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2019年3月11日 (月)

「ひどい映画 ”翔んで埼玉” のブームの中で」

「ひどい映画 ”翔んで埼玉” のブームの中で」

私は話題の映画「翔んで埼玉」を見て、この国を憂いました。この映画を笑って喜んでいる埼玉を憂い、また、それ以上にこの国を憂いました。自分たちの住んでいる地域を蔑み、先祖代々の先人たちの苦労を笑い、この映画が話題になって商品が少し売れていることを喜んでいる埼玉県人たちが少なからずいるということに、商業主義の末路、この国の終末を感じました。

また、埼玉を偏見によって蔑むことで他の地域が喜んで笑っているとすれば、それも恐ろしい終末的な出来事です。埼玉地域の政治家たちが、この自分たちの地域をからかって侮辱する映画が人気なことに便乗して褒めるとすれば、ポピュリズムに傾斜する不健全な政治が見えます。この映画は、日本社会の精神的な退廃、幼稚化、メディアの商業主義への隷属と国民の思考力の低下を明確に示していると思います。

東日本大震災の大災害を経てもなお、これほどに健全な郷土愛が失われ、この国のメンタル面がこれほどに悪しき方向に流れていくのを見て、この国を憂います。戦後、地域産業の保護と奨励に努められてきた天皇皇后両陛下にも申し訳ない思いです。平成天皇の退位の時期に、このように戦後の昭和から平成の地域の歩みと先人たちの苦労を侮辱する映画が作られたことを心から悲しみ、これほどに精神性の退廃した国にいるのだと、今、改めて自覚しました。これからの苦しい日本社会を支えていかなければならない若者たちがこの映画の影響を受けてしまうことを本当に恐ろしいことだと感じています。

この映画の製作者たちは、自分たちのしたことの結果を、未来の日本に見るでしょう。

「埼玉の偉人であり、近代日本の父、渋沢栄一。」

ひどい映画「翔んで埼玉」が公開されてから、埼玉には何もない、とメディアが言って埼玉をディスっているのを見て笑って喜んでいる埼玉と全国の皆さん、埼玉が生まれ故郷の明治の偉人、渋沢栄一をご記憶ですか?近代日本の資本主義と企業活動の父と言われている実業家の偉人です。自分たちの生まれ育った埼玉を侮辱して笑っている埼玉県民と全国の方々は、まず、「道徳経済合一説」を説いて近代日本の建設を導いた渋沢栄一に謝ってください。渋沢栄一を忘れて埼玉を侮辱するほどに退廃した日本は近代の終末を迎えていると感じます。

「私は今後、テレビはほとんど見ないと宣言します」

話題のひどい映画「翔んで埼玉」で埼玉県が口汚くひどく侮辱されているのを見、そして、この映画をなぜか埼玉県民だけではなく、政財界を始め全国の国民が無批判に平然と受け入れて笑って喜んでいるのを見て、「ああ、これは本当にテレビのお笑いやバラエティー番組などのメディアからの毒素が国家全体に回ってしまったしるしだな。」と感じました。メディアによる誘導の影響は図り知れません。このような精神性の退廃と、判断力、思考力、言葉選びの劣化が起きてきた背景には、長年にわたって蓄積された、テレビ番組などメディアの大きな影響があると感じます。伝染病のように、悪い感性と習慣は広がって浸透しました。この映画のラストには、はにわというお笑い芸人(佐賀県出身)の、埼玉をひどく馬鹿にした歌が流れます。後味の悪い映画でした。

私は今までも多忙であまりテレビは見ない生活でしたが、これからは積極的にテレビ視聴は避けます。ニュースや健康情報はこれからも利用すると思いますが、それ以外にテレビの前で時間を過ごすことはありません。あんな酷い言葉と映像の連続の映画を見てへらへら笑っている感性の劣化した人間になるよりも、「テレビを見ない変な人」と言われる方がマシです。

