千倉豊
千倉 豊(ちくら ゆたか、1893年(明治26年)11月15日 - 1953年(昭和28年)7月16日)は、日本の実業家、千倉書房創業者。
来歴
編集1893年(明治26年)11月15日、福岡県山門郡瀬高町(現在の福岡県みやま市)に生まれ、福岡県大牟田市田隈で育つ。高等小学校を終えた1908年(明治41年)、三池銀行に入社し、1910年(明治43年)まで勤める[1]。
1910年4月、奉天省安東県(後の満洲国安東省安東市)に渡り、西洋煙草を商うパイジス商会に入社する。1912年(明治45年)、大連支店に転勤。翌年、パイジス商会を退社し、欧州雑貨扱の藤原商会に入社する。
1913年(大正2年)12月20日、徴兵に応じ、長崎・大村の歩兵第46連隊に入営。1915年(大正4年)12月20日に満期を迎え帰休する。1916年(大正5年)2月15日には再渡満し、藤原商会に復職するが、当時、帰休期間中は内地待機が原則であった。そのため同年3月に帰国を余儀なくされ、神戸の鈴木商店に入社する。同年末の帰休期間終了を待って、台湾支店に転勤。[2]
台湾支店では台湾総督府、台湾電力などを担当し、ここで台湾総督府営林局・土木局の技師であった高山節繁(のちに台湾電力運輸課長)の知遇を得る。
1923年(大正12年)3月4日、高山節繁の長女・悦子と結婚する。[3]
1924年(大正13年)11月末をもって鈴木商店を退社し、同年12月30日より欧州16カ国漫遊の旅に出立する。西欧各国をまわり、ポーランド、ソヴィエトを経て、ウラジオストクから敦賀に渡り1925年(大正14年)10月30日帰国。
1926年(大正15年)2月10日、日本評論社に入社。翌年、営業部長となり、その後、「經濟往来」(後の「日本評論」)編集長、専務(支配人)などを歴任した。1928年(昭和3年)秋、日本評論社を退社。千倉書房を創立する(登記上の創立日は翌年4月3日)。[4]
1933年(昭和8年)4月3日 かねて懇意であった中野正剛に乞われ、九州日報社長に就任する(兼務)。1935年(昭和10年)4月3日、九州日報を退社。[5]
1937年(昭和12年)1月18日、長男・孝生まれる。
1946年(昭和21年)1月、G項該当とされ公職追放の通知を受ける(~1948年(昭和23年)6月、追放解除)。[6]
1953年(昭和28年)7月16日、肝臓癌により死去。葬儀に際しては佐佐木茂索(全国出版協会理事長、文藝春秋新社社長)小川菊松(誠文堂新光社創業者、会長)、勝正憲(元民政党衆議院議員)らが弔辞を読んだ。長子が若年であったため、千倉書房の社長職は妻・悦子が継承することとなった。
脚注
編集参考文献
編集- 小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、1953年)
- 七戸克彦「末弘厳太郞責任編輯『現代法学全集』の研究」『法政研究』85巻1号(九州大学法政学会、2018年7月)
- 七戸克彦「日本評論社初代社長・茅原茂と第二代社長・鈴木利貞について」1~2、『法政研究』85巻2号、86巻1号(九州大学法政学会、2018年10月、2019年7月)
- 七戸克彦「日本評論社・旧社時代出版目録」1~3、『法政研究』85巻2号、86巻1号、86巻2号(九州大学法政学会、2018年10月、2019年7月、2019年10月)
- 千倉悦子編『遺容――千倉豊記念出版』(私家本、1954年)非売品
- 千倉書房編集部編『千倉書房総目録(昭和4~63年)』(私家本、1989年)非売品
- 千倉書房編集部編『現代史の中の千倉書房――千倉書房創立80周年記念誌』(私家本、2009年)非売品
- 千倉書房編集部編『激震の中の千倉書房――千倉書房創立82周年記念誌』(私家本、2011年)非売品
- 美作太郎『戦前戦中を歩む――編集者として』(日本評論社、1985年)
- 吉野作造『吉野作造選集15 日記3(昭和2~7)』(岩波書店、1996年)
外部リンク
編集- 出版平和堂ウェブサイト(https://shuppan-heiwado.jp/)