●ホームレス自らを語る 第137回 ラーメン屋台を曳いていた(前編)/若月一知さん(55歳)
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「上野公園」(東京台東区)内の「東京文化会館」近くで会った馬場小夜子さんは、79歳という高齢にかかわらずしっかりした口吻で話してくれた。
「ホームレスの生活はきびしいですから、ボケてなんかいられませんからね」という。
その口から来歴が語られる。
「生まれは昭和10(1935)年、新潟県の直江津町(いまの上越市)でした。父親は地元警察の警官だったようです。私が生まれてしばらくして、母親が何かの事件に巻き込まれて殺されてしまったようです。詳しい経緯はわかりません。誰も話してくれませんからね。だから、私は母の顔を知らないんです」
警官をしていた父親は、男手だけで乳飲み子を育てるのは無理ということで、馬場さんを養女に出す。
「私のもらわれた先の養家というのが、ひどい貧乏でしてね。農家の納屋に住んでいました。養父は元建設工だったようですが、作業中に脚に怪我をして、それから働けなくなって一日中ブラブラしていました。代わりに養母が近所の農家の仕事を手伝って収入を得ていましたが、いくらにもならなかったと思いますよ。ご飯はいつも麦飯で、ときにはその中に大根のブツ切りが混じることがありました。大根のご飯は冷めるとまずくて、とても食べられませんでした」
馬場さんが物心ついた頃、すでに日中戦争の戦端は開かれており、小学校入学の年に太平洋戦争が始まり、1945年の終戦は小学4年生。彼女の幼年時代は、戦時一色に塗り込められた時代であった。ただ、田舎町の直江津は空襲に遭うこともなく、比較的のんびりとすごせたともいう。
終戦から5年後、1950年、中学を卒業した馬場さんは東京に出てくる。
「その頃の東京は、戦災の爪跡がまだいたるところに残っていました。私は東京に行って働こう。それだけを思って、何のあてもなく出てきたんです。東京といっても右も左もわかりませんしね。とりあえず、東京駅で電車を降りて、駅近くの壁に貼ってあたった『女給募集』のビラをたよりに、いまでいうスナックのようなところで働き始めたんです。お客の話しの相手をしながら、お酒を勧めるホステスの仕事ですね」
以後、四半世紀にわたる馬場さんのホステス生活が、ここから始まる。だが、その店での仕事は長くは続かなかった。
「その店にやってくるお客さんたちとはウマが合わないというか……私は田舎から出てきたばかりの15歳の小娘で、言葉の訛りもひどかったですからね。お客さんたちのほとんどの話題についていけませんでした。それにお店の人たちともうまくいかなくて、2、3カ月でやめてしまいました」
東京駅近くの店をやめた馬場さんは、上野に移りキャバレーのホステスになる。
「上野はよかったですよ。水が合ったといいますかね。下町のお客さんはたちは気さくで、私の訛りも面白いと言って喜んでくれるんですから」
その後、キャバレーやスナックなど、いくつも店を替えることになるが、ずっと上野界隈が中心で、離れても赤羽(北区)くらいまでだったという。
「ホステスの仕事で稼いだお金の半分は、田舎の養父母たちに送りました。15歳まで育ててもらったお礼で、それが約束だったですからね」
養父母への送金は、ふたりが亡くなるまで律儀に送りつづけたそうだ。
1950年代後半になると、当時、一大キャバレーチェーンだった「ハリウッド」が上野にも進出。馬場さんも同店のホステスになった。
「私は子どもの頃から歌うことが好きで、東京へ出てきたのは歌手になれたらという思いもあったんです。それは夢で終わりましたけどね。それでも歌が上手だということで、キャバレーのショータイムで歌わせてもらいました。『カスバの女』とか、『星の流れに』『岸壁の母』などをよく歌いましたね」
歌えるホステスは店での人気者になっていく。ホステスの世界は売り上げを競い合う熾烈な闘いの場でもある。
「私もナンバーワン・ホステスの座を目指してがんばりましたけど、一度もナンバーワンにはなれませんでした。ナンバーツーかスリーまではなれるんですけど、どうしてもワンの座には着けませんでしたね。ワンになる人には特別な品格というか、雰囲気があって、美人だからとか、歌が上手だからくらいではなれないんですよ」
さて、当時のキャバレーというと、いまのピンサロなどと違ってピンク度は低かったという。
「キャバレーはお酒を飲みながら、お客さんとホステスがお話しをしたり、ショーを見たりするところで、大人の社交場といわれホステスにもプライドがありました。ですから、お客さんに誘われたとか、変なことをされたということはありませんでした。胸とか、お尻を、ちょっとさわられるくらいのことはありましたけどね」
このキャバレー「ハリウッド」で働いていた頃、馬場さんは恋に落ちる。
「深夜、キャバレーの仕事が終わってから、よくお馴染みのお客さんとラーメンを食べに行くことがあったんです。行く店はいつも決まっていて、そこでラーメンをつくっている店員さんにステキな人がいて、そのうちに私一人でも通うようになっていました」
彼女の思いは、やがて相手の彼にも通じる。二人は相思相愛の関係になって、肉体的にも結ばれ結婚することになる。といっても、二人で神社に行って柏手を打っただけの結婚式であった。このときの馬場さん、24歳。人生の春がめぐってきた。(つづく)(聞き手:神戸幸夫)
