明けの明星
01-29,2019

日々、あんまり忙しくて、
ブログの更新をしている余裕が、
全くありませんでした。
それで、前回、燗酒を出す店の話、
続きを書きたいと言いましたけど、
今日の添付写真は今朝の夜明け前、
右上には輝く月を写し、
左下はムクゲの枝先なんですけど、
撮影したかったのは、
画面の左方、やや下のほうに輝く、
明けの明星だったんです。
それで、もう、夜は終わり、
今日も「好日」が始まりますから、
燗酒の話はおしまいにしますが、
「好日」っていうのは、
自分自身を全面的に肯定できる、
そういう心境にいられる日で、
茶席には「日々是好日」の掛物が、
よく見られますけど、まあ、私は、
そういう意味に受け取っています。
好日だからこそ、人に優しくできる。
静かに酒を
01-15,2019
.jpg)
夏のビアガーデンとか、それより、
ビールメーカーの工場に付設された、
ビール園とかビアレストランって、
にぎやかという域を超えて喧騒、
いや、それより、
「どよめいてる」ような雰囲気って、
多いと思いますね。
まあ、ドイツのビアガーデンだって、
同じように思いますけど。
ところが、昨日書きました店、
燗酒を味わえる神楽坂の店ですが、
テレビには、
「希静」と書かれている扁額が、
写ってました。
なんでも、今の店主の祖父が、
昭和12年の開店時に、
自ら書いて掲げましたとか。
いやあ、世の中って、
いろんな価値感があり、
いろんな楽しみ方があるんだって、
ほんとに思いましたね。
そして、
みごとな燗銅壺が使われていて、
炭火が赤々と熾っている情景も、
すばらしく良かったです。
一人で燗酒をいただいてる客、
女性に見えましたけど、
まあ、雰囲気抜群の店ですねえ。
私は、酒を楽しむのに、
店に行くことがありませんから、
テレビを見ることで、
そういう気分を味わうだけです。
次回、また続きを書きたいです。
「希静」が、私にはとても好ましく。
好みは人それぞれ
01-14,2019
.jpg)
「燗の道具」に関するテレビ番組で、
ナレーションが「神楽坂の路地裏、
燗酒を一年中味わえる店」とか、
言ってました。
そしてまた、「そこには、
驚くほどの静寂」があるそうでして、
「店主も客も、
ほとんど言葉を交わしません。」
・ ・ ・ って言うんですね。
そしてそれは、
「創業以来の伝統」なんだそうです。
いやあ、そうなんですか!
でもまあ、いいじゃあないですか、
人にはそれぞれの、
「好み」ってのがあるんですから。
さて、この続きは、また次回に・・・
自分の好みが許されるって、幸せ。
燗酒と燗の道具
01-13,2019
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茶の湯では、
酒は基本的に燗酒ですけど、
燗のつけ方については、
詳しくない私です。
ちょうどNHKテレビ「美の壷」で、
「燗の道具」が放送されましたから、
見ました。
今まで、よく知らなかったことが、
多々ありましたから、
いろいろと学びになりました。
ところで、茶の湯では、
燗鍋で酒を持ち出しますけど、
私は、燗鍋での直火燗なんてことは、
絶対しません ・ ・ ・ というか、
直火燗では、温度管理が不可能です、
私には。
さて、あらかじめ燗をつけた燗酒を、
鉄や陶磁器の燗鍋に入れるとしたら、
酒よりもちょっと高めの温度に、
燗鍋を暖めておくなどの配慮は、
必須ですからね、手間がかかります。
また、鉄製の燗鍋でしたら、
無骨というか、侘びてるというか、
まあ、優美さとは反対なので、
今日の添付写真ですけど、
木製で輪島塗の銚子に、
山茶花を入れてみました。
私は、茶の湯で使う引杯が、
杯の中では一番好きですから、
鉄製燗鍋じゃなく、
蒔絵の木製銚子などで、
お酌してもらうのがうれしいし、
また、お酌して差し上げる時も、
そういう銚子だと、
気分的にいいですね。
ただ、伝統に従って、
手持ちの鉄製燗鍋を使うことは、
茶の湯を行う際には、しかたなく。
あの、燗酒については、
また明日、続きを書きたいです。
茶懐石の杯事は、皆さん楽しそう。
おもしろい反面
01-12,2019
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これはおもしろい ・ ・ ・ って、
「新鮮な」喜びが感じられる場合、
「いままで体験したことがない」という、
斬新さが、興奮を呼び起こす理由かなあ?
