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クマの表現論

言語やアートの成り立ちについて考察していきます。

# 絵画の存在論

岸田龍平論(1)ー <絵画>と<抽象>の始まりについて

 ここに、岸田龍平から手渡された2006年10月19日という日付のある「絵画」についての論考「フレームについての覚え書き」がある。さらに、2008年3月3日にノートされた「絵画の4つのベクトルについて」、続いて2009年4月27日の「線の可能性と絵画について」、それから2012年9月9日という最新の日付のある「私のフォーマリズム的絵画論」と題された論考「視覚的イリュージョン」および「システムとしての絵画」がある。
 どれもその都度、岸田本人が論じなければ「自分自身の気が済まないテーマが選ばれて論じられている」ということがわかる力のこもった論考だ。(岸田龍平の絵はこちらから。)

 それゆえ(と言ってもいいだろう)、ここで私などがヘタな解説をするよりも、岸田龍平本人の「絵画についての論考」を読んでもらう方が、よほど当を得た解説になるにちがいない。なぜなら、絵画にむかって「絵画」を描いてきた本人が、のっぴきならない意志を持って「絵画」にこだわる自分自身の理由と「絵画」にこだわることで拓けてくるであろう(と岸田が信じている)「新しい思考と視覚の世界」の成り立ちを、あえて「言葉」(文字)で明らかにしてくれているからだ。そんな貴重な「言葉」による思考の手仕事を、私は岸田龍平から直接手渡されたというわけだ。

  「絵画と言葉」・・・

 ところで、あの『野生の思考』を著したレヴィ=ストロースが、ジョルジュ・シャルボニエのインタビューに答えてこんなことを語っている。(L=S:レヴィ=ストロース、G・C:ジョルジュ・シャルボニエ)

 L=S :つまるところ、ーここで民族学者が権利をとりもどすのですがー絵画は文化の    
     一つの不変の様式ではありません。社会は絵画芸術なしに完全に存在しえま 
     す。
     そこで、私たちに考えうるのは、抽象絵画なきあとは・・・

 G・C ー:もはや絵画はないであろうと?

 L=S : 無絵画時代を告知する、一種の完全離脱というような。

 G・C : それを考えている画家たちを私は知っています。・・・

 L=S : この分野において明日何が産み出されるか、想像もつきません。・・・来るべきも 
     のはその消滅に先立つ絵画の解体、崩壊なのかもしれません。あるいは我々が現に
     生きているこの一種の中世が一つの新しい出発を準備しているのかもしれません。
     この中世という語に私はいささかも貶辞的な含みをもたせていませんが、しかしそ
     の語を用いた理由は、抽象画家の探求と理解のなかには中世的思考の或る様式に多 
     少似通ったものがあると思われるからです。霊的認識(グノーシス)へ向う努力、
     すなわち科学を超越する知識へ、超言語(パラ・ランガージュ)かもしれぬ一つの
     言語へ、向う努力がそれです。

         (ジョルジュ・シャルボニエ=G・C:インタビュー「絵画の未来」
                      『レヴィ=ストロースとの対話』1970年)

 やや唐突に、ここでレヴィ=ストロースが語っている「中世」とか「霊的認識」(グノーシス)(注1)の言葉のイメージは、岸田龍平の絵画を批評するにはまったくそぐわない言葉のように思われる。たぶん今日の多くの抽象絵画を試みている作家も、自分たちの作品をこんな言葉で批評されたらたまったものではないだろう。それだけ、これらの言葉のイメージはアナクロニズムな響きをともなって私たちの前にある。
 しかし、あのレヴィ=ストロースがあえて「中世」という言葉をえらび、「霊的認識」(グノーシス)とか「超言語」(パラ・ランガージュ)とかの概念で語ろうとしたことはなんなのか?一見精神世界的な言い回しに聴こえるこれらの言葉の内実を自分なりに受けとめて別の言葉に置きかえてみるとどうなるか?

 たとえば私なら、「霊的認識」(グノーシス)を「直観」に、もしくは「呪術」という言葉に、「超言語」(パラ・ランガージュ)を「概念像(図)」(言語で言語自身の<意味的な限界>を超えようとするときに現れる<概念の像化>)という風に置き換えてみる。するとこんな言い方で、私たちは「絵画」のどのような「事象」に当面していると言いたいのだろうか?

 私たちが当面しているのは、「中世」を遥かに超えた「絵画の始まり」と「絵画の終わり」の<臨界の場面>だ。あるいはレヴィ=ストロースがあえて「告知」した<終わり>が<始まり>であるような「超言語」(パラ・ランガージュ)、奇しくも吉本隆明が「パラ・イメージ」(注2)という概念を使って解き明かそうとした「なぜ言葉の記述が図面(図形)に転換できるか」の問題に私たちは当面している。それは言いかえれば、「絵画」という言葉ならざる表現態をあえて「言葉」(概念)に「転換」して見せようという試みの問題でもある。「絵画」に<人生>があるとして、その絵画の人生の、つまりは「絵画」という人類史の、なにものかにむけて志向された「内側」と「外側」の<境界>の始まりに内在する<思念(概念)>の始まりに当面しているのだと言ってもいい。

 そこで私たちは<問いの始まり>の順序として、これまでのところ人類が辿りついているであろうと思われる<絵画の始まり>の場面に赴いて見ることにする。

 「絵画の始まり」・・・

 実は「絵画」に限らず、人類の様々な「もの」や「こと」の<始まり>を確定することは難しい。「難しい」というより、それは「不可能なことだ」と言っていいかもしれない。「そのこと」は当然遺跡として残ることは不可能だし、「そのもの」が遺跡として残っていたにしても、「そのもの」が最初の「そのこと」の<始まり>であるとは確証し得ないからだ。最初の「そのこと」の<始まり>である「そのもの」は、腐ったり、酸化したり、風化してもうこの地上には遺物としては残っていない可能性がある。私たちが手にしうるのは、とりあえずの<始まり>の「そのもの」であり、「そのこと」の<始まり>についての仮説である。
 と言っても、<そのことの始まり>の検証を始めるために、最新の(と思われる)情報にアクセスしてみることにしよう。ネットで検索してみるとこんな記事が現われた。

 「ショーヴェ洞窟(仏:Grotte Chauvet)は、フランス南部アルデシュ県の Vallon-Pont-d'Arc 付近にある洞窟。現存する人類最古の絵画であるショーヴェ洞窟壁画で知られる。現在、知られるものでは最古と思われる約3万2000年前の洞窟壁画で、1994年12月18日に3人の洞穴学者 Jean-Marie Chauvet, Christian Hillaire, Eliette Brunel-Deschamps によって発見され、洞窟壁画の開始時期を大幅に遡らせた。ショーヴェ洞窟は発見者の Chauvet にちなんで名づけられた。ただし、絵の年代については論争となっており、これまで見つかった洞窟壁画(1万5000年前のラスコー洞窟など)よりも相当古いものとして発表されたため、宣伝目的のために、絵の描かれた年代が誇張されたと考える人もいる。」
                      (Wikipedia:すこしばかり圧縮して記載)

