いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

10歳の不登校ユーチューバーと「子供がやりたくないことをやらせる大人」


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 いろんな意見が出ているところに、僕も「いっちょ噛み」してしまうのですが、個人的には、「よその子の人生だからなあ」というのと、「こういう子の将来がどうなっていくのか、このまま見届けてみたい気がする」のです。もうほんと、僕も大概ひどい人間だとは思うけど。
 まあでも、「学校に行ったら死ぬ」のであれば、無理に行かせるべきではないよね。

 ただ、この「やりたくなければ、宿題なんてしなくてもいい」というのを観て、何度か紹介した、イチローさんの言葉を思い出したのも事実です。


『キャッチボール~ICHIRO meets you』(「キャッチボール~ICHIRO meets you」製作委員会著・糸井重里監修)という本のなかに、こんな話が出てきます。

イチロー:これね、大事なことなんですよ。
 僕がよく小さい子に言うのは、「野球がうまくなりたかったら、できるだけいい道具を持ってほしい。そしてしっかりとグラブを磨いてほしい」ということと、「宿題を一生懸命やってほしい」ということ、なんですね。
 宿題をやる意味は、宿題そのものだけではないんですよ、実は。
 なんでぼくがそれを大事だと思っているかというと……大人になると、かならず上司という人が現れて、何かをやれ、と言われるときがくると思うんですね。
 子どもにとっていちばんイヤなことは、勉強することなんです。
 よっぽど勉強が好きな人はおいておいて、キライなことをやれと言われてやれる能力っていうのは、後でかならず生きてきますよ。
 ぼくが、宿題を一生懸命やってよかったなと思うのは、そこなんですね。
 プロ野球選手という個人が優先される場所であっても、やれと言われることがものすごくあるわけです。だったら、一般の会社員になって、そんなことは毎日のことのはずです。だから、小さい頃に訓練をしておけば、きっと役に立つと思うんです。
 やれと言われたことをやる能力を身につけておけば、かならず役に立つ。
 「自分は野球が好きだからそれだけやっていればいいや」といって宿題を放棄してしまったら、おそらく、後で大変な思いをすると思うんですよね。


 社会で生きていくうえで、こういう「やりたくなくても、やるべきだと判断したことはやり通せる能力」って、ものすごく大事なんですよね。
 向上心をもって、技能を磨いていく、というのはもちろんなのですが、仕事や人生のさまざまな場面で、人は「忍耐力」を問われます。
 調子が良いとき、気分が乗っているときには、すごいパフォーマンスを見せるけれど、すぐに飽きてしまったり、投げ出してしまったりする人って、けっこう多いのです。

 そもそも、「宿題をやりたい、やりたくない」というだけの話なら、「宿題をやりたい子供」は、ごく少数派でしょう。
 そういう子供たちに対して、親はどう接するべきなのか。
 正直、僕にも正解はわからず、試行錯誤の連続です。そんなに自分が良い親だとは思えないし。


 子育てには、おそらく、万人にあてはまる「正解」は無い(「不正解」はありそうですが)。
 
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 ここに出てくる「タイガー・マザー」みたいな人の子育ては「極端」ではありますが、「間違い」なのか?


タイガー・マザー

タイガー・マザー

◎タイガー・マザーの教育方針
1.子どもにとって何が最も良いかを知っているのは親しかいない。
2.何かに秀で、特別上手にできるようになるまでには辛い「練習」を経なければならない。上手にできるようにならない限り、楽しむ域にはいつまでたっても到達しない。
3.子どもの自主性に任せる欧米の自由放任主義の親は、子どもの自己評価(セルフ・エスティーム)を心配して途中で止めることを許可してしまうが、辛さを通り越してあることができるようになることほど子どもの自己評価を高めるものはない。
4.最初は強制されても、うまくできるようになると、それが子どもの自信になり、やがてそれが好きになるという好循環が生まれる。


内容(「BOOK」データベースより)
とびきり厳しい中国人大学教授の母親“タイガー・マザー”が、二人の娘と繰り広げる、スリリングでこころ温まる子育て奮戦記。親が子どもに残してやれる財産は教育と技能であると考える中国式の理念に基く厳しい英才教育を行う。結果、二人の娘は学業優秀、ピアノとバイオリンでも超一流の腕前を身に付ける。長女は、ハーバード大学、イェール大学合格。娘を深く愛するゆえにどんなリスクも厭わない母親の覚悟の物語。