聖母マリアよ、私たちを伝染病のように広がっていく心と霊と言葉の退廃からお守りください。あなたの汚れなき御心に人生を奉献します。

「埼玉には何もない、とは?」

ひどい映画「翔んで埼玉」の公開から、メディアで埼玉特集が組まれ「埼玉には何もない」というひどく侮辱的な言葉が意図的に流布されています。流行語にさえなりつつあります。一見、笑いに包まれているように見えますが、この言葉は軽いジョークとは感じられません。一つの地域の歴史と今を生きる人々への礼を欠いたひどく侮辱的な言葉であり、虚言です。この言葉に洗脳されて受け入れていくことから導き出されるのは、人々の間での埼玉県エリアの地域価値の著しい低下です。ひどく誘導的で意図的だと感じます。いったい、メディアの背後にどんな意図があるのでしょうか?

埼玉には何もない、という言葉は時代錯誤の東京の優位という価値観と視点から見た言葉であり、メディアが作り出した造語で洗脳の言葉です。実際は、事実とは異なります。埼玉にはたくさん素晴らしいものがあります。その意味で、この言葉を警戒感無しに受け入れる人々は、メディアの影響を受け、感性がおかしくなり、洗脳されていきます。東京で生まれ育ち、東京で暮らしていましたが東京が一番で素晴らしいと思っていない私には理解できないし、全国で国民が「埼玉には何もない」というひとつの共通意識を持たされるとすれば、明らかにメディアによる洗脳だと思います。この洗脳から導き出される様々な側面からの結果を、埼玉県民は注意深く見ていかなければならないと感じます。

映画では原作とは違い、後半は批判を避けるために埼玉県の勝利に導きますので、この物語の主旨がぼかされますが、しかし、根本的に、原作者は所沢に住んでいた時に、埼玉県を馬鹿にする目的で漫画を描いています。80年代の東京優位、一極集中の時代に言われた「ダ埼玉」がモチーフとなっています。この時代錯誤の物語が今、映画化された本当の意図が何なのか、背景にあるものが気になります。それにしても、なぜ、埼玉県民はディスられても大丈夫で喜んでいる、なんて、偏った一面的な報道が盛んにされているのでしょうか?埼玉県民を怒らせないための意図的な誘導だと思います。私の周囲の埼玉県民にも、この映画見てうんざりした人たちが何人もいます

ひどい映画「翔んで埼玉」について、「ディスられても許している埼玉県民は、日本一鷹揚(おうよう)な人々!」などと新聞で報道されているそうです。こんなことで褒められるのが埼玉県民にとって良いことで正しいことですか?裏に悪意のある意地の悪いいじめっ子がいじめられている子に対して、「君は笑って許してくれて、日本一いい奴だなあ!」と言っているのと同じです。

皆さん、近代は人間的、社会的な諸価値と尊厳を高揚させることを目指す戦いだったのではないですか?近代の目指した自由が悪用され、表現の自由を利用して、こんな形で一つの地域やそこに住む個人個人が侮辱されて価値を下げられ、差別意識を誘発しているとすれば、しかもそれが何らかの社会操作を伴っているとすれば、それは近代の目指したものに逆行しているのであり、もはや近代の夢の喪失、近代主義の土台の上に建てられた日本国のモラルの崩壊、つまり、私たちはこの映画に、日本の近代の自由の終末を見ているということです。

「結論として」

近代の目指した自由、平等、博愛、そして差別や人権の侮辱の無い世界は、今、どこに向かっているのでしょうか?近代の目指した自由は、普遍の真理と結ばれていなければ、実際は迷走して偶像崇拝へと導かれます。世界中で近代の目指した自由が退廃に導かれ、止めることもできないのは、相対主義的な自由の絶対化と偶像化によることです。相対的自由の絶対化は、結果的に社会を野放図と無関心に導いてしまいます。

相対主義的な自由を神として絶対化し、礼拝し、何が正しく、真理であるかも見極めようとしなくなった時、自由は暴走し、人間を誤りに導いていきます。

普遍の真理を求めることこそが、真に人を自由にし、人間と社会の尊厳と価値を高めるのです。

 

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