 私たちは考古学者たちの「発見の手柄」の競争に付き合うヒマはないし、どっちがどの程度古いのかどうか、ここでの論点からするとさして問題になるとも思われない。「ショーベ」の方が古いのか「ラスコー」のほうが古いのか、あるいは「アルタミラ」の方が古いのか、いずれ精確な年代測定法で決着がつけられるだろう。しかもどうやら「ショーベ」の洞窟壁画が3万2000年前の絵画だとすると、それはクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)によって絶滅させられたのではないかと推測されているネアンデルタール人の手になるものだ、という別の論争の種も撒かれている。が、そんな論争は考古学者に任せるとして、私たちはとりあえずこの辺り(3万2000年~1万5000年前頃)の「洞窟壁画」を人類の「絵画の始まり」とみなすことにする。(これ以後に新しい発見があれば、そのとき考えればよい。)
 そこで私は、「いつ」「誰が」この絵を描いたのか?というより、「どこに」「なんのために」この絵が描かれたのか?ということの方に「絵画」を見る視点を移してみたいと思う。

 「どこに」・・・「なんのために」・・・

 「どこに」ということで言えば、いずれも「洞窟の壁面」ということになる。この「壁面」には、岸田龍平の言う「フレーム」は存在していない。<始まり>の絵画には「フレーム」はなかったのだ。(注3)
 しかし「なぜ洞窟なのか?」ということをめぐっては、「洞窟」という場所でなければならない限定的な理由があるとする説(「秘儀」もしくは「呪術」を行う「聖所」あるいは「霊所」説)がある一方、それだけでは説明できない壁画も多数存在しており、いろんな理由があって洞窟に描かれたのではないか?という説もある。どうやら今のところ、後者の説が無難な説のようだが、私自身は生きた(あるいは生きていた)実在の動物(それが槍や弓矢で狩りをされている動物であるにしろ、ただ立っている歩いている動物あるにしろ)をあえてその動物の姿に似せて(類似させて)<絵を描く>(線で象り、彩色する)というまさに絵画的な表現行為そのものが、当時の人類の祖先たちの、自分の心の感情を表出(自己表出)した、そして日常よく見る対象を指し示すという対象指示的な思念(指示表出)の現われだと理解したい。

 この自己表出をともなった指示表出的な<思念の志向性>は、いみじくもあのレヴィ=ストロースが示唆した「霊的認識」(グノーシス的秘教)に通じる「呪術」であってもいいし、まだ「文字」を発明していない人類の、自分たちの<心>に発生した「眼に見えるものの内にある、眼に見えないなにものかを志向するイメージの形成」(さまざまな動物たちの「かたちの不思議さ」や自分たちと同じような「生命をもつことへの畏敬」あるは「生活のために欠くことのできない貴重な食料(生存エネルギー)」というような「生物生命的な概念のイメージ」)を<共有>するための「超言語」(パラ・ランガージュ)すなわち「絵画」を媒体とした<表現>だと受けとめることもできる。
 その意味では、「ショーベ」にしろ「ラスコー」にしろ、あるいは「アルタミラ」の壁画にしろ、それらの洞窟の壁面に描かれた絵画は<意図された絵画の始まり>と言っていいだろう。そして、どの「洞窟絵画」もすでに「線」や「色」によるある<抽象>のレベル(背景を<捨象>し、現実の動物の動きや形だけを<抽出>し、<類似>させて描くという意味での抽象表現)がなされている。<始まりの絵画>の抽象のレベルは、<類似>(抽象の具象化)という段階にある<意図された表現の始まり>でもあったのだ。(ただし、この時点での人類の思考力には、「抽象」という概念についてさらに抽象的に思考し、掘りさげる能力、つまりは「自己言及的な思考力はない」と言っていい。)

 ところで・・と、ここでひとつの疑問が湧き起こってくる。「洞窟壁画」を描く以前に私たちの祖先は<抽象>する思考能力をすでに獲得していたのではないか?という「そのこと」(抽象すること)の起源についての疑問だ。
 この疑問に答えてくれる小さな「そのもの」=「土塊」が一片、ここにある。それは、およそ7万5千年~7千年前の南アフリカの洞窟で見つかった「オーカー」(クリックすると「オーカー」の記事と写真が見れます)といわれる粘土状の土の塊だ。(注4)そこには、何に似せようとしたのか、あるいはなにを表象しようとしたのか、たぶん誰も見当のつかない線条の幾何学模様らしきものが描かれている。それはちょうど、岸田龍平が描く「抽象化された直線群」のいくつかのパターンと類似したパターンを形成しているようにも見えるものだ。
 そこで、この「オーカー」の抽象的な幾何学模様と岸田龍平が描く抽象的な幾何学模様を
見比べてみることにする。そこになにか共通する<抽象>の類型(パターン)が見出せはしないだろうか?

  「抽象の始まり」・・・

 <抽象>の「最初」について、吉本隆明はこんな見解を披瀝している。

 「すべての<変形>のはじめには、並行して描かれた<直線>の群がやってくるとおもわれ 
  る。これがもし事実ならばかなり不思議なことである。人間が未明の時期に接触した<自
  然>のうちで、直線的なものの数は、不定形なものの数にくらべて比較にならないほど少
  ないはずである。さらにはっきりいえば直線的なものは、ほとんどとるにたりない数しか
  みつけられそうもない。
  もしそうだとすれば、並行して描かれた<直線>は、あらゆる<自然>の対象物からの最
  初の<抽象>を意味している。」
           (吉本隆明「眼の知覚」『心的現象論本論』 2008年)

 ここで、吉本隆明は<抽象>についてある意味で独特の解釈を行っている。「並行して描かれた<直線>」が、「あらゆる<自然>の対象物からの最初の<抽象>」だというのだ。何が「独特」かというと、<並行>という概念の獲得が、たぶん吉本隆明は、古代人が<整合性>という観念を獲得した証だとみなしているように思われるからだ。そこでは(いくらか私の解釈も加味して言えば)、ある<秩序>を表わすために曲がりくねった曲線ではなく、地平線の横への直線性の読み取りや立木の縦への直線性の読み取りなどを通じて「直線というイメージ」を獲得したということ、そしてこの「直線のイメージ」の組み合わせで「閉空間」という<内側>のイメージを共有できることや(ということは<外側>の共有でもある)、「直線」を組み合わせることで一種の<錯視>としての「立体のイメージ」も創出することができることに古代人は気づいている、ということが論じられている。

 この吉本隆明の「自然」の<変形>としての<抽象>の論議には、7万7千年前の古代の人類の<抽象>のレベルと、まさに「岸田龍平」というひとりの人類の、現在の<抽象>のレベルの異同を読み解く手がかりの一端が示唆されている、と私には思われる。
 <斜めの平行線>は、7万7千年前の「オーカー」の表面にも、パネルをつないだ岸田の「麻のタブロー」の、ある作品群に見られる共通した「直線の組み合わせ」のひとつだと言っていい。そして「オーカー」の<斜めの平行線>には、吉本が指摘する「閉空間」を創出するように上下に引かれたふたつの「直線」がはっきりと見える。これは岸田龍平がみずから認める、現在の「絵画」が「絵画」として成立するための「フレーム」を、「内側」と「外側」を限る<境界>への気づきの証でもあると、私たちは認定することもできる。
 私たちはいま、「絵画」の成り立ち(<境界>の設定)の現場に、岸田龍平のいう「フレーム」問題の<初期>に立ち会っているのだ。それと同時に「並行する直線」の表現的な位相のレベル(「内部」という<秩序>概念の位相)が、「古代」から「中世」をさしつらぬいて「近代」へと至る「抽象の象徴性」の出現に、あるいはその「事象」にいま立ち会っている。

