神田うののアバヤ姿2008-02-06 Wed 06:56
神田うのがドバイの新婚旅行から帰国というニュースをやっていた。 真っ黒なアラブの民族衣装「アバヤ」を着ていた。顔立ちがバタ臭い(し、死語! エキゾチックというのも古いか…)せいか、見ようによってはイラン人女性などに見えないこともない。 普通は髪の毛を隠すものだが、茶髪を前の方と後ろの方で一部覗かせていた。ファッション的にはあれも「あり」かな。結構似合っていると思った。 でも、ムスリムの中には、「本来の着方と違う」とか「ムスリマでもないのに、アバヤを着るな」ということで批判する人もいるかもしれない。考え方は人それぞれだし。 神田うのはファッション的に影響力があるから、「神田うのが来ていた、あのアバヤってかわいい!(最後の「い」にアクセント)」といいつつ、むやみやたらと多くの日本人女性が国内で着始めて、ちょっとした流行みたいになったりして。ちょっとそんな予感。 で、しばらくは「アバヤ」をうろ覚えで「カバヤ」だの「アババ」だの呼ぶ人もいるんだろうな。 |
クルアーン読解 第2回:バスマラ2008-02-05 Tue 21:54
بِسْـــــمِ اللهِ الرَّحْمَانِ الرَّحِيمِ 読み方:ビスミ・ッラーヒ・ッラフマーニ・ッラヒーム 日本語:慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名(みな)において 補足を加えた日本語: この世に存在するすべてのものを作った、唯一の創造者で絶対的な力を持った存在、それはアッラーという名前で示されるんだけど、そのアッラーのお怒りを買わないようにきちんと、あるいは失敗しないようにアッラーに守護を求めながら、これからあることを始めよう。 アッラーは、だれにでも与える慈悲を持った大いなるお方で、たとえば日光は誰彼の区別なく降り注ぐし、空気だって誰でも吸うことができる。普段意識しないけれど、日光がささなくなったり、空気がなくなったら大変だろう? そんな慈悲を与えてくれる。 そしてアッラーの教えを守ろうとする者には、さらに深い慈愛を与えてくれる。それはこの世(現世)では与えられないかもしれないけれど、肝心なのは永遠の住処である来世。アッラーの教えを守った者は来世で永遠の天国に入れる。 そんな、幅広い慈悲と、深い慈愛を持ったアッラーに誓ったりお願いしたりしつつ何かを始めようと意思表示しているわけさ。 補足説明: この句を「バスマラ(بَسْمَلَةٌ)」という。 クルアーンには114回登場する。クルアーンは全114章なので、それぞれの章に一回ずつ登場するかというとそうではない。 第9章:悔悟章(アッ・タウバ اَلتَّوْبَةُ )だけは冒頭にバスマラが無い。 その理由は諸説あるが、ここでは本題でないので触れない。つまり全114章のうち、113章の冒頭に登場するわけだ。 では、あと一回はどこで登場するかというと、第27章:蟻章(アン・ナムル اَلنَّمْلُ )の第30節に登場する。どんな風に登場するか下に引用しておく。 إِنَّهُ,مِنْ سْلَيْمَانَ وَ إِنَّهُ,بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَانِ الرَّحِيمِ (インナフ・スライマーン・ワ・インナフ・ビスミ・ッラーヒ・ッラフマーニ・ッラヒーム) 〔本当にそれはスライマーンから、慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において(もたらされたもの)〕 バスマラを唱えることをタスミヤ( تَسْمِيَةٌ )という。 ムスリムはいろいろな行為の前にバスマラを唱える。たとえば食事やスピーチの前とか。手紙や契約書の冒頭にも書かれることが多い。 以前、エジプトの女子大生と文通をしていたとき、彼女の手紙の冒頭には、日本の女子高生が書くような丸っこいアラビア文字で必ずバスマラが書かれていた。 クルアーンを読む前にもイスティアーザ(إِسْتِعَاذَةٌ)という魔よけの句ととともに唱えるのが普通。 アラビア語読解: بِسْــــمِ اللهِ 意味の区切りとしては、前置詞 بِ (ビ)と、 اِسْمُ اللهُ (イスム・ッラーフ)の合わさった形。 بِ (ビ)は「~において」「~で」「~に」などいろいろな意味を表す前置詞。ここでは「~において」。 اِسْمٌ اللهُ (イスム・ッラーフ)は「アッラーの名前」。 