・ ・ ・ なんて思いますけどね。。
でも、いままでの習慣とか伝統を、
「壊す」ようであれば、
非難を受ける危険性って、
大いにあると思うんです。
さて私、手持ちのある茶道具なんですが、
「変わってる」ので求めましたけど、
使う場合に問題点が生じるってこと、
「手に入れてから」わかりました。
「斬新」だから心に染み入るわけですが、
「普通でない」作りのため、
伝統的な作法に則った取り扱いが、
「不可能」なんです。
ああ、それで、私、
身にしみて思いましたけど、茶の湯で、
「流派の伝統」を守り伝える立場、
・ ・ ・ っていうような人だったら、
とてもこんな道具、
「使えません」・ ・ ・ って。
あのゥ、その道具を使う為には、
ほんの少しですけど、
扱い方の作法を「改変」することが、
どうしても必要で、でも、私は、
「好きだから茶の湯をする」人でして、
そのため、流儀の茶の湯の作法からは、
外れた所作をしなければならなくても、
非難を受けないという恵まれた立場、
そのことをうれしく思います。
それに、茶の湯って、本来、
作法を守ることではないんですから。
自分を主体的に生きる幸せを思います。
感覚は人それぞれ
01-11,2019

7日以降は毎日、用事で忙しく、
あっという間に11日になってしまいました。
関東では鏡開きなんて言いますけど、
うちでは別に、何もしません ・ ・ ・ が、
鏡餅を下げた後、余計なものを添えて、
今日の添付写真にしました。
餅はもうカチンカチンで、ひび割れてます。
さて、初釜で花びら餅を取るシーン、
テレビで見たんですけど、縁高から、
楊枝で取る時に、その手つきが、
親指を上にして、掌が上向きでした。
あの、私でしたら、
手の甲が上になるようにして、
楊枝を持って生菓子を取るんですけど、
ああ、私とは違うやり方だなあ・・・と、
とっても印象に残りました。
それ、ほんの一瞬の映像でしたけど。
この話、楊枝で菓子を取る時の右手は、
掌を上向き、下向きのうち、
「どちらにしなければならないか」、
・ ・ ・ といった、
作法に厳格さを求めるものではありません。
私はそういう心情や態度とは反対で、
教条主義的なことは嫌いなんです。
そんなわけで、楊枝で菓子を取る時、
掌を上向けようが、下向けようが、
人様のことを、
あれこれ言う私ではありませんけど、
私でしたら、私の美的感覚として、
親指を下にして手の甲を上にする、
まあ、日本舞踊では、
「伏せ」と表現する手の形で、
菓子を取るんですね、自分の趣味として。
菓子を取る時の手つきがどうなのか、
・ ・ ・ なんてことは、
「どうでもよいこと」なんですけど、
私が「気になっちゃう」理由は、
日本舞踊をしているからかも知れません。
古典舞踊では、掌が上向きか下向きか、
そのことによって、
「表現しようとする内容」が、
まるで異なったものになってしまいまして、
また、手の動き、もっと言えば、
手先、指先のほんのちょっとした動きで、
重大な意味や感情を表現するという手法、
日本舞踊では普通ですから、私としては、
手の使い方に注意しちゃうし、また、
重視しちゃうって態度が、
無意識のうちに出ちゃうのかも ・ ・ ・
感覚って、人それぞれで、おもしろいです。
花びら餅の向き
01-09,2019
.jpg)
7日からは、出かける用事が始まり、
二日ほど、ブログが書けませんでした。
ところで、NHKテレビ、
今年最初の「グレーテルのかまど」は、
「花びら餅」でした。
それで、茶会のシーンが写し出され、
花びら餅の向きにすごい違和感が・・・
おもしろかったのは、
その茶会シーン以外では、
花びら餅の向きに、
違和感を感じなかったということです。
あの、茶会シーンでの、
花びら餅の向きが悪いとか、
そういうことではありません。
花びら餅を「どっち向きに」、
お客様に供するかということは、
供する側の趣味や考えによることで、
「良し悪し」の問題ではありません。
実際、茶碗でも茶入でも、
どこを正面にするかは、
亭主の自由裁量なんですから、
○○でなければならないなんて、
あるはずもないことです。
それなのに ・ ・ ・ です、
牛蒡が手前に供されているシーンで、
非常に心が動揺したのですから、
昔からの「慣れ」とか「習慣」って、
恐ろしい力を持つものだと、
実感したことでした。
そうですねえ、ですから、
「幸せが感じられる」という、
心の傾向を持つことって、
とっても大切なことだと、
改めて思ったことでした。
「こだわらない」ことが大切な場面も。
創作精進料理
01-06,2019
.jpg)
NHK「美の壷」、精進料理の番組で、
創作精進料理のカフェを見ました。
河内長野市の観心寺ですが、
築400年以上の庫裏を改装したとか。
下の写真は、
伝統的な膳や食器の中に、ただ一点、
盛り付けにグラスが用いられた例で、
とっても新鮮で、感動しました。
(テレビ画面を撮影してトリミング)

http://www.fujingaho.jp/gourmet/
fujingaho_gourmet_
shojinryouri_kuri_170512
上記でも、そのカフェが見られます。
「伝統をきっちりと守る」一方で、
新しい工夫と創作を加えていく、
そういう例を見て私は、明治時代に、
茶の湯に立礼が創案されたことを・・・
伝統を守りながら創作するすばらしさ。
かわいい車
01-05,2019
.jpg)
かわいい車を発想し、
つくっていく過程が、
ちょと紹介されているテレビ番組、
見ました。
(電動ミニ自動車「rimono」です。)
開発はすごい困難だったんですけど、
「協力してくれる人々」が、
いっぱい現れたことが感動的でした。
楽しい、してみたい・・・って、
そういう思いの大切さを知りましたし、
うれしくて元気が出ることをしていると、
賛同してくれる人々が、
現れるんだってこと、わかりました。
そこから考えは飛躍しますけど、
私の茶の湯は、
「楽しいもの」、そして、
喜ばしく人と交流すること、まあ、
以前からそう願ってきましたけど、
改めて今回、
それが自分の茶の湯のテーマだと、
再確認できたことです。
自分が「したい」という気持ちが重要。
好みに従ってよい
01-04,2019
.jpg)
BSフジの番組で、
堅田喜三久さんと
東ちづるさんとの対談を見ましたが、
人間国宝になった当時の堅田さん、
人間国宝になったとも知らず、
パチンコで遊んでたら、
人から何か言われたそうですね。
また、堅田さんはラスベガスが好きで、
年に何度も行って、
夜、遊んでる時が楽しいようなこと、
言ってました。
まあ、私は、
パチンコ店の建物沿いの道路を、
たまたま歩いて通った時、
換気の排気口から、
タバコ臭い空気が吐き出されれていて、
