経済にゆきづまると思想に走る
北朝鮮が「思想強国」を自称していると聞いたらどうだろう。なるほど、「経済強国」にはなれないが、イデオロギーの面ではある意味「強い国」だと妙な納得感を覚えるかもしれない。
だが、経済にゆきづまって思想に走るのはなにも北朝鮮だけの話ではない。
経済は元手が必要なためおのずと制約を受けるが、思想は実態がないため際限なく派手な議論ができる。かつて日本も同じ理由で一種の「思想強国」になろうとしたことがあった。
昭和戦前期。日本は、世界恐慌の深刻化と共産主義の流行からくる「思想国難」に悩まされていた。
思想問題を担当する文部省は、これに対処するため、1934年思想局を設置し、1937年『国体の本義』を編纂して、思想の力で国難突破を図ったのである。
この『国体の本義』の内容は、前代未聞のものだった。世界の思想問題は、日本が解決すると言い放ったからだ。
同書冒頭の「緒言」はいう。
日本は歴史上、中国やインドに由来する東洋文化を受け入れ、国体のもとで醇化(純化)してきた。ところが、明治以降はあまりに急いで欧米の文化を受け入れたため、それらをうまく検証し醇化するいとまがなかった。
ここに、今日の日本をめぐる思想的・社会的な困難の原因がある。
そもそも、日本が受け入れてきた西洋思想は、18世紀以降の啓蒙思想およびその延長の思想であり、個人に至上の価値をおいている。実証主義、自然主義、理想主義、民主主義、社会主義、無政府主義、共産主義などすべてそうだ。
欧米においても、こうした個人主義のゆきづまりが指摘され、ファシズムの台頭を招きつつある。
西洋文化はこれからも広く受け入れるべきだ。ただ、それは万古不易の国体のもとで十分に醇化されなければならない。そのためにも、われわれは国体の本義を解明し、体得しておく必要がある。
今日の様々な困難は、以上のプロセスによってのみ解決される。これは日本のためだけではなく、個人主義のゆきづまりに悩む世界人類のためにもなるのである――と。
『国体の本義』はかくも大言壮語する。ひとによっては、その魅力に取りつかれてしまうかもしれない。
また同書は、敗戦後にGHQの「神道指令」によって頒布を禁止されたため、「禁断の書」などと呼ばれ、あたかもそこには隠された歴史の真実があるかのような印象を振りまいてもいる。
顧みればここ数年、政治家の口から古めかしい言葉が相次いだ。「八紘一宇」「天壌無窮の神勅」「教育勅語」……。
わたしは、そのつぎにくる「復古風アイテム」のひとつがこの『国体の本義』ではないかと踏んでいる。『国体の本義』こそ、戦前日本のイデオロギーの集大成だからだ。その内容の充実ぶりは、「教育勅語」などとは比較にならない。
備えあれば憂いなし。
ここで『国体の本義』の歴史や内容についてあらかじめ知っておくのも無駄ではないだろう。