中村 高一(なかむら たかいち、1897年明治30年)7月31日[1] - 1981年昭和56年)7月27日)は、日本弁護士[2][3]政治家衆議院議員社会党、当選8回)[4]衆議院副議長(第41代)を務めた。弁護士として社会運動人権活動に取り組んだ[5]

来歴

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東京府西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市)出身[4]。中村作兵衛の六男[2][6]東京府立第二中学校出身[6]1922年弁護士試験に合格[6]1923年早稲田大学法学部英法科卒業[6]。弁護士開業[6]1930年労農党中央執行委員[4]1936年社会大衆党中央執行委員[4]。早くから自由法曹団に参加し、自由法曹団事件で検挙された[4]

東京市会議員を経て、1937年第20回衆議院議員総選挙に東京7区から出馬し当選。1942年第21回衆議院議員総選挙では非推薦で立候補して落選した。翌年、東京都発足による第1回東京都議会議員選挙では北多摩郡選挙区から立候補して当選した。

戦後、日本社会党に入党するも公職追放に遭う。追放解除後は衆議院懲罰委員会理事などの要職を歴任し、1960年正木清の辞任に伴い第41代衆議院副議長に就任。1967年第31回衆議院議員総選挙で落選し、以後は弁護士活動に専念する。

弁護士としては、総評弁護団の中心メンバーとして活動する傍ら帝銀事件弁護団にも参加。1976年、磯部常治の死去に伴い、平沢貞通主任弁護人に就任。1981年、死去。平沢の主任弁護人は遠藤誠に引き継がれた。

 
中村の東京市議選の応援演説をした山本宣治。

備考

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家族・親族

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中村家

中村高一の息子の中村護や孫の中村一郎(東京弁護士会)も弁護士である。息子の中村護は1955年、武蔵野市吉祥寺本町に「中村法律事務所」を開設した[5]1960年、事務所を現在の場所(武蔵野市吉祥寺東町)に移転した[5]1967年、付属機関「中村法律研究室」を設立した[5]司法試験の受験指導に当たった[5]2007年、孫の中村一郎が2代目所長に就任した[5]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、3頁。
  2. ^ a b c d 『人事興信録 第13版 下』ナ101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第15版 下』ナ21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年6月6日閲覧。
  4. ^ a b c d e 中村 高一とはコトバンク。2017年11月21日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 沿革、吉祥寺 中村法律事務所公式サイト。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』612 - 613頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年11月21日閲覧。
  7. ^ a b 『人事興信録 第14版 下』ナ97頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年11月23日閲覧。
  8. ^ 『兇器乱舞の文化 明治・大正・昭和暗殺史』317 - 325頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年11月23日閲覧。
  9. ^ “テロルの決算”. 文春文庫. (2008-11-10). 
  10. ^ "衆議院解散の瞬間 1960年代 池田・佐藤総理". テレ朝NEWS. テレビ朝日. 2021年10月13日. 2024年10月8日閲覧

参考文献

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  • 高田義一郎『兇器乱舞の文化 明治・大正・昭和暗殺史』先進社、1932年。
  • 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
議会
先代
正木清
  衆議院副議長
第41代:1960年
次代
久保田鶴松