気持ち悪くなったことがありましが、
パチンコのどこがおもしろいのか、
全然理解できませんし、また、
ギャンブルは好きになれないですね。
でも、そういうのは私の好き嫌いで、
他の人にはまた、
他の人なりの好き嫌いがあるんですから、
自分の好みだけすばらしいなんて、
言えることではありません。
でもまた、「自分の好み」っていうものは、
他人の言葉や評価とは無関係に、
楽しんでいいものなんだと思います。
好みが生かせる時は遠慮せずに幸せに。
花びら餅と相性
01-03,2019
.jpg)
花びら餅をいただきましたから、
点前をせずに抹茶を点てました。
しみじみとおいしかったです、
抹茶との組み合わせが。
花びら餅の数が多かったですし、
とっておくこともできないので、
紅茶と合わせてみましたけど、
アールグレイでしたから、
余計そうだったんでしょうか、
両者、
おいしさを打ち消しあって、
全くダメな組み合わせでした。
それだけを単体でいただけば、
とてもおいしい花びら餅だし、
アールグレイですのに、
「組み合わせたら」、
とたんに良さを殺し合い、
不調和が出てしまいました。
・ ・ ・ 学びになりました、
相性とか、組み合わせって、
ほんとに大切なんだと。
まあ、花を入れるにあたっては、
花の組み合わせが大切ってこと、
よく承知してましたけど。
琴瑟相和すのは、幸福な世界。
心地よく居る
01-02,2019
.jpg)
昨日元旦のブログは、
陽が昇る前に掲載しましたので、
今日、初日の出の写真を載せます。
拙宅の窓から見たものですが、
窓ガラスが結露しています。
昨日の当地は上天気の好日で、
会合で外出した以外の時間は、
燦燦の陽射しを受ける室内で、
おだやかに過ごしました。
自分が「心地よく居られる」の、
それが幸せだと思いますし、
「自分の」気分が好いからこそ、
人とも和やかに、
喜ばしく関ることができると、
私は思います。
今日も晴れて暖かくなりまして、
珍しく2日から6日までは、
参加しなければならない行事が、
無いという恵まれた正月なので、
こんな時こそ、
ゆっくりしよう ・ ・ ・ と。
昔話の「物くさ太郎」を、
思い出しましたけど、それ、
「ものぐさして過ごす」以外は、
私とは全く無関係の話でした。
「ものぐさ」すると楽でいいです。
なまめく
01-01,2019
.jpg)
みずみずしく、
美しく、
清らか ・ ・ ・ っていうようなこと、
昔は(古語では)、
「なまめく」と言ったようですけど、
そういうの、
最高にいいなあと思います。
そして、情緒があることもまた、
「なまめく」ってことなんでしょうけど、
源氏物語の中に、
「はるばると
物のとどこほりなき海づらなるに、
なかなか、
春秋の花紅葉の盛りなるよりは、
ただそこはかとなう茂れる蔭ども、
なまめかしきに」云々と書いてあり、
そういうところに美を見出した感覚、
すばらしいと思います。
そうですねえ、今年は、
「見た目」豪華絢爛なものではなく、
情趣が感じられ、
心惹かれるものを探していきたいと。
皆様、幸福でよい年になりますよう。
めでたく大晦日
12-31,2018
.jpg)
除夜の鐘というのは、
108回衝くんだそうで、
何でも、煩悩といのが、
108もあるんだそうですけど、
煩悩って、人の心を悩ませたり、
苦しめたりするものなんでしょうか?
じゃあ、煩悩が無くって、
悩みとか苦しみが起こらなかったら、
一番いいんじゃないの?
・ ・ ・ って思う私です。
そして、悩みや苦しみが無くって、
心が幸福なら、
すごく幸せと思いますけど、
でも、まさか、
そういう情況に居るとか、
そういう態度をとった場合、
非難されたりはしないでしょうね。
たとえば、「真剣さが無い」とか、
「ぐうたらだ」なんて言われて。
でも、私の考えでは、
真剣さが無くても問題無いし、
ぐうたらで結構だと思います。
そして、
そういう心情や態度が許される、
おだやかで、
平和な社会であって欲しいです。
あの、
「真剣さが無い」ことを許さない、
また、「ぐうたら」を許さない、
そんな峻厳苛烈な世の中だったら、
心身ともに疲弊しちゃうし、
おだやかには、
暮らしていけないと思いますけど。
世阿弥は、能について、
「人の心を
和らげるものでないといけない」
という意味のことを
言ってるそうですけど、
心が和らぐ来年になりますことを。
心和らぎ、安心していられる幸福。
陸王の一挙放送
12-30,2018
.jpg)
「足袋」メーカーの話らしいと、
何となく人から聞いてましたから、
年末に全話一挙放送があるというので、
「陸王」の第1話〜第5話を見ました。
ドラマが見たかったわけではなく、
「足袋」ということで興味がありました。
案の定、足袋の需要減少という、
私が思っていたとおりの事態が、
ドラマに描かれていました。
まあ、足袋が無くなるわけではないので、
危機感を持つほどではありませんけど、
履く人が少なくなることは、
私としてはさびしいことです。
ちなみに、箪笥を開けて、
今履いている足袋を数えてみましたら、
14足ありました。
また、足袋ソックスを、
何足か持ってまして、
場合に応じて履いてますけど、
まあ、時代の流れですね ・ ・ ・
ところで、ドラマの「陸王」、
ストーリー展開は、
見ていて苦しいものがありました。
足袋関連の話というのがよかったです。
着物で車運転
12-29,2018
.jpg)
私は、着物姿で車を運転します。
警察官から注意を受けたりしたことは、
ありません。
読売新聞に、
「僧衣で運転」に青切符、
法事行けぬと宗派反発
・ ・ ・ という記事があり、
違反内容は
「運転に支障のある和服での運転」
と記されていて、
反則金6000円ということですが、
反則金の支払いを拒否したそうです。
それで、私は断言したいです。
和服で車を運転しても、
運転操作に何の支障もありません。
ところで、全く別の話ですが、
ずっと以前に、ある男性から、
高野山の宿坊に泊まった時の体験を、
聞いたことがあります。
朝の勤行に参加しようとしたら、
若い僧から拒否されたそうです。
「浴衣では参加できません」、
・ ・ ・ という理由だったそうで、
それは夏真っ盛りの時期ですから、
その男性は「薄物」で、しかも、
茶会にも着ていける一着だったと。
まあ、今の時代、年若い人なら、
いや、年齢には関係なくですね、
着物のことが「わからなくても」、
しかたないのかも。
最後にもう一つ、昔話ですが、
丹波哲郎が雪駄を履いて、
ホテルに入ろうとすると、
ボーイから入館を拒否されたってこと、
何度もあったみたいですね。
じゃあ、そのホテルでの結婚式の時、
花婿の袴姿には、雪駄を禁じて、
靴を履かせたらいいんじゃない?
