原発を問う民衆法廷は2012年2月から国内9カ所で巡回法廷を開き、福島第1原発の核災害によってもたらされた惨状をつぶさに検証するとともに、「核の原罪」に対する民衆の心からの叫びと、正義を求める多くの良心の声に耳を傾けてきました。東京法廷は、これらを集約して国・東京電力をはじめとする当事者に重大な勧告を行います。同時に、日本国民、国際社会に広くこれを訴えるものです。
3.11以降の「核のない世界」に向けて、世界の核被害者
とともに議論したいと思います。奮ってご参加ください。
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2013年6月28日金曜日
2013年4月30日火曜日
実行委員会から
「原発を問う民衆法廷-第1回公判(2月25日・東京)における申立人の意見陳述及びそれを引用した第3回公判(5月20日・郡山)の決定の中に、一部事実と異なる部分がありました。
2013年4月30日 原発を問う民衆法廷実行委員会」
2013年4月23日火曜日
声明:経産省前テントの撤去に反対する!
***************************************** 声明:経産省前テントの撤去に反対する! *****************************************
チェルノブイリ人民法廷(1996年)は、「原発には民主主義がない」と言いました。 そのとおりです。日本のどの原発をとってみても、その建設過程、稼働・定期点検、事 故・故障処理など全プロセスにおいて地域破壊、人権蹂躙、事実隠蔽、無責任がまかり とおり、それと無縁であった原発はありません。福島原発事故においてもウソ、隠蔽、 過小評価が繰り返され、多くの住民を被曝させ、彼らの生活と地域を奪いました。原発 には民主主義がないことは明らかです。
国会事故調査委員会は、原発では、規制する側(原子力安全委員会、原子力安全・保 安院)が規制される側(電力会社)の虜になっていたと断言し、それが事故を引き起し た、福島原発事故は「人災」である、と結論づけました。
原発は「国策」として進められてきましたが、そこに民主主義はなく、国は住民のた めではなく電力会社、原子炉メーカー、経済界のために仕事をしてきたのです。
福島原発事故はこのような理不尽な構造を明るみにしました。しかし、経産省、電力 会社、原子炉メーカー等はなおも原発推進に固執し、福島の被害者を置き去りにし、棄 民しようとしてきました。これに対抗するには民主主義が必要であったのです。そのた めに2011年9月、経産省前にテントは置かれました。
以来、テントには福島の被災者をはじめ実に多くの人びとが訪れ、その中で、その前 で、その周囲で議論を起こしてきました。原発について、事故原因について、被災者支 援について、この国のエネルギー戦略について、そしてこの国の民主主義について多く の人びとが語り合い、行動を起こしてきました。テントは民主主義を回復し、実現する 拠りどころとなってきたのです。
そのテントを経産省は撤去すると言います。テントを撤去し、不法占拠した土地を明 け渡せと訴訟を起こしました。原発民衆法廷実行委員会は、テント撤去に反対します。 何故ならば、福島原発事故の原因は解明されず、責任を負うべき者たちは誰一人として 訴追もされず、従って、刑に服することも、賠償することもせず3.11前と同様の生活を 送っているからです。いまだに民主主義も正義も回復されていません。また、規制され る側の虜になり、福島原発事故発生の原因をつくった経産省は責任をとらないばかりか 、原発再稼働、原発推進に固執し、依然として何の反省もしていないことが明白だから です。経産省は今も、住民のためではなく、電力会社、原子炉メーカーのためだけに働 いているのです。そんな経産省が「公」も「民」も代表しているはずがありません。い まの経産省にテント撤去を求める資格はないのです。さらに、テントは経産省や司法が 名指しした二人のみが「占有」しているのではないからです。テントはそこに立ち寄り 、そこで議論し、原発とこの国の未来について真剣に考え、行動するすべての人びとの 拠りどころです。二人だけを相手に訴訟して結論をだせる問題ではないのです。
