# 絵画の存在論
岸田龍平論(1)ー <絵画>と<抽象>の始まりについて
ここに、岸田龍平から手渡された2006年10月19日という日付のある「絵画」についての論考「フレームについての覚え書き」がある。さらに、2008年3月3日にノートされた「絵画の4つのベクトルについて」、続いて2009年4月27日の「線の可能性と絵画について」、それから2012年9月9日という最新の日付のある「私のフォーマリズム的絵画論」と題された論考「視覚的イリュージョン」および「システムとしての絵画」がある。
どれもその都度、岸田本人が論じなければ「自分自身の気が済まないテーマが選ばれて論じられている」ということがわかる力のこもった論考だ。(岸田龍平の絵はこちらから。)
それゆえ(と言ってもいいだろう)、ここで私などがヘタな解説をするよりも、岸田龍平本人の「絵画についての論考」を読んでもらう方が、よほど当を得た解説になるにちがいない。なぜなら、絵画にむかって「絵画」を描いてきた本人が、のっぴきならない意志を持って「絵画」にこだわる自分自身の理由と「絵画」にこだわることで拓けてくるであろう(と岸田が信じている)「新しい思考と視覚の世界」の成り立ちを、あえて「言葉」(文字)で明らかにしてくれているからだ。そんな貴重な「言葉」による思考の手仕事を、私は岸田龍平から直接手渡されたというわけだ。
「絵画と言葉」・・・
ところで、あの『野生の思考』を著したレヴィ=ストロースが、ジョルジュ・シャルボニエのインタビューに答えてこんなことを語っている。(L=S:レヴィ=ストロース、G・C:ジョルジュ・シャルボニエ)
L=S :つまるところ、ーここで民族学者が権利をとりもどすのですがー絵画は文化の
一つの不変の様式ではありません。社会は絵画芸術なしに完全に存在しえま
す。
そこで、私たちに考えうるのは、抽象絵画なきあとは・・・
G・C ー:もはや絵画はないであろうと?
L=S : 無絵画時代を告知する、一種の完全離脱というような。
G・C : それを考えている画家たちを私は知っています。・・・
L=S : この分野において明日何が産み出されるか、想像もつきません。・・・来るべきも
のはその消滅に先立つ絵画の解体、崩壊なのかもしれません。あるいは我々が現に
生きているこの一種の中世が一つの新しい出発を準備しているのかもしれません。
この中世という語に私はいささかも貶辞的な含みをもたせていませんが、しかしそ
の語を用いた理由は、抽象画家の探求と理解のなかには中世的思考の或る様式に多
少似通ったものがあると思われるからです。霊的認識(グノーシス)へ向う努力、
すなわち科学を超越する知識へ、超言語(パラ・ランガージュ)かもしれぬ一つの
言語へ、向う努力がそれです。
(ジョルジュ・シャルボニエ=G・C:インタビュー「絵画の未来」
『レヴィ=ストロースとの対話』1970年)
やや唐突に、ここでレヴィ=ストロースが語っている「中世」とか「霊的認識」(グノーシス)(注1)の言葉のイメージは、岸田龍平の絵画を批評するにはまったくそぐわない言葉のように思われる。たぶん今日の多くの抽象絵画を試みている作家も、自分たちの作品をこんな言葉で批評されたらたまったものではないだろう。それだけ、これらの言葉のイメージはアナクロニズムな響きをともなって私たちの前にある。
しかし、あのレヴィ=ストロースがあえて「中世」という言葉をえらび、「霊的認識」(グノーシス)とか「超言語」(パラ・ランガージュ)とかの概念で語ろうとしたことはなんなのか?一見精神世界的な言い回しに聴こえるこれらの言葉の内実を自分なりに受けとめて別の言葉に置きかえてみるとどうなるか?
たとえば私なら、「霊的認識」(グノーシス)を「直観」に、もしくは「呪術」という言葉に、「超言語」(パラ・ランガージュ)を「概念像(図)」(言語で言語自身の<意味的な限界>を超えようとするときに現れる<概念の像化>)という風に置き換えてみる。するとこんな言い方で、私たちは「絵画」のどのような「事象」に当面していると言いたいのだろうか?
私たちが当面しているのは、「中世」を遥かに超えた「絵画の始まり」と「絵画の終わり」の<臨界の場面>だ。あるいはレヴィ=ストロースがあえて「告知」した<終わり>が<始まり>であるような「超言語」(パラ・ランガージュ)、奇しくも吉本隆明が「パラ・イメージ」(注2)という概念を使って解き明かそうとした「なぜ言葉の記述が図面(図形)に転換できるか」の問題に私たちは当面している。それは言いかえれば、「絵画」という言葉ならざる表現態をあえて「言葉」(概念)に「転換」して見せようという試みの問題でもある。「絵画」に<人生>があるとして、その絵画の人生の、つまりは「絵画」という人類史の、なにものかにむけて志向された「内側」と「外側」の<境界>の始まりに内在する<思念(概念)>の始まりに当面しているのだと言ってもいい。
そこで私たちは<問いの始まり>の順序として、これまでのところ人類が辿りついているであろうと思われる<絵画の始まり>の場面に赴いて見ることにする。
「絵画の始まり」・・・
実は「絵画」に限らず、人類の様々な「もの」や「こと」の<始まり>を確定することは難しい。「難しい」というより、それは「不可能なことだ」と言っていいかもしれない。「そのこと」は当然遺跡として残ることは不可能だし、「そのもの」が遺跡として残っていたにしても、「そのもの」が最初の「そのこと」の<始まり>であるとは確証し得ないからだ。最初の「そのこと」の<始まり>である「そのもの」は、腐ったり、酸化したり、風化してもうこの地上には遺物としては残っていない可能性がある。私たちが手にしうるのは、とりあえずの<始まり>の「そのもの」であり、「そのこと」の<始まり>についての仮説である。