(なお、私の免許証写真は着物姿で、
もちろん、警察署で撮影しています。)
着物を着るのはうれしい私です。
人なりのお茶
12-28,2018
.jpg)
三田富子さんの著書に、
次のような一文がありました。
「私は師から、
お茶事はたとえ
肉親の死に目に会えなくても
あとへ引くな、
招かれたら、どんな事があっても
前へ出て受けろと教えられていた。」
私は茶の湯が好きですけど、
三田富子さんの師という方とは、
肌が合わないと思いました。
まあ、人には相性がありまして、
良い人悪い人なんてこととは全く別で、
どんなにすばらしい人であっても、
自分とは相性が合わないってこと、
世の中には、普通にあることですよね。
まあ、私には、
「精神修養」みたいな考えや態度って、
合わないんです。
そして、
そういう自分でいいと思ってるし、
幸福の為には、
もっと別の道を探りたいですね。
茶の湯では、幸福感を味わえる私です。
BS-TBS ストイック女子
12-27,2018
.jpg)
「ストイック女子」というテレビ番組、
初めて見ましたけど、26日の放送は、
社交ダンスの塚田真美さんでした。
・・・その情熱と努力に、
ほんとにすごいなあと思いました。
私は、番組ナビゲーターといっしょで、
「非ストイック」でして、
まあ、日本舞踊は稽古してますけど、
あまりにも「難しすぎて」、
遅々として、遅々として、
稽古が進みませんし、
第一、稽古に「取り掛かるまで」が、
時間を要します。
そして、いざ稽古を始めようとしても、
「始めようとした」だけで終わっちゃうって、
そういうことが多い・・・というか、普通で、
塚田真美さんとは態度が反対の極ですけど、
まあ、そういうのが自分で、
別に、そういう自分に否定的じゃないし、
でも、塚田真美さん、輝いてましたね。
塚田真美さんも私も、「これでいいのだ。」
ケーキと和菓子
12-26,2018
.jpg)
昨日、ケーキと和菓子をもらいました。
まあ、ほとんど毎年のことなので、
クリスマスだからと言って、
わざわざ買う必要もありません。
でも、私だって、
他の人に差し上げることって、
日常的に、いろいろあります。
品物に限らず、
茶箱に茶の湯道具を持参して、
ちょっとした菓子と、
薄茶を差し上げるなんてことも、
いつものことです。
ところが世の中には、
人には何もあげないタイプの人、
いるんですね。
子どもの頃に見た、
「マッチ売りの少女」の絵本を、
思い出しました。
ストーリーは忘れてしまいましたけど、
暖をととうと、マッチを擦るシーンが、
印象に残っています。
そうですねえ、
生きていくのに必要なニーズが
「与えられない」って苦しみは、
とてもひどいものだと思います。
そして世間には、
生きていくのに必要なニーズを、
「わざと」相手に与えない人って、
いるんだってことですね。
「与えない」虐待を行う不幸な人が・・・
クリスマスプレゼント
12-25,2018
.jpg)
クリスマスプレゼントどころか、
プレゼントの類とか、おみやげとか、
子どもの時から
「もらったことがない」という、
驚きの人がいます。
その人、
おやつを与えられたこともないし、
もちろん、
要求してもいけなかったそうで、
だから、養育者に対しては、
小学生になる前から、
「○○が欲しい」とか、
「○○して欲しい」なんて要求は、
もう絶対、ただの一度も、
言ったことがないそうです。
私は、アメリカの子どもたちが、
ハロウィンでどんなことをするのか、
全くわかってませんけど、
その「要求をしたことがない人」は、
アメリカの子のハロウィン行事には、
きっと、心理的に、
参加できないだろうと想像しました。
仲間に混ざれないって、不幸な面が。
仲間に入れない
12-24,2018
.jpg)
クリスマス会という名前をつけて、
実はみんなで集まって食事を楽しみ、
会話やゲームでひと時を過ごす、
そんな集まりの場がありまして、
ビンゴゲームもしました。
それで私は、ビンゴというと、
思い出すことがあります。
もう、以前のことですけど、
たまたま私と隣あった人が、
まじめにゲームをしてないんです。
自分の札に該当番号があっても、
折り開けようとしないんです。
そしてさらにです ・ ・ ・
一列全部、
めでたく穴が空いたはずなのに、
「ビンゴ」だと「言いませ」んし、
それ以前に、だいたい、
まじめに「穴を開けてない」んです。
あのう、その態度 ? ? ? で、
わけがわかりませんけど、その人、
「いい人」だし、欠点なんてものは、
見つけようとしても「ありません」。
いっしょに楽しめないって不幸ですね。
奪い取る不幸
12-23,2018
.jpg)
おととい書きました小林一枝さんの本に、
「客としてもてなしを受けることは、
とても嬉しく、楽しいことですが、
それにも増して
客を招く亭主のほうが、
もっと楽しく幸福である」という、
一文がありました。
それって、
「他の人が」喜ぶように行為する、
・ ・ ・ ってことですよね。
すごい幸せなことだと思いました。
ところが、
「他の人に奉仕する」と言っても、
全く別の人間関係も見られまして、
片方は一方的に「奪い取る人」、
もう一方は、
自分を犠牲にして「奪い取られる人」
・ ・ ・ という関係もあるわけです。
そういう関係では、
犠牲になって奪い取られる人って、
幸福どころか、悲惨ですよね。
じゃあ、奪い取った人は幸福か、
・ ・ ・ って言いましたら、
いわば悪魔の行為をしてるわけでして、
ちっとも幸福じゃないんですよね。
つまり、
相手に身を尽くしても幸せじゃないし、
相手から何かを得ても幸せじゃなくて、
それどころか、お互いに不幸に陥る、
そういう人間関係も
世の中にはあるんですよね。
だから、
相手の利益になることをしても不幸だし、
相手から利益を得ても不幸だという、
悲惨な人間関係って、あるわけです。
相手から奪う態度の不幸を思います。
素敵な人間関係
12-21,2018
.jpg)
「茶の湯は心の作法」という本に、
「これから増やすのは
『素敵な人間関係』だけで
充分だと思っています」という、
文章がありました。
ああ、そういう心境って、
何と幸福なことかと思いました。
さて、その前置きとして、
「私のような年代になったら」と、
書いてありましたから、私は、
著者の小林一枝さんが、
何歳くらいの時だろうか?