重ねて言います。「原発には民主主義がない」。それ故、それを推進してきた者たち に対抗するためには民主主義を拡大するほかありません。そのためにはまだ経産省前テ ントが必要なのです。
原発民衆法廷実行委員会は経産省前にテントがあることを求めます。 2013年4月11日
原発を問う民衆法廷実行委員会
2012年6月8日金曜日
原発民衆法廷-郡山公判 証人プロフィール
山本英彦
小児科医。大学卒業後、現在まで大阪赤十字病院小児科勤務。臨床医として、医療問題研究会に参加し、少しでも根拠にもとづく安全な医療をと心がけている。大阪小児科学会運営委員。
『低線量・内部被曝の危険性-その医学的根拠』(医療問題研究会編)を著し(執筆者の一人)、福島原発事故による子どもたち、住民の被曝の危険性、とりわけ内部被曝の危険性を科学的、実証的に証明。また、医師として福島にも入り、子どもたちの診察にも当たってきた。
佐藤武光
1948年、福島県に生まれる(双葉郡出身)。監督、プロデューサー。日本映画学校講師、駒澤大学非常勤講師。
福島原発事故の直後、故郷のことを案じ、実家に。その後、被災地の現実と、被災者の真実を伝えるためにカメラを携え、被災者の避難先を訪ね、「警戒区域」にも、「自己責任で入る!」と言って“突入”。そこでカメラが捉えたものは、倒壊した街並み、津波の被害でガレキの荒野と化した住宅地、倒壊を免れた人家の軒先で飼主を待ち続ける犬たち、放たれて彷徨う牛と牛舎で死んだ子牛…。そして、母校・双葉高校の、ひと気の無い校庭や野球部室、散乱するバットやボール。映画『立入禁止区域・双葉~されど我が故郷~』には、原発震災被災地の現実が映し出されている。
原発民衆法廷-第3回公判(郡山) 申立人プロフィール
若松丈太郎
1935年岩手県生まれ。福島大学卒業後、福島県の高校教師に。詩集に『夜の森』(1961年、福島県文学賞受賞)、『海のほうへ 海のほうから』(花神社、1988年福田正夫賞受賞)、『いくつもの川があって』(花神社、2001年度福島民報出版文化賞受賞)、『越境する霧』(2004年、弦書房)、『北緯37度25分の風とカナリア』(2010年、弦書房)などがある。3.11後に、詩集『ひとのあかし』(「ひとのあかし」「神隠しされた街」等を所収)を刊行。日本ペンクラブ、日本現代詩人会会員。福島県南相馬市在住。
渡辺ミヨ子
1942年福島県生まれ。1971年に双葉町に原発が建設され、これに伴って、周辺の町村を含めて地域が大きく変貌していく様を見続けてきた。原発事故後、「嘘と偽りを積み重ね、人々の心までもあやつり、自らの経済の豊かさだけを求めて来た人達に、過ちを犯した事への責任を明かして」もらうことが必要と考えるに至る。原発事故の前までは、無農薬で梅、ナツハゼを栽培し、梅干やジャム等を作っていたが、3.11後はそれも叶わなくなった。
吉沢正巳
福島県浪江町で父親が開いた牧場で、和牛の肥育、繁殖の仕事に従事。3.11原発事故後に20㎞圏内が警戒区域とされ、区域内の家畜について政府が殺処分を指示する中で、“牛たちには原発事故への生き続ける証人として東京電力、国、県に対して抗議してもらいたい”との思いから、「希望の牧場」を立ち上げる。「希望の牧場」では、被曝した牛たちを生かしつつ、被曝、除染の研究や実証の場を各大学、研究機関に積極的に提供し、成果を出していくことを追求している。
井上利男
「ふくしま集団疎開裁判」の会・代表。神戸市出身。1970年代、奄美大島に居住、石油基地進出反対住民運動に参画中、MAT(徳之島・使用済み核燃料再処理)計画が浮上、核問題の学習を始める。その後、奥会津に移住、脱原発福島ネットワーク会津の発足に加わる。2005年から郡山市在住。03年、ブッシュのイラク侵略を機に海外論調の翻訳活動を本格化。訳書:レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望~非暴力からはじまる新しい時代』(七つ森書館)など。ブログ『原子力発電_原爆の子』『Be Sober Now!』、ツイッター:@yuima21c
【2012年5月20日・第3回公判(郡山)】 意 見 陳 述 書(3)
原発民衆法廷判事団 御中
意 見 陳 述 書
2012年5月20日
住 所 福島県双葉郡浪江町大字立野字春卯野157
農業生産法人 有限会社エム牧場浪江農場
申立人 吉沢 正巳
1 浪江町民の人生と夢を奪ったもの