 「オーカー」に描かれた「上下する直線の組み合わせのパターン」(その結果、菱形や三角形の<内部>を形成するパターン)は、岸田龍平のある作品群にも意図的に取り入れられている。その「ジグザグ」の繰返しの動きで何を暗示しようとしているのか、<生命の躍動感>なのか、<人生の時々の変化の繰り返し>の宿命性なのか、それは見る人によって受けとめ方はさまざまだろう。「細い線」と「太い帯線」の組み合わせで岸田龍平は、なにを示唆しようとしているのだろう?じっと「画面」を追うことで、「空間」のリズム的な変化や「時間」を視覚化するその変化の面白さを楽しむことはできるのだが、それにしてもどうして岸田龍平はこれほどまでに「直線」にこだわるのだろうか?と頭をひねり、その「意図」(意味の図形化)はなんなのかと考えさせられてしまう。
 曲線は完全に背景に退いて、あるいは完全に消去されて、「直線」が岸田に固有な<絵画の文体>(注5)のように行動し、運動している。そうして絵画の「筆跡」で、絵画の「枠」を越境しようとしているようだ。またそれは、絵画のタブローそのものを鋭利なナイフで切り裂いて見せたフォンタナの「外部からの手法」とは異なって、あくまでも絵画そのものの「内部からの手法」で<絵画の時空>に亀裂を走らせる、という試みでもあるように見える。(あくまでもそう「見える」のは、<私>なのだが・・・)

 私たちは一方で、こんな「原初の抽象」があることも知っている。それは、吉本隆明が「並行して描かれた<直線>は、あらゆる<自然>の対象物からの最初の<抽象>を意味している」と解説したその同じページで採り上げられている「縄文」という、これまた「抽象された曲線」の文様だ。縄文時代がおよそ1万6000年前に始まり、3000年前に終ったと言われていることを考えると、「縄文」といわれる様々な「渦巻き文様」や「曲線の装飾」は「ラスコー」や「アルタミラ」の洞窟壁画よりもさらに古い<象徴志向の始まり>と認めることができるし、なにかを志向し、なにかを共有しようとした<意図的な概念形成の始まり>をもそこに認めることができる。

 それにしても、ここで展開された「縄文」の「文様」に対する吉本隆明による解釈は、どちらかといえば、理工系出身者らしく「30度」「40度」「60度」の線分の傾きを<抽出>しているように、近代的な、従って科学的な分析の眼が強く働いている。縄文の「火炎土器」の形状の奇怪さや「土偶」の非人類的な表情の不可思議さや「文様」の渦巻きや波のうねりのような「動きの荒々しさ」、それから柔らかい曲線の「エロス」や「優しさ」のようなものには触れてない。たぶんそれは関心がないのではなく、吉本隆明も岸田龍平も共通して、ル・コルビジェに見られるようなモダンな直線の視線で<抽象>の初期を捉えようとしているからだと思える。そのことはある意味で、岸田龍平が「近代」に生きる画家としての<倫理>(自分を誤摩化さないという自負)をみずからに課した姿勢と受けとめることもできるし、「モダンでモダンを乗り越える」という課題をみずからに与えた<意志>の現われなのだと理解することもできる。

 「直線」の<パターン化>(類型化)の意識と「曲線」の<パターン化>(類型化)の意識のどちらが、人類の<抽象>の始まりであるのかの検証は今後の課題にすることにして、そういうことも意識しながら、岸田龍平の「絵画」とその「抽象」の独自性を「眼」の感触と「思考」(言葉)の手触りで味わってみることにしたい。
 フレームの「側面」をも境界の<臨界>として意識された画面の構成と、あるときはパターン化し、あるときはパターンを崩し、壊すように仕組まれた「空間」の分割と結合、その画面を思いつくままあちらこちらと辿ることで無意識の内に体験されているであろう「時間」の充実が、私の心を満たしてくれる。
 ここに見られる岸田龍平の一群の作品は、直線によるある<類型>(パターン)へのこだわりと、あるひとつの<類型>(パターン>を解き放ち、別の<類型>を創出することで、線と色彩の組み合わせでどれだけの<抽象的な類型(パターン)>が可能なのかを確かめているようにも思われる。絵画における「線」(特に「直線」)というミニマルな表現態の抽象的な存在意義を<具象化>することに岸田龍平は腐心しているのだ、と私の眼は思考する。

 結局のところ私たち人類は、<抽象>あるいは<理念>というイメージと<具象>あるいは<現実>というイメージの間で、アンビバレンツに絶えず揺らいでいるのだ。どんな<抽象>かは個々の作家に任せるほかないとして、それを見る私たちの<眼>を思わず釘付けにする、そういう<抽象の迫力>あるいは<抽象の具象力>が「作品」としては問われている。岸田龍平の「抽象された絵画」は、充分にその<迫力>と<具象力>を兼ね備えている、と私には思われた。(どちらかといえば岸田龍平の「細い直線」は繊細さを、「太い直線」の動きは力強さを感じさせる。もちろんそれは「細い刻みの線」で<背景>を、「太い帯の線」で<前景>を創出し、「立体感」を生んでいる。)

 ということで今回は、岸田龍平という現在の作家の「絵画」と「絵画の始まり」と思われる太古の「壁画」、そしてそれよりももっと古い年代の「オーカー」(土片)や「縄文」のそれぞれの文様の意義を問うことで「抽象の始まり」について考えてみた。

 冒頭に紹介した岸田龍平自身の論考のテーマ、「フレーム」・「線」・「絵画のベクトル」・「フォーマリズ」などのうち、わずかに「フレーム」の<意味>を問う視点と、岸田の論考「線の可能性と絵画について」の「線」の<抽象の初期>について、そして7万7000年前の、あの「オーカー」の<抽象>力の獲得と、その展開・累積があってはじめて可能となったであろう<絵画の初期>としての「洞窟壁画」について、その<自己表出をともなった指示表出的な表現の始まり>(注6)について少しばかりのことを示唆したに過ぎない。残された課題については別の機会を得て、私なりに考えてみたいと思っている。
 また、西欧印象派からアメリカ抽象表現主義作家たちの個々の課題の歴史的変遷についてはあえて触れることはしなかった。それは私自身の不勉強もあるが、岸田龍平の最初に紹介した諸論考で大方のところは論じられていると思えたからだ。ただ、岸田が最もこだわった「ミニマル・アート」の<ミニマル>という概念は、これからの人類の文明的なあり方を問う貴重な概念になるのではないか?と私自身は密かに思っている。これから人類は、環境や経済の問題、エネルギーの生産とその消費、そしてなによりもあらゆる生命存在とどう向き合って行くのかという<生き方の最小の倫理が最大の倫理であるような倫理>をたえず模索しながら生きていくことになるだろうと、私は推測している。

 それにしても、レヴィ=ストロースが語った「無絵画時代」というのはあり得るのであろうか?