と言っても、<そのことの始まり>の検証を始めるために、最新の(と思われる)情報にアクセスしてみることにしよう。ネットで検索してみるとこんな記事が現われた。
「ショーヴェ洞窟(仏:Grotte Chauvet)は、フランス南部アルデシュ県の Vallon-Pont-d'Arc 付近にある洞窟。現存する人類最古の絵画であるショーヴェ洞窟壁画で知られる。現在、知られるものでは最古と思われる約3万2000年前の洞窟壁画で、1994年12月18日に3人の洞穴学者 Jean-Marie Chauvet, Christian Hillaire, Eliette Brunel-Deschamps によって発見され、洞窟壁画の開始時期を大幅に遡らせた。ショーヴェ洞窟は発見者の Chauvet にちなんで名づけられた。ただし、絵の年代については論争となっており、これまで見つかった洞窟壁画(1万5000年前のラスコー洞窟など)よりも相当古いものとして発表されたため、宣伝目的のために、絵の描かれた年代が誇張されたと考える人もいる。」
(Wikipedia:すこしばかり圧縮して記載)
私たちは考古学者たちの「発見の手柄」の競争に付き合うヒマはないし、どっちがどの程度古いのかどうか、ここでの論点からするとさして問題になるとも思われない。「ショーベ」の方が古いのか「ラスコー」のほうが古いのか、あるいは「アルタミラ」の方が古いのか、いずれ精確な年代測定法で決着がつけられるだろう。しかもどうやら「ショーベ」の洞窟壁画が3万2000年前の絵画だとすると、それはクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)によって絶滅させられたのではないかと推測されているネアンデルタール人の手になるものだ、という別の論争の種も撒かれている。が、そんな論争は考古学者に任せるとして、私たちはとりあえずこの辺り(3万2000年~1万5000年前頃)の「洞窟壁画」を人類の「絵画の始まり」とみなすことにする。(これ以後に新しい発見があれば、そのとき考えればよい。)
そこで私は、「いつ」「誰が」この絵を描いたのか?というより、「どこに」「なんのために」この絵が描かれたのか?ということの方に「絵画」を見る視点を移してみたいと思う。
「どこに」・・・「なんのために」・・・
「どこに」ということで言えば、いずれも「洞窟の壁面」ということになる。この「壁面」には、岸田龍平の言う「フレーム」は存在していない。<始まり>の絵画には「フレーム」はなかったのだ。(注3)
しかし「なぜ洞窟なのか?」ということをめぐっては、「洞窟」という場所でなければならない限定的な理由があるとする説(「秘儀」もしくは「呪術」を行う「聖所」あるいは「霊所」説)がある一方、それだけでは説明できない壁画も多数存在しており、いろんな理由があって洞窟に描かれたのではないか?という説もある。どうやら今のところ、後者の説が無難な説のようだが、私自身は生きた(あるいは生きていた)実在の動物(それが槍や弓矢で狩りをされている動物であるにしろ、ただ立っている歩いている動物あるにしろ)をあえてその動物の姿に似せて(類似させて)<絵を描く>(線で象り、彩色する)というまさに絵画的な表現行為そのものが、当時の人類の祖先たちの、自分の心の感情を表出(自己表出)した、そして日常よく見る対象を指し示すという対象指示的な思念(指示表出)の現われだと理解したい。
この自己表出をともなった指示表出的な<思念の志向性>は、いみじくもあのレヴィ=ストロースが示唆した「霊的認識」(グノーシス的秘教)に通じる「呪術」であってもいいし、まだ「文字」を発明していない人類の、自分たちの<心>に発生した「眼に見えるものの内にある、眼に見えないなにものかを志向するイメージの形成」(さまざまな動物たちの「かたちの不思議さ」や自分たちと同じような「生命をもつことへの畏敬」あるは「生活のために欠くことのできない貴重な食料(生存エネルギー)」というような「生物生命的な概念のイメージ」)を<共有>するための「超言語」(パラ・ランガージュ)すなわち「絵画」を媒体とした<表現>だと受けとめることもできる。
その意味では、「ショーベ」にしろ「ラスコー」にしろ、あるいは「アルタミラ」の壁画にしろ、それらの洞窟の壁面に描かれた絵画は<意図された絵画の始まり>と言っていいだろう。そして、どの「洞窟絵画」もすでに「線」や「色」によるある<抽象>のレベル(背景を<捨象>し、現実の動物の動きや形だけを<抽出>し、<類似>させて描くという意味での抽象表現)がなされている。<始まりの絵画>の抽象のレベルは、<類似>(抽象の具象化)という段階にある<意図された表現の始まり>でもあったのだ。(ただし、この時点での人類の思考力には、「抽象」という概念についてさらに抽象的に思考し、掘りさげる能力、つまりは「自己言及的な思考力はない」と言っていい。)
ところで・・と、ここでひとつの疑問が湧き起こってくる。「洞窟壁画」を描く以前に私たちの祖先は<抽象>する思考能力をすでに獲得していたのではないか?という「そのこと」(抽象すること)の起源についての疑問だ。
この疑問に答えてくれる小さな「そのもの」=「土塊」が一片、ここにある。それは、およそ7万5千年~7千年前の南アフリカの洞窟で見つかった「オーカー」(クリックすると「オーカー」の記事と写真が見れます)といわれる粘土状の土の塊だ。(注4)そこには、何に似せようとしたのか、あるいはなにを表象しようとしたのか、たぶん誰も見当のつかない線条の幾何学模様らしきものが描かれている。それはちょうど、岸田龍平が描く「抽象化された直線群」のいくつかのパターンと類似したパターンを形成しているようにも見えるものだ。
そこで、この「オーカー」の抽象的な幾何学模様と岸田龍平が描く抽象的な幾何学模様を
見比べてみることにする。そこになにか共通する<抽象>の類型(パターン)が見出せはしないだろうか?
