千歳 (空母)
千歳(ちとせ)は、大日本帝国海軍の水上機母艦、航空母艦。千歳型水上機母艦の一番艦として建造され、1943年(昭和18年)に航空母艦に改造され、瑞鳳型航空母艦に加わった。
千歳 | |
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基本情報 | |
建造所 |
新造:呉海軍工廠[1] 空母改造:佐世保海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 水上機母艦[2] → 航空母艦[3] |
建造費 | 予算 20,800,000円[4] |
母港 | 佐世保[5] |
艦歴 | |
計画 | 昭和9年度(1934年、②計画)[6] |
起工 | 1934年11月26日[7] |
進水 | 1936年11月29日[7] |
竣工 |
1938年7月25日 水上機母艦として[7] 1943年12月15日航空母艦へ類別変更[3] |
最期 | 1944年10月25日沈没 |
除籍 | 1944年12月20日[8] |
要目(空母改造時) | |
基準排水量 | 11,190英トン[9] |
公試排水量 |
13,502トン(改造計画時)[10] 13,600トン[1] または 13,647トン[9] |
全長 | 192.500m[9] |
水線長 |
185.5m(改造計画時)[10] 185.93m[1] または184.650m[9] |
最大幅 | 21.50m[11] |
水線幅 | 20.800m[9] |
深さ | 18.92m(飛行甲板まで)[9] |
飛行甲板 |
180.00m x 23.0m[9] エレベーター2基[9] |
吃水 |
7.45m(改造計画時)[10] 公試平均 7.507m[9] |
ボイラー | ロ号艦本式缶(空気余熱器付[12])4基[13] |
主機 |
艦本式タービン(高低圧)2基[13] 11号10型艦本式ディーゼル2基[13] (フルカン・ギア接続)[14] |
推進 |
2軸 x 290rpm 直径4.000m、ピッチ3.900m[13] |
出力 | 56,800馬力[9] |
速力 | 29.40ノット[15] |
燃料 | 2,687トン[15][12][注釈 1] |
航続距離 | 11,000カイリ / 18ノット[15][9] |
乗員 |
改造完成時定員 1,084人[16] 最終時乗組 965名[17][注釈 2] |
搭載能力 |
爆弾:800kg36個、250kg72個、60kg180個、30kg144個[12] 魚雷18本[12] 飛行機用ガソリン200トン[12] |
兵装 |
40口径12.7cm連装高角砲4基[9] 25mm3連装機銃10基[9][注釈 3] 1944年7月 同単装機銃 30挺[18] 7.7mm機銃(最終時)[19] 28連装噴進砲 6基(最終時)[20] |
搭載艇 | 11m内火艇2隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船2隻[21] |
搭載機 | #搭載機を参照 |
レーダー |
21号電探 1基[22] 1944年7月 13号電探1基[18] |
ソナー | 零式水中聴音機(最終時)[23] |
その他 | 着艦識別文字 ちと[要出典] |
水上機母艦時の要目は千歳型水上機母艦を参照。 |
特徴
編集1942年5月の写真には舷外電路の装備があり、機銃甲板には味方識別用の日の丸が大きく描かれている[24]。
マストは同型艦の「千代田」が3脚トラス構造なのに対し、「千歳」は日本空母で一般的な下部4脚ラティス、上部単檣構造となっている[25]。
最終時の兵装に関しては12.7cm高角砲は連装4基、25mm3連装機銃は10基のまま、単装機銃はあ号作戦後には25mm単装機銃30挺を装備した[18]。戦闘詳報では、あ号作戦時に搭載した移動式の単装機銃は戦訓により装備せず[26]、固定式は基数不明ながら「現在ノ単装機銃ハアラユル空所ニ無統制ニ備ヘツケアルヲ以テ」との記述がある[27]。また7.7mm機銃の装備も確認される[19]。
戦闘詳報から最終時に28連装噴進砲6基の装備も確認できる[20]。装備位置は右舷が無線マスト2本を前方へ移動し後部無線マスト跡、3番高角砲直前に、一方左舷は2番高角砲直後、3連装機銃台との間に装備した[28]。
搭載機
編集- 水上機母艦
計画は九五式水上偵察機24機であったが[30]、実際には1938年10月で8機を搭載[31]、機種は九五式水上偵察機の外は、九四式水上偵察機を搭載した[32]。
1942年5月時では零式観測機と零式水上偵察機の組み合わせで[24]、尾翼マーキングは1941年4月から1942年7月まで「Y1」で文字色は白[33]。
- 航空母艦
計画は零式戦闘機21機(うち7機を露天繋止[34])、九七式艦上攻撃機9機であった[9]。
レイテ沖海戦時には戦闘機、戦闘爆撃機、艦上攻撃機を搭載[35]、戦闘機、戦闘爆撃機は零戦、艦上攻撃機は天山だった[35][36]。