              * * * * * * *


(注1)「霊的認識」とくに「グノーシス」という非常に秘教的な匂いのする言い方は、ここに引用するのは見当はずれ、のような気もした。が、「グノーシス」という原義が「知ること」を意味すること、「霊的認識」の「霊」は「眼に見えない魂」とか「眼に見えない生命の元」というイメージに置き換えると、それはラスコーの壁画を描いた遥か古代の人間の「認識」に通じるものがあると直観した。この直観を<絵画>と<抽象>にどう繋げるか、それが私のここでのテーマだ。

(注2)「パラ・イメージ」という概念は、吉本隆明が1980年代の終末期(バブル経済期)の<現在>を把握するために展開した、時代の「ハイ・イメージ」を理解するための概念のひとつだ。(「パラ・イメージ論」『ハイ・イメージ論 Ⅱ」1990年所収)この「パラ」という概念の提示は、かつて「化学」の研究者でもあった吉本隆明ならではの着想のように思われる。
 ここで吉本は、<オルト>(正規の)・<メタ>(オルトに対し「隣の隣」)・<パラ>(オルトに対し「反対側」)の三つの位相的な概念の位置から、「言葉」(概念=意味)とそれが呼び起こす「イメージ」(想像的な表象像と視覚像に近い創作像)の関係(段階)を読み解こうとしている。通常、語彙的には<オルト>は「正・直」を、<メタ>は「高次・超・間・後」を、<パラ>は「並列」をそれぞれ付加する接頭語として使用されるのだが、<概念>と<像>にまつわる
位相的な語彙として、これらの概念を把握しておきたい。
 それから「パラ・イメージ」という概念を使って吉本隆明は、日本では(たぶん世界でも)かつて存在しなかったであろうと思われる島尾敏雄の小説『夢の中の日常』の特異な言語感覚(像)が現れる場面を、実験化学者の細やかな分析の手つきで読み解いて見せる。こちらも一読をお薦めする。

(注3)<始まり>の絵画に「フレーム」がなかった、ということは、それなら「いつ・なんのために」絵画に「フレーム」(「枠」および「額縁」)が施され、「フレーム」の存在が「絵画」の必要条件のように絵画に付随するものになったのか?「持ち運びの便利さ」「室内に装飾される絵画のインテリアへの変身」(権威や地位や富の象徴として)、そしてそれにともなって必然的に広まって行ったであろう「絵画の商品化」など、その理由はいろいろ推測することができるし、「フレーム」(額縁)の歴史について調べてみれば、それなりに面白い事実が浮き上がってくるだろう。

(注4)「オーカー」の存在を知ったのは、海部陽介『人類がたどってきた道』(2008年版 日本放送出版協会)という著書が最初で、その後、三井誠『人類進化の700万年』(2007年版 講談社現代新書)でも取り上げられていた。
 海部陽介は、現在の南アフリカの先端にある海辺に近い洞窟から発見されたこの「オーカー」(顔料に利用された土片)に描かれた模様は、「意図して描かれた模様」であり、それは同じ洞窟から大量に見つかった「アクセサリー」(あきらかに「穴」が開けられた「貝製のビーズ」)の発見と考え合わせて、なにかの「シンボル」であろうと理解している。それは、「ホモ・サピエンス」が「抽象的思考・優れた計画能力・行動上、経済活動上、技術上の発明能力・シンボルを用いる行動」を行っていた事例のひとつとして評価している。(海部は、この事例が「ホモ・サピエンス」が「ネアンデルタール人」より優れた知性を持っていた証としても理解している。)
 三井誠は、「オーカー」の模様を、例えば現代では「ハト」が「平和」の「象徴」であるように、「平和」という具体的に手にすることのできない「そのこと」を「象徴」表示することができるような「抽象的な思考の芽生え」の事例として捉えている。それは「言語の誕生を示唆する証拠」でもあるとみなしている。

(注5)文芸評論家・江藤淳は、当時としては斬新な文学評論であり、文体論でもある『作家は行動するー文体についてー』(1969年)で、次のように述べている。

「時間は、実は時計の”なか”や、タイム・レコーダーの”なか”にあるものではない。われわれの”外側”にではなく、われわれの”なか”にあるものである。そしてそれはわれわれの行動によってはじめてつくりだされて行く。しかも<文体>は前の章でのべたように文学者の行動の軌跡であった。したがって、文体をかたちづくるということ、文体を完成するということは、作家たちが自分の主体的な行動によって時間をつくって行くということを意味する。逆にいえば、時間をつくりだしていくことに成功しなかった作家、それを外在的なものとしてしかとらえられない作家は、決して真の文体をもつことがなく、当然真の現実に迫ることもない。この関係は正確に相互作用的である。」(角川選書 p32)

 一方、岸田龍平は「作家の行為性」について次のように論じている。

「ローゼンバーグが絵画に導入した<行為性>の概念は、同時に<時間性>と<身体性>の概念を絵画に導入したといえる。絵画の生成の過程とその痕跡という形で絵画に時間が介入してきた。そして、身体そのものによって行為が成立し、その身体はまさに世界ー内ー存在であることによって、私(意識)と絵画と世界(存在)を繋げているのである。これらのことは実は再発見されたというべきであろう。行為性は、表現の発生の起源の時から、確実にそこに存在したのだから。」(「絵画の4つのベクトルについて」2008年)

(注6)「自己表出」および「指示表出」という概念は、吉本隆明が初めて体系的に展開した言語表現論『言語にとって美とはなにか』(1965年)の主要概念なのだが、解剖学者三木成夫の『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院 1992年初出)での吉本自身の「解説」を読まれることをお薦めする。「自己表出」と「指示表出」のふたつの概念が、解剖学に基づいた身体生理的な概念とどう構造的に対応しているかが明らかにされている。



                          

THEME:創造と表現 | GENRE:学問・文化・芸術 |

五十音図論あるいは原言語について

もう30年以上も前に、こんな文章を書いていた。

言葉の現象が、言葉の<意味>・言葉の<像>・言葉の<リズム>・言葉の<響き>といった局面を突出させながら、全体としてはこれらの局面が反撥し合い、折れ重なり合い、ついには錯合(累合)したひとつの”価値体”としてある言語情況のなかで位相性を帯びはじめる根拠を、言葉じしんの発生の力学を想定して比喩的に集約してみせるなら、たぶんふたつの問題に当面するはずである。ひとつは言葉の”喚起力”(具象力と端的に言っていいのかどうか、いまはわからない)という感性的な合力の所在の問題と、もうひとつは言葉の”抽象力”という概念的な推力の問題である。

(この項書きかけ)



 

迷路の覚醒(4)

ひとつの切実さからひとつの像を、立ち上がらせる欲求を打ち消すことができない。

<わたし>の背の影が、真昼と夜のあいだで尾を引いて立ち迷っているとするならば、わたしは<わたし>を《真昼の夜》と一挙に比喩することが可能な<像>の本来を志向しているにちがいないからだ。

けれど、<像>の本来を探る作業は、つぎのようにやってきている。

わたしの<書くこと>についての問いの立て方は、<”なぜ”書くのか?>というセマンティックな問いの構造と<”どのように”書くのか?>という記述の方法をたえず意識しているため、たとえ<像>の本来を志向しているにしても、その志向じたいのあり方は、<像>が<世界>概念にとどき得る<像>として現在的に可能かどうかの正否を問うことにもなるのだ。しかも、<像>の成り立ちの正否を問う方法がみずからの文体を変容していくことを願っている。

このことは、ただたんに<わたし>から出て<わたし>に還る自己意識の永劫回帰が繰り返されるほかないように見えるかもしれないが、そもそも<自己意識>なる概念の成り立ちの正否を問う、その問い方に苦慮しているのだと言ってよい。

不慣れなことに手を染めてしまったぶんだけは、<自己>に馴れ合いたくはないのだ。

すくなくとも<自己>なる概念が共同的な意味規範として安定しているかに見える<言葉>の世界を揺さぶりたい、と思っている。ー それが<きみ>に見えるか?<きみ>の<わたし>に見えるか?