「抽象の始まり」・・・
<抽象>の「最初」について、吉本隆明はこんな見解を披瀝している。
「すべての<変形>のはじめには、並行して描かれた<直線>の群がやってくるとおもわれ
る。これがもし事実ならばかなり不思議なことである。人間が未明の時期に接触した<自
然>のうちで、直線的なものの数は、不定形なものの数にくらべて比較にならないほど少
ないはずである。さらにはっきりいえば直線的なものは、ほとんどとるにたりない数しか
みつけられそうもない。
もしそうだとすれば、並行して描かれた<直線>は、あらゆる<自然>の対象物からの最
初の<抽象>を意味している。」
(吉本隆明「眼の知覚」『心的現象論本論』 2008年)
ここで、吉本隆明は<抽象>についてある意味で独特の解釈を行っている。「並行して描かれた<直線>」が、「あらゆる<自然>の対象物からの最初の<抽象>」だというのだ。何が「独特」かというと、<並行>という概念の獲得が、たぶん吉本隆明は、古代人が<整合性>という観念を獲得した証だとみなしているように思われるからだ。そこでは(いくらか私の解釈も加味して言えば)、ある<秩序>を表わすために曲がりくねった曲線ではなく、地平線の横への直線性の読み取りや立木の縦への直線性の読み取りなどを通じて「直線というイメージ」を獲得したということ、そしてこの「直線のイメージ」の組み合わせで「閉空間」という<内側>のイメージを共有できることや(ということは<外側>の共有でもある)、「直線」を組み合わせることで一種の<錯視>としての「立体のイメージ」も創出することができることに古代人は気づいている、ということが論じられている。
この吉本隆明の「自然」の<変形>としての<抽象>の論議には、7万7千年前の古代の人類の<抽象>のレベルと、まさに「岸田龍平」というひとりの人類の、現在の<抽象>のレベルの異同を読み解く手がかりの一端が示唆されている、と私には思われる。
<斜めの平行線>は、7万7千年前の「オーカー」の表面にも、パネルをつないだ岸田の「麻のタブロー」の、ある作品群に見られる共通した「直線の組み合わせ」のひとつだと言っていい。そして「オーカー」の<斜めの平行線>には、吉本が指摘する「閉空間」を創出するように上下に引かれたふたつの「直線」がはっきりと見える。これは岸田龍平がみずから認める、現在の「絵画」が「絵画」として成立するための「フレーム」を、「内側」と「外側」を限る<境界>への気づきの証でもあると、私たちは認定することもできる。
私たちはいま、「絵画」の成り立ち(<境界>の設定)の現場に、岸田龍平のいう「フレーム」問題の<初期>に立ち会っているのだ。それと同時に「並行する直線」の表現的な位相のレベル(「内部」という<秩序>概念の位相)が、「古代」から「中世」をさしつらぬいて「近代」へと至る「抽象の象徴性」の出現に、あるいはその「事象」にいま立ち会っている。
「オーカー」に描かれた「上下する直線の組み合わせのパターン」(その結果、菱形や三角形の<内部>を形成するパターン)は、岸田龍平のある作品群にも意図的に取り入れられている。その「ジグザグ」の繰返しの動きで何を暗示しようとしているのか、<生命の躍動感>なのか、<人生の時々の変化の繰り返し>の宿命性なのか、それは見る人によって受けとめ方はさまざまだろう。「細い線」と「太い帯線」の組み合わせで岸田龍平は、なにを示唆しようとしているのだろう?じっと「画面」を追うことで、「空間」のリズム的な変化や「時間」を視覚化するその変化の面白さを楽しむことはできるのだが、それにしてもどうして岸田龍平はこれほどまでに「直線」にこだわるのだろうか?と頭をひねり、その「意図」(意味の図形化)はなんなのかと考えさせられてしまう。
曲線は完全に背景に退いて、あるいは完全に消去されて、「直線」が岸田に固有な<絵画の文体>(注5)のように行動し、運動している。そうして絵画の「筆跡」で、絵画の「枠」を越境しようとしているようだ。またそれは、絵画のタブローそのものを鋭利なナイフで切り裂いて見せたフォンタナの「外部からの手法」とは異なって、あくまでも絵画そのものの「内部からの手法」で<絵画の時空>に亀裂を走らせる、という試みでもあるように見える。(あくまでもそう「見える」のは、<私>なのだが・・・)
私たちは一方で、こんな「原初の抽象」があることも知っている。それは、吉本隆明が「並行して描かれた<直線>は、あらゆる<自然>の対象物からの最初の<抽象>を意味している」と解説したその同じページで採り上げられている「縄文」という、これまた「抽象された曲線」の文様だ。縄文時代がおよそ1万6000年前に始まり、3000年前に終ったと言われていることを考えると、「縄文」といわれる様々な「渦巻き文様」や「曲線の装飾」は「ラスコー」や「アルタミラ」の洞窟壁画よりもさらに古い<象徴志向の始まり>と認めることができるし、なにかを志向し、なにかを共有しようとした<意図的な概念形成の始まり>をもそこに認めることができる。