・・・と気になりました。
私なんか、いくら年を重ねても、
そんなふうになれるかどうか、
疑問だったからです。
本の出版年と著者の略歴から、
その文章を書いた時の年齢を、
おおよそ数えてみましたら、
56歳くらいだとわかりました。
すてきな人間関係はほんとに幸福。
不幸な人間関係
12-20,2018
.jpg)
孤独な人がいました。
仮にAさんとしましょう。
Aさんは子どもの頃から、
「社交性が無い」とか言われて、
悩んできたそうです。
でも、どうやら、Aさんは、
人を避けずには、
生きてこれなかったようなんです。
Aさんは人を「恐怖」してるようで、
この世に生きることを許されるためには、
「相手の都合を満たして、
自分は犠牲になる」ということが、
人間関係ってものだと信じてたようです。
つまり、Aさんにとって人間関係とは、
自分を殺して、
相手の奴隷になることだったのですが、
それは、生まれ育った家で受けた、
冷酷な仕打ちが原因してるようでした。
それじゃあ、生きることに喜びなんて、
感じられないと思います。
人とつながりを持ちたいなら、
自分を出さず、自分を否定し、
自分で自分を殺さなければならない。
自分を殺さないようにしたいなら、
人と関ってはいけない・・・って情況、
何と残酷なことかと思いました。
「人を大切にする」のが幸福の条件だと。
痛み、苦しみの無毒化
12-19,2018
.jpg)
心の奥底にって、
生まれて以来体験してきた思いが、
際限なく埋まってるんでしょうかね?
ひどいめにあった思い出なんてのは、
なかなか消えないものだと思います。
そうですねえ、誰の心の奥底にも、
残酷な体験とか、
悲惨な思い出なんてのが、
たくさん埋まってるのかも?
だから、人といっしょに、
和やかで楽しく過ごす体験とか、
いろいろ、悦びの時を過ごして、
うれしい思いをいっぱいして、
喜ばしい気持ちを心に蓄え、
苦しい思いが薄らぎ、
痛みが消えていく状態に、
心が変化していくなら、
幸せかなあ。
心に傷があったとしても、
もう、昔のようには鮮血を噴かず、
痛みも感じないようになることを。
それで、喜びの体験が必要だと・・・
無防備になれる
12-18,2018
.jpg)
不安や緊張、あるいは、
警戒の気持ちが起こってくる場面って、
生きてる限り、あったりしますけどね、
でも、多くの人の中には、日常的に、
不安、緊張、警戒態勢が解けなくて、
張りつめて生きてるような人、
いるんですね。
そうなりますと、
たとえ、いいことが起きたとしても、
楽しむどころではない心境だったりして。
それで、毎日の暮らしが、
「無防備でいても安心」って情況なら、
とても幸福なことだと思います。
ガードがゆるめられる人間関係の幸せ。
自分を表現
12-17,2018
.jpg)
対人関係の中でも、
喜ばしく、幸せな人間関係っていうのは、
相手の前で「自分が表現できる」、
あるいは、
「自分が発揮できる」関係ではないかと、
私は思います。
それ、自分のことを、
「いいなあ」と思ってないとできないし、
また、相手の人たちのことを、
「いいなあ」と思ってる、
あるいは最低限、
そういう相手を「許容できる」という、
相手を「認める」態度がなければ、
できないことだと思います。
こうして、自分が認められ、また、
相手を認めることができるっていうの、
幸せなことだと思います。
自分を承認し、相手を承認できる幸せ。
息が詰まると
12-16,2018
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息が詰まるって、
映画で恐怖シーンを見た時とか、
いろんな場面があると思いますけど、
人間関係で息が詰まるなんて情況は、
不幸なことだなあと思います。
だいたい、人間関係で息が詰まる場面って、
素直に自分が表現できるような、
楽しく和やかな雰囲気とは正反対ですよね。
ですから、
自分の喜ばしい気持ちが表現できて、
そのことによって座が和むなんて場面では、
ほんとに幸せが感じられますね。
うれしい気持ちを出し合える雰囲気は幸福。
今が楽しい
12-15,2018
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日々、あんまり忙しくて、
ブログを更新する余裕がありませんでしたけど、
今朝はちょっと書く時間がとれました。
まあ、多忙とは言いましても、
自分が「したいことをしてる」結果ですから、
ちっとも悩ましいわけではありません。
そうですねえ、人は、
「今が楽しい」っていう情況ですと、
「幸せ」ってことだと思います。
でも、その、「今が楽しい」ってことが、
感じられない人生を送る人もいることでして、
そうなると、苦しい毎日ってことでしょうね。
「今が楽しい」と感じられるのは幸せ。
台風で倒木
10-01,2018
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今朝起きてみましたら、
陽光桜が倒れて寝てました。
紅侘助も、タラの木も倒れてました。
侘助は起こし、タラは切りました。
問題は桜の木で、
重くて起こせません。
しかたなく、幹を3本切って、
起こすには起こしましたけど、
根も切れてるし、
切り口から菌が入るだろうし、
ですから、無事に枯れることなく、
再び樹勢を取り戻すかどうか疑問ですが、
一応、立ててみたのが今日の写真です。
果報は寝て待つのも幸福な態度かな。
嫌なことがない
09-30,2018

登美丘高校ダンス部のことを、
おとといに続いて、今日も書きます。
ある上級生が言ってました。
「ダンス部に入って、
まだ、なんか、
『嫌や』と思ったことが一度もない。」
ああ、それはすばらしいと、
私は思いました。
そう言えば、私だって、
嫌だと思ったことなんて、
一度もないっていうグループ活動が、
今まで、数々ありましたね。
そういうの、ほんとに幸せだと思います。
そして、嫌じゃないとか、さらに、
好きになれるっていうのは、やっぱり、
人間関係によるところが
大きいんだと思います。
人間関係が良いのは幸福の源ですね。
けなげな幼苗
09-29,2018
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今朝は雨なんですが、これから、
台風が来るっていう予報です。
それで、昨日、降らないうちにと思って、
夕刻まで除草作業をしました。
忙しさのあまり、今年は一度も、
雑草の除去作業をしなかった斜面です。
でも、苦労して植えた藪椿の実生幼苗が、
ずっと気にかかっていたのです。
それで、写真のような幼苗を発見して、
心が動きました。
薄暗くなってきた時間でしたから、
フラッシュ撮影しました。
近頃伸びたと思われる若葉の部分が、
緑色じゃなく、赤みがかっていました。
草に覆われて暗い中でしたから、
緑色になれないんだと思いました。
それで、今日の標題を、
「けなげな幼苗」としました。
そして、このまま悪条件が続けば、
この幼苗、育つことができずに、
枯れちゃって終わりなんでしょうね。
そして、人間も、
自分の置かれている環境って大切だし、
幸不幸も、
置かれている環境に大きく左右されると、
ほんとに思ったことでした。
人間関係が良い環境って幸せですね。
笑って踊る
09-28,2018
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NHKBSで、
「勝敗を越えた夏~ドキュメント
日本高校ダンス部選手権」というのを、
途中まで見ました。
出場校のうち、登美丘高校のことなんですけど、
上級生が新入部員に対して、
次のように語るシーンがありました。
「笑って踊って欲しいです。」
ああ、いい言葉だし、ホントですね、
・ ・ ・ って、私は思いました。
「笑って踊る」ことが一番だし、幸福と思います。
良いと悪いとは
09-27,2018
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今年の夏は暑すぎて、しかも雨が降らず、
植物もやっと生きていたんでしょうか?
