琥珀色の戯言

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【読書感想】まさか発達障害だったなんて ☆☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
人の話を聞かない、急に感情的になる、約束を守らない―「変わった子」といじめられて育ち、その原因に気づかないまま職場や家庭の「困った人」に。さかもと氏もそうだった。「甘え」だと家族に否認されてきた彼女は、最近、発達障害の専門医である星野氏と出会い、ADHDを合併したアスペルガーと診断された。悩み抜いた者にとって、それは驚きであり福音だった。本書では、宣告された本人による幼少期から今日までの独白、それを聞いて病名を下した医師の見立てを紙上で再現した。発達障害は「治せる」。心の病をタブー視する社会の空気を変え、苦しむ人たちの救いとならんことを。


 まず最初におことわりを。
 僕は精神科医ではありませんし、発達障害の専門家でもありません。
 ですから、これは専門家としてではなく、門外漢の感想として読んでください。


 さかもと未明さんの名前をきいて、最初に思いだしたのは、あの事件のことでした。
参考リンク:さかもと未明女史、飛行機中で赤ちゃんに泣かれて逮捕寸前のクレームを起こす(やまもといちろうBLOG)


 いい年の大人なのに、赤ん坊の泣き声でこんなにキレるなんて……
 小さな子どもの父親でもある僕にとっては、「とんでもない人」としてインプットされていたんですよね、さかもとさん。
 「絶対に一緒に飛行機に乗りたくない人ランキング」では、テロリストやハイジャッカーを除けば、第1位。


 でも、この本で、さかもとさんが自ら語っている幼少時から現在までの半生を読むと、さかもとさんにも、それなりの事情というか、自分でもコントロールできなくなるような病気があったのだなあ、と深く嘆息せざるをえませんでした。
 その一方で、「だからといって、突然、飛行機のなかでとんでもないキレかたをする人を『病気だからしょうがない』と受け容れられるのか?」と、自分に問いかけてもみるのです。
 そりゃ、「病気なのですぐキレます」ってプラカード持って歩いているのならともかく、「実は病気でした」って言われても……という気持ちも、たしかにあるのです。
 直接キレられたほうは、たまらなかったでしょうし。


 さかもとさんは、うつが悪化し、まともな生活ができなくなった際に新聞広告でみた「発達障害」の特徴があまりにも自分の症状や特徴に酷似していたので、発達障害の専門家である、福島県郡山市の星野仁彦医師のもとを訪ねたそうです。

 星野先生は私の状態を見て深刻さをすぐに理解してくれ、数時間にわたって話を聞いてくれた。家族との関係や幼少期、十代のころの記憶をさかのぼると、涙が止まらなくなって私の話は途切れがちだった。それでも星野先生はそれを辛抱強く聞いてくれた。そして言う。
「ADHD(注意欠如・多動性障害)の所見がありますね。でも、それよりもう少し面倒な資質も抱えていると思います。編集者さんの前で言わないほうがよければ、別の日にあらためて会いましょうか?」
 星野先生は気づかってくれたが、私はかまわなかった。
「ADHDとアスペルガー症候群が混合していると思われます。あと、いわゆるAC、アダルトチルドレンですね。そういったものが複雑に絡み合って、いまの症状になっている。お酒とか、タバコは嗜みますか?」
「むかしはずいぶん、アルコール障害と言われて断酒しました。それまでは連続飲酒。夕方に起きても動けないので、すぐに飲むような感じで、一日じゅう飲んで原稿を朝まで書いていました。タバコも断酒したころに体がつらくて……。あとで判明したことですが、膠原病を発症して、そのころにやめました。2006年くらいですね。それまでタバコは一日60本くらい吸っていました」
 そう伝えると、星野先生はこう返した。
「発達障害の人は、タバコ、お酒、薬物に依存しやすいのでね。でも、やめられているんですね。それはよかった。とにかくまずは知能検査をして、診断を確定しましょう。たぶん、能力に激しいバラつきが見られる。ギザギザの結果が出ますよ。そうしたら診断が確定できるので、投薬を開始して、それから障害者申請もしましょう。いまはとても働ける状態ではないでしょう……」
 こうして私は、知能検査のために郡山を再訪したのである。結果は星野先生の予想どおり、「ギザギザ」のものだった。歌唱や言語の結果は高スコアだったようだ。
 それらの検査結果を踏まえ、私は「アスペルガー症候群」を含む精神障害を抱えていると診断された。星野先生はコンサータという薬を処方してくれて、こう言った。
「これを飲んでよくなるようでしたら、間違いなく発達障害です。あなたは脳の報酬系が器質的に弱かった。ドーパミンなどの代謝が少ないということです。それで、ふつうの人なら感じる幸福感やふつうの欲求が感じられず、うつなどになった。たいへんだったね。でも見つかってよかった。これからは、あなたに必要な薬や生き方を探していけますからね」
 そう言われたとき、私はまだ自分が受けた診断に半信半疑だった。けれど、それが「間違いない」と確信できたのは、コンサータを飲んで気分が上向いたからだ。