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「東池袋公園」(東京・豊島区)で会った香山博一さん(仮名・52)は、それまでの自身の人生を饒舌に語ってくれた。
1962年東京の生まれで、大学中退後、営業職などを転々としたこと。サラリーマンを定年退職した父親が個人営業の運送会社を設立し、それを手伝うようになったこと。設立当初はバブル経済の追い風もあって順調だったが、2年後、バブル経済の崩壊とともに経営は窮地に追い込まれ倒産に至ったことなどが早口に語られた。
「ちょうどその頃、母親が不慮の死を遂げる。自殺だった。うちの父親と母親は不仲で、それがずっと続いていたんだ」
それまで饒舌に語っていた香山さんだったが、この話題はそれだけ語って口を噤んだ。この話題にはあまりふれたくない感じである。
父親が経営していた運送会社が倒産になり、香山さんは別の配送会社に雇われる。ときに彼が33歳のときのことだ。
「印刷所で刷り上った通信販売やデパートのカタログを軽トラックに積んで、通販会社やデパートに配達するのが仕事だった」
しかし、世の中はやがてインターネット隆盛の時代を迎え、カタログの需要は減少の途をたどることになる。しかも、長引く不況でカタログ配送のような隙間産業にも、大手運送会社が参入してくるなどもあって、香山さんが働いていた配送会社は2002年に閉鎖を余儀なくされる。そのとき彼は40歳になっていた。
「それから職探しをしたんだけど、不況の真っ只中だから、なかなか見つからなくてね。ハローワークに行ったこともあるけど、報告義務がいろいろあって、とても面倒臭いんだ。それに募集条件に一つでも合わないところがあると、即ダメ。募集企業の面接も受けさせてもらえない。典型的なお役所仕事でイライラするばかりだから、すぐに行かなくなった」
それに香山さんの場合、働けるなら仕事の内容は構わないというわけではないのも、就職の機会を狭めているようだ。
「オレの場合、人の下で働くこととか、現場作業は苦手だからね。できれば、人を指示して動かすような仕事が向いていると思う。理想的には学校の先生や学習塾の講師などの仕事に就けるといいんだけどね」
不況の時代ならずとも、教職の資格もない彼には、高望みとしかいいようのない希望である。あるいは、20代の頃にわずかな期間だったが塾講師の仕事に就いたことがあり、それが尾を曳いているのかもしれない。
いずれにしても就職するあてのない香山さんは、父親が暮らしている実家に身を寄せ、その年金生活に寄生したパラサイトシングルの生活をすることになる。
2012年。香山さんが実家に身を寄せて10年目、父親が倒れた。病院に救急搬送され、そのまま入院し手術を受けた。退院して家に帰ってきた父親は、半身不随で介護が必要な身体になっていた。病名ははきりしないが、父親の様子から脳梗塞かクモ膜下出血などの病気のようである。
「父親が退院してからは、その介護と二人の生活を、オレ一人でやらなくちゃならなくなったけど、どちらも経験したことがなかったから大変だったよ」
口はめっぽう達者だが生活力には乏しく、それまでの生活は、すっかり父親まかせだったという香山さん。それからの父親の介護と、二人の生活には悪戦苦闘だったようだが想像に難くない。
「半年ほど一人で何とかがんばったけど、お金の遣い方というか配分がうまくできなくてね。次の年金の支給日まで何日もあるというのに、金が1円もなくなったりして……買い置きしてあったインスタント食品も食べ尽くして、父親とふたりで飢えた腹を抱えてすごしたこともあった」
裁量がうまくできずに、しだいに追い込まれていった香山さんは、別に暮らしていた弟をよび寄せた。弟の方が自分より目端が利いて、生活力が旺盛だったからだ。
「それで弟に実家で暮らす権利と、父親の年金を自由に遣っていい権利を譲り、その代わり父親の介護と生活の面倒をみることを条件にして相談したところ、弟は二つ返事でOKだった。それでオレは仕事を見つけて働きながら、アパートにでも入って暮らすからと言って家を出た」
香山さんが家を出たのは、13年7月のこと。いまの労働市場は非正規労働者が全労働者の3分の1を占める。こんな状況のなかで仕事の選り好みをし、しかも50歳を超えた香山さんに仕事のあろうはずもない。
「家を出たその日から即ホームレスだった。はじめ吉祥寺の街で始め、それから荻窪、池袋、川口(埼玉県)、新宿と移って、最終的に池袋に落ち着いた。池袋は高校と大学に通うのに使った街で、街に馴染みがあるのと、街の雰囲気が好きなんだ。夜は駅や公園、ビルの間など、毎晩適当なところに寝ている。警官や警備員に注意されたら、違う場所に移るだけだ」
食べ物は炊き出しとスーパーマーケットなどの試食、それに賞味期限切れ間近のコンビニ弁当などを時々入手して賄っている。香山さんは就職への意欲を失ったわけではないという。
「仕事探しは続けている。仕事が見つかったら、結婚して、行くゆくは独立したい。夫婦でコンビニでも始められたらと思う。よくテレビの番組で脱サラして独立し夫婦で働いている人が紹介されるけど、どの夫婦も生きいきとして良い表情をしているよね。それに憧れ、できたらオレもそんな人生を送りたいと思っているんだ」
まだこの先の人生を諦めたわけではない、52歳の夢見るホームレスだ。 (この項了)(聞き手:神戸幸夫)