意味内容を重視すれば「アッラーという名前」とした方がいいかもしれない。 定冠詞のついていない単語Aの後ろに定冠詞のついている単語Bが来ると、「BのA」という意味になる。 اِسْمٌ には定冠詞がついておらず、اللهُ には定冠詞がついているので、 後ろから訳して「アッラーの名前」となる。 「神の名前」と訳してもいいが、最近、「アッラー=神」という訳し方に違和感を覚えるようになってきた。これについては別の機会に。 前置詞のかかる言葉は、属格(所有格)になる。直接かかる言葉だけではなく、それを修飾したり、限定したりする言葉にもかかる。 だから اِسْمٌ は اِسْمِ に、اللهُ は اللهِ になる。 そして اِسْمِ は前置詞がつくと、اِ が消えてしまう。 以上のことをまとめた結果、بِسْــــمِ اللهِ となる。 بِسْمِ のように、短く書くこともできるけれど、間を伸ばして書くのが一般的。 الرَّحْمَانِ ワープロの機能の制限により、クルアーン通りには打てないのが残念。 これも元はالرَّحْمَانُ だが、 アッラーを修飾する言葉なので、ここにも前置詞の影響が出る。したがって、属格(所有格)になって語尾が変化。 الرَّحِيمِ これも同様に、アッラーを修飾する言葉であり、 前置詞の影響を受けて الرَّحِيمُ の語尾が変化したもの。 全体を通して読むと、ビスミ・ッラーヒ・ッラフマーニ・ッラヒーム。語尾は母音記号通りならッラヒーミになるが、続けて読む単語が後ろに無い場合は母音記号は無視して子音のみの発音となる。 ちょっと突っ込んだ説明: 名前は非常に重要なことば。宗教的には、日常生活で使われる意味より深い意味がある。 名前を与えるのはアッラーである。人間が名づけたようでも、それはすでにアッラーによって計画されていたことで、アッラーから名前を授かったに過ぎない。そして、名前があるということは「存在する」ということである。「もやもやした名づけようのない何か」は存在にはなっていない。 アッラーの存在も、アッラー自身から名前が示されたから、人間にとってその存在を認識できた。絶対者をあらわすアッラーという名前は、人間が認知できないアッラーの世界と人間の世界を結ぶ。だから「アッラーの名前」というのは非常に重要。その名前にかけるということは、本来非常に大きな意味を持つ。 アラビア語読解では、ラフマーンとラヒームをアッラーの修飾語として説明したが、いずれも語尾が属格になっているので、前置詞「ビ」が、アッラー、ラフマーン、ラヒームに並列にかかるとも解釈できる。つまり、「アッラー、ラフマーン、ラヒームの御名において」。 アッラーには「99の美名」があるとされている。これはアッラーの99の属性を示したもの。属性に限定されない名前がアッラーであり、それ以外に99の名前を持つとされる。 99の美名には「罪人を火獄に下げる者」や「悪行を罰する者」などのコワイものもあるが、ほとんどが人間への恩恵を表す名前。 ラフマーンやラヒームも99の美名のひとつ。だから、アッラーの名前をラフマーン、ラヒームと言い換えて、「アッラーの御名において、ラフマーンの御名において、ラヒームの御名において」という意味にもとれる。日本の俳句に二重の意味が込められているものがあるが、それと似たような感じか。ちょっと違うかな。 ラフマーンもラヒームも語根が ر ح م であり、 これはアラビア語ではすっごく恩恵を感じる語根なのではないか? だからバスマラにもこの二つが登場するのではないかと推測しているけれど、実際のところどうなんだろう? 雑感&雑記: 『イスラーム 魅惑の国・ヨルダン』(井上夕香著、梨の木舎)という本の中で、著者が現地でバスマラを覚えるのに、「エビスメ・ラフマニノフ・アラヨ」と覚えたと書いてあるが、最後の方がバスマラと違いすぎると思う。このまま唱えなかったか心配になった。大切な言葉なのだから、イスラーム圏に行ったらきちんと唱えてほしい。 それにしても、バスマラだけで、これだけのスペースを使うとは思わなかった。アラビア語を打ってから文字に色をつけたり、フォントや文字サイズを指定するのもえらく時間がかかった。 この調子でクルアーンを読んで行ったら、永遠に終わらないのではないかという気がしてきた…。 |
第1回:能書きだけダラダラと2008-01-30 Wed 23:37