それにしても、ここで展開された「縄文」の「文様」に対する吉本隆明による解釈は、どちらかといえば、理工系出身者らしく「30度」「40度」「60度」の線分の傾きを<抽出>しているように、近代的な、従って科学的な分析の眼が強く働いている。縄文の「火炎土器」の形状の奇怪さや「土偶」の非人類的な表情の不可思議さや「文様」の渦巻きや波のうねりのような「動きの荒々しさ」、それから柔らかい曲線の「エロス」や「優しさ」のようなものには触れてない。たぶんそれは関心がないのではなく、吉本隆明も岸田龍平も共通して、ル・コルビジェに見られるようなモダンな直線の視線で<抽象>の初期を捉えようとしているからだと思える。そのことはある意味で、岸田龍平が「近代」に生きる画家としての<倫理>(自分を誤摩化さないという自負)をみずからに課した姿勢と受けとめることもできるし、「モダンでモダンを乗り越える」という課題をみずからに与えた<意志>の現われなのだと理解することもできる。
「直線」の<パターン化>(類型化)の意識と「曲線」の<パターン化>(類型化)の意識のどちらが、人類の<抽象>の始まりであるのかの検証は今後の課題にすることにして、そういうことも意識しながら、岸田龍平の「絵画」とその「抽象」の独自性を「眼」の感触と「思考」(言葉)の手触りで味わってみることにしたい。
フレームの「側面」をも境界の<臨界>として意識された画面の構成と、あるときはパターン化し、あるときはパターンを崩し、壊すように仕組まれた「空間」の分割と結合、その画面を思いつくままあちらこちらと辿ることで無意識の内に体験されているであろう「時間」の充実が、私の心を満たしてくれる。
ここに見られる岸田龍平の一群の作品は、直線によるある<類型>(パターン)へのこだわりと、あるひとつの<類型>(パターン>を解き放ち、別の<類型>を創出することで、線と色彩の組み合わせでどれだけの<抽象的な類型(パターン)>が可能なのかを確かめているようにも思われる。絵画における「線」(特に「直線」)というミニマルな表現態の抽象的な存在意義を<具象化>することに岸田龍平は腐心しているのだ、と私の眼は思考する。
結局のところ私たち人類は、<抽象>あるいは<理念>というイメージと<具象>あるいは<現実>というイメージの間で、アンビバレンツに絶えず揺らいでいるのだ。どんな<抽象>かは個々の作家に任せるほかないとして、それを見る私たちの<眼>を思わず釘付けにする、そういう<抽象の迫力>あるいは<抽象の具象力>が「作品」としては問われている。岸田龍平の「抽象された絵画」は、充分にその<迫力>と<具象力>を兼ね備えている、と私には思われた。(どちらかといえば岸田龍平の「細い直線」は繊細さを、「太い直線」の動きは力強さを感じさせる。もちろんそれは「細い刻みの線」で<背景>を、「太い帯の線」で<前景>を創出し、「立体感」を生んでいる。)
ということで今回は、岸田龍平という現在の作家の「絵画」と「絵画の始まり」と思われる太古の「壁画」、そしてそれよりももっと古い年代の「オーカー」(土片)や「縄文」のそれぞれの文様の意義を問うことで「抽象の始まり」について考えてみた。
冒頭に紹介した岸田龍平自身の論考のテーマ、「フレーム」・「線」・「絵画のベクトル」・「フォーマリズ」などのうち、わずかに「フレーム」の<意味>を問う視点と、岸田の論考「線の可能性と絵画について」の「線」の<抽象の初期>について、そして7万7000年前の、あの「オーカー」の<抽象>力の獲得と、その展開・累積があってはじめて可能となったであろう<絵画の初期>としての「洞窟壁画」について、その<自己表出をともなった指示表出的な表現の始まり>(注6)について少しばかりのことを示唆したに過ぎない。残された課題については別の機会を得て、私なりに考えてみたいと思っている。
また、西欧印象派からアメリカ抽象表現主義作家たちの個々の課題の歴史的変遷についてはあえて触れることはしなかった。それは私自身の不勉強もあるが、岸田龍平の最初に紹介した諸論考で大方のところは論じられていると思えたからだ。ただ、岸田が最もこだわった「ミニマル・アート」の<ミニマル>という概念は、これからの人類の文明的なあり方を問う貴重な概念になるのではないか?と私自身は密かに思っている。これから人類は、環境や経済の問題、エネルギーの生産とその消費、そしてなによりもあらゆる生命存在とどう向き合って行くのかという<生き方の最小の倫理が最大の倫理であるような倫理>をたえず模索しながら生きていくことになるだろうと、私は推測している。
それにしても、レヴィ=ストロースが語った「無絵画時代」というのはあり得るのであろうか?