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豊島区の「東池袋公園」で会った香山博一さん(仮名・52歳)は、よく話す人で、話の内容がこちらの質問を超えて展開し、軌道修正するのが大変なほどよく話してくれた。その生い立ちから聞いていこう。
「生まれは東京・杉並区。昭和37年、西暦では1962年。3人きょうだいの長男で、下に弟と妹がいる。父親はサラリーマンで、あるメーカーの電算機室の室長をしていた」
電算機と言うのはコンピュータのことで、当時、その室長の地位にあったというのはエリート社員である。経済的にも恵まれ、香山家の暮らし向きは良かったようだ。
「父親以下、家族の全員が理数系に強い家系だったんだけど、なぜかボクだけは理数系がさっぱりで、社会科を中心にした文系が得意だった。勉強をするのは好きで、教科書や偉人の伝記をよく読んでいた。小学生の頃は学校帰りに、一人で区立図書館や博物館などに行ってたね。
それに子どもの頃から、目立つこと、人の上に立つことが大好きで、中学では演劇部に入って演出をやっていた。大きくなったらテレビタレントになりたいと思っていた時期もあった。漠然とだけどね」
いまは茫々の髭で顔の半分が覆われているが、よく見ると彼は鼻筋の通ったイケメン顔である。
香山さんは区立の小学校、中学校を出て、高校はD大学附属高校で学び、さらに埼玉県にあるJ大学経済学部に進学する。どこの大学でも経済学部は文系学部ということになっているが、経済学は夥しい数式を使って計算する学問分野で、どちらかといえば理系要素が強い。
「ボクは理系のことは、さっぱりわからないからさ。2年生の途中で授業についていけなくなって、大学に行かなくなった。そのうちに除籍になっていた。まあ、挫折したわけだよね」
J大を除籍になった香山さんは、あるロウソクメーカーの営業に職を得る。ロウソクの営業といえば結婚式場、葬儀場、仏具店、寺院、神社など限られた得意先を回るルート営業である。
その営業職の傍ら、彼はまた大学での勉学に挑む。こんどはK大学経済学部の通信教育を履修したのだ。懲りたはずの経済学に再度の挑戦をしたのである。
「K大の通信教育を受けることにしたのは、父親から『これからの時代は、大学卒の履歴があったほうがいい』とアドバイスされたからなんだ。でもK大の通信教育はすごかったよ。レポート提出の数と量が半端じゃないんだ。とてもルート営業の片手間にできるようなものではなかった。1年ももたずに投げ出していたね」
その後、香山さんは仕事のほうも、ロウソクメーカーの営業から、某ミシンメーカーの営業所勤務の仕事(駅前でのカタログ配布)に替え、さらに某照明器具メーカーの営業へと替えている。彼の23歳から27歳にあたる時期で、ときあたかもバブル経済が沸騰していた頃である。完全な売り手市場の時代で、仕事はいくらでもあったときだ。香山さんが勤務したという3つのメーカーは、いずもわが国を代表する一流メーカーである。
一時だが、香山さんは学習塾の講師を務めたことがある。
「笹塚(渋谷区)の先にあった高校受験のための学習塾で、社会科を教える講師になった。じつは、オレは人に使われて働くより、人の上に立って働く方が好きで、学校の先生になるのが子どもの頃からの夢の一つだったんだ。その意味で、塾の講師は理想的な職業だったから、はりきって教えたんだけどね……」
その学習塾は開業からわずか10カ月ほどで、閉鎖に追い込まれたのだ。
「笹塚の駅から遠くて立地が悪かったこと、個人経営の塾だったから十分な宣伝がかけられないことなどが重なって、生徒が集まらなかったんだ。はりきっていただけに、閉鎖のショックは大きかった」
当時を思い出すのか、いまでも無念そうに語る香山さんだ。
そのときの彼は27歳。いわゆる結婚適齢期だったが……。
「結婚はできなかったね。結婚願望は強かったんだけど、周りに深くつき合うような女性がいなかったのと、うちは父親と母親がとても不仲で、ケンカの絶えない夫婦だった。そんなのを見て育ったから、結婚生活に幻滅を感じていたところもあったんだな。ボクが結婚できなかった原因は、多分それだと思うよね」
香山さんが学習塾講師の職を失った頃、ちょうど父親がメーカーを定年退職する。そして、退職金を元手にして運送会社を始める。
「といっても、軽トラック1台だけの小さな運送会社だけどね。大手運送会社の下請けで、都内の営業センターから別の営業センターに荷物を運ぶのが仕事だった。それをオレと弟で手伝うことになった」
はじめのうちはバブル経済の絶頂期とあって、配送の仕事はいくらでもあり面白いように稼げた。しかし、会社設立から2年後にバブル経済は崩壊。一転してきびしい不況時代に突入する。
「それまで120円だった配送単価が、バブル崩壊からジリジリと下がって60円にまでなった。もう仕事をすれば、するだけ赤字になるという状態だよ。それで会社を畳むことになった。オレが33歳のときのことだね」
さらに、追い打ちをかけるように香山家に不幸が襲った。母親が不慮の死を遂げたのである。自殺であった。それまで饒舌すぎるほどに語っていた香山さんだったが、このときばかりはしばらく口を閉ざして黙するのだった。(つづく)(聞き手:神戸幸夫)