 コラムニストの小田嶋隆さんが、『地雷を踏む勇気』というコラム集のなかで、この『タイガー・マザー』について書かれています。

『タイガー・マザー』は、エイミー・チュアという中国系の女性(イェール大学法科大学院の教授)が、ユダヤ系の夫(この人も同じ大学院の教授。推理作家でもある)との間に生まれた2人の娘を育てる過程を記した手記だ。アメリカで発表されるや、巨大な論争を巻き起こしたので、あるいはご記憶の向きもあるかもしれない。
 論点の焦点は「競争」にある。ズバリ、「人としてオンリーワンであることと、人生においてナンバーワンであることの間に生じる葛藤」が俎上にのせられたのである。
 チュア女史は、2人の娘たちに、最大限の努力と、絶対の勝利を要求する。そういうタイプの母親だ。成績はオールA以外認めない。ピアノでもバイオリンでも凡庸な演奏は許さない。それらを達成するために、サマーキャンプへの参加は禁止し、友だちとの遊びも制限する。チュアの考えでは、人生は競争であり、子供は常に勝利の道を歩むべき存在なのだ。
 子供は必ずしも自分の適性に合った道を選ぶものではない。単に楽な道を選ぶ。でなければ愚かな選択をする。泳ごうとする鳥のように。だから、親は子供に進むべき道を与え、時にはそれを強制し、訓練を強要しなければならない。そうやって身につけたスキルは、後々本人の財産になる――と、チュアは考える。彼女は、本書の中で、自らが実践しているこの峻烈な子育てのメソッドを「中国系の母親の育て方」であると、繰り返し主張している。対して、子供の個性と自主性を尊重し、成績や人生の選択にあまり介入しないアメリカにおける一般的な子育てへの取り組みを「欧米流の母親の育て方」と規定して、それを執拗に批判している。
 無論、すべての中国人が同じ育て方としているわけではない。欧米人の側にも、「中国系の母親」(比喩的な意味で)がいる。チュア自身もそう言っている。要は、典型的な傾向として、東洋の母親は、子供たちの将来に対して、西洋の母親と比べて、より支配的で、より強い圧力をもって臨んでいるということだ。
 で、アメリカでは、ここのところが、大きな論争のポイントになった。


「愛情があるのなら、子供の将来のために、厳しい強制を課すべきだ」
「子供は親のロボットではない」
「児童虐待じゃないか」
「勇気のある子育てだ」
「子供を自分の生きがいの実現のために利用するのは筋違いだ」


 私は、この原稿の中で、いずれの育て方が正しいのかについて、結論を出すつもりはない。
 ただ、本を読んでみて感じたのは、『タイガー・マザー』が中国式の子育てを通じて提起した問題が、わが国では、久しく忘れられているということだ。
 われわれの国の教育界は、競争と個性のいずれが尊重されるべきであるのかという問題について、結論を持っていないのみならず、この種の論争が起こること自体を避けようとしているように見える。
 本書の翻訳者である齋藤孝さんは、あとがきの中で、「中国式と欧米式の中庸」の中に、日本人の選ぶべき道があるという意味のことを述べている。
 論旨としては私もおおむね賛成だが。が、一方において、このふたつのやり方の間に「中庸」などというなまるぬい選択が存在し得るのかどうか、ちょっと疑わしく思ってもいる。
 おそらく、根性のない日本人は、個性からも競争からも逃避しようとするはずだ。


(中略)


 戦後のある時期までは、うちの国にも、「教育ママ」と呼ばれる人たちがいた。私の親の世代(小田嶋さんは1956年生まれ)には、けっこうそれらしい人たちがいて、その彼女たちの甲高い声は、そうでもない親の下で育った私のような子供にも、一定の影響を与えていた。
 いまでも似たタイプの母親がいないわけではない。が、圧力は弱まっている。子供に勉強を強要するにしても、理論武装(あるいは弁解)が必要になっている。そこが弱い。
「理屈を言うな。子供なんだから勉強しろ」
 と、頭ごなしに言えなくなっているということはつまり、頭ごなしでなくなった時点で、強制は、それが当然備えているべき圧力を喪失している。理由をつけた強制は、説得に過ぎない。説得は、子供の側からの理屈で、簡単に論破されてしまう。
「ボクのためだって言うけどさ。ほかならぬボクがイヤがっているものが、どうしてボクのためになるの?」
 うん、パパの負けだ。キミの好きなようにしたらよい。


 僕はこの『タイガー・マザー』の子育ては「やりすぎ」だと思っていますし、齋藤孝さんの「中国式と欧米式の中庸」が日本人にとってはちょうど良いのではないか、という見解に「そうだよなあ」と頷きます。

 でも、小田嶋さんの「このふたつのやり方の間に『中庸』などというなまるぬい選択が存在し得るのかどうか、ちょっと疑わしく思ってもいる」という言葉は、すごく突き刺さってくるのです。
 「中庸」のつもりで、「何もしない」だけになってしまうのではないか?