・ ・ ・ なんて、昨日書きましたけど、
でも、その同じ条件によって、
蚊がいなかったし、
木に害虫が大発生することもなく、
数年前、庭の桜の木が、虫害で、
全部葉を落としたことがありましたけど、
今年は全く無事でしたし、
アメリカシロヒトリがついた桑の葉や柿の葉を、
折り取る駆除対策も、
簡単に,数回で済みました。
暑くてひどい夏でしたけど、
良かった点も少しはありましたね。
悪いことを「全部無くそう」としなくても・・・
環境が良いと
09-26,2018
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この数日、庭の植物が元気です。
ムクゲは重いほどたくさん花をつけ、
枯木同様だったブナが芽吹いて葉をつけ、
柿の木も楓もアジサイも、
新しい葉を出しました。
今年の夏は暑すぎて、しかも雨が降らず、
植物もやっと生きていたんでしょうか?
人も、良い人間関係に恵まれると、
楽しく、喜ばしく、
幸せに過ごせますね。
良い環境にいられる幸せを思います。
現実を大切に
09-25,2018
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私たちが楽しい時間を過ごしたり、
他の人と喜びを共有するのも、
「現実」に体験することであって、
空想や幻想の中ではありませんよね。
だから、「現実」というものを、
大切にしなくちゃ ・ ・ ・ といます。
昨日、
「完璧さ」ってことに触れましたけど、
「完璧さ」というのは、
現実にあることはなく、
私たちが頭の中に思い描く幻想だと、
私は確信しています。
それで、「完璧でありたい」とか、
「完璧を求める」っていうのは、
現実を離れた絵空事だと思うんですね。
そして、「完璧さ」という幻想を、
現実の中に求めようとしたら、
その人は、不幸を得るほかないと思います。
なぜなら、「無いものを求める」からです。
現実を大切にすることで幸せが ・ ・ ・
できる範囲で
09-24,2018
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好きな稽古事で、
「上手になりたい」のに、
なぜか、今、
「する気がおきない」とか、
「したくない」ってのがいつものことで、
・ ・ ・ それで、結局、
「しないで終わっちゃう」自宅での稽古。
まあ、それでも、
お師匠様の前で破綻しないという不思議、
もちろんそれ、お師匠様が、
「完璧さ」を要求しないからであって、
人生、長いから、「少しずつでいい」と、
私はそんな思いになって、
だから、「できる範囲で」すればいいと。
高望みしないと、心に余裕でいいですね。
目の前にいる人
09-23,2018
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今、目の前にいる人といっしょに、
うれしく過ごせる ・ ・ ・ ってことは、
とても幸せなことだと思います。
そして、今いっしょにいる人が、
「自分の思うとおり」であるようになんて、
もし、願ったとしたならば、
そういう願いこそ、
人を不幸に陥れたり、
悪魔の道に引き入れる心情だと、
私は思います。
あの、「このような自分」でいいのであって、
だから、相手の人も、
「そのような人」であることに好感がもてる、
そういうのが、幸せな心情なんですよね。
「ありのままを喜べる」という幸せ ・ ・ ・
今を楽しむ
09-22,2018
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「今を楽しむ」ように日々を過ごす、
・ ・ ・ っていうことが、
毎日を、
幸福に生きていくことにつながるんだと、
それは、いつも思ってることですが、
簡単なこと過ぎて、
今まで書いてなかったかも知れませんので。
「楽しく過ごそう」という気持ちも大切。
ブログタイトル変更
05-27,2018
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前回のブログに、
「自分が思うように生きられるのは幸せ。」
・ ・ ・ と書きました。
その後、話の続きを書くつもりでしたけど、
日々、することがたくさんありすぎて、
ブログを書く余裕がありませんでした。
また、「続きを書く」ことにこだわると、
その時その時に思うことを書くことが、
できなくなります。
それで、ちょっと方向性を変えまして、
ブログのタイトルも変えまして、
「幸せに生きてる」んだし、それは、
「自分が思うように生きてる」からなので、
その日その日に思うことを、そのつど、
好きなように書くことにしますけど、
でも、今までとあんまり変わらないです。
さて、
「自分が思うように生きられる」のが、
幸福なことですけど、だからこそ、
他人に対しては、
その人の思いと生き方を尊重すること、
まずそれが、社会生活では、
基本的に大切なことだと思いますし、
世の中、そうでなければ、
互いに楽しく生きることが、
難しくなると思います。
自分を大切に=他人を尊重する
ある人の食事作法
05-12,2018

昨日の続きを書きますけど、
ウマールさんが、
400円のコロッケ定食を食べる、
その、風変わりで特殊な食べ方です。
(1)ご飯にしょうゆをかけて食べる。
あの、しょうゆをかけただけで、
ご飯を全部食べ切っちゃいます。
(2)味噌汁だけを全部一挙に飲み切る。
(3)キャベツの千切りを食べる。
(4)コロッケを食べる。
ウマールさんは、このコロッケ定食を、
「コース料理」と考えているそうでして、
だからこそ、順番に食べるんでしょうね。
ところで、
ご飯にしょうゆをかけて食べることから、
私は、戦前の阪急梅田百貨店での、
ソーライスの話を思い出しますけど、
それはまた、後日、書きたいと思います。
さて、ウマールさんは、
自分独自のやり方で、
コロッケ定食を食べるんですけどね、
「自分のしたいように」できることは、
ほんとに幸せなことだと思います。
あの、世の中、
「自分がしたいように」は、
できないことが多くありませんか?