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新宿中央公園で会った山田元さん(仮名・53)は、山口県美祢市の出身。地元の高校を卒業後、子どもの頃から機械いじりが好きだったということで、京都の自動車修理工場に就職。希望通りの職場環境で居心地も悪くなかったようだが、なぜか6年で退職してしまう。理由は「都会の生活に飽きたから」だという。以後、故郷の美祢に帰って、職場を転転とする。そして、31歳のとき神奈川の自動車工場で期間工として働き、それををきっかけに、ずっと首都圏で暮らすようになる。自動車工場の期間工を1年で終えたあとは、上野公園の手配師の紹介で飯場に入って建築土木の作業員として働く。典型的なホームレスへの転落のコースである。ただ、山田さんは他のホームレス予備軍とは少し違った。建築土木の作業員として働く人の多くは、半月契約で飯場に入り、契約満了になると半月分の給料をもらって飯場を出る。あとはドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、金のなくなるまで遊び暮らし、金がなくなるとまた飯場に入って半月間働くというのが一つのパターンである。
「オレの場合は職長から『おまえはもういい』と言われるまで、同じ現場で2カ月でも、3カ月でも働きました。長いところでは、同じ飯場に3年間いたこともあります。それで仕事を終えて飯場を出ると、上野公園に行き手配師から新しい飯場を紹介してもらい、すぐにそちらに行って働くという具合でした。真面目だったですよ」と言って笑う山田さんだ。過去にはいくつもの職場を転々とした山田さんだが、この飯場仕事は15年以上も続いたのだ。よほど水が合ったのだろう。
その彼が48歳か、49歳で建築土木作業員の仕事をやめてしまう。
「オレは酒を飲まないし、ギャンブルもやりません。そういうのは飯場暮らしに向かないんです。つき合いが悪いから、人間関係がうまくいかなくてやめました」
最初はそう応えていた山田さんだったが、しばらくしてこんなことを漏らすようになった。ほんとうの理由はこちらのようだ。
「バブル(経済)の崩壊から、建築土木作業員の日当は下がり続けていて、いま6000円ですからね。最盛期の半分以下ですよ。そこから3食の食事代、風呂代、それに夏はクーラー代、冬は暖房代が引かれます。雨の日は仕事が休みになって日当は支払われませんが、食事代などはキッチリ引かれるでしょう。雨の日が3~4日も続いたら赤字になりますからね。だから、15日間飯場に入っていても、いまはいくらの稼ぎにもならないんです」
それで山田さんは新宿中央公園で路上生活をするようになった。路上生活をするようになっても、怠惰な生活に陥ることはない。
「ホームレスといっても上等なのから下等なのまでランクがあって、私は道端に寝転がっている連中とは違います。ホームレスをしていても、プライドがありますからね」
そう言い切る。ホームレスをしながらも、誰にも迷惑をかけないこと、後ろ指を指されるような生き方はしないことを心に誓っているのだ。
いま山田さんは働いている。
「週2日間、月曜日と金曜日だけですけど、アルミ缶拾いをやっています。缶拾いの日は深夜の12時頃自転車で出て、東は四谷あたり、西は笹塚あたりを、朝7時頃までかけてまわります。朝10時頃には買取人が来るから、それまでに拾い集めたアルミ缶をつぶして準備しておきます。いまはキロあたり105円で買い取ってもらえるから、1回で約5000円、1週間で約10000円の稼ぎになります」
食事はその金ですべて賄う。コンビニやスーパーで売っている弁当やインスタント食品が多いという。
「オレの食事は、朝、昼、晩と3食決めて食べているわけじゃありません。腹が減ったら食べるという方法です。それが夜中だろうと、腹が減ったら食べます。そうやっていると、だいたい1日2食でいけるようになります。週2回のアルミ缶拾いのほかは、身体を動かすわけじゃありませんからね。腹もそんなに空きません。腹が減ったら食べる。それが私の健康の秘訣です」
山田さんはアルミ缶拾いで得た収入で、食事代を賄うほかに、定期的に銭湯にも行っている。それに髭も毎朝剃り、洗濯もこまめにやって、常に身奇麗にしているのだ。
「飲食店のゴミ箱を漁って食べられるものを探したり、シケモクを探してウロウロしたり、道端の適当なところに寝転がったり、ホームレスに堕ちたからといって、そんな真似はしたくないですからね」
路上生活をしながらも矜持を失わない生き方だ。
「ホームレスのなかには生活保護を受けている人もいますが、私はイヤですね。生活保護の申請をすると、田舎の親兄弟や親戚などに照会がいくんでしょう? そんな恥晒しなことはできません。そんな恥をかくんなら、飢えて野垂れ死んだほうがマシですからね」
これもプライド高い山田さんならではの考え方である。
最後に山田さんはこう結んだ。
「明日のことは考えません。今日一日を無事に終わることが大切です。一日を無事に終えて、公園内に段ボールの箱を組立てて、その中に潜り込んでいくときに幸せを感じます。というのも、最近この公園の管理が新宿区から民間業者に委託されたんです。公園で暮らしている仲間たちのあいだで、近く追い出しがあるんじゃないかという噂が囁かれています。いまのところ、そんな動きはないようですが……そんな状態だから、今日一日を無事に終わることが大切なんです」(この項了)(聞き手:神戸幸夫)