俺はあまり良いムスリムではないだろうが、それでもクルアーンは読むし、できれば理解は深めたいし、できればハーフェズ(クルアーンを全て暗記した人)になりたい。 でもそのためにはアラビア語で読めて、アラビア語で理解できるようにならなくてはならないだろう。 頭の柔らかい子供ならいざ知らず、オッサンになると、意味も文法も考えずにただ読み方だけ音として丸暗記というのはもう無理だ。アラビア語の勉強をした方が「急がば回れ」という結果につながるに違いない。 しかしアラビア語を学べる機関・機会は非常に少ないので、結局独学でアラビア語を学習することとなった。クルアーンの内容の学習もほとんど独学になった。 だから非常にひとりよがりになったり、間違った解釈をしている可能性大。 そんな危険を顧みず、このシリーズではクルアーンの各章について、自分の学んだことをつづっていこうと思う。 でも、俺なんかよりはるかに立派なムスリム/ムスリマの方々がクルアーンの解説をしたホームページや、クルアーンの音声も聞けるホームページなどはすでにいくつもあるわけで、それらと同じことをやってもオリジナリティが無い。 そこで、次のような構成と予定で続けていこうかと思っている。 〔一回一回の構成〕 1.冒頭にアラビア語の原文。長い章は何回かに分ける。 2.次にアラビア語の読み方をカタカナで表示。 3.日本語訳。日本ムスリム協会の『註解 日亜対訳クルアーン』などを引用。 4.書いてある内容を、ノンムスリムの人向けに、できるだけかみ砕いて説明。 5.各単語のアラビア語の説明。語形変化・語根・用法など。 6.啓示が下された時の状況説明や、学習して思ったことなど、補足説明。 〔全体の予定〕 1.能書き…今回 2.バスマラについて 3.イスティアーザについて 4.第1章「開端章」 5.第113章「黎明章」 6.第114章「人々章」 7.第112章「純正章」 ※以降は未定。必ずしも番号通りではないが、原則は後ろの方の章から。 クルアーンは正直なところ、日本語に訳してあっても読みにくいし、内容がわかりづらい。 ましてやアラビア語を勉強して、アラビア語で読みながら意味も理解するはとても難しい。 そんな難しさの前に四苦八苦した記録だと思ってください。 また、間違いを発見された方は是非教えてください。よろしくお願いします。 |
広大なイスラムの世界に戸惑ったあの頃2008-01-27 Sun 20:16
またまた入信初期の頃を振り返ることにする。どうもこの1年くらい、だらだらとしたイスラムライフを送っているので、初心に返るという意味で。 ムスリムになってまずやらなくてはいけなかったのが、身の清め方と、礼拝の動作と、礼拝の際に唱えるアラビア語を覚えることだった。 よく、市販のイスラムの概説書などで、礼拝の動作の図解を見かける。そのようなものを見るとそれほど大変そうに感じないのだが、実際は一通り覚えるまでにかなり時間がかかった。 イスラミック・センター・ジャパン発行の『サラート イスラームの礼拝』という冊子が私の教科書。薄いのに必要なことがコンパクトにまとめてあり、非常にすばらしい冊子で、現在でもときどき読み直している。 何がすばらしいかというと、礼拝に必要なアラビア語がすべてカタカナで書いてある。その中にはクルアーンのいくつかの章も含まれる。 左側のページにクルアーンの原文(アラビア語)、右側に読み方と、日本語訳が記してある。いきなりアラビア語は読めないので、やはり初心者にはカタカナの読みはありがたかった。 厳密に言えば、アラビア語の正しい発音とは言えないだろうけれど、ムスリムになった以上はとにかく片言でもいいからアラビア語のフレーズを覚えなくてはならない。 第1章「開端章」はムスリムなら誰でも覚えなくてはならない章で、全7節からなる比較的短い章。ムスリムであれば、一度覚えた「開端章」はまず忘れることはない。一日五回の礼拝の中で必ず唱えるし、礼拝の時以外でも、ふとしたときに口ずさんでいる(?)ことも多い。 その他、第102章~第114章、第2章255節(「玉座節」と呼ばれる重要な部分)が掲載されている。前のブログでも書いたけれど、このあたりの章はすべて暗記した。 反対もあるだろうけれど、クルアーンの読みをすべてカタカナでも記した書籍があると、クルアーンを読んだり、暗記したりする大きな手がかりとなるので非常にありがたい。 とはいえ、やはりアラビア語の学習は避けて通れない。 本来の発音がわからないままになるし、クルアーンをアラビア語で読む際にもきちんと意味をとりながら読むのが正しいからだ。 カタカナで記された以外の章もいずれはアラビア語で読まなくてはいけないので、アラビア語学習も入信直後に始めたが、さすが世界一難しいと言われる言語、大パニックになってしまった。 