 さかもと未明さんには、エキセントリックで怒りやすい人、なんというか、「死にたい願望」みたいなのを持っている人、というようなイメージを、僕は持っていたのです。
 そして、「自分には関係ない人だな」とも。
 ですから、この本のなかでの、さかもとさんの幼少期からの「自分語り」も、「珍しい人生」の知識を仕入れるつもりで、読み始めたんですよ。

 私は、運動がちっともできない子供だった。子供というのはふつう、勉強は嫌いでも、運動や遊びは喜んでするものだ。でも私は、家でお絵描きしたり、本を読んでいるのは好きでも、みんなと野原を駆けまわったりするのは、ほんとうに苦手だった。
 まず、かけっこが遅い。すると、たいていの遊びが進まなくなるので、私は、そこにいてもいいけど、ゲームの戦力には決して数えられない「味噌っかす」だった。
 かけっこも、ただ遅いのではなく、歩き方や走り方が「何かおかしい」と言われ、くすくす笑われる対象だった。何をしても、みんなくすくす笑う。それくらいならまだいいほうで、ときには荒っぽい男の子に、「おまえは邪魔だから帰れ」とか、リーダー的な女子に「あなたは仲間外れよ」と宣告されることもあった。

 そもそも、どうして「ゲーム」のような遊びをしなくてはならないのかがわからない。何か報酬があるわけでもないのに、なぜみんなが夢中になれるのか。みんなにとっては「遊び」自体が「楽しい」ことなのだと、私には理解できなかったのだ。私には「遊び」は時間の無為な浪費に思えた。母親の言葉で理解できたのは、「体をつくるため」「みんなと仲良くするルールを学ぶため」というものだけ。


 ……さかもとさん、あなたは僕ですか?


 さかもとさんの幼少時代の記憶を読むと、僕は自分自身の子供の頃を思いださずにはいられませんでした。
 僕の場合は、さかもとさんほど極端な「生きづらさ」を感じることはなかったし、両親も「運動はサッパリだし、内向的で頑固だけれど、勉強はそこそこできる子」だった僕を、どちらかというと「そういう子供なのだ」と承認してくれていたような気がします。

 ただ、それはあくまでも「程度と環境の問題」であって、僕自身も「発達障害」なのではないか、と考えずにはいられませんでした。
 いや、それこそ「内向的な子供」「運動が苦手な子供」っていうのは山ほどいて、それをみんな「病気」にしてしまっても良いものか。
 僕の場合は、「発達障害的な要素はあるけれど、病気という診断には至らない」くらいなのかもしれません。
 でもなあ、ということは、僕が飛行機の中でキレたら、「病気じゃない」からアウトで、さかもとさんは病気だからセーフ、なのかな……とか、いろいろ思うところもあるんですよね。