まあ、そうした制約が多いというのが、
社会生活なのかも知れませんけど、
だからこそ、「思うように」、
自分流が貫けることの幸せを思います。
自分が思うように生きられるのは幸せ。
良い人間関係
05-11,2018

社会生活では、
「良い人間関係」ってこと、
大切だと思いますし、
人間関係がうまくいくってことは、
幸福の条件じゃないかと思います。
それで、「良い人間関係」のモデルを、
数日前、テレビで見ました。
「YOUは何しに日本へ?」
という番組の特別版かと思いましたが、
イギリスから来日した、
ウマールさんという男性が、
足利(栃木県)まで、
コロッケを食べに行きまして、そこは、
惣菜と弁当の店兼食堂みたいでしたが、
店主の人柄と態度に、
私は感動してしまいました。
こういう人が世の中にいっぱいいたら、
どんなに幸せだろうかと思いましたが、
明日は、
ウマールさんの食事のしかたが、
あんまり変わっていて独特だったので、
そのことを書きたいです。
良い人間関係は、幸せの源と思います。
今を楽しむ
05-10,2018

このブログでは、ヴェルディの歌劇、
「ナブッコ」の話を、
何度か書いてきました。
それで私は、歌劇を聞く(見る)とき、
ストーリー展開を追うなんてことは、
全くいい加減にしてまして、
それより「歌を聞く楽しみ」のほうが、
大きいんですよね。
ですから、ナブッコ第3部で、
劇の進行を中断して、
ヘブライの捕虜たちの合唱が、
二度歌われるなんてことは、
とにかく歌が感動的なので、
繰り返し聞けるのは喜びですからね、
二度聞けたらうれしいことでして、
同じように人生もまた、私としては、
望ましい展開なんてストーリー性を、
ほとんど考えてませんで、
そんなことより、今、幸せが喜べる、
そういう状況を生きられるのが良くて、
でも、そういう生き方を批判する人も、
世の中には多いでしょうねェ、
なにしろ、
「人、遠き慮りなければ、
必ず近き憂いあり」と言われますから、
私の態度なんてのは、
ダメな態度なんでしょうねえ。
また、私のような考えや生き方では、
現代社会は、
うまく回っていかないんでしょうね。
ああ、だからこそ、現代社会は、
ストレス社会なんでしょうか?
さて、それはそれとして、私としては、
心優しく温かく、おだやかな気持ちで、
「今」を楽しめる生き方なんてのは、
とっても幸福だと思いますけどね。
「憂いあり」と断定するのは幸福の放棄。
筋書きづくり
05-09,2018

世の中には、
「筋書きづくり」をして生きる人って、
多いのかも?
・・・って思いました。
どういうことかと言いますと、
自分は○○を成し遂げたいとか、
あるいは、自分の子は、
○○の学校に行かせ、
○○の職業につかせ、
○○の地位を獲得させるとか、
そういうシナリオを創作して、
自作のシナリオに合わせて、
人生を歩もうとする人ですね。
まあ、私は、そういうやり方は、
好きじゃないんで、
どうしてかってことは、
明日書ければと思います。
でも、結論的なことを言いますと、
プログラムをあらかじめ決めちゃうと、
その場その場で起こってくる、
「今の感情」を無視しちゃうってことが、
多くなるだろうと思いますし、
そうであればつらいことですし、
結局、自分で自分の首を絞めるみたいな、
哀れなことになる恐れが、
絶対あると思うからです。
今の思いや感情を大切にできたら幸福。
普遍的な感動
05-08,2018

「歌劇を見る楽しみ」の中には、
「歌を聞く」喜びもあると思います。
でも、歌を聞くだけなら、
「歌だけ」の演奏会でも聞けますけど、
でも、歌劇で聞く歌というのは、
「歌だけ」を単体で聞く喜びの他に、
ドラマの中でこそ意味を持つ歌として、
ドラマ展開の中でですね、
歌の意味を味わって聞けるという、
歌劇ならではの楽しみもあると思いまして、
ですから、「歌を聞く喜び」が、
一層、増すという面もあると思います。
ストーリー展開の中で聞くわけですから。
でも、そういうストーリー展開も、
さらに「歌の意味」すらどうでもよくなり、
メロディーの美しさに酔えるってことも、
歌劇ではあるわけなので、
ストーリーを離れての、
そういう聞き方もすごくいいし、
喜びだと思います。
つまり、歌劇においては、
劇中でその歌が歌われる「意味があって」、
だから、そのストーリーの中でこそ、
意味を持つし、生かされる歌なんですけど、
でも、それにもかかわらず、
「劇を離れて」も、
単体で感動できる歌もありまして、
まあ、すばらしいものですね。
さて、別の話をします。
人の行動は、その場で何か意味があって、
だからこそ行われる行動だと思いますけど、
でも、その場を離れ、全く無関係の場でも、
「その行動自体」が人を感動させることも、
実際にあると思う私でして・・・
あの、そういったこと、
今日は説明の言葉が足りませんで、
思うように表現できませんでした。
態度や行動が感動的だっていうのは幸せ。
幸せな人間関係
05-07,2018

すでに書いておきました記事を、
今日は掲載しますけど、でも、
今日思いましたことは、
「自分がうれしく、
喜びのうちに生きられる」ってことが、
結局は、他の人との関係でも、
幸せな関係が築けるってことでして、
でもまあそれは、また別の機会に、
詳しく書きたいと思います。
さて、以前に書いた記事の続きですけど、
パタゴニアで家に客が来た時の、
マテ茶の供し方のことなんです。
テレビで見た限りでは、
主人がマテ茶を容器に作り、
吸い上げる道具を使って主人が飲んで、
次に、それを客に手渡すんですね。
ですから、客は、主人が飲んだ容器から、
主人が使った吸い上げ道具で、
飲むことになるんですね。
ところで、日本の茶の湯なんですが、
濃茶をいただく場合は、
自分が飲んだ飲み口を「拭いて」から、
次の客に渡しますから、
「同じ茶碗」から、
「同じ茶」をいっしょに飲むといっても、
「口を付けた部分」を、
飲んだ後に「拭く」というところが、
マテ茶と異なる点だと思いますけど、
