
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この用語は渤海を朝鮮民族の民族史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)で用いられており、渤海の遺領を継承する中国ロシア、歴史的に渤海研究を主導してきた日本では受け入れられていない。特に中国は、中国社会科学院を中心に「古朝鮮高句麗扶余渤海は歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国の歴史である」と主張し、かつ「渤海建国の主導勢力は高句麗人ではなく靺鞨族で、渤海の建国者大祚栄は渤海初期に靺鞨を正式国号に採択した」と見ているため[2]、渤海を自国の古代国家と主張する韓国と激しく対立している。

なお、渤海を朝鮮史に組み込まない中国や日本等では、三国統一後の時代を統一新羅時代(とういつしらぎじだい、统一新罗时代)と称している。

統一新羅と渤海

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朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府
668-756
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

満洲南部から朝鮮半島北部にかけては紀元前から高句麗が勢力を維持していたが、668年と新羅の連合軍に滅ぼされた。後に唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は高句麗故地の南部を占領した。これにより朝鮮半島が統一されたとして、以降の新羅は統一新羅と呼ばれる。一方、高句麗遺民の一部は、唐から渤海郡王に冊封され、更に渤海国王に薦められた粟末靺鞨大祚栄の下に合流した。これにより国名は「渤海」と呼ばれる。渤海は満洲東部、ロシア沿海州から朝鮮半島北部にかけてを領土とした。渤海と新羅はほぼ全時代にわたって激しく対立した。渤海は926年に契丹に滅ぼされ、故地には東丹国がおかれたが後に南遷した。同じ頃、918年に朝鮮半島中部に高麗が興り、935年に新羅を征服した。渤海故地では混乱が続き、のちに女真族が勃興する。

韓国の研究者のなかには、韓国の歴史教科書『国史』では、「南北国時代」という用語を使用している一方で、「統一新羅」という用語も同時に使用しており、矛盾しているため、今後は使用を避けるべきではなかろうかという指摘がある[3]

酒寄雅志は、「李氏(李佑成朝鮮語: 이우성成均館大学)は、新羅末期の文人である崔致遠が『謝不許北国居上表』(『東文選』巻三三)と、渤海を指して『北国』と称したことをおもな根拠に、新羅・渤海の関係を『南北国』対立時代と想定している。しかし、日本空海が『遍照発揮性霊集』巻五で、『渤海日本分南北』と記していることや、『本朝文粋』巻九の大江朝綱の詩序の題に、『夏夜於鴻臚館餞北客』とみえることなどから、渤海と日本も南北といわれていたことが判明する。とすればこの『南北』は相対的な位置関係を示しているにすぎないのであって、崔致遠のいう『北国』もまたたんに新羅からみた北方に渤海が位置するだけで、当時、『南北国』対立というような統一的な国家観が存在していたとは考えられない」と評している[4]

史学史

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「南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論の引き金を引いたのは、北朝鮮の朴時亨の論文「渤海史研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮の公的史観において、レーニンの民族論をベースにして、新羅の三国統一が朝鮮準民族(ナロードノスチ)形成の契機とされていた。朴時亭以後は、三国鼎立、南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観が北朝鮮の公的見解となった。これにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」(후기신라)と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国」なる用語は使わず、「渤海及び後期新羅」と表記している[5]。北朝鮮と「朝鮮の国家」としての正統性を争う韓国では、遅れて李佑成が「南北国時代と崔致遠」(1975年)を発表し、新羅と渤海の並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定は民族主義的な韓国史学において受け入れられ、国定教科書に記述されるに至っている。ただし、北朝鮮と異なり「統一新羅」の呼称は引き続き用いられている。

朴時亨の論文「渤海史研究のために(朝鮮語: 발해사 연구를 위하여)」では、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったと主張しており、「南北朝」は「まさしく統一を実現しようとする同族の全体の一部である」している[6]韓東育は、「朴教授の学術理念を理解する上で役立つかもしれない」として、朴時亨の学術理念をこう見る[6]