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ホームレスをしている人には、酒やギャンブルで身を持ち崩した人が多い。ところが、今回紹介する山田元さん(仮名・53)は、酒とも、ギャンブルとも無縁だという。
「私は酒もギャンブルもやりません。ホームレスといっても上等なのから下等なのまでランクがあって、道端に寝転がっている連中と私は違うと思っています。同じホームレスでもプライドがありますからね」
そう言い切る山田さん。彼は着ているものはこまめに洗濯し、銭湯にも定期的に行って身ぎれいにし、食事もすべて自分で稼いだ金で求めたものを食べているという。非常にキチンと矜持をもって生活している人なのだ。その来歴から話してもらった。
「生まれは昭和35(1960)年、山口県美祢市の出身。美祢市は観光では秋芳台・秋芳洞が有名で、産業としては石灰岩を産出し、採掘現場から30キロ以上先の宇部興産の工場まで1本のベルトコンベアで運ばれている光景が見られます」
父親は大工。きょうだいは3人で、山田さんは末っ子である。子どもの頃の彼はおとなしい性格だったという。
「友だちと遊んでいるときなど、『おまえもいたのか』と後になって気づかれるくらい目立たない存在でした。趣味は機械いじりで、中学生の頃には農家から使わなくなった耕耘機とか草刈り機なんかをもらってきては、それを分解して遊んでいました。機械の構造が好きだったんですね」
それだけ機械好きな山田さんだったが、高校は地元の普通高校で学んだ。そして、卒業後は京都の自動車修理工場に就職したというから、ややジグザグした人生行路のスタートであった。
「自動車修理工場での仕事は楽しかったですよ。好きな機械の分解と組立てが主な仕事ですからね。工場の先輩たちもみんな親切で、ていねいに指導してくれましたしね。私も自動車整備士の資格取得を目指してがんばったんです」
山田さんは修理工場で働くようになって、その寮に入った。こうしてケースでは、寮の先輩たちから酒やギャンブルの手ほどきを受けて、それにハマって身を持ち崩す例も多い。
「そういう誘惑の少ない職場でした。真面目な先輩が多かったんですね。従業員の歓送迎会や新年会、忘年会などでは、私も出席してつき合いで酒を飲みましたが、普段は酒を飲みたいと思いませんでしたからね。いまでもそうですよ。ギャンブルに誘う悪い先輩もいませんでしたしね。愉しみは盆暮の休みに、田舎に帰ることくらいでした」
とてもうまくいっていた自動車修理工場での仕事と生活だったが、就職から6年後の24歳のときに辞めてしまう。その理由は「都会での暮らしに飽きたからです」という。そのまま出身地である美祢に帰った。
美祢に帰った山田さんは、実家に身を寄せながら市内の石材工場で働くようになる。
「その工場では建築の外壁や床材に使用する石材をつくっていました。その頃から石の切断にコンピュータが導入されるようになっていて、オレたち従業員の主な仕事は石材の表面をツルツルに磨きあげることでした。ダイヤモンド粉を塗布した砥石と、専用のフェルトを使って磨くんですが、キチンと水平に磨きあげるのがむずかしかったですね」
この細かい神経を要する仕事は山田さん向きではなかったようで、2年ほどでやめてしまう。その後も実家に身を寄せたまま、レストランの皿洗い、自動車工場の臨時工、商店店員などの職場を転々とする。どこも1年と続かないで職場を替えたのだった。
「31歳のときに首都圏に出ました。久里浜(神奈川県)の自動車工場に期間従業員で雇われたんです。その仕事は美祢のハローワークで見つけました。工場近くの寮に入って、仕事は車の組立て。半年契約で働きはじめたんですが、途中1回の契約更新があって1年間働いたところで用済みになりました」
それで工場の寮を出されたが、首都圏の地理には不案内である。とりあえず、東京の上野公園に向った。期間従業員の仲間たちが、仕事に困ったら上野公園に行けばいいと言っていたのを覚えていたからだ。
「上野公園に着いてしばらくすると、手配師から声をかけられ仕事が紹介されました。15日間契約で飯場に入って、工事現場で働く仕事です。ほかに行くアテもないし、受けるより仕方ありませんでした。15日間の契約で入った飯場でしたが、仕事ぶりが気に入られて、更新、更新を繰り返して、最初の飯場に3年間も入っていましたよ」
こうした飯場に入って働く人は、契約の15日間働くと、その日当をもらって場末のドヤ(簡易宿泊所)に移り、金がなくなるまでギャンブルや酒で遊び暮らす例が多い。しかし、山田さんはそうした怠惰な生活を好まなかったのだ。
「飯場には15日間契約で入るのが原則ですが、オレの場合は職長から『おまえはもういい』と言われるまで、2カ月でも、3カ月でも働きました。それで飯場を出ると上野公園に行って、手配師から新しい飯場を紹介してもらい、すぐにそちらに行って働くという具合でした。真面目だったですよ」
仕事はマンションや商業ビルの建設工事が多かった。そんな一つに「六本木ヒルズ」の現場もあったそうだ。
「そうやって真面目に働いても金は貯まりませんでしたね。貯まらないような搾取のシステムになっているからです。何だかんだと理屈をつけて、日当から差し引かれてしまうんです」
山田さんは48歳か、49歳くらいで飯場仕事をやめ、新宿中央公園でホームレスの暮らしをはじめることになる。(つづく)