そこで、わたしは繰り返し、<わたし>の発端からはじめるほかないのだ。

(1)風はどこからも吹いて来ない。
(2)わたしは風が欲しい。
(3)わたしは風のようにありたい。
(4)わたしは風を感じている。
(5)わたしは風だ。
(6)風はわたしである。
(7)風はどこにでも吹き荒れている。

ある極限された現実の認識がひとつの渇望をつのらせ、願望から妄想にいたる<言葉>の出現の様相を手短に、恣意的に配列してみた。

ここには、現実の<風>を身体生理的な知覚の諸相に向けて、直接的に喚起する言葉はひとつもない。わずかに<わたしは風を感じている>といった記述の仕方が、現在的な感受の存在を根拠にしているように見えるだけで、恣意的に配列されたすべての<風>は、恣意的に概念の<風>に変容されている。

たとえこの風が、<知覚>としてあらわれた感性のある具体的な様相を喚び起こすために<あたたかい>という温覚(語)を仮構したところで、概念の<風>であることに変わりない。また、<風を感じている><わたし>にとって、あるいはそのように感じていると発語したわたしの現在にとって、ある意味をもったエポックであることを限定するために、<春>という季語を選択的に付け加えてみても、なんらこのことは変わらない。

なぜなら、<わたしはあたたかい春の風を感じている>と書き留めた瞬間、”いつでもこのように表記し得るものとして”、現実の時期、現実の温度、現実の空気の起伏は表現された”現実の”<言葉>の自由さからは、身体生理的な関係を寸断されているとみなしてよいからである。

<あたたかい春の風>と表記された眼に見えない”もの”は、<わたし>が関与しない樹木の葉をいっきに振り落とすことも、きれぎれに震わせることも、わたしが<わたし>にかかわる場面の圏外では可能であるにちがいないのだが、わたしの<眼>がそのような事態に触発されないかぎりは、わたしの<感性>にも、わたしの<わたし>にも、すでに関与することじたいが不可能な事件として現象するほかないのだ。

逆説的に言えば、”この不可能さの度合だけ”わたしはある冬の、冷たい風が吹くどこかうす汚れた都市の公園で<わたしはあたたかい春の風を感じている>と表現することは可能だし、閉じこめられた独房のような暗い部屋のなかで、おなじ<風>の場面を言い表すこともできるからである。

なぜであろうか?

<言葉>は表現されたかぎりにおいて、現実的な抽象性を獲得している。それがどんな願望から発していようと、またどんな妄想にいたりつこうと、あるひとりの人間が”生きているかぎり”はかならず現実的であるほかないのと全くおなじ意味合いで現実的な根拠をもっている。現実的な根拠が<信>たり得るものかどうかは、まったく別問題であるにしてもだ。

ただここで付け加えて言い得ることは、<言葉>が抽象的な位相を獲得した現実的な根拠を、<言葉>以外の現実的な環境や事象に還元することはできないということ。<言葉>が<言葉>じしんを対象に付すことができる”概念的な表現”の位相が、すなわち<言葉>の抽象を可能にする起源であり、その推力を構成する場面そのものとして存在しているのだということ。それゆえ、わたしが<わたしはあたたかい春の風を感じている>と表現したとき、そこにはすでに恣意的に配列された(1)〜(7)の<風>が、いつどのようにでも抽象可能な概念として、したがっていつどのようにでも感性的でありうる概念として措定されているのだということ。いいかえれば、<風>についてのわたしの概念志向的な関心がなくならないかぎりは、抽象された<わたし>の現実、<わたし>の現在を表現するために、<あたたかい>とか<春>とかの感性的な言葉、現実認識的な言葉を選択することは、”概念的”に<自由>なのだと言っていいのである。

そこで、わたしは<わたし>を、普通そう認められている<詩>の文体に仮構するために、つぎのような数行を書き留めることは<自由>だと言える。

  (a) <1977年12月10日>
     ちいさな恋の惨劇のあと
     歩きはじめねばならなかった
     四散した窓ガラスの破片に映った
     きみは冬
     ミドリの風が吹く
     寡黙な朝の橋を渡っていった

  (b) 叫びと瞋りのあいだ
     救済は”じんあい”のように
     罪は浸透する”しお”のように
     灰になる
     春から夏へ
     きみは見えない
     ミドリの風が燃えはじめる

なにが<自由>なのか?

もともと<詩を書きつづける>ということを自覚した時点で、わたしはみずからの詩に<風>という言葉を導き入れる作業に腐心してきた。馬鹿げた執着の仕方であるかもしれない。

けれど、ほぼ十年くらい前に書いた詩のなかで、当時の鬱屈感を吹き払うようにして<風よ>と歌ったことが、<詩>を自覚的に書き、自覚的に読む発端をわたしに与えたことは確かなのである。そしてこのわたしの自覚は、”なぜ”倫理的な偏執と言ってよいほどに<風>を意識しなければならないのか?ということについての原理的な関心をも喚び起こして来た。<関心>が明晰な<原理>の把握へと至り得ていないのは、わたしの怠惰以外のなにものでもないのだし、そこにわたしの<迷路>たるひとつの由因があるのだと言ってもいいのだが、すくなくとも”ひとつ”の<言葉>をめぐって、詩的なものと原理的なものの両極に<書くこと>の持続の根拠を見つけ出そうとして来たことも確かなことである。そこに、わたしの<自由>があるというように。

ひとつの言葉が、ひとりの人間によってこだわりの対象になるとき、そこにはかならず現実を生きる個体の<理念>が志向され、醸成される表現の過程が存在しているのだと言ってよい。ひとりの人間が<言語>に執着し、<言語>にとっての<美>について倫理的な関心を抱きつづけることのうちには、かれにとっての<言語>の概念が、すなわちかれにとっての<言語>の像である仕方で、ある理念的な志向性が胚胎している。

おなじことは、わたしが<言葉>に執着し、<言葉>にとっての<感性>について執着し、倫理的な関心を抱きつづけることのうちにも言えるのだ。<理念>が先験的に前提されるのではなく、<理念>が表現過程の内部で醸成され、介在されてくる不可避的な志向性がそこにはあるのだと言い得る。

たとえば、”なぜ”<ミドリ>なのか?

