最高裁判所という「黒い巨塔」〜元エリート裁判官が明かす闇の実態
これは日本の縮図だ日本の裁判所と裁判のいびつな構造を次々に告発してきた瀬木比呂志さん。元エリート裁判官である彼が、まもなく渾身の小説を上梓する(10月下旬刊)。題して『黒い巨塔 最高裁判所』。一般にはうかがい知ることのできない最高裁の内幕を赤裸々に明かし、ストーリーも読ませる一冊だ。
なぜいま筆をとったのか、瀬木さんに話を聞いた。
なぜ小説を?
ーー『絶望の裁判所』『ニッポンの裁判』(ともに講談社現代新書)に続く裁判所、司法批判の第3弾が長編の権力小説とは、驚きました。今回、小説という形を選ばれたのはなぜですか。
瀬木 2冊の新書では、日本の司法、ことに裁判所、裁判官、裁判の総合的、構造的、批判的分析を行いました。内容からすると専門書も書けるテーマですが、専門書では読者が本当に限られてしまいます。
一般にはあまり知られていませんが、近年、日本の司法は著しく劣化し、裁判官の精神的荒廃はきわめて深刻なレベルに達しています。
三権を構成する司法の機能低下は非常にゆゆしき問題で、民主主義や自由主義の根幹に関わりますから、多くの読者に、広くメッセージを伝えたいと思いました。
また、僕は、過去には筆名で小説や評論も書いてきたので、もう一度、一般書で自分の力を試してみたいという気持ちもありました。
ーーそれにしても、今回の『黒い巨塔 最高裁判所』は重厚な本格小説ですね。『絶望の裁判所』は序章にすぎなかった……。そんな感想をもちました。
瀬木 2冊の新書は、基本が法社会学的、論理的、実証的なものであることからくる制約がありました。また、2冊の新書に続く『リベラルアーツの学び方』や専門書の『民事訴訟の本質と諸相』でも社会批評は行っていますが、それらについても、本のテーマからくる制約がありました。
そんな過去の隔靴掻痒(かっかそうよう)感を全部清算して、この小説では、自分のもっているもの全部を解放し、最高裁を舞台に、日本における「権力」の普遍的なあり方、「かたち」を描いてみたいと思いました。
いわば、これまでの僕のすべての仕事、民事訴訟法理論を除いた全仕事の総合、統合です。その総合を、いわゆる主流文学の方法に、映画、ロック等のポップな芸術の方法、感覚をも加え、重厚ではあるけれども面白く一気に読めるような作品という形で、成し遂げてみたかったのです。
ーーそういわれてみると、瀬木さんのこれまでの著作すべての要素がこの一作に凝縮されている感がありますね。
瀬木 途中の病気休養をはさんで約1年半、これは本当に大変でした。紆余曲折はありましたが、日本の奥の院といわれる最高裁の秘められた権力メカニズムを描き切った、そういう達成感はありますね。
裁判所ムラの住人、その実像
ーーこれまでにも、日本の「権力」を描いた小説等は多数ありましたが、この小説は、権力の中枢に長く属していた人でなければ到底書くことのできない、異様なまでの生々しいリアリティーと迫力に満ちていると思います。
最高裁や裁判所をテーマにした作品はこれまでにも多数刊行されていますが、本作を読むと、これまでの作品は何だったのだろうかと感じますね。
瀬木 そこまでおっしゃって頂くと面はゆいですが……。
ーーそれにしても、本書に登場する裁判官たちは、出世に目がくらんでいる官僚的、怪物的な人物が多いですね。日本人の多くは、裁判官はいささか杓子定基で面白みに欠けるが、正義感を持った清廉で誠実な人物だと考えていると思うのです。そのイメージのギャップに驚く読者が多いのではないでしょうか?
瀬木 アメリカでも、連邦最高裁判事はさすがにかなり生臭いですね。でも、たとえば州最高裁等には、廉潔で立派ないわゆる裁判官らしい人も多いです。
日本の場合には、ともかくシステムが戦前と変わらないピラミッド型ヒエラルキーですから、上昇志向の強い裁判官は、大体皆この小説のよくない登場人物たちのようになりますね(笑)。
でも、この小説では、そういう野心家たちをも、彼らなりの行動原理をもった、重みや影のある人物として造形したつもりです。現実の出世主義者なんていうのは、まあ、何というか、人間としては小さく、状況も見えていない愚かな人たちが多いですからね。
その意味では、現実の裁判所の裁判官たちは、出世主義者を含め、この小説の人物たちのようにくっきりとした魅力はないですよ。原子力ムラと同じような裁判所ムラの住人です。