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東京上野の広小路で会った小山さん(62)は強度の緊張症で、人と話していて緊張が嵩じてくると言葉が発せられなくなるという人である。この取材中にも、そんな状態に陥いることが数回あって、そのたびに取材は中断されるのだった(本稿は中断部分は割愛して構成してある)。
出身は秋田県白神山麓の村。彼が小学3年生のとき、営林作業員だった父親が作業中に大ケガを負う。父親は九死に一生を得たものの、以後、亡くなるまでの17年間病床を離れることがなかった。それからは母親の手で、6人のきょうだいとともに赤貧のなかで育てられる。母親の苦労は並大抵ではなかったようだ。
「中学を終えて、地元の大工の棟梁に弟子入りしたんだ。仕事は住宅の新築や増改築工事が多かった。ただ、田舎だから住宅関係の仕事だけでは食えないからね。暇なときには、みんなで土木作業をすることもあった」
そして、ここでも不幸な事故が起こる。棟梁に弟子入りして2年目のことだ。ある新築住宅の現場で1階と2階をつなぐ天井スラブコンクリートの型枠を外していたところ、そのスラブ全体が崩落。1階で作業をしていた棟梁の息子が、その下敷きになって死亡するという事故であった。それ以来、棟梁は跡取り息子を失ったショックで、仕事に身が入らない状態になり、小山さんはその元を離れ出稼ぎで働くようになる。
「出稼ぎの仕事では、夏は北海道で働き、冬は東京で働いた。ちょうどうまい具合に、そういうふうに季節に合わせた働き方ができたんだよ。北海道ではダムの建設はじめ、林道工事、宅地の造成などで働き、東京ではビルの建築工事、地下鉄や道路建設の現場で働くことが多かった」
夏は涼しい北海道で働き、冬は暖かい東京で働くという労働環境は快適で、そうした飯場暮らしの出稼ぎ仕事が10年ほど続くことになる。この間にも、小山さんの周辺では不幸なできごとが続く。
「出稼ぎで働くようになって2年後、オレが19歳のときに、母親が病気で亡くなる。原因は乳ガン。ガンの発見が遅れて、あっという間に逝ってしまった。オレが小学生のときに、山で大ケガをした父親は、まだ病院に入院したままの状態のときだよね」
苦労をかけた母親に家を新築してやろうと、長兄と協力して資金を貯めていたのだが、その希望も叶わなかった。
「それから営林作業中に瀕死の重傷を負って、17年間も病院のベッドに縛りつけられていた父親が亡くなる。オレが25か、26歳のときのことだ。両親を失って、オレのなかから生きる希望がなくなってしまったような気がしたね。もう、夏は北海道で働き、冬は東京で働くなんて気力はなくなって、東京にベッタリの生活になっていた」
田舎のきょうだいたちとも連絡を取らなくなっていき、田舎に帰ることもなくなっていた。
東京では土木建築の仕事が中心で、飯場とドヤ(簡易宿泊所)を行き来する生活だった。
「その頃から酒の量が増えて、稼いだ金の大半は酒代に消えていた」土木建築作業員からホームレスに堕ちてくる典型的なパターンを歩み始めたことになる。小山さんがこの時期就いた仕事に、千葉県佐倉市のユーカリが丘ニュータウン建設工事がある。このニュータウンの開発は、従来の事業主体が短期間に分譲して撤退する方式とは違い、少子高齢化社会の到来を見据えて長期にわたって分散建設、分散分譲し、人口構成の多様化を図ったニュータウンとして知られる。しかも事業主体は民間のデベロッパーで、それが大きな話題になりマスコミでもしばしば取り上げられた。
「そんな話を聞いたような気もするね」と小山さん。まるで他人事だが、建設作業員にとっては、そんなことはどうでもいいことなのだろう。
多分その時期のことだろうと思うが(小山さん自身は、いつのことだったか忘れてしまったという)、仕事が休みだったある日、上野に出た小山さんは昼日中から酒を飲んだ。そして、そのまま酔いつぶれて公園のベンチで眠ってしまった。
「何時間か眠って眼が覚めたら、後生大事に持っていたカバンがなくなっていてね。眠っている間にマグロ(泥棒)に遭ったんだよ。そのカバンにはは現金はじめ重要な書類、作業で使う道具まで、オレの全財産が入っていたからね。それで現場に戻ることもできなくなって、そのままホームレスの生活をするようになったんだ」
ホームレスなって、もう何年にもなる小山さんだが、普段はほとんど一人ですごすことが多いという。
「仲間と集団で生活することが苦手でね。だから、いつも一人で行動している。夜は上野駅前のビルとビルのあいだに段ボールを敷いて寝ている。食事も炊き出しなどには行ったことがない。すべて自給自足……飲食店のゴミ箱を漁って、食べられそうなものを拾って食べている。いまヘルニアで腰が痛くて、歩くのも休み休みで遠くまでいけないから、十分な量を拾えないのが辛いね」
いつも一人でいるとは、すいぶん寂しい人生である。どうやら、それも緊張症が関係していそうである。
「65歳になったら生活保護が無条件で受けられるそうだから、そうすればアパートの部屋に入れて、人並みの暮らしができるからね。あと3年の辛抱だよ」
最後に小山さんはそう言った。いま生活保護適用の条件は厳しくなって、65歳になれば無条件で受給できるわけではない。だが、それを信じて望みをつないでいる彼に、そのことを伝えることはできなかった。(この項了)(聞き手:神戸幸夫)