言葉の<感性>からみれば、<緑>という視覚(色彩)的な感受の様相がこの言葉をもたらした<わたし>の発端である。けれど、”なぜ”<ミドリ>でなければならないかについて、わたしは意味志向的な問いを断念しなければならいない領域を持っている。いや断念が<諦念>としてあるのではなく、断念が<ずれ>として現出する断層の構造(領域)を認めるほかないのだ。

<ミドリの風>などという言い回しは、それだけをとってそう考えたければ、とてつもなく軽薄な言葉であり、言葉の修辞であるとみなすこともできる。けれど、ひとつの言い回しが撰ばれるにいたった表現過程の全体からすれば、<ミドリ>という言葉がさほど軽薄に意味の表層を流れているとは考えられない。そこにはひとつの、あるいは無数の<屈折>があるのだ。

”なぜ”<きみは冬>なのか?”なぜ”<きみは見えない>のか?”なぜ”<きみ>は<寡黙な朝の橋を渡って行った>のか?”なぜ”<風>は<燃えはじめる>のか?といった意味志向的な問いかけが、言葉の断層に出会って屈折する。そこに<詩的>ななにものかがあり、そこに<感性>の起源が現存しているというように。

だとすれば、これらの意味の屈折は、<ミドリ>という一語に畳み込まれ、折れ重なり、錯合されているのだと見なしてよいのではないか?

ひとつの切実さからひとつの像を!というわたしの欲求が、<ミドリの風>という言葉に帰着した。帰着してなにを手にしているのかと言えば、<自然>が<自由>であり、<自由>が<自然>であり得る<わたし>の概念像である。けれど、これはひとつの出発を告げているだけだろう。

<アジア>において<風>はいつでも<告知>するものであり、<予感>の美学を触発してやまなかった、といった概念(共同理念)の歴史をわたしはいま必要としているのではない。必要なのは、<風>の一語が<ミドリ>の一語を引き寄せた<わたし>の表現過程の全体が胚胎した<自由>もしくは<自然>についてのわたしの理念を、原理の対象に付してみることである。それはたぶん、<わたし>にとっての<わたし>の自由が、<わたし>にとっての<他者>の自由として現れる<批評>の世界を喚び込むはずだ。

<自由>の概念が、ある歴史時代的な<共同>の意味規範と拮抗する地平で、<個>の”自立の由因”を指し示す概念として現われ得るかどうかが、たぶんわたしの舌足らずな記述に見え隠れしている思想のテーマなのだと言ってよい。いやむしろ、舌足らずというよりは、<言葉>が概念像として成り立ち、理念の姿勢を確保していく表現の過程を、現象記述的に試みようとすることからくる制約があらわになっているのだと言える。そこには、いくつかの混乱や逸脱さえ見つけ出すこともできるはずだ。

また、わたしが”みずから”を引き寄せ、”みずから”を読み込むようにして吐き出された言葉の意図は、小鳥の<自由>ではなく、搦め手の<不自由>を捉えようとしているかに見える。なぜ、そうするのかと言えば、そこにわたしの<現在>があるとでも言うしかなかろう。

<書くこと>についてのわたしの倫理的な方法意識は、しかしこのような<そこにわたしの《現在》があるとでも言うしかなかろう>といった言い方じたいを懐疑の対象に付している。<現在>という概念が、そう言えばだれでも納得でき、了解し得る概念であるとわたしは考えていないからだ。

おなじように、<戦後>の概念がある歴史時代的なエポックを画する概念として自明であるとは考えていない。わたしが<戦後>の概念に向うとすれば、それは<小さな恋の惨劇のあと>であってよいはずだし、<書くこと>の<戦後>が<書くこと>の<戦い>を”いつどのようにでも”開始しうる概念の抽象をすでに獲得しているはずだと、わたしは思っている。むろんのこと、この抽象を手にするためにはそれだけの努力がいるだろう。

おそらく、わたしもそれほど分っているわけではないが、<非戦後>の概念が<批評>の言語として成り立つためには、<言葉>の位相に現れた<戦い>に意味を、みずからの概念像として引き寄せ得るかどうかにかかっている。ただわたしじしんは、<概念>がすなわち<像>として成り立ち得る根拠を、いいかえれば、<概念像>が”このわたし”から立ち現れてくる根拠を模索している。

言葉の回路が、依然として迷路のように入り組んでいる地点でなお<不安>な現在を抱えている、というのがこれまでのわたしのささやかな覚醒であろうか。

けれど、立ち暗む、わたしの<言葉>はどのように転回すると言うのであろうか?


                                   (つづく)

迷路の覚醒(3)

風はどこからも吹いて来ないーというより、風はどこにでも吹き荒れている(ことが可能だ)という感受の屈折がすでに成り立っている。往古の起源が現在の契機であることにおいて、風は概念の<風>として、アジア的な言葉の土壌とその自然(表象)とを普遍的に媒介し得るからである。

この感受の屈折が、飛躍の相を強制することなく拡げてみせる概念の領域に、しかしなお屈折した知の相貌をかき消すかに見えるわたしの内部の<風>が、<自然>と<意志>の狭間から<自由>の概念を実らせようとしている。けれど、わたしの皮膚を触発する空気の起伏もしくは波紋が<自由>でないのとおなじように、わたしの<自由>の概念は<わたし>のものではない。

<わたし>がそこであたかも生きているかのごとく振舞い、<自由>な身ぶりを獲得するためには、あるいは<自由>でない身ぶりを表わすためには、”このわたし”が巧妙でしかも脆弱な<身体>を所有し(強制され)、じしんの外部にあると判断される(異和の根源的分割がすでに想定されている)”もの”を、身体(眼)を通して見、身体(耳)を通して聴き、身体(皮膚)を通して感じているのとあたかもおなじ様相で、<わたし>は<自由>の概念(意味=抽象)にこれらの身体生理的な感受の内実を仮構して見せるほかないことになる。

かりにこのとき、<わたし>という未定の発語から、概念としての<風>が触発する<自由>という語の意味を、<わたし>が意のままに振舞うことが可能な(あるいは不可能な)場=舞台して、すなわち空間(表象)的な<眼>の像に仮構して見せるならば、<わたし>の<自由>は、たとえば<地平><空洞><闇>といった言葉を立ち現わせることができる。

むろん<わたし>から、あるいは<わたし>に向けて現出する<自由>の表象とその記述としての言葉は、<わたし>と発語した人間によってさまざまであり得る。そこにべつの像、べつの領域を喚び込むために、<荒地><宇宙><夢>といった言葉を<わたし>は現出するかもしれない。ただし、このことが可能なためには、発語の発端を異にするか、発端はおなじでも、契機としての概念(たとえば<風>)を展開する”概念像”もしくは”メタ言語”が異なることが、条件のひとつとして介在することになろう。

言葉の現象が、言葉の<意味>・言葉の<像>・言葉の<リズム>・言葉の<響き>といった局面を突出させながら、全体としてはこれらの局面が反撥し合い、折れ重なり合い、ついには錯合(累合)したひとつの”価値体”としてある言語情況のなかで位相性を帯びはじめる根拠を、言葉じしんの発生の力学を想定して比喩的に集約してみせるなら、たぶんふたつの問題に当面するはずである。ひとつは言葉の”喚起力”(具象力と端的に言っていいのかどうか、いまはわからない)という感性的な合力の所在の問題と、もうひとつは言葉の”抽象力”という概念的な推力の問題である。

いま、これらのふたつの問題をひとつの問題に糾合し得るのかどうか、<わたし>の言葉に現れた<感性>の”起源”の問題から問うことにする。

わたしは<他者>(わたしじしんをも含む)になにごとかを告げるため、しかも”なにごとか”という言い方でしか表わせないために未定である<わたし>への発語の滞留から、あるとき突然解き放たれた。すなわち<わたしは・・・>と呟いた。発端は現実にわたしの頬を吹く<風>である。するとわたしは、わたしの頬を吹き、わたしの皮膚(触覚)を刺激する現実の空気の波紋を、発語以前に<(これは)風だ>と判断した瞬間を持っているはずである。この瞬間の<判断>をどのような概念で理解するべきであろうか?あるいは理解することが可能であろうか?