* * * * * * *
(注1)「霊的認識」とくに「グノーシス」という非常に秘教的な匂いのする言い方は、ここに引用するのは見当はずれ、のような気もした。が、「グノーシス」という原義が「知ること」を意味すること、「霊的認識」の「霊」は「眼に見えない魂」とか「眼に見えない生命の元」というイメージに置き換えると、それはラスコーの壁画を描いた遥か古代の人間の「認識」に通じるものがあると直観した。この直観を<絵画>と<抽象>にどう繋げるか、それが私のここでのテーマだ。
(注2)「パラ・イメージ」という概念は、吉本隆明が1980年代の終末期(バブル経済期)の<現在>を把握するために展開した、時代の「ハイ・イメージ」を理解するための概念のひとつだ。(「パラ・イメージ論」『ハイ・イメージ論 Ⅱ」1990年所収)この「パラ」という概念の提示は、かつて「化学」の研究者でもあった吉本隆明ならではの着想のように思われる。
ここで吉本は、<オルト>(正規の)・<メタ>(オルトに対し「隣の隣」)・<パラ>(オルトに対し「反対側」)の三つの位相的な概念の位置から、「言葉」(概念=意味)とそれが呼び起こす「イメージ」(想像的な表象像と視覚像に近い創作像)の関係(段階)を読み解こうとしている。通常、語彙的には<オルト>は「正・直」を、<メタ>は「高次・超・間・後」を、<パラ>は「並列」をそれぞれ付加する接頭語として使用されるのだが、<概念>と<像>にまつわる
位相的な語彙として、これらの概念を把握しておきたい。
それから「パラ・イメージ」という概念を使って吉本隆明は、日本では(たぶん世界でも)かつて存在しなかったであろうと思われる島尾敏雄の小説『夢の中の日常』の特異な言語感覚(像)が現れる場面を、実験化学者の細やかな分析の手つきで読み解いて見せる。こちらも一読をお薦めする。
(注3)<始まり>の絵画に「フレーム」がなかった、ということは、それなら「いつ・なんのために」絵画に「フレーム」(「枠」および「額縁」)が施され、「フレーム」の存在が「絵画」の必要条件のように絵画に付随するものになったのか?「持ち運びの便利さ」「室内に装飾される絵画のインテリアへの変身」(権威や地位や富の象徴として)、そしてそれにともなって必然的に広まって行ったであろう「絵画の商品化」など、その理由はいろいろ推測することができるし、「フレーム」(額縁)の歴史について調べてみれば、それなりに面白い事実が浮き上がってくるだろう。
(注4)「オーカー」の存在を知ったのは、海部陽介『人類がたどってきた道』(2008年版 日本放送出版協会)という著書が最初で、その後、三井誠『人類進化の700万年』(2007年版 講談社現代新書)でも取り上げられていた。
海部陽介は、現在の南アフリカの先端にある海辺に近い洞窟から発見されたこの「オーカー」(顔料に利用された土片)に描かれた模様は、「意図して描かれた模様」であり、それは同じ洞窟から大量に見つかった「アクセサリー」(あきらかに「穴」が開けられた「貝製のビーズ」)の発見と考え合わせて、なにかの「シンボル」であろうと理解している。それは、「ホモ・サピエンス」が「抽象的思考・優れた計画能力・行動上、経済活動上、技術上の発明能力・シンボルを用いる行動」を行っていた事例のひとつとして評価している。(海部は、この事例が「ホモ・サピエンス」が「ネアンデルタール人」より優れた知性を持っていた証としても理解している。)
三井誠は、「オーカー」の模様を、例えば現代では「ハト」が「平和」の「象徴」であるように、「平和」という具体的に手にすることのできない「そのこと」を「象徴」表示することができるような「抽象的な思考の芽生え」の事例として捉えている。それは「言語の誕生を示唆する証拠」でもあるとみなしている。
(注5)文芸評論家・江藤淳は、当時としては斬新な文学評論であり、文体論でもある『作家は行動するー文体についてー』(1969年)で、次のように述べている。
「時間は、実は時計の”なか”や、タイム・レコーダーの”なか”にあるものではない。われわれの”外側”にではなく、われわれの”なか”にあるものである。そしてそれはわれわれの行動によってはじめてつくりだされて行く。しかも<文体>は前の章でのべたように文学者の行動の軌跡であった。したがって、文体をかたちづくるということ、文体を完成するということは、作家たちが自分の主体的な行動によって時間をつくって行くということを意味する。逆にいえば、時間をつくりだしていくことに成功しなかった作家、それを外在的なものとしてしかとらえられない作家は、決して真の文体をもつことがなく、当然真の現実に迫ることもない。この関係は正確に相互作用的である。」(角川選書 p32)
一方、岸田龍平は「作家の行為性」について次のように論じている。
「ローゼンバーグが絵画に導入した<行為性>の概念は、同時に<時間性>と<身体性>の概念を絵画に導入したといえる。絵画の生成の過程とその痕跡という形で絵画に時間が介入してきた。そして、身体そのものによって行為が成立し、その身体はまさに世界ー内ー存在であることによって、私(意識)と絵画と世界(存在)を繋げているのである。これらのことは実は再発見されたというべきであろう。行為性は、表現の発生の起源の時から、確実にそこに存在したのだから。」(「絵画の4つのベクトルについて」2008年)
(注6)「自己表出」および「指示表出」という概念は、吉本隆明が初めて体系的に展開した言語表現論『言語にとって美とはなにか』(1965年)の主要概念なのだが、解剖学者三木成夫の『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院 1992年初出)での吉本自身の「解説」を読まれることをお薦めする。「自己表出」と「指示表出」のふたつの概念が、解剖学に基づいた身体生理的な概念とどう構造的に対応しているかが明らかにされている。
ここに、岸田龍平から手渡された2006年10月19日という日付のある「絵画」についての論考「フレームについての覚え書き」がある。さらに、2008年3月3日にノートされた「絵画の4つのベクトルについて」、続いて2009年4月27日の「線の可能性と絵画について」、それから2012年9月9日という最新の日付のある「私のフォーマリズム的絵画論」と題された論考「視覚的イリュージョン」および「システムとしての絵画」がある。
どれもその都度、岸田本人が論じなければ「自分自身の気が済まないテーマが選ばれて論じられている」ということがわかる力のこもった論考だ。(岸田龍平の絵はこちらから。)
それゆえ(と言ってもいいだろう)、ここで私などがヘタな解説をするよりも、岸田龍平本人の「絵画についての論考」を読んでもらう方が、よほど当を得た解説になるにちがいない。なぜなら、絵画にむかって「絵画」を描いてきた本人が、のっぴきならない意志を持って「絵画」にこだわる自分自身の理由と「絵画」にこだわることで拓けてくるであろう(と岸田が信じている)「新しい思考と視覚の世界」の成り立ちを、あえて「言葉」(文字)で明らかにしてくれているからだ。そんな貴重な「言葉」による思考の手仕事を、私は岸田龍平から直接手渡されたというわけだ。
「絵画と言葉」・・・
ところで、あの『野生の思考』を著したレヴィ=ストロースが、ジョルジュ・シャルボニエのインタビューに答えてこんなことを語っている。(L=S:レヴィ=ストロース、G・C:ジョルジュ・シャルボニエ)
L=S :つまるところ、ーここで民族学者が権利をとりもどすのですがー絵画は文化の
一つの不変の様式ではありません。社会は絵画芸術なしに完全に存在しえま
す。
そこで、私たちに考えうるのは、抽象絵画なきあとは・・・
G・C ー:もはや絵画はないであろうと?