尾翼マーキングは1944年春の時点で「31」(1は小文字)、マリアナ沖海戦からは航空隊名の「653」を使用、レイテ沖海戦時には垂直尾翼上端に「4」も記入された[36]。文字色はいずれも白[36]。
艦歴
編集1934年、②計画で建造が決定。11月26日、呉海軍工廠にて起工された。1938年7月25日、竣工。佐世保鎮守府籍。元々は甲標的母艦として計画されたが、秘匿のため水上機母艦として竣工した。この時は空母改造を考慮する要求があったが、後日考慮するとして詳細な検討はされていない。竣工後は水上機母艦として中国大陸に進出した。同型艦の「千代田」は、計画通り、1939年から甲標的母艦に改装されたものの、「千歳」は改装されなかった。
1939年11月15日、第四艦隊第一七戦隊に復帰、編入された。1940年5月17日、佐世保を出港しパラオ、トラック島方面に行動。11月15日、第一艦隊第七航空艦隊に編入。1941年1月、海南島方面で行動した。「千歳」は甲標的母艦への改装がされないまま、4月10日に連合艦隊第一一航空戦隊に編入。4月と9月に佐世保海軍工廠に入渠し、開戦準備を整えた。11月24日、呉を出港。寺島水道を経て12月2日にパラオに入港。同年12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争勃発。「千歳」はパラオを出港し、レガスピー攻略作戦の支援にあたる。パラオに一度帰港した後、12月18日にパラオを出港し、ダバオ攻略作戦の支援にあたる。12月22日、ホロ攻略作戦の支援とフィリピン攻略作戦に加わる。1942年3月から4月には西部ニューギニア戡定作戦に参加。1942年6月、ミッドウェー攻略作戦に参加するため第十一航空戦隊所属として進出するが、ミッドウェー海戦の敗北を受け中止になった。 ミッドウェー海戦の空母喪失により、「千歳」の空母改造が決定し改装作業が行われた。
1943年1月26日、佐世保海軍工廠にて空母への改造工事を開始。8月1日に完成した。
1943年12月15日、内令第2708号で艦艇類別等級表が改正され、「軍艦、航空母艦瑞鳳型ノ項中「龍鳳」ノ下ニ「、千歳、千代田」ヲ、同大鷹型ノ項中「冲鷹」ノ下二「、神鷹」を加フ 同水上機母艦ノ部中「、千歳、千代田」ヲ削ル 駆逐艦、一等初雪型ノ項中「、夕霧」ヲ削ル」と発令され、「千歳」、「千代田」は瑞鳳型航空母艦に加わった[38]。
1944年(昭和19年)6月、「千歳」は「千代田」とともにマリアナ沖海戦に参戦した。
10月25日、レイテ沖海戦参加。「千歳」は姉妹艦の「千代田」と共に米空母艦載機の攻撃を受けて撃沈された。
「千歳」はエンガノ岬沖海戦で10月25日午前8時35分に急降下爆撃により水線下に直撃弾が命中するとともに数発の至近弾を受けた。「千歳」の第2および第4缶室は急速に浸水し、舵も故障した。傾斜は27度に達したが迅速な復旧作業によって15度にまで修正された。しかし、その後も浸水が拡大し、8時55分には右舷機械室にも浸水をきたし傾斜も20度となった。速度も14ノットに低下し9時25分には機関停止に至り、「千歳」は漂流を始めた。傾斜も30度に達した。9時37分に右舷に転覆し、岸良幸艦長以下903名の乗員が死亡した。その後、軽巡洋艦「五十鈴」の救助活動により300名あまりが救助された。
1944年12月20日に海軍より除籍された。
艦長
編集- 艤装員長
- 池内正方 大佐:1937年3月1日 - 1938年3月10日[40]
- 艦長
- 池内正方 大佐:1938年3月10日 - 1938年12月15日[41]
- 水井静治 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日[42]
- 西田正雄 大佐:1939年11月15日 - 1940年6月3日[43]
- 野元為輝 大佐:1940年6月3日 - 1940年10月15日[44]
- (兼)田中頼三 大佐:1940年10月15日 - 1940年11月15日[45]
- 山本親雄 大佐:1940年11月15日 - 1941年8月20日[46]
- 古川保 大佐:1941年8月20日 -[47]
- (兼)佐々木静吾 大佐:1942年11月1日 -[47]
- (兼)荒木伝 大佐:1943年4月14日 - 1943年7月1日[48]
- 三浦艦三 大佐:1943年8月4日 -[47]
- 岸良幸 大佐:1944年4月7日 - 10月25日戦死[47]
同型艦
編集- 千歳型水上機母艦
- 瑞鳳型航空母艦
年表
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 阿部安雄「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」#日本空母物語pp.442-443では2,637トンになっている。