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今回取材したホームレスの小山さん(62)には、JR上野駅近くの上野広小路(中央通り)の路傍で話を聞いた。緊張するタイプだという彼は、取材の途中で緊張が嵩じて言葉が発せられなくなることがあった。そんなときは取材を中断して、彼の緊張が解けるのを待って行い、時間のかかる取材になった。
「生まれは白神山地の秋田県側の麓の村で、昭和26(1951)年の出生。父親は営林署の請負いで白神山地に入り、国有林の営林、枝打ちや下草刈り、間伐材の伐採などを仕事にしていた。それに家には田畑があって、そちらは母親が耕作していた。といっても、家族で食べる米と野菜が収穫できる程度の小さな田と畑だったけどね。きょうだいは6人。オレは3番目で上に姉と兄がいた」
楽とはいえないまでも、慎ましく平穏な山里での一家の暮らし。その平穏が破られるのは、小山さんが小学3年生のときのことだ。
「父親が山で営林作業中に大ケガをしたんだ。伐採した間伐材にワイヤーを巻いて集積作業をしていたら、ワイヤーが切れて近くの立ち木に絡みついてしまった。それで父親がその木に登ってワイヤーを外そうとしたら、突然、ワイヤーが跳ねて父親の身体を打ち、父親は下の切り株に思いきり叩きつけられたということだった」
ただちに仲間の車で病院に運び込まれた父親だったが、その身体の肉は裂け、何箇所も複雑骨折し、傷ついた内臓もあった。診断した医師も「これでは助からないだろう」と思たという。だが、治療の甲斐あってか、父親は奇跡的に一命を取り留めた。
「九死に一生を得た父親は、それから17年間も生き延びた。ただ、それから亡くなるまで、病院のベッドから離れられなかったけどね。父親の入院治療費は労災保険から支払われたと思う。大変だったのは母親の方で、6人もの子どもを抱えて途方にくれたんじゃないのかな」
その子どもも学齢期か、就学前の子ばかりの6人である。彼らに食べさせて生計を立てるために、母親は自分たちの田畑の耕作に加え、近隣の農家の仕事を積極的に手伝って現金収入を得たのだという。そうはいっても、その貧窮ぶりは、想像してもあまりあるものがある。
そこで当時の暮らしぶりについて、小山さんに聞いてみた。すると彼は急に押し黙ってしまい、顔面を紅潮させて、呼吸を荒くしていくのだった。やがて、瞳を潤ませたかと思うと、両手で顔を覆ってしまった。当時のことを思い出して、緊張感を高ぶらせてしまったようだ。
この質問が辛いようであったら、答えなくてよい旨を伝えると、彼は両手で顔を覆ったままで、二度「うん。うん」と頷いた。母親の労苦や貧窮の様子は想像するしかない。
中学を終えた小山さんは、地元の大工の棟梁に弟子入りした。気分を落ち着けた小山さんが語る。
「仕事は住宅建築や増改築が多かった。ただ、田舎だから住宅関係の仕事だけでは食えないから、暇なときには土木作業をすることもあった。道路工事とか、河川の堤防工事とかだね。住宅建築のときも土地の造成から、基礎工事まで、全部棟梁が指揮して、自分たちでやったんだよ。それでオレは建築から、土木のことまで一通りのことはできるからね」
そのころ家を継いだ長兄から、「古くなった家を新築して、母親にプレゼントしたいから、おまえも一口のってくれ」と相談され、小山さんは大工見習いの少ない給料から月々いくばくかの金を提供するようになる。家族思いの真面目な青年だったのだ。
小山さんが弟子入りした棟梁には一人息子がいて、いずれは棟梁の跡を継ぐことになる彼も、いっしょの現場で働いていた。小山さんが働くようになって2年目に、住宅建築の現場で事故が発生する。
「天井スラブの型枠をバラしているとき、そのスラブが崩落して、棟梁の息子がその下敷きになって死亡してしまったんだ」
天井スラブとは天井構造の基礎になるコンクリートのことで、現場で生コンクリートを打設して構築する。
「棟梁だとかいっても、田舎の棟梁だからね。構造設計の知識があるわけじゃない。すべて現場での経験と勘だけで仕事をしているわけだからさ。コンクリート内部の配筋の量が足りなかったのか、養生期間が短かすぎたのか、理由はよくわからないが、とにかく天井スラブが全部崩れて落ちてしまったんだ」
コンクリートの養生というのは、施工後、コンクリートが硬化するまで、一定の水分量と温度で保つことをいい、外気温によって養生期間が変わってくる。
「まあ、運が悪くというか、たまたま棟梁の息子だけが下にいて、その犠牲になってしまった。事故で跡取り息子を失うことになった棟梁の、それからの落ち込み方はひどいもんで、仕事どころじゃなくなちゃってね。そんな棟梁の下についていても仕方ないんで、オレもそこから離れることになった」
以後、小山さんは夏は北海道、冬は首都圏で働く出稼ぎ人生を送ることになる。それから2年後、彼が19歳のときに、母親を病で失うアクシデントに遭遇する。
「母親が亡くなったのは、乳ガンが原因だった。ガンの発見が遅れて、あっという間に逝ってしまった。オレが小学生のときに、山で大ケガをした父親は、まだ病院に入院している状態だったのにね。この両親のことといい。棟梁の息子のこともそうだが、どうしてオレの周りでは不幸ばかりが続くんだろうと思った。生きる希望を失うようなできごとばかりだからね」
それから小山さんは、しばらく口を噤んだ。その両肩が小刻みに震えていた。(つづく)(聞き手:神戸幸夫)
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市川明さん(60)は都内を流れる一級河川の橋の下に、テントを張って暮らしている。