L=S : 無絵画時代を告知する、一種の完全離脱というような。
G・C : それを考えている画家たちを私は知っています。・・・
L=S : この分野において明日何が産み出されるか、想像もつきません。・・・来るべきも
のはその消滅に先立つ絵画の解体、崩壊なのかもしれません。あるいは我々が現に
生きているこの一種の中世が一つの新しい出発を準備しているのかもしれません。
この中世という語に私はいささかも貶辞的な含みをもたせていませんが、しかしそ
の語を用いた理由は、抽象画家の探求と理解のなかには中世的思考の或る様式に多
少似通ったものがあると思われるからです。霊的認識(グノーシス)へ向う努力、
すなわち科学を超越する知識へ、超言語(パラ・ランガージュ)かもしれぬ一つの
言語へ、向う努力がそれです。
(ジョルジュ・シャルボニエ=G・C:インタビュー「絵画の未来」
『レヴィ=ストロースとの対話』1970年)
やや唐突に、ここでレヴィ=ストロースが語っている「中世」とか「霊的認識」(グノーシス)(注1)の言葉のイメージは、岸田龍平の絵画を批評するにはまったくそぐわない言葉のように思われる。たぶん今日の多くの抽象絵画を試みている作家も、自分たちの作品をこんな言葉で批評されたらたまったものではないだろう。それだけ、これらの言葉のイメージはアナクロニズムな響きをともなって私たちの前にある。
しかし、あのレヴィ=ストロースがあえて「中世」という言葉をえらび、「霊的認識」(グノーシス)とか「超言語」(パラ・ランガージュ)とかの概念で語ろうとしたことはなんなのか?一見精神世界的な言い回しに聴こえるこれらの言葉の内実を自分なりに受けとめて別の言葉に置きかえてみるとどうなるか?
たとえば私なら、「霊的認識」(グノーシス)を「直観」に、もしくは「呪術」という言葉に、「超言語」(パラ・ランガージュ)を「概念像(図)」(言語で言語自身の<意味的な限界>を超えようとするときに現れる<概念の像化>)という風に置き換えてみる。するとこんな言い方で、私たちは「絵画」のどのような「事象」に当面していると言いたいのだろうか?
私たちが当面しているのは、「中世」を遥かに超えた「絵画の始まり」と「絵画の終わり」の<臨界の場面>だ。あるいはレヴィ=ストロースがあえて「告知」した<終わり>が<始まり>であるような「超言語」(パラ・ランガージュ)、奇しくも吉本隆明が「パラ・イメージ」(注2)という概念を使って解き明かそうとした「なぜ言葉の記述が図面(図形)に転換できるか」の問題に私たちは当面している。それは言いかえれば、「絵画」という言葉ならざる表現態をあえて「言葉」(概念)に「転換」して見せようという試みの問題でもある。「絵画」に<人生>があるとして、その絵画の人生の、つまりは「絵画」という人類史の、なにものかにむけて志向された「内側」と「外側」の<境界>の始まりに内在する<思念(概念)>の始まりに当面しているのだと言ってもいい。
そこで私たちは<問いの始まり>の順序として、これまでのところ人類が辿りついているであろうと思われる<絵画の始まり>の場面に赴いて見ることにする。
「絵画の始まり」・・・
実は「絵画」に限らず、人類の様々な「もの」や「こと」の<始まり>を確定することは難しい。「難しい」というより、それは「不可能なことだ」と言っていいかもしれない。「そのこと」は当然遺跡として残ることは不可能だし、「そのもの」が遺跡として残っていたにしても、「そのもの」が最初の「そのこと」の<始まり>であるとは確証し得ないからだ。最初の「そのこと」の<始まり>である「そのもの」は、腐ったり、酸化したり、風化してもうこの地上には遺物としては残っていない可能性がある。私たちが手にしうるのは、とりあえずの<始まり>の「そのもの」であり、「そのこと」の<始まり>についての仮説である。
と言っても、<そのことの始まり>の検証を始めるために、最新の(と思われる)情報にアクセスしてみることにしよう。ネットで検索してみるとこんな記事が現われた。
「ショーヴェ洞窟(仏:Grotte Chauvet)は、フランス南部アルデシュ県の Vallon-Pont-d'Arc 付近にある洞窟。現存する人類最古の絵画であるショーヴェ洞窟壁画で知られる。現在、知られるものでは最古と思われる約3万2000年前の洞窟壁画で、1994年12月18日に3人の洞穴学者 Jean-Marie Chauvet, Christian Hillaire, Eliette Brunel-Deschamps によって発見され、洞窟壁画の開始時期を大幅に遡らせた。ショーヴェ洞窟は発見者の Chauvet にちなんで名づけられた。ただし、絵の年代については論争となっており、これまで見つかった洞窟壁画(1万5000年前のラスコー洞窟など)よりも相当古いものとして発表されたため、宣伝目的のために、絵の描かれた年代が誇張されたと考える人もいる。」
(Wikipedia:すこしばかり圧縮して記載)
私たちは考古学者たちの「発見の手柄」の競争に付き合うヒマはないし、どっちがどの程度古いのかどうか、ここでの論点からするとさして問題になるとも思われない。「ショーベ」の方が古いのか「ラスコー」のほうが古いのか、あるいは「アルタミラ」の方が古いのか、いずれ精確な年代測定法で決着がつけられるだろう。しかもどうやら「ショーベ」の洞窟壁画が3万2000年前の絵画だとすると、それはクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)によって絶滅させられたのではないかと推測されているネアンデルタール人の手になるものだ、という別の論争の種も撒かれている。が、そんな論争は考古学者に任せるとして、私たちはとりあえずこの辺り(3万2000年~1万5000年前頃)の「洞窟壁画」を人類の「絵画の始まり」とみなすことにする。(これ以後に新しい発見があれば、そのとき考えればよい。)
そこで私は、「いつ」「誰が」この絵を描いたのか?というより、「どこに」「なんのために」この絵が描かれたのか?ということの方に「絵画」を見る視点を移してみたいと思う。
「どこに」・・・「なんのために」・・・
「どこに」ということで言えば、いずれも「洞窟の壁面」ということになる。この「壁面」には、岸田龍平の言う「フレーム」は存在していない。<始まり>の絵画には「フレーム」はなかったのだ。(注3)
しかし「なぜ洞窟なのか?」ということをめぐっては、「洞窟」という場所でなければならない限定的な理由があるとする説(「秘儀」もしくは「呪術」を行う「聖所」あるいは「霊所」説)がある一方、それだけでは説明できない壁画も多数存在しており、いろんな理由があって洞窟に描かれたのではないか?という説もある。どうやら今のところ、後者の説が無難な説のようだが、私自身は生きた(あるいは生きていた)実在の動物(それが槍や弓矢で狩りをされている動物であるにしろ、ただ立っている歩いている動物あるにしろ)をあえてその動物の姿に似せて(類似させて)<絵を描く>(線で象り、彩色する)というまさに絵画的な表現行為そのものが、当時の人類の祖先たちの、自分の心の感情を表出(自己表出)した、そして日常よく見る対象を指し示すという対象指示的な思念(指示表出)の現われだと理解したい。
この自己表出をともなった指示表出的な<思念の志向性>は、いみじくもあのレヴィ=ストロースが示唆した「霊的認識」(グノーシス的秘教)に通じる「呪術」であってもいいし、まだ「文字」を発明していない人類の、自分たちの<心>に発生した「眼に見えるものの内にある、眼に見えないなにものかを志向するイメージの形成」(さまざまな動物たちの「かたちの不思議さ」や自分たちと同じような「生命をもつことへの畏敬」あるは「生活のために欠くことのできない貴重な食料(生存エネルギー)」というような「生物生命的な概念のイメージ」)を<共有>するための「超言語」(パラ・ランガージュ)すなわち「絵画」を媒体とした<表現>だと受けとめることもできる。
その意味では、「ショーベ」にしろ「ラスコー」にしろ、あるいは「アルタミラ」の壁画にしろ、それらの洞窟の壁面に描かれた絵画は<意図された絵画の始まり>と言っていいだろう。そして、どの「洞窟絵画」もすでに「線」や「色」によるある<抽象>のレベル(背景を<捨象>し、現実の動物の動きや形だけを<抽出>し、<類似>させて描くという意味での抽象表現)がなされている。<始まりの絵画>の抽象のレベルは、<類似>(抽象の具象化)という段階にある<意図された表現の始まり>でもあったのだ。(ただし、この時点での人類の思考力には、「抽象」という概念についてさらに抽象的に思考し、掘りさげる能力、つまりは「自己言及的な思考力はない」と言っていい。)
ところで・・と、ここでひとつの疑問が湧き起こってくる。「洞窟壁画」を描く以前に私たちの祖先は<抽象>する思考能力をすでに獲得していたのではないか?という「そのこと」(抽象すること)の起源についての疑問だ。
この疑問に答えてくれる小さな「そのもの」=「土塊」が一片、ここにある。それは、およそ7万5千年~7千年前の南アフリカの洞窟で見つかった「オーカー」(クリックすると「オーカー」の記事と写真が見れます)といわれる粘土状の土の塊だ。(注4)そこには、何に似せようとしたのか、あるいはなにを表象しようとしたのか、たぶん誰も見当のつかない線条の幾何学模様らしきものが描かれている。それはちょうど、岸田龍平が描く「抽象化された直線群」のいくつかのパターンと類似したパターンを形成しているようにも見えるものだ。
そこで、この「オーカー」の抽象的な幾何学模様と岸田龍平が描く抽象的な幾何学模様を
見比べてみることにする。そこになにか共通する<抽象>の類型(パターン)が見出せはしないだろうか?