1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会の崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方の考古調査や発掘を進行させるよう要求した。崔の主張の大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義や反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史や文化を持たず、国際的な地位を有しないと中傷した。我々は中国東北地方の考古学を進行させ、自己の歴史を明確にし、古朝鮮の発祥地を探すことを要求する。周総理は一面では同意を示し、他面では婉曲的に古朝鮮が我国の東北地方に起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮の起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省を起源とする可能性がある。朝鮮の同志は、水稲を植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食や生活習慣が福建と同じである。また、朝鮮語の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音と我国福建の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音は同じであり、福建の古代住民が朝鮮半島に渡来した可能性がある」というものであった。

渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠

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北朝鮮、韓国において渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠は、つまるところ民族問題に収斂され、したがって北朝鮮や韓国における渤海史研究は、渤海と新羅との同族関係の証明や、高句麗-渤海の継承関係など、民族問題に集中する[7]

  1. 建国者および支配集団の出自についてである。渤海の建国者・大祚栄や、支配集団が高句麗人であれば、渤海は、高句麗の継承者国であり、高句麗そのものであるというのである。建国者や支配集団がその王朝の性格を決定づけるもっとも重要な論点とされている[7]
  2. 渤海国内の民族構成とそこにおける支配民族の役割についてである。渤海において一貫して王朝の主体的な役割を担ったのは高句麗系であり、被支配民族である靺鞨諸族に対する支配のあり方も高句麗時代以来、変わることはなかったとみている。住民構成における靺鞨族の割合を少なく見積もったり、あるいは靺鞨族の高句麗化というような民族融合の観点を強調する傾向もある[7]
  3. 渤海王室および支配者集団の高句麗継承意識である。日本にもたらされた渤海国書のなかに「高麗(高句麗)国王」と自称している点を重視し、渤海人自身が、明確に高句麗継承意識を堅持していたとみなしている[7]
  4. 新羅との相互間における同族意識についてである。新羅は渤海を「北国」または「北朝」と呼んでいたのであるから、渤海でも同様に新羅を「南国」あるいは「南朝」と称していたと推定し、相互に南北国、南北朝という意識をもっていた(推論)ことは、同族意識が共有されていたことのあかしと断定している[7]
  5. 渤海遺民の帰趨と帰属意識についてである。渤海滅亡後に、十万余りの渤海遺民が高麗のもとに帰服した事実を重視し、ここに新羅の領域を継承した高麗を渤海人が同族と意識していたからこそ、このような行動がありえたという[7]
  6. 渤海における高句麗文化の影響についてである。渤海の墳墓住居址都城趾および出土遺物仏像など、遺跡遺物はすべて高句麗との継承関係を明白に伝えているとみなしている[7]

朝鮮における南北国時代論

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李氏朝鮮中期に、朴趾源は、漢王朝の領土が鴨緑江の南に広がっていたという事実を否定し、満州の渤海を朝鮮の歴史から除いた金富軾を批判し、渤海は高句麗の「子孫」だったと主張した[8]李圭景朝鮮語版は、渤海の朝鮮の歴史からの除外は「それが広大な領域を占めていた」ため、「重大な誤り」だと主張した[9]。しかし、李氏朝鮮後期、渤海の創設者が高句麗人とは考えられない靺鞨人であったことを認めるにもかかわらず、渤海を朝鮮の歴史に含める歴史家が増えた[10]。18世紀には次のように意見が分かれていた。学者李瀷安鼎福は渤海を朝鮮の歴史の一部と考えることを断固として拒否し、一方、申景濬朝鮮語版柳得恭朝鮮語版はそれを完全に組み込んでいた。1世紀後、韓致奫朝鮮語版韓鎭書は、新羅のような議論のない朝鮮の王朝と等しいものとして渤海を朝鮮の歴史の中に含めた[11]申采浩は、渤海や夫余王国を朝鮮の歴史から除いたと『三国史記』を批判した[12]。彼は、渤海が契丹に敗れたことを「私たちの祖先『檀君』の古代の土地の半分を…900年以上の間『失った』」と解釈した[13]。北朝鮮の学者、およびより最近の韓国の何人かの学者は、統一新羅が朝鮮を統一したとの見解に挑戦することにより、渤海の歴史を朝鮮の歴史の不可欠な部分として組み込もうとした。この物語によると、渤海が朝鮮半島北部の旧高句麗の領土を占めながらまだ存在していたから、高麗が最初の朝鮮統一だった[14][15]