 さかもとさんの場合は、「勉強はできる子」だったにもかかわらず、両親からは、なかなか受けいれてもらえず、ずっと否定的な接し方をされていたそうです。
 さかもとさんの病気についても、「気の持ちようの問題」「そんなふうに育てたおぼえはない」と、さかもとさんの病気を認めようとせず、さかもとさんの精神科への通院も拒否していました。


 星野先生は、こう仰っています。

 さかもとさん自身の発達障害について伝えるにあたって、私はもう一つ、自分の見解を話しました。それは、さかもとさんのお母さんもおそらくはAS(アスペルガー症候群)なのではないか、ということ。
 家事全般が苦手、つまりは「管理」が苦手な傾向。お父さんを厳しく詰って追いつめてしまう、苦しんでいる娘を冷たく突き放してしまう対人関係の未熟と言語コミュニケ―ションの欠如。これらはADHDないしASの症状と考えれば理解しやすいでしょう。
 じつは、発達障害はあわゆる精神障害のなかでいちばん遺伝率が高い。たとえば統合失調症や躁うつ病では、一卵性双生児の一方が発症した場合、もう一方が発症する確率は50パーセント前後です。これに対してADHDやASの場合には、一卵性双生児の一方が発症した場合、もう一方も発症する確率は8割から9割とされている。つまり、遺伝的な要因が非常に大きい。このことから、発達障害の遺伝は、優性遺伝(次世代に受け継がれやすい遺伝)の可能性が高いと目されています。
 発達障害にかぎらず、精神障害が遺伝するという話題は、しばしばタブー視されます。それが差別につながりやすいからでしょう。しかし、実際に遺伝的な要因が無視できない以上、その点をしっかりと認識しなければ正しい治療やサポートはできません。

 星野先生は、さかもとさんのお母さんも「発達障害」だったのではないか、と仰っています。
 だから、子供とうまく付き合っていくことが、できなかったのだ、と。
 僕自身にも「子供とうまく接することが難しい感じ」はあるので、他人事じゃない。
 さかもとさんは、自分の子供時代の体験から、子供はつくらないことに決めていたそうです。
 さかもとさんの弟さん、妹さんも40歳をこえても、独身。
 

 自分の子供時代の家庭の記憶に基づいて、「もう、自分の子供を残すのはやめよう」と思う人がいれば、「だからこそ、自分は幸せな家庭を築こう」と思う人もいる。
 後者も、「つくってみたら、自分の親と同じようなことをしていた」というケースも少なくない。
 家庭って、本当に難しい。


 発達障害を持つ人というのは、「生きづらさ」を抱えている一方で、仕事などへの過剰なまでの集中力を発揮することもあるそうです。
 歴史上、芸術や学問の世界で大きな業績を残した人には、発達障害だったといわれている人も少なくない。
 ただし、対人関係を維持するのが難しく、飽きっぽいなど、「扱いづらい人」だと周囲にはみられがちです。
 

 星野先生は、薬物による治療とともに、発達障害を抱えていても、やっていきやすい仕事を選ぶことも大事だと書いておられます。
 治療で、ある程度はよくなるとしても、向いていないことをやるのは、本人にとっても大きなストレスになるのです。

 アスペルガーの治療では、本人が自分の不得手なことに気づき、周囲の理解を求めて役割分担することが重要です。長所と短所、得手と不得手をリストアップして分担するのです。
 一般に発達障害者が不得手としているのは、
(a)対人スキル、他者との協調性、適切な会話などの社会性
(b)感情や衝動性などのセルフコントロール
(c)金銭、時間、食事、睡眠などの日常生活やライフスタイルの管理
 などです。
 これに対して得意としているのは、
(a)コンピュータ、情報機器、機械類などの操作
(b)陶芸、美術、音楽などの創作技能
(c)ある種の専門的な分野の技能
 などです。
 これらの得手・不得手を踏まえて、周囲がサポートしてくれるのが理想となります。