「抽象の始まり」・・・
<抽象>の「最初」について、吉本隆明はこんな見解を披瀝している。
「すべての<変形>のはじめには、並行して描かれた<直線>の群がやってくるとおもわれ
る。これがもし事実ならばかなり不思議なことである。人間が未明の時期に接触した<自
然>のうちで、直線的なものの数は、不定形なものの数にくらべて比較にならないほど少
ないはずである。さらにはっきりいえば直線的なものは、ほとんどとるにたりない数しか
みつけられそうもない。
もしそうだとすれば、並行して描かれた<直線>は、あらゆる<自然>の対象物からの最
初の<抽象>を意味している。」
(吉本隆明「眼の知覚」『心的現象論本論』 2008年)
ここで、吉本隆明は<抽象>についてある意味で独特の解釈を行っている。「並行して描かれた<直線>」が、「あらゆる<自然>の対象物からの最初の<抽象>」だというのだ。何が「独特」かというと、<並行>という概念の獲得が、たぶん吉本隆明は、古代人が<整合性>という観念を獲得した証だとみなしているように思われるからだ。そこでは(いくらか私の解釈も加味して言えば)、ある<秩序>を表わすために曲がりくねった曲線ではなく、地平線の横への直線性の読み取りや立木の縦への直線性の読み取りなどを通じて「直線というイメージ」を獲得したということ、そしてこの「直線のイメージ」の組み合わせで「閉空間」という<内側>のイメージを共有できることや(ということは<外側>の共有でもある)、「直線」を組み合わせることで一種の<錯視>としての「立体のイメージ」も創出することができることに古代人は気づいている、ということが論じられている。
この吉本隆明の「自然」の<変形>としての<抽象>の論議には、7万7千年前の古代の人類の<抽象>のレベルと、まさに「岸田龍平」というひとりの人類の、現在の<抽象>のレベルの異同を読み解く手がかりの一端が示唆されている、と私には思われる。
<斜めの平行線>は、7万7千年前の「オーカー」の表面にも、パネルをつないだ岸田の「麻のタブロー」の、ある作品群に見られる共通した「直線の組み合わせ」のひとつだと言っていい。そして「オーカー」の<斜めの平行線>には、吉本が指摘する「閉空間」を創出するように上下に引かれたふたつの「直線」がはっきりと見える。これは岸田龍平がみずから認める、現在の「絵画」が「絵画」として成立するための「フレーム」を、「内側」と「外側」を限る<境界>への気づきの証でもあると、私たちは認定することもできる。
私たちはいま、「絵画」の成り立ち(<境界>の設定)の現場に、岸田龍平のいう「フレーム」問題の<初期>に立ち会っているのだ。それと同時に「並行する直線」の表現的な位相のレベル(「内部」という<秩序>概念の位相)が、「古代」から「中世」をさしつらぬいて「近代」へと至る「抽象の象徴性」の出現に、あるいはその「事象」にいま立ち会っている。
「オーカー」に描かれた「上下する直線の組み合わせのパターン」(その結果、菱形や三角形の<内部>を形成するパターン)は、岸田龍平のある作品群にも意図的に取り入れられている。その「ジグザグ」の繰返しの動きで何を暗示しようとしているのか、<生命の躍動感>なのか、<人生の時々の変化の繰り返し>の宿命性なのか、それは見る人によって受けとめ方はさまざまだろう。「細い線」と「太い帯線」の組み合わせで岸田龍平は、なにを示唆しようとしているのだろう?じっと「画面」を追うことで、「空間」のリズム的な変化や「時間」を視覚化するその変化の面白さを楽しむことはできるのだが、それにしてもどうして岸田龍平はこれほどまでに「直線」にこだわるのだろうか?と頭をひねり、その「意図」(意味の図形化)はなんなのかと考えさせられてしまう。
曲線は完全に背景に退いて、あるいは完全に消去されて、「直線」が岸田に固有な<絵画の文体>(注5)のように行動し、運動している。そうして絵画の「筆跡」で、絵画の「枠」を越境しようとしているようだ。またそれは、絵画のタブローそのものを鋭利なナイフで切り裂いて見せたフォンタナの「外部からの手法」とは異なって、あくまでも絵画そのものの「内部からの手法」で<絵画の時空>に亀裂を走らせる、という試みでもあるように見える。(あくまでもそう「見える」のは、<私>なのだが・・・)
私たちは一方で、こんな「原初の抽象」があることも知っている。それは、吉本隆明が「並行して描かれた<直線>は、あらゆる<自然>の対象物からの最初の<抽象>を意味している」と解説したその同じページで採り上げられている「縄文」という、これまた「抽象された曲線」の文様だ。縄文時代がおよそ1万6000年前に始まり、3000年前に終ったと言われていることを考えると、「縄文」といわれる様々な「渦巻き文様」や「曲線の装飾」は「ラスコー」や「アルタミラ」の洞窟壁画よりもさらに古い<象徴志向の始まり>と認めることができるし、なにかを志向し、なにかを共有しようとした<意図的な概念形成の始まり>をもそこに認めることができる。
それにしても、ここで展開された「縄文」の「文様」に対する吉本隆明による解釈は、どちらかといえば、理工系出身者らしく「30度」「40度」「60度」の線分の傾きを<抽出>しているように、近代的な、従って科学的な分析の眼が強く働いている。縄文の「火炎土器」の形状の奇怪さや「土偶」の非人類的な表情の不可思議さや「文様」の渦巻きや波のうねりのような「動きの荒々しさ」、それから柔らかい曲線の「エロス」や「優しさ」のようなものには触れてない。たぶんそれは関心がないのではなく、吉本隆明も岸田龍平も共通して、ル・コルビジェに見られるようなモダンな直線の視線で<抽象>の初期を捉えようとしているからだと思える。そのことはある意味で、岸田龍平が「近代」に生きる画家としての<倫理>(自分を誤摩化さないという自負)をみずからに課した姿勢と受けとめることもできるし、「モダンでモダンを乗り越える」という課題をみずからに与えた<意志>の現われなのだと理解することもできる。
「直線」の<パターン化>(類型化)の意識と「曲線」の<パターン化>(類型化)の意識のどちらが、人類の<抽象>の始まりであるのかの検証は今後の課題にすることにして、そういうことも意識しながら、岸田龍平の「絵画」とその「抽象」の独自性を「眼」の感触と「思考」(言葉)の手触りで味わってみることにしたい。
フレームの「側面」をも境界の<臨界>として意識された画面の構成と、あるときはパターン化し、あるときはパターンを崩し、壊すように仕組まれた「空間」の分割と結合、その画面を思いつくままあちらこちらと辿ることで無意識の内に体験されているであろう「時間」の充実が、私の心を満たしてくれる。
ここに見られる岸田龍平の一群の作品は、直線によるある<類型>(パターン)へのこだわりと、あるひとつの<類型>(パターン>を解き放ち、別の<類型>を創出することで、線と色彩の組み合わせでどれだけの<抽象的な類型(パターン)>が可能なのかを確かめているようにも思われる。絵画における「線」(特に「直線」)というミニマルな表現態の抽象的な存在意義を<具象化>することに岸田龍平は腐心しているのだ、と私の眼は思考する。
結局のところ私たち人類は、<抽象>あるいは<理念>というイメージと<具象>あるいは<現実>というイメージの間で、アンビバレンツに絶えず揺らいでいるのだ。どんな<抽象>かは個々の作家に任せるほかないとして、それを見る私たちの<眼>を思わず釘付けにする、そういう<抽象の迫力>あるいは<抽象の具象力>が「作品」としては問われている。岸田龍平の「抽象された絵画」は、充分にその<迫力>と<具象力>を兼ね備えている、と私には思われた。(どちらかといえば岸田龍平の「細い直線」は繊細さを、「太い直線」の動きは力強さを感じさせる。もちろんそれは「細い刻みの線」で<背景>を、「太い帯の線」で<前景>を創出し、「立体感」を生んでいる。)
ということで今回は、岸田龍平という現在の作家の「絵画」と「絵画の始まり」と思われる太古の「壁画」、そしてそれよりももっと古い年代の「オーカー」(土片)や「縄文」のそれぞれの文様の意義を問うことで「抽象の始まり」について考えてみた。
冒頭に紹介した岸田龍平自身の論考のテーマ、「フレーム」・「線」・「絵画のベクトル」・「フォーマリズ」などのうち、わずかに「フレーム」の<意味>を問う視点と、岸田の論考「線の可能性と絵画について」の「線」の<抽象の初期>について、そして7万7000年前の、あの「オーカー」の<抽象>力の獲得と、その展開・累積があってはじめて可能となったであろう<絵画の初期>としての「洞窟壁画」について、その<自己表出をともなった指示表出的な表現の始まり>(注6)について少しばかりのことを示唆したに過ぎない。残された課題については別の機会を得て、私なりに考えてみたいと思っている。
また、西欧印象派からアメリカ抽象表現主義作家たちの個々の課題の歴史的変遷についてはあえて触れることはしなかった。それは私自身の不勉強もあるが、岸田龍平の最初に紹介した諸論考で大方のところは論じられていると思えたからだ。ただ、岸田が最もこだわった「ミニマル・アート」の<ミニマル>という概念は、これからの人類の文明的なあり方を問う貴重な概念になるのではないか?と私自身は密かに思っている。これから人類は、環境や経済の問題、エネルギーの生産とその消費、そしてなによりもあらゆる生命存在とどう向き合って行くのかという<生き方の最小の倫理が最大の倫理であるような倫理>をたえず模索しながら生きていくことになるだろうと、私は推測している。
それにしても、レヴィ=ストロースが語った「無絵画時代」というのはあり得るのであろうか?
