三輪田元綱
幕末・明治維新期の勤王家
三輪田 元綱(みわだ もとつな、文政11年6月21日(1828年8月1日) - 明治12年(1879年)1月14日)は幕末・明治維新期の勤王家。通称は綱一郎。兄は三輪田米山、妻は三輪田学園創設者の三輪田眞佐子。
人物
編集伊予国久米郡久米村(現・愛媛県松山市)に日尾八幡神社の祠官の三男として生まれる。大洲出身の国学者常磐井厳戈や矢野玄道らと交わり、上洛して大国隆正に学び、平田派国学を修め、勤王の志士として活動した。文久3年(1863年)足利三代木像梟首事件に関わり、但馬国豊岡に五年間幽閉された。
慶応3年(1867年)放免と同時に新政府に登用され、維新後は神祇権少祐から外務権大丞を歴任した。1869年(明治2年)三輪田真佐子と結婚。明治5年には板倉勝任 (華族)らとともに神道と国学の「共心義塾」を開設し、漢学を教えた[1][2]。
家族
編集脚注
編集参考文献
編集- 『ブリタニカ国際大百科事典』 ブリタニカ・ジャパン 1993年
- 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞社 1994年
- 『日本人名大辞典』 講談社 2001年
- 『美術人名辞典』 思文閣 2016年