「南北国時代」論者は、南北国時代という用語の初出は新羅後期の崔致遠による『崔文昌侯全集』と主張する。崔致遠の唐への上表文では、渤海を指して「北国」と記している。しかし、渤海が新羅を「南国」と呼んだというのは史料の裏付けのない憶測に過ぎない。「南北国時代」論者は、ついで高麗時代の『三国史記』に見える「北国」用例をあげるが、都合の悪いことに、同じ『三国史記』にみえる「北朝」は北方の契丹を指している。そもそも『三国史記』には渤海関係記事はほとんどみえず、わずかに唐・新羅と渤海との紛争が記録されているにすぎない。李承休の『帝王韻紀』が歴代「東国君王」の一つとして渤海を取り上げている。

李氏朝鮮の実学者柳得恭が『渤海考』の中で、「高麗は南方の新羅、北方の渤海をあわせて南北国史を編纂すべきだったのに、これをしなかったため渤海故地をえる根拠を失い弱国となった」と主張しており、「南北国時代」論者はこれを特筆する。しかし、李氏朝鮮におけるメインストリームの見解は、『東国通鑑』に高麗太祖王建の契丹政策について「契丹之失信於渤海、何与於我。而為渤海報復。(契丹が渤海を裏切ったことなど我が国と何の関係もない、渤海のために報復をするのか)」とあり、『東史綱目』に「渤海不当録于我史(渤海は我が国の歴史に記録するにあたらない)」とあるように、渤海を自国の歴史の一部とみなさないものであったが、現在の韓国や北朝鮮では「渤海は高句麗人が建国した国であり、高句麗の継承国で、韓国史の一部である」と統一した見方をしている。この考え方は、1784年に柳得恭『渤海考』が初めに発表し、1970年代になってこの研究が盛んになり、現在では、この時代を北は渤海、南では新羅が並立した自国の「南北国時代」として国定歴史教科書にも記載し教育をおこなっている[16]。朴チョルヒ(朝鮮語: 박철희京仁教育大学)は、韓国の国定歴史教科書は過度に民族主義的に叙述されており、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遺民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」と批判している[17][18]。このように、渤海を自民族の歴史と位置付ける観念は弱いため、南北国時代論者は、より自民族としての観念が強固な高句麗に渤海を結びつけようとする。あたかも渤海に独自のものが何もなかったかのような言説が韓国では広がっている。その牽強付会ぶりは、自らそれを主導してきた宋基豪(ソウル大学朝鮮語: 송기호英語: Song Ki-ho)ですら「もし渤海人たちが聞いたら泣いてしまうだろう」と自嘲するほどである。宋基豪は以下の主張をしている[19]

ひとことで「渤海は高句麗的であった」というのが教科書をはじめ、われわれの歴史書における渤海史叙述の態度だ。渤海は高句麗遺民が建て、彼らが政権の枢軸をなし、渤海文化も高句麗文化を継承したというのである。今まで何気なく聞いてきたこの言葉をよく注意してみると、どこか異常だ。新羅や高麗の文化に言及するときは、その文化自体の特性を叙述するのに、渤海だけは高句麗的であるなどと、二百余年間、王朝を維持しながら、どうして高句麗的な生だけを生きてきたといえるだろうか。これをめぐって講義時間に、もし渤海人たちがこの言葉を聞いたら、泣いてしまうだろうと冗談を言ったりもした。渤海人たちは、彼ら自身の文化と生を営み、その中に高句麗的なものであれ、靺鞨的なものであれ、あるいは、またちがう要素なども入っていたというのが正しいのでないか。しかしながら、研究者たちの間ですら、渤海文化にそのような固有の文化が宿っていたという事実がいまだに認識されていない。今ではすでに常識になっているように、渤海は多数の種族で構成された国家で、渤海領土は現在、多数の国家に分かれている。渤海をありのままに解釈するには、それほどに複雑な変数が介在している。中国では中国史として、ロシアではロシア史として、韓国では韓国史として主張していながら、中国とロシアでは靺鞨住民の視覚から解釈するのに反して、韓国では高句麗遺民の視覚から接近している。しかし韓国ではすべてのものが高句麗的だという説明にならざるをえない。中国とロシアの態度が正しくないように、われわれの態度もまた、あまりに民族主義的な視覚を固持しているのである。このような我田引水的な態度からぬけだして渤海史を眺めてみるとき、はたしてその実態はどうなるだろうか。渤海は高句麗遺民と靺鞨族が主軸をなしたのであれば、高句麗の延長線で眺めることもできるが、多数を占めている靺鞨族の歴史からも眺めうる余地は十分にある。靺鞨族は後に女真族となったが、今は満州族と呼ばれているのであるから、かれらの祖先の歴史でもある。(中略)私がアメリカに滞在したときも韓国の歴史学はあまりに民族主義的だという話をしばしば聞いた。これに共感した面もあったが、その一方で、われわれの措置がそうするしかないという事情を理解させなければならない。アメリカの学生にナショナリズムといって浮かんでくるのはなにかと聞いてみたら、ファシズムだという答えが返ってきた。第二次世界大戦で体験したように、民族主義は強者の攻撃的な武器に使用された。それが西欧的な民族主義の観念だ。しかし、われわれの民族主義はふたつの強大国のはざまにある小国として、最小限の生存のための防御的性格をおびたものであって、その性格はまったくちがう。われわれの教科書はあまりに民族主義的だと批判し、渤海史の叙述もそうであるといいつつ、その一方で、民族主義を擁護する発言をしてしまい、すっかり矛盾した格好になってしまった。偏狭な民族主義史観を克服しなければならないのは当然であるが、西欧の観念に追従して民族主義をあたかも犯罪のように扱うような態度もやはり排撃しなければならない。われわれは今、このような両極の間を無事に通過しなければならない危険な航海路に立たされているのである。 — 宋基豪、民族主義史観と渤海、歴史批評58

