野元 為輝(のもと ためき、1894年明治27年)8月29日 - 1987年昭和62年)12月19日)は、日本海軍軍人第二次ソロモン海戦南太平洋海戦空母瑞鶴艦長として参戦した。最終階級は海軍少将

野元 為輝
生誕 1894年8月29日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1987-12-19) 1987年12月19日(93歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1916年 - 1945年
最終階級 海軍少将
除隊後 郷友連盟副会長、海軍反省会代表
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経歴

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東京出身。本籍鹿児島県東京府立一中を経て、海軍兵学校のほか陸軍士官学校(28期)を受験し陸士も合格している。1916年大正5年)11月に海軍兵学校44期を56番/95名で卒業。同期生に西田正雄戦艦「比叡」艦長)、松田千秋戦艦「大和」艦長)、黒島亀人連合艦隊首席参謀)、佐藤康夫第8駆逐隊司令)らがいる。1929年(昭和4年)11月、海軍大学校甲種27期を卒業。

野元は海大航海学生を終了した航海科専攻士官で、重巡洋艦鳥海」など15艦[1]で航海長を務めた。海大卒業後は第3戦隊第4艦隊参謀を歴任。艦政本部時代には大和型戦艦の設計に関わっている[1]木更津空副長として南京爆撃行に攻撃機に搭乗して参加している。1939年(昭和14年)11月、海軍大佐へ昇進するとともに第14航空隊司令に就任し、以後航空部隊の指揮官職を歴任する。

水上機母艦千歳」、空母「瑞鳳」の艦長を経て、1941年(昭和16年)9月、筑波航空隊司令として太平洋戦争を迎え、1942年(昭和17年)6月、「瑞鶴」艦長に就任。第二次ソロモン海戦南太平洋海戦と歴戦した。以後、練習連合航空隊総参謀長を経て1944年(昭和19年)5月、少将昇進。第11連合航空隊司令官を経て、第903航空隊大湊)司令官として終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

1979年(昭和54年)には有志と海軍反省会を設立し、代表に就任。最高顧問に新見政一保科善四郎を迎え、勝算なき戦争に突入し敗北した理由を討議した[3]。反省会における野元は、海軍内で暗黙のタブー視されていた伏見宮博恭王軍令部における責任を主張した。

瑞鶴艦長

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野元が「瑞鶴」艦長に就任したのはミッドウェー海戦の最中で、「瑞鶴」は「翔鶴」と共に日本海軍に残された2隻の制式空母のひとつであった。野元は第二次ソロモン海戦において、燃料切れが懸念された石丸豊(岩下豊)大尉(66期)の攻撃隊を収容するため、"救わなければ艦長とはいえない"と叫び敵方に進撃している[1]南太平洋海戦では三次にわたり攻撃隊を出撃させたが、幕僚がいない単艦の艦長として奮戦した野元に、第2航空戦隊参謀として参戦していた奥宮正武58期)は賛辞を贈っている[4]

親族

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・兄 野元光康(海軍大尉、海兵37期卒)
・長男 野元菊雄(国語学者)
・孫 野元晋(慶應義塾大学言語文化研究所教授)
・甥 野元佑一(海軍少佐、海兵71期伊号第361潜水艦にて戦死)

出典

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  1. ^ a b c 『艦長たちの太平洋戦争』「信頼の絆」
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。
  3. ^ 『提督 新見政一』寺崎隆治「新見先生の先見の明」
  4. ^ 『海軍軍令部』「軍令部と太平洋戦争」

参考文献

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