* * * * * * *
(注1)「霊的認識」とくに「グノーシス」という非常に秘教的な匂いのする言い方は、ここに引用するのは見当はずれ、のような気もした。が、「グノーシス」という原義が「知ること」を意味すること、「霊的認識」の「霊」は「眼に見えない魂」とか「眼に見えない生命の元」というイメージに置き換えると、それはラスコーの壁画を描いた遥か古代の人間の「認識」に通じるものがあると直観した。この直観を<絵画>と<抽象>にどう繋げるか、それが私のここでのテーマだ。
(注2)「パラ・イメージ」という概念は、吉本隆明が1980年代の終末期(バブル経済期)の<現在>を把握するために展開した、時代の「ハイ・イメージ」を理解するための概念のひとつだ。(「パラ・イメージ論」『ハイ・イメージ論 Ⅱ」1990年所収)この「パラ」という概念の提示は、かつて「化学」の研究者でもあった吉本隆明ならではの着想のように思われる。
ここで吉本は、<オルト>(正規の)・<メタ>(オルトに対し「隣の隣」)・<パラ>(オルトに対し「反対側」)の三つの位相的な概念の位置から、「言葉」(概念=意味)とそれが呼び起こす「イメージ」(想像的な表象像と視覚像に近い創作像)の関係(段階)を読み解こうとしている。通常、語彙的には<オルト>は「正・直」を、<メタ>は「高次・超・間・後」を、<パラ>は「並列」をそれぞれ付加する接頭語として使用されるのだが、<概念>と<像>にまつわる
位相的な語彙として、これらの概念を把握しておきたい。
それから「パラ・イメージ」という概念を使って吉本隆明は、日本では(たぶん世界でも)かつて存在しなかったであろうと思われる島尾敏雄の小説『夢の中の日常』の特異な言語感覚(像)が現れる場面を、実験化学者の細やかな分析の手つきで読み解いて見せる。こちらも一読をお薦めする。
(注3)<始まり>の絵画に「フレーム」がなかった、ということは、それなら「いつ・なんのために」絵画に「フレーム」(「枠」および「額縁」)が施され、「フレーム」の存在が「絵画」の必要条件のように絵画に付随するものになったのか?「持ち運びの便利さ」「室内に装飾される絵画のインテリアへの変身」(権威や地位や富の象徴として)、そしてそれにともなって必然的に広まって行ったであろう「絵画の商品化」など、その理由はいろいろ推測することができるし、「フレーム」(額縁)の歴史について調べてみれば、それなりに面白い事実が浮き上がってくるだろう。
(注4)「オーカー」の存在を知ったのは、海部陽介『人類がたどってきた道』(2008年版 日本放送出版協会)という著書が最初で、その後、三井誠『人類進化の700万年』(2007年版 講談社現代新書)でも取り上げられていた。
海部陽介は、現在の南アフリカの先端にある海辺に近い洞窟から発見されたこの「オーカー」(顔料に利用された土片)に描かれた模様は、「意図して描かれた模様」であり、それは同じ洞窟から大量に見つかった「アクセサリー」(あきらかに「穴」が開けられた「貝製のビーズ」)の発見と考え合わせて、なにかの「シンボル」であろうと理解している。それは、「ホモ・サピエンス」が「抽象的思考・優れた計画能力・行動上、経済活動上、技術上の発明能力・シンボルを用いる行動」を行っていた事例のひとつとして評価している。(海部は、この事例が「ホモ・サピエンス」が「ネアンデルタール人」より優れた知性を持っていた証としても理解している。)
三井誠は、「オーカー」の模様を、例えば現代では「ハト」が「平和」の「象徴」であるように、「平和」という具体的に手にすることのできない「そのこと」を「象徴」表示することができるような「抽象的な思考の芽生え」の事例として捉えている。それは「言語の誕生を示唆する証拠」でもあるとみなしている。
(注5)文芸評論家・江藤淳は、当時としては斬新な文学評論であり、文体論でもある『作家は行動するー文体についてー』(1969年)で、次のように述べている。
「時間は、実は時計の”なか”や、タイム・レコーダーの”なか”にあるものではない。われわれの”外側”にではなく、われわれの”なか”にあるものである。そしてそれはわれわれの行動によってはじめてつくりだされて行く。しかも<文体>は前の章でのべたように文学者の行動の軌跡であった。したがって、文体をかたちづくるということ、文体を完成するということは、作家たちが自分の主体的な行動によって時間をつくって行くということを意味する。逆にいえば、時間をつくりだしていくことに成功しなかった作家、それを外在的なものとしてしかとらえられない作家は、決して真の文体をもつことがなく、当然真の現実に迫ることもない。この関係は正確に相互作用的である。」(角川選書 p32)
一方、岸田龍平は「作家の行為性」について次のように論じている。
「ローゼンバーグが絵画に導入した<行為性>の概念は、同時に<時間性>と<身体性>の概念を絵画に導入したといえる。絵画の生成の過程とその痕跡という形で絵画に時間が介入してきた。そして、身体そのものによって行為が成立し、その身体はまさに世界ー内ー存在であることによって、私(意識)と絵画と世界(存在)を繋げているのである。これらのことは実は再発見されたというべきであろう。行為性は、表現の発生の起源の時から、確実にそこに存在したのだから。」(「絵画の4つのベクトルについて」2008年)
(注6)「自己表出」および「指示表出」という概念は、吉本隆明が初めて体系的に展開した言語表現論『言語にとって美とはなにか』(1965年)の主要概念なのだが、解剖学者三木成夫の『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院 1992年初出)での吉本自身の「解説」を読まれることをお薦めする。「自己表出」と「指示表出」のふたつの概念が、解剖学に基づいた身体生理的な概念とどう構造的に対応しているかが明らかにされている。