- ^ その他、785名(阿部安雄「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」#日本空母物語pp.442-443、#日本航空母艦史p.88)や967名(#海軍造船技術概要p.296、#写真日本の軍艦第4巻p.92)とする文献もある。
- ^ #写真日本の軍艦第4巻p.92では機銃(口径X基数)で「25III X 37」となっているが何らかの間違いと思われる。
出典
編集- ^ a b c d #海軍造船技術概要p.295
- ^ #海軍制度沿革巻八p.98、『昭和九年十一月十九日(内令四八七) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス (中略) 水上機母艦ノ項中「神威」ノ下ニ「、千歳」ヲ加フ(以下略)』
- ^ a b #昭和18年11月~12月内令5巻/昭和18年12月(3)画像22、『| 内令第二千七百八號 | 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス | 昭和十八年十二月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 | 軍艦、航空母艦瑞鳳型ノ項中「龍鳳」ノ下ニ「、千歳、千代田」ヲ、同大鷹型ノ項中「冲鷹」ノ下二「、神鷹」を加フ | 同水上機母艦ノ部中「、千歳、千代田」ヲ削ル | 駆逐艦、一等初雪型ノ項中「、夕霧」ヲ削ル | (内令提要巻三、三三頁参照) |』
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.422、水上機母艦(甲)の要求予算。
- ^ #S11-12-1内令提要原稿/艦船画像10「艦艇、特務艦本籍別一覧表 昭和十一年十二月一日調」
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.420-421,433
- ^ a b c #S14-06-01内令提要原稿/機密保護画像3、艦船要目公表範囲
- ^ #S191026-S200816軍極秘海軍公報/昭和19年12月画像13、『海軍公報第五三號(甲配布) 昭和十九年十二月二十六日(火) 海軍大臣官房 | 令達 | 内令第一三六九號(軍極秘) 佐世保鎮守府在籍(略)軍艦 千代田(略)佐世保鎮守府在籍(略)軍艦 千歳 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和十九年十二月二十日 海軍大臣』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #海軍造船技術概要p.296、ただし代表して「千代田」の値。
- ^ a b c #海軍造船技術概要p.282
- ^ #写真日本の軍艦第4巻p.92
- ^ a b c d e #昭和造船史1pp.780-781
- ^ a b c d #海軍造船技術概要p.1684
- ^ #海軍造船技術概要pp.1685-1686
- ^ a b c 「表B あ号作戦直前における空母の最大速力、航続距離、満載重油搭載量(昭和19年5月調査)」#日本空母物語p.417
- ^ #昭和18年11月~12月内令5巻/昭和18年12月(3)画像14-16『| 内令第二千七百二號 | 海軍定員令中左ノ通改正セラル | 昭和十八年十二月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 | 航空母艦定員表其ノ十一ヲ別表ノ如ク定ム 第五十四表水上機母艦定員表其ノ二 削除 | (別表一葉添) | (内令提要巻一、四〇七頁参照) |』『 | 第五十二表ノ八 | (昭和十八年内令第二千七百二號) | 航空母艦定員表 其ノ十一 | 千歳、千代田 | (詳細、備考省略) |』。士官47人、特務士官21人、准士官31人、下士官268人、兵717人、計1084人。
- ^ #千歳捷1号戦闘詳報画像20、『被害、(3)人員』に記載の戦死者、生存者(重軽傷者)、生存者(異常なき者)はそれぞれ准士官以上,下士官,兵,傭人別に、36,101,329,2名、2,4,20,1名、29,129,308,1名。その他入院中の者が下士官1名、兵3名いた。
- ^ a b c 「表C あ号作戦直後の対空兵装等強化(昭和19年7月現在)」#日本空母物語p.418
- ^ a b #千歳捷1号戦闘詳報画像27『(10)両舷ニ七・七粍ノ機銃ヲ装備ス』
- ^ a b #千歳捷1号戦闘詳報の経過、戦訓などに噴進砲の記述、画像37に「二十八発ノ弾丸ヲ装填スルトキハ」とあり、画像59の被害概見表に噴進砲6基が確認できる。
- ^ #日本の航空母艦p.296
- ^ a b #日本航空母艦史p.89上「千歳」の写真及び解説。
- ^ #千歳捷1号戦闘詳報画像25
- ^ a b #写真日本の軍艦第4巻p.135下の写真及びその解説
- ^ #畑中2015pp.75-76
- ^ #千歳捷1号戦闘詳報画像28
- ^ #千歳捷1号戦闘詳報画像36