私は、シベリア抑留から帰った父が昭和45年ごろに千葉県四街道市から福島県双葉郡浪江町に移転した牧場で、330頭の和牛の肥育、繁殖の仕事に従事していました。
58歳になり、残りの人生をどうやって生きるかを考えていた昨年3月12日、14キロ先に排気塔が見える福島第1原子力発電所の爆発事故にあってしまいました。千葉の姉が定年後の田舎暮らしにと新築した住宅に同居してまだ3年目。東電や国の流した安全神話など疑問で、いずれ何かあるかもしれないと感じながらも、まさか、原発の爆発音や噴煙をじかに体験するとは思いもしませんでした。
あれから早くも1年余が経ちました。4月16日、国の警戒区域再編によって隣接する南相馬市小高区が「避難指示準備区域」とされ、一時立入りは自由になりました。私の牧場へも大型車で大量の飼料搬入ができるようになったのは、一歩前進です。しかし、牧場の入り口から南15メートル先の県道には新しい鋼鉄製のバリケードがつくられました。原発に近い双葉郡の浪江町、双葉町、大熊町、富岡町は、この新たな封鎖によって、先の見えない絶望の中で暗中模索が続いているのです。
原発の爆発大事故は、すべての浪江町民の人生や夢を奪い去り、放射能汚染の深刻な田畑、山林、街、海を残しました。壊滅的といっていい漁港の請戸地区、両竹地区の津波被害の現場に立てば、「絶望」の言葉がぴったりです。阿武隈山中の水を集め田畑を潤していた大柿ダムの恵みを活かした浪江の米づくりなど、二度と不可能でしょう。
町の崩壊を恐れ、浪江町役場は懸命に再結集を避難住民に呼びかけています。が、現状のままでは浪江町に帰る意味があるだろうか。双葉郡の中で最も広く、また深く放射能に汚染された浪江町は、除染不可能となれば、「絶望の町」、つまり「日本のチェルノブイリ」に他ならないだろうと思うのです。
2 「警戒区域」の地獄の底から
原発爆発から1カ月余り経った昨年4月22日、警戒区域が設定されました。原発から20キロ圏は警察により検問が一層強化され、裏道もバリケード封鎖されてしまいました。
警戒区域の設定は、「家畜と人間のどどちらが大事か」の選択をむりやり全畜産農家に迫り、停電の中で水もなく餌もなく見捨てられた家畜たちが、やがて餓死を迎え、ミイラとなっていったのです。仕方なく放たれた牛達が、野良牛の群れ田畑をさまよっていました。
近所の酪農家は、爆発直後、数日で搾乳牛すべてを見捨てて逃がさざるを得なかったほどの大混乱に陥りました。その後、避難先で残してきた牛たちのことを思い、何度も泣いたそうです。
私のエム牧場では社長の決断で、3月18日に浪江農場の舎飼いの肥育牛、育成牛を放し。330頭の餌としてモヤシ粕を運び入れ始めました。立入禁止地帯にされ、警察官とは何度とななく押し問答を繰り返し、果てはバリケードをずらして、「行かなければ牛が死んでしまう」と裏の山道をトラックで走りました。警察官の線量計が通常の1000倍を示したときもありました。まだ放牧場の草がない時期で、モヤシ粕は貴重な栄養源として牛たちの命を繋いだのです。
同じ地域内で、牛たちの地獄と天国が同居していたのです。
やがて南相馬市の許可証をもらって警戒区域に立ち入り、餌運びの合間に小高区や浪江町の農家の牛舎の惨状を目撃していた私たちは、逆に自分たちの牛の命を助け、餓死させない決意を固めていきました。スクリーニング検査に通い、多少の被曝はしながらも餌運びをしたのは、家畜を飼う畜産人としての当然の道であり、「見捨てないぞ」という意地も相当あったと思います。
3 牛の命を救う最後の砦になりたい
ところが国は昨年5月12日、警戒区域に生き残った家畜の殺処分を指示し、浪江町でも畜産農家、酪農家を集めて2回の説明会が行われました。説明会は紛糾の末、物別れに終わりました。殺処分は「農家の同意を得て」という条件付でしたが、「抹殺」を意味していたのです。
農家は原発事故の被害者であるにもかかわらず、殺処分に応じなければ近所迷惑の加害者にされてしまうという負い目の中にあったのです。県、国からの圧力が続き、多くの畜産農家の人たちがやむなく同意書に判をつき、精神的に相当苦しめられたと思います。
私の牧場の330頭の牛たちは被曝して経済価値はゼロになり、浪江農場の家畜業としての意味はなくなってしまいました。そのことを理解すると私は虚脱感で空しくなり、東京電力によって畜産人としての希望や人生を奪われたのだ、と思いました。