文字が覚えられない、日本語に無い音が多い、文法が複雑、適切な入門書が少ない、習える場所が大学以外ほとんど無い…泣きそうだった(いずれアラビア語については別に項目だてる予定)。 その上、クルアーンのアラビア語は日常使用するアラビア語と異なる表記法があったりしてますます頭が大混乱! 結局、一時期エジプト大使館に通った以外は独学で勉強し、辞書を引けるレベルには達した…というと、「何のこっちゃ? 辞書なんか簡単に引けるだろう」と思う人がいるかもしれないが、アラビア語の単語を辞書で調べるというのは、基本的な文法事項がわかっていないと不可能な、なかなかややこしいことなのだ。 さらにクルアーンの文章が非常に雑然とした感じでわかりにくい。日本語訳では、日本ムスリム協会発行の『註解 日亜対訳クルアーン』と、岩波文庫の井筒俊彦訳の『コーラン(上・中・下)』を読んだが、日本語でも頭にすっと意味が入らない。 クルアーンだけでなく、ハディース(預言者言行録)も読まなくてはならない。 聖預言者ムハンマド(サッラッラーフ・アライヒ・ワ・サッラム)の生涯や、彼を取り巻く人々のことなども知らなくてはならない。 教義をまとめた書籍なども読まないとクルアーンだけではついていけない。 モスクの壁などに書いてあるクルアーンの章句などを読もうとすると、アラビア書道の素養が無いと読めないから、アラビア書道も習い始める。 かくして、クルアーンの暗記、アラビア語学習、ハディース学習、アラビア書道の稽古、聖預言者の伝記学習、イスラム思想史学習、イスラム史学習と、イスラムという大海の中でアップアップすることになったのだった。 ※クルアーンの第1章「開端章」については、機会を改めて取り上げようと思う。 |
星空を見上げて2008-01-16 Wed 21:54
سورة البروج وَ السَّمَآءِ ذَاتِ الْبُرُوجِ وَالْيَوْمِ الْمَوْعُودِ وَ شَـاهِدٍ وَ مَشْهُودٍ
このブログのタイトル「イスハーク・バイナ・ル・アバダイン」は、悠久の時間の流れの中での自分の存在の小ささを自覚したものである。 その一方で、空間の中で自分の存在の小ささを実感するという自覚の仕方もある。 ひとりで星空を見上げているとき、俺だけでなく、多くの人は自分の存在の小ささを感じるのではないだろうか? そして自分の小ささを自覚したときにどうするか? よくあるのは、「この広い宇宙に比べて、自分の悩みなどほんとにちっぽけなことなんだなあ」と感じつつ悩みを忘れる…という態度である。そうやって心を浄化する。 とはいえ、悩みの内容によるけど。 好きな女の子(男でもいいが)にフラれて苦しくて仕方ないときにこのような方法で悩みを忘れるのは健全である。 しかし、「借金が800万円あるけど、ちっぽけなことだなあ」とか「娘がグレて援助交際しているけど、宇宙の広さに比べればどうでもいいことだなあ」というのはいけない。 そういう悩みはごまかさずにちゃんと向かい合ってもらいたい。 また、自分の小ささを自覚したとき、限られた時間と空間の中で自分なりに頑張っていこうと奮起するという態度もある。 川底の、砂粒ひとつ程度の存在だけれど、もしかしたら砂金のようなささやかな輝きを放てるかもしれない。 とはいえ、砂粒には砂金の価値がわからないように、人間には他人の真の輝きがわからないかもしれない。 では誰が人間の真の輝きをわかってくれるのか? そして救ってくれるのか? 一神教の信仰者なら答えは言うまでもないだろう。 日常生活の中に埋没していると、「どうせ人生は死ぬまでのヒマつぶしだなあ」などという虚無的な気持ちを持ったりもするが、静かな夜にひとり星空を見上げていると、すんなりと神の存在を信じることができる。 そして「約束された日」をめざして頑張らねばイカンよなあ…とようやく殊勝な気持ちになったりするのだ。 ムスリムになって5年目だが、「日常の暮らしの中で一瞬の迷いもなく神を信じている」と言ったらウソになる。正直な話、いまだに迷いはある。 たまに星空を見上げて信仰心を立て直す。そんな信仰スタイルがあってもいいんじゃないか? と、勝手に自己正当化している。 そんな心境とぴったり合ったのが、このブログのテンプレート(デザイン)。星空をとても美しく表現しているし、きらめく星のひとつのようになれたらと思わせてくれる。作者に感謝! ところで、このブログのトップの右上の「Starchart」というところをクリックすると、タイトル部分にある変化が起こるの知ってた? 知らなかった人は試してみてください。 |