- ^ #千歳捷1号戦闘詳報画像59、被弾概見表
- ^ #千歳捷1号戦闘詳報画像24
- ^ #海軍造船技術概要pp.761-762
- ^ #日本航空母艦史p.124上写真の解説
- ^ #海軍艦艇史3p.237、No.3500の写真及びその解説
- ^ 秋本実「零式水上偵察機 塗装&マーキング」#彩雲/零水偵(ハンディ版)p.136
- ^ #日本航空母艦史p.88
- ^ a b #千歳捷1号戦闘詳報画像5
- ^ a b c 解説・秋本実/作図・野原茂「空母搭載機の時代別マーキング」#軍艦メカ2日本の空母pp.148-163、うちpp.160-163の解説及びp.162の図表。
- ^ #週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイルNo.119裏表紙の説明から。
- ^ アジア歴史資料センター「昭和18年12月(3)」C12070182800、22頁
- ^ #週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイルNo.73p.23
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第147号 昭和13年3月10日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第488号 昭和15年6月4日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第695号 昭和16年8月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800
- ^ a b c d 『艦長たちの軍艦史』70-72頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻「将官履歴」
- ^ 『艦長たちの軍艦史』70-72頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻「将官履歴」及び『官報』
参考文献
編集- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030582500 『昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦千歳捷1号作戦戦闘詳報』。
- Ref.C12070182800『昭和18年11月~12月 内令5巻/昭和18年12月(3)』。
- Ref.C12070526200『昭和19年10月26日 昭和20年8月16日 軍極秘海軍公報/昭和19年12月』。
- Ref.C13071969000『昭和11年12月1日現在 10版 内令提要追録第1号原稿/巻3 追録/第13類 艦船』。
- Ref.C13071982300『昭和14年6月1日現在 10版 内令提要追録第5号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『日本航空母艦史』 世界の艦船 2011年1月号増刊 第736集(増刊第95集)、海人社、2010年12月。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑 日本の航空母艦』(第3刷)グランプリ出版、1998年12月(原著1997年9月)。ISBN 4-87687-184-1。
- 戸高一成/監修 編『日本海軍艦艇公式図面集1 空母「千代田」+「陸軍M丙型空母」』発行プレアデス出版、発売 国文社、2004年。ISBN 4-7720-0893-4。
- 畑中省吾「日本の軽空母考」『艦船模型スペシャル』No.56、モデルアート社、2015年6月、66-80頁。
- 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年4月。ISBN 4-584-17023-1。
- 福井静夫『日本空母物語』 福井静夫著作集第7巻、光人社、1996年8月。ISBN 4-7698-0655-8。
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- 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年10月。ISBN 4-7698-0454-7。
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- 雑誌「丸」編集部 編『彩雲/零水偵』 図解・軍用機シリーズ3(ハンディ版)、光人社、1999年8月。ISBN 4-7698-0912-3。
- 『日本の航空母艦パーフェクトガイド』 〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ 特別編集、学習研究社、2003年4月。ISBN 4-05-603055-3。