彼の生まれは名古屋市。高校を卒業して上京し、新宿の輸入レコード専門店で働いた。
「その店で働くようになって、2、3年もした頃かな? オレのところに借金取りが押しかけてくるようになってね。何でも名古屋で飲食店を経営していた兄が商売に失敗して、総額で1億5000万円にもなる借金をつくったというんだ。家族には連帯責任があるから、弟のおまえも返済金を支払えという。『そんな支払い義務はない』とオレは突っぱねた。だが、借金取りは毎日のようにやってきてね」
やがて借金取りは市川さんが働いている店にまで現れて、執拗な督促を繰り返すようになる。
「それでは客商売の店に迷惑がかかるばかりだから、オレが身を隠すしかないというわけで、店を辞めて日雇いの作業員になったんだ。飯場から飯場を渡り歩く日雇いの生活。さすがの借金取りも、オレの居場所を追えなくなったらしくて、それで執拗を極めた借金の督促もやんだ」
市川さんの日雇い作業員の生活は6年間に及んだ。その間に兄の借金騒動にもケリがついたという。
それから市川さんは捕鯨船に乗って南氷洋に行き、捕鯨の仕事に従事する。ただ、当時の日本の捕鯨は世界中から顰蹙を買っていて、彼が捕鯨船に乗るようになって数年後には、商業捕鯨は中止になり陸に上がることになる。ときに32歳のことだ。
「それからはいろんな仕事をやったよ。ペンキ屋、パチンコ店、洋品店……数え切れないくらい仕事を替えたね。生きていくためには、仕事を選ばないで何でもやる覚悟だった」
市川さんは結婚もしなかった。
「日雇い作業をしたり、捕鯨船に乗っていたんで、女の人と知り合う機会がなかったからね。それに兄の借金問題で、名古屋の家屋敷を売り払ってしまっていたから、一家は離散状態で結婚どころではなかった」
そんななか彼は名古屋にいた母親を呼び寄せて、東京・杉並のアパートでいっしょに暮らすようになる。
「母親は軽度の認知症を患っていてね。その介護をしながら、仕事にも行かなければならんし結構大変だったね。昼間、オレが仕事に行っている間に、アパートを抜け出して町内を徘徊することがたびたびあった。そのたびに交番に呼び出されて注意されてね」
母親といっしょに暮らすようになって10年後、市川さんが45歳のとき、その母親が亡くなる。
「母親は前から心臓が悪くてね。夏の暑い日に発作を起こして、救急車で搬送したんだが間に合わなかった。葬儀はオレが出した」
母親の享年は80歳だった。
10年間ともに暮らしてきた母親の死は、市川さんに少なからぬショックを与えた。
「身体のなかに大きな穴でも開いたような感じで、何もする気が起きなくなってしまったんだ。母親の死がこんなに大きなショックをもたらすとは思わなかった。すっかり、気力が萎えて、仕事にも行く気がしなくなってね」
その頃の市川さんは新宿の輸入レコード専門店で働いていた。その店は、彼が高校を卒業して最初に就職した店である。いくつもの職業遍歴を重ねた彼だったが、最終的には最初に働いていた店に回帰していたのである。なかなかに面白い話だ。母親の死後、彼はそのレコード店にほとんど出勤しなくなり、自然消滅のかたちで辞めることになる。
「それからは腑抜けのようになって、ただボンヤリして暮らすようになっていた。そして、気が向けば日雇いに出て働いたりしていたが、そんなことをしていたら多少の蓄えは、たちまちなくなってしまうからね。それで50歳のときにアパートを引き払って、この橋の下にテントを張って暮らすようになった。もう10年になる」
小川さんは橋の下でテント暮らしをしながら、現金が必要になると日雇い作業に出て日銭を稼ぐという生活をしばらく続けた。
「でも、それができたのもリーマン・ショックによる金融危機(08年)が起きるまでだったね。あれ以来、日雇い作業は回してもらえなくなった。年齢も50代半ばになっていたしね。それで以後はアルミ缶拾いをしている。リーマン・ショック当時は、アルミ缶の買取価格も暴落してキロあたり40円を切っていたが、いまは持ち直して100円くらいになっている。助かるよ」
小川さんの生活はこのアルミ缶回収で得る現金に加え、地元ボランティア、キリスト教教会、それに自治体などの援助によって、何とか賄われているという。
「じつはね……」市川さんはそう言って口を噤んでから、やがて意を決したようにして言葉を続けた。「いま女の人といっしょに住んでいるんだよ。もう2年半ほどになる。彼女のことについては、これ以上は話せないけどね」
そういえば市川さんへの取材中、テントのほうから我々の様子を窺うようにしている女性の姿があった。彼女がそのパートナーのようで、スレンダーな肢体の背の高い人だ。
若い頃、異性に恵まれなかった市川さんだが、人生後半になって摑んだ春。微笑ましさを感じるエピソードで、市川さんも満更ではない顔をしている。
その彼が最後にこんなふうに話した。
「何はともあれ、兄がこしらえた1億5000万円の借金だよね。あれがすべての元凶だ。そのおかげで、オレは働いていたレコード店を辞めて、日雇い作業員になって身を隠さなければならなかった。あれで、その後の人生がすっかり狂ってしまった。兄が借金をこさえてなかったら、オレの人生もずいぶん違ったものになっていたと思うよ」 (この項了)(聞き手:神戸幸夫)
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