北朝鮮で1991年に出版された『조선전사5』(中世編)には、タイトルが「渤海と後期新羅」とされている[20]

渤海は高句麗を継承した国であり、7世紀末から10世紀初めに至る時期に朝鮮史の発展に大きな役割を果たした。渤海は高句麗遺民たちによって昔の高句麗の地に建てられた強力な主権国家であり、高句麗文化を継承発展させ、我が国の北方諸国からの侵入を防ぎ、国と民族の安全を確保するために大きな貢献をした。...朝鮮史において、渤海は南の後期新羅と長い間共存しながら民族史の発展の新たな時期を飾った。 — 조선전사 5、발해 및후기신라、과학백과사전종합출판사

전영률(朝鮮社会科学院歴史研究所所長)は、以下のように述べている[21]

新羅支配層が外勢(唐)を引き込んで、高句麗と百済を滅亡させた。高句麗領土の北部は唐の支配下に置かれた。新羅は朝鮮半島の大同江以南のみ支配しただけだ。高句麗の故地には、高句麗遺民が靺鞨族と一緒に高句麗の将軍である大祚栄の指揮のもと渤海国(698〜926年)を立てた。...したがって新羅は統一国家ではなく、国土の南部に輝いた朝鮮の地域王朝に過ぎず、私たちの歴史の最初の統一国家は高麗ということが科学的に明らかになった。 — 전영률

전영률(朝鮮社会科学院歴史研究所所長)は、新羅を朝鮮の歴史における統一国家と主張することは、事実上、渤海を朝鮮の歴史から引き離すものであり、「新羅中心説」「新羅正統説」を主張することは、南朝鮮傀儡(韓国)の売国的な「北進統一」にいくつかの歴史的根拠を提供する御用行為と批判している[21]。これに対して金東宇(朝鮮語: 김동우国立春川博物館英語版)は、「南北国時代」という時代区分を採用するのは、高句麗を継承した北の渤海と南の新羅が互いに存在することを認めることから始まっており、いずれかの国を卑下しては「南北国時代」という時代区分が成立しないと批判している[22]

「南北国時代」を自著『韓國史新論』(朝鮮語: 한국사신론、일조각、1967年)において提唱している李基白朝鮮語: 이기백西江大学)は、「渤海滅亡後、高麗に帰属した渤海遺民は10万人程度であり、渤海を朝鮮の歴史のなかで、統一新羅と対等に並列するのは問題ではないのか」という質問に対して、 「渤海は少数の高句麗遺民が多数の靺鞨族を支配していた国です。もし、現在靺鞨族が独立国家を成していた場合、渤海は異民族の支配を受けていた時期として靺鞨の歴史に記述されるでしょう。一方、韓国人としては高句麗遺民が統治していただけに、渤海を当然韓国史に含まなければなりません。しかし、統一新羅が朝鮮民族史の大勢を占めており、渤海は支流とすることができます」と回答している[23]

