V-Lowマルチメディア放送、i-dioからCrimson FM(Rakuten.FM)が
撤退するという。
他にも、今月終了するコンテンツがあるらしい。
もはや何のために放送しているのかわからないという声も多い、マルチメディア放送。
つまりユーザーがいないのだ、それを心から必要としているリスナーがいないラジオ。
何のために作ったのだろう。
お金が集まってしまうのも良し悪しだ。
ラジオが好きな人は今もいっぱいいる。
毎日ラジオを聴くのが楽しみだと言う人もいっぱいいる。
私もその一人だが、残念ながらi-dioを何が何でも聞きたいとは少しも思わない。
魅力的ではないといえばそれまでなのだが、誰もそれを話題にしないので、日常に言葉が現れてこないのだ。
これからどうするつもりか、責任者に聞いてみたいものだ。
ところで、ラジオが好きということは、どういうことなのだろう。
自分の時間をラジオに捧げる、その価値がある、そう信じ込んでいる状態なのだろうか。
つまりはラジオ信者だ、そうでない人にとっては、全く心に響かない媒体なのかもしれない。
まあいい、私はラジオ信者の一人なのだ、文句あるか・・・。
ラジオ体験、私の場合は3~4歳の頃だったと思う。
覚えているのは、相撲の実況。
箪笥の上に置いてあった古めかしいラジオから、それは流れていた。
裁縫をする母の横で、3歳の私は楽しみに聞いていたという。
古関裕而さんの「
スポーツショー行進曲」の主旋律が流れ、それとクロスする形で触れ太鼓の音がなり、場内のガヤが加わってアナウンサーの声が聞こえてくる。
子供の心が躍る瞬間だった。
その影響でか、新聞の相撲記事もその頃から好んで見ており、関取の難しい漢字もほとんど覚えていたという。
同じころ、近く(阪和線美章園駅)に住んでいる縁もあってか、蝶々雄二さんのラジオ番組「漫才学校」や「夫婦善哉」などもよくわからないながらも聞いていた。
江戸の落語とか浪曲なども、よく耳にした。
上方落語は、正直いってその頃はあまりラジオから聞こえてこなかったような気がする。
小学校に入り、今度は歌謡曲をよく聞いた。
家が下宿屋をやっていたので、若い人がラジオで歌謡曲を聴いている横で一緒に耳をすませ、石原裕次郎や赤木圭一郎の歌を覚えた。
若い人は、学生さんだったり、労働者だったりで、ラジオは少ない娯楽の一つだったのだろう。
母も、三橋美智也や高田浩吉が好きだったので、自然と私もそれらの曲を覚えた。
ラジオとともに覚えた曲、今もすらすらと歌詞が出てくる。
そして小学校の高学年になり、ポピュラー・ミュージックの洗礼を受ける。
コニー・フランシスにジョニー・ソマーズ、彼女の「ワン・ボーイ」は今も心の遠いところをくすぐる。
ラジオで音楽を聴く子供がここに生まれ、それが中学時代になってビートルズと出会うのだ。
このあたり、書くと長くなるので別の項に譲るが、とにかく新しい文化はラジオから次々を流れてきた。
桂米朝さんを中心とした上方落語の復興、徳川無声さんの朗読劇「聊斎志異」なども心に残る。(ただし、聊斎志異についてはネットで見る限り、そのような放送があった記述が見つからない。私の中では中国文学に興味を持つきっかけだったので、絶対にあったはずという気がするのだが。)
この後は、深夜放送が話題になり、色んな番組やラジオDJが活躍するのだが、それについては既に多くの人が書いていることなので、ここでは触れない。
しかし、ラジオは本当に若い人たちから愛されていた。
今のネットやスマホがなくてはならないのと同じように、ラジオはなくてはならなかった。
青春の何百ページがラジオとともにあった。
それを今も愛さないはずはなかろう。
だが、ラジオは過去のような栄光はもはや持たないだろう。
今のラジオが持ってくるものは、もはや色あせた文化のみだ。
ラジオショッピングなどというのは、ラジオをますます艶消しにさせる情けない劣文化だ。
未来の扉を開ける風を持たないラジオは、もはや千の風の下で朽ちていくだけだ。
ラジオが好きだという私の気持ちは、ただその風に揺らぐのみなのだろう。
マルチメディア放送、今からでも遅くない、そのあたりを見据えながら、再び新しい未来の可能性を提示してもらえないだろうか。
もちろん、私の出る幕はない、それは認めざるをえないにしても、私にその夢をもう一度見させてほしいと思う気持ちまで否定してもらいたくない。
ラジオと一緒に今しばらく踊っていたい、そう思う人はまだまだいっぱいいるはずなのだから。