京極高典
京極 高典(きょうごく たかまさ)は、幕末の大名、明治時代の華族。讃岐多度津藩の第6代(最後)の藩主。多度津藩京極家6代。
京極高典 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保7年10月19日(1836年11月27日) |
死没 | 明治39年(1906年)1月10日 |
改名 | 於菟之助(幼名)、高徳(初名)、高典 |
墓所 | 東京都港区の光林寺 |
官位 | 従五位下・壱岐守、河内守、下総守、従三位子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜→明治天皇 |
藩 | 讃岐多度津藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高宝、母:伊勢屋勘兵衛娘 |
妻 | 正室:幸(阿部正備の娘)、継室:鈺子(安藤信正の娘) |
子 | 梅子、高備、靏丸、竹三郎、富士高茂、恵三郎 、高頼、寿吉 |
経歴
編集京極高宝(5代藩主・京極高琢の庶弟)の次男として江戸にて誕生した。母は伊勢屋勘兵衛の娘。初名は高徳。
安政4年(1857年)4月6日に伯父である高琢の養嗣子となる。安政5年(1858年)12月に諱を高典と改め、翌年3月11日の高琢の隠居により跡を継いだ。万延元年(1860年)5月に参勤交代で江戸に赴き、従五位下・壱岐守に叙任される(後に河内守、下総守と変遷)。元治元年(1864年)11月、江戸より多度津に帰る途上、孝明天皇に拝謁し天盃を賜わり、12月26日まで京都御所日之御門警衛の警備を命ぜられる。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは官軍として戦う。1月19日、本藩丸亀藩、土佐藩と共に高松藩を攻める。この時は大目付服部喜之助を総督に先進隊の兵士50人を従軍させたが、高松藩は間もなく降参したので、1月21日に兵を帰した。伏見取締を命ぜられ、伏見街道および鳥羽口の警備をする。
明治4年(1871年)正月に他の藩より先に解藩の建白書を明治政府に提出し、2月5日に廃藩を容れられ、藩は倉敷県に合併となり知藩事を免官となる。4月8日に家財をまとめて東京に向け汽船温泉号で出航するが、18日に遠州灘沖で難破し、家財や藩の記録はすべて沈んでしまった。
明治5年(1872年)8月15日、隠居し、養子寿吉に家督を譲る。明治7年(1874年)10月2日、寿吉の隠居により、再び家督を相続する。なお、明治6年(1873年)に実子の高備が生まれており、明治8年(1875年)に寿吉を離縁した。明治17年(1884年)に子爵に叙される。明治23年(1890年)貴族院が設置され、同年7月10日、貴族院議員となる[1]。明治39年(1906年)正月10日、71歳で死去し、高備が家督を継ぐ。
栄典
編集系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (多度津)京極家初代 1884年 - 1906年 |
次代 京極高備 |