1997年3月、渋谷・円山町で東電勤務のエリートOLが殺害された事件で逮捕された、ネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ氏。一貫して無実を訴えたゴビンダ氏は、15年の服役期間を経て、2012年、再審によって無罪となった。
ゴビンダ氏はその後母国に帰国したが、この度、支援者の呼びかけによって約5年ぶりに再来日。『東電OL殺人事件』などの著書を通じて、事件の冤罪の可能性を訴え続けたノンフィクション作家の佐野眞一氏と再会し、事件現場の円山町を歩いた。
娑婆での面会は初めてだった
東電ОL殺人事件の元被告、ゴビンダ・プラサド・マイナリが奥さんのラダさんと共に再来日した。ゴビンダが出稼ぎのため初来日したのは1994年のことだったから、23年ぶりの来日だった。
11月9日、東京・文京区民センターで開かれた「くりかえすな冤罪! 市民集会」に駆けつけたゴビンダは、私の姿を見つけるなり廊下の奥から駆け寄ってきてきつく体を抱きしめ「佐野さんは私の神様です。佐野さんがいなければ私の無罪は晴らせなかった」と涙声で言った。
1997年3月の事件当時、ふさふさだったゴビンダの髪の毛はすっかり抜け落ち、つるっぱげとなっていた。事件当時30歳だったゴビンダも51歳になるから当然の変貌ぶりとはいえた。だがこの23年間、ゴビンダの上を流れた歳月の残酷さをあらためて思わないわけにはいかなかった。
考えてみれば、ゴビンダとは東京拘置所や横浜刑務所の面会室でのガラス戸越しの面会や、東京地裁や東京高裁で傍聴席から少し離れて見ただけで、「娑婆」での面会と自由な会話は実はこれが初めてだった。
ゴビンダへの関心の高さは、この集会に200人あまりの聴衆が詰めかけたことでもわかる。ゴビンダは集会で「日本は素晴らしい国なのに、冤罪の人がたくさんいます。二度と私のような冤罪者を作らないようにしてほしい」と訴えた。
その翌日、私はゴビンダ夫妻と渋谷のハチ公前で待ち合わせた。そこから東電ОLの遺体が発見された渋谷区円山町の喜寿荘や、喜寿荘とは目と鼻の先にあり事件当時ゴビンダがネパールの友人4人と暮らしていた粕谷ビルの周囲を歩くのが、その日の目的だった。
ゴビンダに「渋谷も変わっただろう」と話しかけると、それには答えずスクランブル交差点の向こう側に目をやり、右腕に巻きつけたいくつもの目盛りがついた古いタイプの腕時計を私に見せて言った。
「この時計は初めてもらった給料を使ってあそこのビッグカメラで買ったんです」
あの頃のネパール人にとっては、日本の高級腕時計が最も高根の花だったのだろう。
そんなことを考えていると、ゴビンダは「渋谷も変わりましたが、一番驚いたのは日本の電車の中の変化です」と言った。
――どんな変化?
「初めて日本に来て電車に乗ったときは、乗客全員が新聞や雑誌、本を読んでいました。何と勉強熱心な国民かと思いました。ところが今度電車に乗ると、誰も本を読んでいませんでした。みんなスマホに夢中でした」
あらためて「出版不況」の現実を鼻先に突きつけられる思いがした。