北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日安政3年6月5日)- 1903年明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長[1]。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者[2]

来歴

編集

生い立ち

編集

安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる[3]。幼名は「熊治」。

初め藩校・致道館廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。

自由民権運動

編集

自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す[4]。同社のメンバーには北川貞彦を中心として、弘瀬重正宮地茂春徳弘馬域郎板垣鉾太郎乾正士、北代健太郎、筒井楠太郎、麻田久寿衛らがいた[4]。機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動する[5]

明治13年(1880年)、「国会期成同盟」の規約編成委員となる[2]

さらに立志社においては、社内に憲法調査局が設置せられ片岡健吉山田平左衛門島地正存を監督とし、坂本南海男山本幸彦植木枝盛廣瀬爲興、北川貞彦が「憲法起草委員」に選任された。またこれに谷重中森脇直樹児島稔を加え、広く欧米の憲法を精査し、憲法草案を起草することになった[6]。立志社の植木枝盛が起草した『東洋大日本国国憲案』は、「自由民権の精神にそぐわない」と意見が多数寄せられ、幹部達が改稿を求めた為、北川貞彦が新たに『日本憲法見込案』を起草した[2]

その後、「海南自由党」の結党に尽力。法律学校「法学館」では、民法訴訟法を講義した。

明治20年(1887年)、保安条例東京退去を命ぜられる。

政財界で活躍

編集

その後、後藤象二郎の信頼を得て中央政界で活躍。勧業銀行に入り、実業界でも辣腕を揮う。

明治33年(1900年)、帰県して高知商工会議所書記長となり、高知県物産陳列場監督などをつとめる傍ら『土陽新聞』の客員として、法制・経済論説を発表した[3]

明治36年(1903年)11月8日死去。享年48歳[3]

ゆかりの地

編集
  • 潮江天満宮 - 神社境内に北川貞彦奉納の玉垣があり、同じく発陽社に属した民権家・弘瀬重正(潮江村村長)と並んで建てられている[7]

補註

編集
  1. ^ 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年10月1日閲覧。
  2. ^ a b c 『北川貞彦(立志社「日本憲法見込案」起草者)の生涯と業績』外崎光広著”. 高知短期大学(社会科学論集49) (1985年4月1日). 2020年10月1日閲覧。
  3. ^ a b c 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館1971年(昭和46年)
  4. ^ a b 『舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年)
  5. ^ 『自由のともしび』第74号”. 高知市立自由民権記念館 (2013年3月1日). 2020年10月1日閲覧。
  6. ^ 『我國憲政の由來』板垣退助著
  7. ^ 北川貞彦と弘瀬重正 - 玉垣に残る二人の自由民権運動家

参考文献

編集