ひとつの事象をひとつの言葉で掬い上げた<瞬間>の現象を、微細な時空の往古へと還元する方法をとるならば、ただ近似の命名(概念化の遠近法)が境界を限る棒杭のように立ち現れてくるだけである。そこでは、<判断>についての判断停止が、往古の地平へ放物線を描いて投げ出されている。

おなじように<瞬間(の)判断>を間接的には測定不可能な事態として、すなわち<時間>の方へも<空間>の方へも還元を許さない、逆に言えば<時間>の方からも<空間>の方からも超越した概念の極北として、たとえばわたしは<直観>という言葉でそれを括ることができる。けれどこの概念化の可能性は、わたしの<現在>からみれば不可避的なものではない。つまり<わたし>の不安な現在にとって、<不安>そのものを対象にし得る不可避な方法ではない。事象の概念化についてのわたしの不安は、あるいはすでに概念化しはじめている<わたし>の不安は、つぎのような揺れ方をしている。

<(これは)風だ>と判断(触知)している”このわたし”とは、<身体>としてのわたしであるのか?<意識>としてのわたしであるのか?

現実にわたしの頬を吹く”なにものか”の存在は、わたしの頬に触れているかぎり、身体生理的な感受の内実をすでにわたしの与えている。また、わたしがそれを<風>という言葉で対象に付したかぎり、<風>に込められた”なにごとか”の思念の内実を、わたしは意識的にもしくは無意識的に喚び起こされている。

すると、このわたしの<判断>には、<瞬間>を時間的な分岐の臨界として<(これは)>と感じている身体生理的な<触知>の判断と、無数の言葉の中から<風>を選択=抽出し得た判断との、ふたつの対象知が成り立っていることになる。しかもこのふたつの対象知は、それらがともになにものかに”ついての”あるいはなにごとかに”ついての”<判断>である以上、<知>の領域としての臨界の場面と場面を分割=現出し得たなんらかの異化作用(異和)を、ともに<わたし>の根底に据えていることになろう。

そこで、一方の<わたし>を直接的には<言葉>の領域にとどき得ない異和の総称として<身体>と名づけ、また一方の<わたし>を<言葉>の領域を現出する異和の総称として<意識>と名づけておこう。

すると、”このわたし”の<感性>は、どこへ行ったのか?

どこへも行きはしない。ただ、再びつぎのような問いを発してみる。ー ”このわたし”のふたつの内実、ふたつの異和は、”同時に”<瞬間>を現出させているのであろうか?それとも時間的な差異を伴って”ずれ”ているのであろうか?

空気(微粒子)の刺激を受けた触覚の反応が神経経路を通って脳組織にとどき、そこで触発された言語領野が<風>(という概念)を喚び起こした、といった神経生理学的な反応の流れを追えば、むろん後者であることにちがいはない。けれど、わたしが<風だ>と判断した瞬間におなじ命名を受けとめることができる空気の微粒が、わたしの頬をなお触発しているとすれば、それは”同時”であるとみなしてよいはずである。

なぜなら、わたしが酒を呑むためにガラスのコップを手にし、”手にした状態のままで”しばらく物思いに耽り、そして突然<(これは)ガラスだ>と意識した瞬間を考えてみればすぐに分るように、わたしの頬を刺激する空気の微粒の異同は、<判断>”(意識)の場面では”捨象=抽象されているからである。つまり第一次刺激の異同は問題ないのである。

ただ、”このわたし”を対象世界にたいする<現在>の総合と捉える方法からすれば、<身体>としてのわたしと<意識>としてのわたしが<瞬間>を契機にして二元論的に”分離”されたうえで、<意識>としてのわたしが<風だ>判断しているのではない、ということが問題なのだ。

いいかえれば、なにごとかを思念するわたしの発語への”関心”(意識的でもあり得るし、無意識的でもあり得る)は、<風>の身体生理的な感受の様相を発端にして、現実の頬を吹く物的な<風>の場面から概念としての<風>の場面へ”変容した”と言い得るだけである。そうして<変容>の心身構造(層)的な場面の現出、位相の”食い違い”の様相をこなれた日本語で言い当てた表現が、<ずれ>(断層)という言葉なのである。

この意味では、”このわたし”のふたつの内実、ふたつの異和は、総合的に”同時”であり得るし、一方から他方へ直接的には還元し合えない”変位の<構造>”を現出させている。

<感性>の起源の問題は、それゆえ”発生点”というような微細な還元のかなたにはない。起源がいつでも契機としてあり得る仕方で、わたしの<現在>を構成する”場面の構造そのもの”として現存している。しかも<感性>の概念が、アンビバレンツに”このわたし”の不安を抱え込んだまま、<意識>(概念)の方へも、<身体>(概念)の方へも変位的であり得るとすれば、表現された<わたし>は”価値”の規準へ向って、いつでも変位的でありうるであろう。

                                 (つづく)

迷路の覚醒(2)

いきなり、抜けるには難しい概念の森に踏み込んでしまった。
かすかな<風>の感触に誘われたのはいいのだが、入口はどこにでもあり、出口はどこにもない<わたし>の鬱蒼とした<死>の迷宮を、”このわたし”が<わたし>の通った位置の目印をつけながらさ迷い抜ける方法を余儀なくされているからだ。

わたしが<わたし>と書き記す。すると、その<>の記号はなにを告げようと言うのか。わたしがみずからをも含めすべての<他者>の”わたし”を告げるため、ほんとうは不定な、不安の感情に彩られた恣意の主観を、あるゆるぎない普遍の相貌へと仕立てあげる予告の徴しとしてそれはあるのか。あるいは逆に、わたしが<わたし>の<>を振りほどき、”このわたし”と一体になること、ぴたりと重なり合うことは、すでに不可能であることを認定する規約としてそれはあるのか。

予告と規約ーどちらにしても、その発端は”むこう”にあり、その展開は”こちら”にある。むろん、その逆も成り立ち得る。わたしがみずからの<不安>と<恐怖>の”由来”というとき、”むこう”と”こちら”のあいだにある<距離>(空間)のひろがりが、<接触>(時間)の起伏を構成する”現在的な起源”、すなわち”契機”として現出する過程(構造)の展開であることを想定していることを考えれば、わたしの<風>があるときは”唐突に”、あるときは”絶えず”吹いてくると(と感受される)<自然>の”契機”であり得るのとおなじように、発端の自然性は”いつどのようにでも”<意志>の展開として現れ得るからだ。

時間の”むこう”としての往古、時間の”こちら”としての現在が、じつは”往古の現在”とでも比喩し得る過程の構造を<わたし>に向けて現出する。そこでたぶん、わたしの<感性>が自己なる<意識>と自己ならざる<無意識>の相克に出会う現在的な由因があるとも言えるのだ。そしてそれは、いまのところわたしの<現在>が、差し出された言葉の像を<不安>な心情にあずけ過ぎているため、<意識>の明証へも、<無意識>の溶暗へも徹底して赴くことができない由因を形成している。

<書くこと>の”むこう”(<空洞>もしくは<闇>として現出する<他者>の地平)を前にしてうづくまる<わたし>のからだを、無理に引き起こしてみたところ、<書くこと>の”こちら”でわたしの<意志>が立ち暗む。この”立ち暗み”の場所、この”立ち暗み”の時間を構成する心的な諸相の基準が、わたしの現在的な<感性>の概念だと、さしむき言っていいかもしれない。

予告と規約ーひとつの発端が、多様な展開へと至り得るためには、テーマの規約があらかじめ想定されていなければならないか?