そんなことはたいした差異ではなく、
「同じ器から同じ飲み物を共に飲む」
・・・という点では同じだと思いました。
また、茶の湯での懐石、
その杯事においては、
相手の盃を乞うて、
相手の盃で酒をいただくということ、
つまり、「お流れ頂戴」が行われまして、
この「お流れ頂戴」は、
濃茶を一碗から共にいただくことよりも、
もっと濃密な関係だと思いますけど、
話が脱線して逸れすぎますので省略します。
それで、そういうことができるって、
例えば相手の人が「大嫌い」だったら、
不可能じゃないかと思いますから、
相手を「受けいれる」気持ちがあるって、
私は感じました。
そして、「回し飲み」のようなことが、
社会的に行われてるってことは、
人と人との分け隔てを、
あんまりしない世の中なんだろうと、
そんなふうに考えていいかなあって。
ところで、先日、
大奥に関するテレビ番組を見ましたが、
生まれた若君様(赤ちゃん)に、
お乳を与える役の女性ですけど、
若君様の尊顔を拝するなんて、
低い身分の女性にとっては、
畏れ多いってことなんでしょうか、
顔を布で覆うようにさせられて、
若君様を見ないように授乳したとか、
びっくりする話が紹介されてまして、
まあそれほどに、お乳をあげる女性と、
赤ちゃんを「分け隔て」するという、
それは、何と不幸な社会なんだろうか、
酷な環境なんだろうかと思いました。
私が赤ちゃんだったとしたら、
覆面の女性からお乳をもらうなんて、
嫌だと思うんですけどね。
ところで明日は、
「ナブッコ」の話に戻りまして、
続きを書きたいと思います。
人と人とを「分け隔てない」のは幸福。
お客様と楽しく
05-06,2018

この連休中、お客様があったりで、
ブログを中断してしまいました。
それで、お客様が見えたとき、
どんなふうにするのがいいかってこと、
普段は全く無意識でしたけど、
今回、改めて考えてみました。
私が思いますところでは、
「すばらしいおもてなし」をするより、
「自分が」ですね、
お客様といっしょに、
「楽しく過ごす時間が持てる」という、
その喜びが享受できるよう、
そういう気持ちで接するのが、
一番かなあって思ったことでした。
あの、拙宅でのことですから、どうせ、
「すばらしいおもてなし」なんて、
不可能なんですから、
できないことを、
無理してしようと背伸びするより、
等身大の自分で、
素のままでいいかなあと思いました。
それで、次回こそ、マテ茶の話、
続きを書きたいと思います。
「気が楽」なのって、ほんとに幸せ。
マテ茶の供し方
05-03,2018

昨日予告したのとは違う内容を書きます。
それは、パタゴニアでのマテ茶の飲み方を、
テレビで見たからです。
客として他人の家を訪問した時、
テレビで見たようにして茶を供されたら、
現代日本の人の中には、
「嫌がる」人が多いんじゃないかなあと、
想像したものですから、
その話題にしてみました。
まあ、パタゴニアに限らず、
アルゼンチンチンには、
そういう茶の供し方というか、
あるいは作法というのがあって、
テレビで初めて見ましたけど、
茶の湯での「濃茶」の作法と、
考え合わせちゃうことでした。
今日は時間的余裕が無いので、
これくらいにして、
明日、続きが書ければと思います。
茶の湯の濃茶作法に良さを感じる私です。
再びまた歌う
05-02,2018

私は、ワーグナーが大好きですけど、
観客の拍手が鳴り止まず、
再びその歌を「もう一度」なんてことは、
想像できませんし、第一、そういうことは、
ワーグナー自身が意図することではないと、
私は想像します。
それで、ワーグナーを聞くときの心構えは、
おのずと、他の作曲家の作品を聞く時とは、
「異なる」んですよね、必然的に。
でも私は、例えばヴェルディも大好きで、
昨日書きました「ナブッコ」第3部、
ヘブライ人の捕虜たちの合唱なんか、
もう、心に染み入る感動の音楽でして、
それを聞きたいばっかりに、
ナブッコ全曲を聞くハメになるわけで、
じゃあ、その合唱部分だけ聞けば、
それでいいじゃないか・・・って、
そういうことでは全くないんですよね。
あの、「ナブッコ全曲を聞く」中で、
その部分があるっていうのがいいわけで、
「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」
とか、
「行け、思いよ、金色の翼に乗って」、
また、金色じゃなく「黄金の翼」とか、
そんなふうに邦訳される歌い出しの合唱、
それが、「劇中で」歌われるのが良いので、
たとえば歌劇とは無関係の演奏会で、
ヘブライ人の合唱部分だけが演奏されるの、
それも、感動は感動なんですけどね、
でも、でも、でも、
ナブッコの劇中で演奏される、
それがいいんであって、しかもですね、
「劇を中断して」、その歌だけを、
劇の進行なんか無視して、
感動のあまり、もう一度歌われるっての、
それ、すごくいいなあと思いますけど、
テレビで見ても感動ですから、
実際見ていた観客には、
さらに感動だったことだろうって、
想像しました。
この続き、また明日にします。
歌を聞いて感動できるのも幸せですね。
捕虜たちの合唱
05-01,2018

https://youtu.be/xgMmBF5_EBs
上記で、ヴェローナ野外オペラ2017、
「ナブッコ」の第3部で歌われる、
ヘブライの捕虜たちの合唱を、
聞くことができます。
私は、テレビで、
ヴェローナでのナブッコ上演のうち、
去年のが放送されることを、
放送直前に知りましたので、
チャンスとばかりに・・・見ました。
特に、捕虜たちの合唱が良かったです。
・・・と言うより、
捕虜たちの合唱が聞きたいばっかりに、
ついでに他の部分も聞くと言うのが、
偽らざる心境です。
さて、その合唱は、
2回繰り返されて上演されましたが、
上記の動画には、最初の1回が、
記録されています。
なぜそんなに良かったのか、
また、感動したかということは、
明日、書きたいなあと思います。
音楽の喜びでも幸せ感って起こりますね。