 発達障害者の場合、仕事上の問題の多くは「自分に合わない仕事」をしているために起きています。逆にいえば、「自分に合う仕事」に就けば、健常者と同じく、あるいは、それ以上に力を発揮することもめずらしくありません。表現者として類まれな才能を発揮したさかもとさんですが、たとえば金銭の管理、教育、あるいは介護といった職に就いていたら、大いに苦戦したであろうことは想像がつくでしょう。
 発達障害者には、不注意傾向や衝動性など、明らかなハンディがあります。したがって、次のような仕事を選ぶのは、明らかに無理があります。


・綿密な金銭の管理
・書類の管理
・人事管理
・対人援助職(教師、保育士、看護師、介護士など)
・些細な不注意でも大事故にあう可能性がある危険な仕事


 しかし実際には、こうしたハンディを十分に考慮することなく、それどころか本人も家族も発達障害に気づかないまま仕事を選んでいるケースがほとんどです。


 前述したように、発達障害の人は、身の回りの雑事にはまったく「使えない」一方で、勉強はすごくよくできることがあるのです。
 それで、周囲からも期待され、こういう「向いていない仕事」についてしまう。
 銀行員とか学校の先生とか、医者とか……
 それは、本人にとっても、その人に関わる人たちにとっても、「悲劇」だとしか言いようがない。
 そういう意味では、さかもと未明さんという人は、結果的に「向いている仕事にはついていた」とは言えるのでしょう。


 僕自身は、現時点では、なんとか適応できている、ような気がしています。
 さかもと未明さんに比べれば、なんて思ってしまうけれども、僕自身も、十代は、周りに合わなくて、生きるのがとてもつらかった。
 いまは記憶もだいぶ薄れたけれど、たぶん、リアルタイムでは、もっともっとつらかった。
 でも、そういうのが「青春」とか「思春期」ってやつなのか、とも思っていました。
(いや、もしかしたら誰でもそんなものなのか、と今でも思っています。他人の立場で生きたことがないから、わからないんだよ)
 それは、いろいろ恵まれたところがあったのだろうし、周囲のさりげない配慮も存在していたのでしょう。
 そして、自分の子供のことも、しっかりと見ていなければならないな、とあらためて考えています。
 でもなあ、こういうのって、「お前は学校の先生に向いていないから、やめておけ」って、誰かに言われたら、やめられるものなのだろうか、と疑問でもあります。


 いやほんと、ここには書ききれないので、もしこれを読んで、「ピンと来た」人がいれば、ぜひ、この新書を手にとって(あるいは、Kindleでダウンロードして)みていただきたいと思うんですよ。
 コンサータがそんなに効くのかどうか、とか、僕自身には判断しかねるところもたくさんあるのだけれども、「発達障害は、珍しい病気でもないし、治療の方法だってある」のです。
 そして、日本では、これを「病気」ではなく、「性格」だとみなして、本人を責めてきた。
 でも、身のまわりの「困った人」は、もしかしたら、「病気」なのかもしれません。
 ひとりでも、多くの人に、さかもとさんの「告白」を、読んでみてほしい。

 わたしはずっと父の酒乱や暴力が、何か悪い「血」のなせる業なのだと思っていた。母の不幸な結婚生活も決して止めようのない悪の連鎖なのだと思って、結婚も出産もできなかったけれど、それが病気なのだともっと早く気づいて治療していれば、わが家はもっと幸せな思い出を築けたかもしれない。病気がちゃんと認知されれば、家族が壊れる前に止めることができるかもしれないし、そういった家庭に生まれた子供たちにも、幸せな家庭を築く方法を教えることができる。母や私のようにコミュニケーションがとれない人間が、孤独から解き放たれる可能性があるかもしれないのに。

 

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