韓国メディアでは、朝鮮の歴史における正統性である統一新羅と渤海を対等・並列するのは妥当ではない、傍系直系より高位にすると滑稽な家系図になるという指摘があり、李鍾旭(朝鮮語: 이종욱西江大学)は、「現代の韓国および韓国人をつくった歴史が重要だという観点では、渤海と韓国人血縁関係にないので、朝鮮の歴史正史に入れることはできないと思います」「朝鮮の歴史正統性は、古朝鮮三国時代統一新羅高麗王朝李氏朝鮮です。高麗王朝は、統一新羅の領土と人民をそのまま継承し、その支配体制をそのまま受け入れた。渤海は高麗王朝の建国に貢献していません。高句麗-渤海を朝鮮の歴史正統性とみる歴史観は、目下の政治状況を合理化するための政治行為です」「渤海史は、李氏朝鮮末期まで朝鮮の歴史に割り込んだことはありませんが、光復後に歴史家の孫晋泰朝鮮語版が『朝鮮民族史概論』を執筆し、渤海史を附録に入れました。そうするうちに1970年代に入り、韓国の歴史教科書では、統一新羅後の部分に渤海が入ってきた。2002年の第7次国定教科書改訂では、『統一新羅』がなくなって『南北国時代』と叙述して、新羅と渤海が対等に扱われます」「渤海は今日の韓国人に何を与えてくれたか。渤海滅亡時、渤海王族の大光顕が遺民数万人を連れて高麗王朝に投降し、平安道地域に定着した程度です。高麗王朝は新羅の伝統を90%以上継承した国です。王家だけが変わっただけで、支配層はほぼ新羅出身でした。渤海は今日の韓国人を形成するうえで血を分け与えたのか、渤海の制度を朝鮮は継承したのか。そのような側面から渤海が朝鮮の歴史のなかに入ってくるのは問題があると思います」と評している[24]

南北国時代の問題点

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  1. 渤海新羅は同民族や政権ではない。渤海は698年靺鞨の故地に建国され、新羅は韓族を主体として主に朝鮮南部に存在した。渤海は新羅から分離したのではなく、その建国も新羅とは無関係である。靺鞨の国家は、三韓の末裔が建立した新羅の民族とは全く異なっており、渤海と新羅の対峙は一つの統一体が二つに分裂したものではない[25][26]
  2. 渤海と新羅は同民族や政権ではないゆえに、元の統一体の継承と発展ということも、 元の統一体と同じ制度を行ったということもできず、それぞれが自らの制度を行ったのみである。渤海と新羅の制度や体制における差異は明らかである[25][26]
  3. 渤海と新羅は二つの完全に異なる民族政権である。渤海の主体民族は靺鞨であり、新羅の主体民族は韓族である。ゆえに、『旧唐書』と『新唐書』四夷伝において、一つは『北狄伝』に、もう一つは『東狄伝』に書かれており、異なる民族として取り扱われた[25][26]
  4. 渤海と新羅の住民と民族的構成は完全に異なる。新羅の民族は相対的に単一であり、韓族が支配民族であると同時に主体民族であり、人数も最多である。渤海の民族構成は、靺鞨が支配民族であり、また主体民族でもあり、人数は全人口の半分以上を占めていた[25][26]
  5. 渤海と新羅の敵対は異なる民族と国家間の闘争であり、双方の戦争は統一的趣を備えていなかった。渤海が契丹によって滅ぼされてから長い年月の後、新羅高麗李氏朝鮮は再び北方の開拓とその少からざる地方を発展ならびに奪取したが、あくまで開拓したのみであり、渤海の故地を統一するという意味合いをそなえていない[25][26]

他国の歴史観との対立

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戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉箭内亙松井等稲葉岩吉池内宏津田左右吉瀬野馬熊和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部であるという認識をしていた[27]朝鮮総督府朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない。その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史と認識されていたためである[27]。朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している[27]今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している[28]。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない[29]。戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている[30][31]