殺処分という国の方針には当然反抗しながらも、やがて冬が来れば牛たちの生命の十分な保証があるのか、わかりませんでした。特に子牛や赤ん坊たちはどうなるのか。雪も降るし、寒くなるだろう……と。
浪江農場は牛たちの命を救う最後の砦になろう。牛たちには原発事故への生き続ける証人として東京電力、国、県に対して抗議してもらいたい……。牛たちの生きる続ける意味とは何かを、私たちは長時間の議論の末に、やっと見出すことができたのです。
高邑勉、阿部とも子衆議院議員の援助、AFP通信社の協力、大学研究者の参加など関係者の検討の末に「希望の牧場」の構想がまとまり、私が代表に決まりました。
「希望の牧場」構想では、被曝した牛たちをずっと生かし続けながら、被曝、除染の研究や実証の場を各大学、研究機関に積極的に提供し、成果を出しながら、餓死でもない抹殺でもない第三の道として牛たちの生きる意味を国や農水省に認めてもらい、福島県の復興に役立てていきたいと考えています。
構想に基づく具体的な研究は昨年9月17日からスタートしています。
私の牧場の牛たちは現在、30ヘクタールの豊富な草地の中で元気に群れ、子牛たちも動き回っています。この様子は「希望の牧場」のブログでライブ中継されています。
4 決死救命、団結!
昨年3月17日、原子炉建屋で爆発が相次ぐ中、私は、浪江町はもはやこれまでと決断し、宣伝カーを準備して東京電力に抗議しようと考えました。もう浪江に戻れないかもしれないと思って、黒のスプレーで牧場の中に落書きをして東京に向かいました。
そのとき書いた「決死救命、団結!」のスローガンは、今も農場に残っています。今はそれに「希望」が加わり、私の支えになっています。
東京電力の原発事故をめぐってさまざまな抗議、要求運動が各方面から東電、国に対して行われています。福島県の畜産農家はこれからの打開策、展望がまったく見えずにいます。放射性セシウムを含む稲ワラ問題から発生した肉牛の出荷停止、値段の下落の中で、原因をつくった責任者である東電・国への追及はまだまだ不十分です。
「日本農業はもう脱原発を選ぶ」「福島県はセシウム汚染で原発一揆だ!」というぐらいのアピールが、関東や東京の電力消費圏に届かなければ、風評被害で差別され自滅縮小するばかりで、福島県の展望は見えないと思います。福島ブランドを捨て、他県に移住するのがベターなのか。私は、肥育農家が真剣に検討するときが来たと思っています。
5 私たちは2本足のガレキではない!
私の父は、新潟県小千谷出身で、あの戦争時代に満州開拓でソ連国境地帯に入植し、敗戦とともにシベリアに3年抑留され、戦後、千葉県四街道に開拓入植しました。満州開拓団は、敗戦間際のソ連参戦で関東軍が逃げ出し、悲惨な逃避行の中で多くの犠牲者を出しながら命からがら日本に引き揚げてきたのです。
東日本大震災、大津波、原発事故では、あの日本の戦争の時代とはちがうけれど、多くの命が犠牲になりました。戦時の棄民政策による満州開拓団逃避行の多くの犠牲者。原発事故による「棄畜政策」=国の指示による警戒区域内の家畜の殺処分による犠牲と農家の挫折。これはまったく同じではないか。国の「棄畜政策」は、やがて棄民政策となって、警戒区域の避難民にも切り捨て策となって転化されるのではないか。いずれ、私たちは「2本足の生きたガレキ」扱いにされるのだろうか。そう恐れています。
原発事故によって福島県浜通りの双葉郡浪江町、双葉町、大熊町、富岡町は深刻な放射能汚染地帯となり、すべての経済的生産活動が不可能な、まさにチェルノブイリの再来となってしまいました。
放射能という厄病神にとりつかれた厄介な土地として、見捨てられてしまうのか…
故郷とは、町とは何か…
田畑、山林、海は除染できるのか…
被曝とはなにか…
子や孫と安心して暮らせるときは戻ってくるのか…
高齢者を含め、避難住民が人生の終末を仮設住宅などで終わっていいものか…
私たちの苦闘、苦悶は続いています。
これらをどう乗り越えていくのか。
私は、いま、新たに築かれたバリケードの境界にある「希望の牧場」から、これらのことを多くの人々に呼びかけ、問いかけ続けていきたい。そう思っています。
以 上
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