 ランディ・パウシュ教授の『最後の授業 ぼくの命があるうちに』という本のなかで、末期がんに侵された著者は、こう言っています。

 僕は子供のころの夢についてくり返し語ってきたから、最近は、僕が子供たちにかける夢について訊かれることがある。

 その質問には明確な答えがある。

 親が子供に具体的な夢をもつことは、かなり破壊的な結果をもたらしかねない。僕は大学教授として、自分にまるでふさわしくない専攻を選んだ不幸な新入生をたくさん見てきた。彼らは親の決めた電車に乗らされたのだが、そのままではたいてい衝突事故を招く。

 僕が思う親の仕事とは、子供が人生を楽しめるように励まし、子供が自分の夢を追いかけるように駆り立てることだ。親にできる最善のことは、子供が自分なりに夢を実現する方法を見つけるために、助けてやることだ。

 だから、僕が子供たちに託す夢は簡潔だ。自分の夢を実現する道を見つけてほしい。僕はいなくなるから、きちんと伝えておきたい。僕がきみたちにどんなふうになってほしかったかと、考える必要はないんだよ。きみたちがなりたい人間に、僕はなってほしいのだから。

 たくさんの学生を教えてきてわかったのだが、多くの親が自分の言葉の重みに気がついていない。子供の年齢や自我によっては、母親や父親の何気ない一言が、まるでブルドーザーに突き飛ばされたかのような衝撃を与えるときもある。


(中略)


 僕はただ、子供たちに、情熱をもって自分の道を見つけてほしい。そしてどんな道を選んだとしても、僕がそばにいるかのように感じてほしい。



 この『最後の授業』は素晴らしい本です。
 僕も自分の息子に「きみがなりたい人間に、僕はなってほしい」と願っています。

 しかしながら、人間の子供というのは、おそらく「すべて自分がやりたいようにやっていたら、なりたい人間には、たぶんなれない」のです。
 勉強にしてもスポーツにしても芸術にしても趣味にしても、人生を豊かにしてくれるものは、大概、なんらかの形で最初は無理にでもやって、コツをつかまないと、面白いと思えるようにはなりません。
「子供がつまらないからやりたくないと言っている」からといって、「やらせなくていい」というのは、「子供の自主性に任せている」ということなのか?
親としての「責任回避」ではないのか?

 イチロー選手をはじめとするスポーツ選手や音楽家の多くは、親の影響を受けているのです。
 「タイガー・マザー」は極論かもしれないけれど、子供は親が興味を持っていたり、身近にあったりするものに興味を示しやすいし、これをやると、周りが喜ぶ、というような「空気」を読み取っているのを僕は感じます。
 「10歳の不登校ユーチューバー」に対して、素直に応援できないのは、「親の存在や強い影響」を感じずにはいられないにもかかわらず、親は「子供の『自由』にさせているのだ」というポーズをとっていることなんですよ。
 
 僕だって、今の学校教育が100%正しいなんて思わないし、「できない」のなら宿題はできる範囲でやればいいし、「行くと死にたくなるくらいつらい」のなら、行くべきじゃない。
 でも、なるべく頑張ってやってほしい、行ってほしいとは思うし、子供にもそう話しています。

 たぶん、学校教育より、もっと良い子供の教育法って、あると思うんですよ。
 ただ、僕にはそれがわからない。

 医療でいう「標準治療」みたいなもので、学校教育というのは、「効率よく、一人の人間として現代社会で行きていくための基礎知識や行動規範をインプットさせる」ために、長年、先人達が試行錯誤してブラッシュアップしてきたものだと思うのです。

 医療というのを長年やってきて、世の中には、「もっと有効な治療」もあるのだろうし、今、僕たちがやっていることは、未来の人には、梅毒患者を水銀漬けにしたり、「悪い血」を抜きまくる、というような行為と同じに見えるのではないか、という気もするのです。
 でも、とりあえず「現状のベスト」の標準医療をやるしかない。

 極論すれば、大金持ちが優秀な家庭教師をつけてエリート教育を極めれば、学校教育よりも効果は大きい可能性は十分あります。
 しかしながら、「万人にとっての(最大公約数的な)最適解」というか、落としどころは、「学校にちゃんと行って、宿題をやること」ではないかと思います。
 どうしても「行けない」のなら仕方がないし、自分の子供で人体実験したいのなら、話は別だけど。

 こういう「独自の教育論」みたいなものを振りかざす人は、怪しげな民間療法を広めようとする人と同じだと僕は考えています。
 自分の身体を使って、自己責任でやるならともかく、子供を広告塔にするなんて、あまりにもひどい。


 僕には、「どうしても学校教育に適応できない、適性がない子供だって、それだけでドロップアウトすることなく、生きていける世の中であってほしい」という思いもあるのです。
 義務教育は、あくまでも「最大公約数的なもの」だから。
 ユーチューバーというのは、そのためのひとつの選択肢になる可能性がありますし、だからこそ、「むやみに他者を挑発する」ようなやり方には幻滅してしまうのです。
 でも、そうやって煽って「炎上」したほうが、真面目に想いを語るよりも、ずっと注目される世の中ではあるのだよね。これは、「叩けるものばかりを探し回っている」僕のような人間の罪でもあります。


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※世の中には、こういう「教育の効果についての実験や研究にもとづくデータ」があるのです。

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地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)

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