田中俊明は、南北国時代の歴史観では、渤海・新羅両国が同一民族によって構成され、同族として交渉していたとして、高句麗の旧領の大半は渤海が占めており、高句麗の旧領の一部を新羅が領有したことを挙げるが、渤海・新羅両国が互いに同族意識を持っていたかのかは疑問が多く、「渤海国を構成したのは粟末靺鞨が中心」であり、新羅辺境の靺鞨は自立していただろうとして、8世紀のの記録には、新羅人が新羅の東北境の住民のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この異人視は、渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感であり、それだけの異域であったことの証左であり、新羅の辺境であり、渤海の辺境地帯でもある地域住民に対して、これだけの異域観がみられることは、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと指摘している[32]。長人記事とは、『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の以下の記事である。

新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。

新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る
(李成市『古代東アジアの民族と国家』, p. 381)。 — 新唐書、巻二二〇・東夷伝・新羅
新羅國、東南與日本鄰、東與長人國接。長人身三丈、鋸牙鉤爪、不火食、逐禽獸而食之、時亦食人。裸其軀、黑毛覆之。其境限以連山數千里、中有山峽、固以鐵門、謂之鐵關。常使弓弩數千守之、由是不過。

新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず
(李成市『古代東アジアの民族と国家』, p. 420)。 — 太平広記、巻四八一・新羅条

王健群(吉林省文物考古研究所)は、「南北国時代」論者は、渤海は高句麗の故地を占有したので、朝鮮に編入されるべきだと主張するが、その主張には合理性がなく、その主張に従うならば、漢四郡が存在した朝鮮は中国に編入されるべきであり、古代中国の民族の興亡と疆域の変遷はよくあることであり、さらに「南北国時代」論者は、渤海を朝鮮の歴史に編入するが、高句麗と新羅靺鞨は同族ではないため、渤海を朝鮮の歴史に組み込むことを拒否して、「南北国時代」の用語を使用しなかった金富軾の判断は少しも非合理ではなく、さらに「南北国時代」論者は、高句麗、新羅、百済を同族としているが、高句麗は濊貊、新羅、百済とも同族ではなく、新羅と百済は朝鮮半島南部の韓族であり、濊貊は朝鮮半島中・東部にあり、高句麗は夫余の別種であり、高句麗と新羅は民族に関してはいうまでもなく、国家も互いに別々である[33]。中国の正史は、夫余と濊貊をそれぞれを分けて「傳」を作り、それらが同族ではないことを明確に示しており、朴時亨がいう「新羅は自分と同族国家である高句麗と戦った」という主張は、歴史の事実を反している、と指摘している[33]

横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している[34]

黄文雄は著書で、「満州族先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている[35]。また、は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている[35]

古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している[36]。ちなみに古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している[36]

戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、南北国時代論の恣意的な史料解釈が批判されるなど、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。