たとえば、わたしのとっては契機としての<風>が<アジア>の古層から吹いてくるとすれば、おそらくそれは<感性>の屈折(あらゆる規約との拮抗)を予告している。またそれが、<エロス>の迷宮へ誘う<他者>との接触の発端であるとすれば、同時にそれはどこまでも<他者>から遠く離れたがる<倫理>の基準を予測している。
またそれが、ある時代的な<人間>の概念を変容することになるかもしれない<言葉>への暴力、<言葉>からの恐怖を喚び醒ますあらゆるものの<存在>の生気であり得るとすれば、それは<死>の不可能を予感している・・・

問題は、かりにこのように告げられたテーマの規約が、<書くこと>の内部で規約じたいの変容を惹き起こす言葉の契機、言葉が現出する過程(構造)にたえず触れながら表現すること。その方法がどのようにして可能であるかということだ。

なにが言いたいのか?

わたしが<わたし>の不安と恐怖の由来を見極めるため、<わたし>にとっての感性、<書くこと>にとっての感性の現在へ赴く理由があるとすれば、書きながら<書くこと>の現在的な地平を問い得る<わたし>への表現の様相に、たしかになにものかに触れ得る”問いの構造”を確保しておく、という自覚を手離したくないからである。

いいかえれば、<自己なること>の自明性を疑い尽くす問いの方法が、方法それじしんの<生>と<死>、その生涯性をも問い得る現在的な基準はなにかを明らかにすること。つまりは<眼に見える>ようにすること。そうして、<手で把んだ>感じを言葉として差し出すこと。そのために、できるだけ<わたし>と表記し得る位相にとどまりながら、わたしがここ十年近く味わってきた<わたし>に固有な体験、<わたし>の”意識”(観念=自然的なもの。もしくは心的にポジティブな表出性)と<わたし>の”生理”(身体=自然的なもの。もしくは心的にネガティブな受容性)の固有な錯合(累合)の仕方、およびその心的な分裂の様相を記述すること。そのとき現れる<言葉>の凹凸(起伏)にできるだけわたしに固有な言葉で触れること。そしてそれを際立たせることーその可能(不可能)に向き合いたい、ということである。

たとえばいま、「通信」という位置の限定(むろん、みずからが課した)に則しながら、いまだ明晰な問いならざる問いを提出するわたしの切実さが、問いを提出するわたしじしんをもその問いの構造に繰り入れることを欲求する。(<わたし>が問題となる所以)

それはたぶん、比喩的に言えば、言葉が<言葉>の命脈にじしんの無言を潤し、じしんの生を繋ぎとめる水路の網目を張り巡らせていけばいくほど、ほとんど”異和”の突起とでも呼べる言葉のちいさな”こぶ”が、<書くーわたし>に向けてある癒し難い暴力をふるいはじめるからである。

あるいは、やはり比喩的に言えば、このちいさな”こぶ”が<書くこと>の内部では、差し出された<言葉>(意味)の広がりに拮抗するかのように、ある心的に強固なアレルギーの病原へ転態しはじめる。その転態の様相を<言葉>の腫瘤化、もしくはヘルニア化と言っていいかもしれない。言葉が抱えもつ<意味>の共同の領域に、<わたし>の言葉が身体=自然的な囲い込み(累合としての生理化。その極限としてのヒポコンデリー)を繰り返すことで、<わたし>に独自な言葉の固有領域を押し拡げようとするのだ。

むろんこうした言い回しは、それほどこなれていない概念を多発しているため、わたしじしんにとっても難解である。けれど、概念的に難解であるということは、すぐさま感性的に難解であるとは言い得ない。すくなくともわたしは、この「通信」にわたしの<言葉>をまとめ上げ、<見えない他者>に差し向けようとするとき、わたしの<わたし>にとっては異物のような言葉の腫瘤を感じないわけにはいかない。かりに<書くこと>の内部で、<わたし>の<>がいまだふたつの未定(予告と規約)を抱え込んでいるにしてもだ。

けれど、それはいったい”なぜ”なのか?”なぜ”そう感じてしまうのか?そして<わたし>にとって、と”なぜ”言い得るのであろうか?

”なぜ”なのかーそれほど分明な答えは見い出し得てはいない。また<距離>と<接触>の概念からすぐさま解き得るとも思っていない。<概念>という言葉をいまのところ字義通り、”概ねなにものか(もしくはなにごとか)”を”思念している”という意味合いで受けとめておくならば、<距離>と<接触>のふたつの概念に込めたわたしの表象(像)、いいかえれば”概念像”は、たしかになにものかを思念した涯に現れる<像>を当然含んでいなければならない。

けれど、わたしがわたしみずからを思念した涯に現れた概念が、<距離>と<接触>というふたつの概念であるとするならば、そこには概念が概念に対してとり得る<距離>(および<接触>)の位相をも自働性の水準(ヘーゲル的な概念の自己展開の水準を想定してもいい)で抽象されていなければならなくなる。そこのところで、わたしの<距離>と<接触>の概念=像は、立ち迷っている。

ほんとうは<書くこと>についても、<わたし>についても、”ひとつの”言葉、”ひとつの”概念が不定である、と感受されているいるために、なにも確かなことは言い得ないところにわたしはいるのだ。にもかかわらず、わたしが<わたし>の周囲をさ迷いながら<書くこと>について言葉を縫い合わせ、差し出してきているのは、わたしの<言葉>に対するある強迫めいた倫理観の由来とその態様を解き明かし、際立たせることが、やはり言葉の<背理>、言葉が最初から抱え込んだ”成り立ちの矛盾”として現象記述的に可能なのか、不可能なのかを問いたいからである。つまり<書くこと>の問題は、かならず<言葉>の現象の問題を喚び込んでしまうのだ。

そこでわたしは、まさしくこの<可能ー不可能>のあいだの距離を<書くこと>の内部では、結局言葉で推し測るしかないことになる。”推し測る”というのは、言葉で<言葉>の構造(時空性)を切り開くために、わたしの現在的な<感性>の地平から、つまりはわたしの<感性>の現在的な基準から<可能ー不可能>の帯域(いまのところ<空洞>もしくは<闇>として現出するある領域)を推論し、想像し、仮構して”見せる”ことである。しかもその地平性、その基準の現在性にたえず触れる仕方でそれはなされなければならないはずである。

<概念>が<概念>じたいの”成り立ちの矛盾”として現出し始めるとき、それはどこへ赴くのか?

体系の森、原理の自立と比喩しておきたい<知>の相貌が”むこう”で見え隠れしている。”こちら”は入りこんでしまった迷路の息苦しさに耐えきれず、ふいに立ち上がろうととするが、その瞬間、性懲りもなく立ち暗んでしまう。

<風>が欲しい、と思うのは、やはりこの時なのだ。

                                    (つづく)