脚注

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  1. ^ 조선력사 시대구분표 朝鲜历史时代划分表”. ネナラ. オリジナルの2021年4月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210409140234/http://naenara.com.kp/ch/history/period.php 
  2. ^ “中国社会科学院、韓国古代史歪曲論文を大量発表”. 東亜日報. (2006年9月6日). オリジナルの2021年8月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210826213751/https://www.donga.com/jp/List/article/all/20060906/295056/1 
  3. ^ 金相勲、三上喜孝[解説] 著、稲田奈津子 訳『韓国人の起源に関する中高生の意識と『国史』教科書との関係』13号、山形大学歴史・地理・人類学研究会〈山形大学歴史・地理・人類学論集〉、2012年3月、51頁。ISSN 13455435CRID 1050282677551302272https://yamagata.repo.nii.ac.jp/records/1645 
  4. ^ 酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年3月、90頁。ISBN 978-4751731703 
  5. ^ 朝鮮歴史時代区分表(ネナラ)
  6. ^ a b 韓東育 2013, p. 152
  7. ^ a b c d e f g 佐藤 2003, p. 237-238
  8. ^ Shin, Yong-ha (2000). Modern Korean history and nationalism. Korean Studies. Jimoondang. p. 11 
  9. ^ Shin, Yong-ha (2000). Modern Korean history and nationalism. Korean Studies. Jimoondang. p. 12 
  10. ^ Karlsson, Anders (December 2009). Northern Territories and the Historical Understanding of Territory in Late Chosŏn. Working Papers in Korean Studies. School of Oriental and African Studies, University of London. p. 2 
  11. ^ Karlsson, Anders (December 2009). Northern Territories and the Historical Understanding of Territory in Late Chosŏn. Working Papers in Korean Studies. School of Oriental and African Studies, University of London. p. 4–5 
  12. ^ Armstrong, Charles K. (1995). Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State. 19. University of Hawaii Press. 3 
  13. ^ Schmid, Andre (2000b). Looking North toward Manchuria. 99. Duke University Press. p. 233–235 
  14. ^ Ch'oe, Yŏng-ho (1980). An Outline History of Korean Historiography. 4. 23–25 
  15. ^ Armstrong, Charles K. (1995). Centering the Periphery: Manchurian Exile(s) and the North Korean State. 19. University of Hawaii Press. 11–12 
  16. ^ 浜田耕策渤海史をめぐる朝鮮史学界の動向:共和国と韓国の「南北国時代」論について」『朝鮮学報』第86号、朝鮮学会、1978年1月、55-75頁、CRID 1520290883542432640ISSN 05779766 
  17. ^ “초등교과서, 고려때 ‘23만 귀화’ 언급도 안해”. 京郷新聞. (2007年8月21日). オリジナルの2021年7月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210730074749/https://m.khan.co.kr/national/national-general/article/200708211830391 
  18. ^ “초등 4~6학년 교과서, 단일민족·혈통 지나치게 강조”. 京郷新聞. (2007年8月21日). オリジナルの2021年7月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210730074305/https://www.khan.co.kr/national/education/article/200708212359521 
  19. ^ 佐藤 2003, p. 239-241
  20. ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 103
  21. ^ a b Northeast Asian History Foundation 2009, p. 104
  22. ^ Northeast Asian History Foundation 2009, p. 105
  23. ^ “卷頭 특별 인터뷰 韓國史新論의 著者 李基白 선생이 말하는 韓國史의 大勢와 正統”. 月刊朝鮮. (2001年11月). オリジナルの2021年10月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211015172253/http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?nNewsNumb=200111100007 
  24. ^ “『高句麗史는 고구려 사람의 눈으로 다시 보아야 한다』”. 月刊朝鮮. (2005年10月). オリジナルの2021年10月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211022234103/http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?nNewsNumb=200510100023 
  25. ^ a b c d e 魏国忠 編『渤海国史』中国社会科学出版社、2006年、597-598頁。 
  26. ^ a b c d e 韓東育 2013, p. 154-155
  27. ^ a b c 桜沢亜伊 2007, p. 31
  28. ^ 桜沢亜伊 2007, p. 32
  29. ^ 稲葉岩吉矢野仁一『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』。 
  30. ^ 酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年3月、487頁。ISBN 978-4751731703 
  31. ^ 古畑徹戦後日本における渤海史の歴史枠組みに関する史学史的考察」『東北大学東洋史論集』第9巻、東北大学東洋史論集編集委員会、2003年1月、215-245頁、ISSN 02897407NAID 40005887658 
  32. ^ 田中俊明『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、156頁。ISBN 978-4000108294 
  33. ^ a b “남북국시대론(발해-신라)은 근거 없다(중국-왕건군)”. 高句麗研究会朝鮮語版. オリジナルの2021年10月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211013134235/http://www.palhae.org/gnubrd4/bbs/board.php?bo_table=pds2&wr_id=31&page=18 
  34. ^ 鄭大均古田博司 編『近現代史の争点30 韓国・北朝鮮の嘘を見破る』文藝春秋文春新書〉、2006年8月21日。ISBN 978-4166605200 
  35. ^ a b 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』ワックワックBUNKO〉、2005年9月1日、77-80頁。ISBN 978-4898315361 
  36. ^ a b 古畑徹 (2010年). “高句麗・渤海をめぐる中国・韓国の「歴史論争」克服のための基礎的研究” (PDF). 科学研究費助成事業 研究成果報告書. 2017年6月25日閲覧。

参考文献

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関連項目

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先代
三国時代
朝鮮の歴史
南北国時代
或いは
統一新羅時代
次代
後三国時代