ライトノベルは文学……じゃなくてもよい理由
先週、先々週くらいから、ツイッター上で、「ライトノベルは文学か」という議論が繰り広げられていました。(今でも、かな?)
事の発端は、『藝大我楽多文庫 第七集 2015』に収録された鼎談『ライトノベルは文学か』です。元文芸誌編集者が、近年文芸において勢いを増しているライトノベルについてどう考えているか。文学的にどう捉えるか。それを語り合ったものです。
内容をかなりザックリと、意訳も入れてまとめると以下の通り。
今の若者にライトノベル作家を志望する者が多い。若者の読み物としてライトノベルが当たり前になった今、文学を伝えるものとしてライトノベルをどう捉えればいいのか。ライトノベルの中に文学はあるのか。過去の歴史に照らし合わせ考えてみたが、ごめん、やっぱり文学としてのライトノベルは判らない。故に文学とは言いがたい。でも、ライトノベルを読んで育った世代が、ライトノベルの良さを広く伝える努力をすれば、それが文学の一つになり得るかもしれない。
正直、しんどいながらも鼎談を読み終わって思うのは、ライトノベルというものの上っ面の部分だけすくい取って、よく理解もせずにあーだこーだと話し合っても結論なんか出ようはずがない、ということです。
ライトノベルは、非常に多様性に富んでいます。ファンタジー、SF、恋愛(ロマンス)、青春、ラブコメなどなど、様々なジャンルを全て受け入れた歴史があります。それらを中学・高校生向けエンターテインメントに昇華させる小説群。読者優先主義の若者向け娯楽小説。それがライトノベルと言えます。
私は、こう思ったのです。娯楽を文学として評価するってどうなの?
少し昔話をします。私は、中学2年生の時、初めて自分で文庫小説を買い、最後まで読みました。それが、水野良先生の『ロードス島戦記』です。この1冊が切っ掛けで、私は小説の魅力に取り憑かれました。当時のライトノベルを中心に恋愛、SF、ファンタジーなど様々なジャンルの小説を貪るように読む中で、一つだけ、全く読まなかったジャンルがあります。純文学です。学校の課題図書で嫌々読まされる以外は、大人になるまで、ホントにほとんど読みませんでした。「何で読まなかったの?」と聞かれても、正直、全く判らないというか、何となくイヤだったとしか言いようがありません。その一方でライトノベルに魅力を感じていたのは、純粋に面白かったからです。今でこそ、それなりに文学小説を読むようになりましたが、ライトノベルには純文学に対するカウンターカルチャーを感じています。それが文学として評価されることに、とても違和感を覚えるのです。
ここで思い出されるのが、2004年に発売された『ライトノベル完全読本』という本です。この頃は、ライトノベルという言葉がネットを中心に広まりつつも、まだ一般的には知られていませんでした。ただ、最も勢いのある文芸ジャンルとして、一部で認知されていました。『ライトノベル完全読本』は、ライトノベルの今と歴史を様々な作家、デザイナー、イラストレーター、編集者など関係者のインタビューや対談、人気作品や代表的作品の紹介を交えて解説した本です。全部で3冊発売されており、これを読めばライトノベルがどういう作品群か大体判る代物です。この1冊目のまえがきに『ライトノベル書評宣言』があります。文芸書評家の細谷正充さんは、当時のライトノベルの現状を鑑みてこのように書きました。
実はライトノベルは、2004年の当時でもかなり捉えどころのない文芸ジャンルで、ネット上におけるライトノベル定義議論も盛んに行われていました。ジャンルとしてよく判らないが故に、優れた作品があっても一般に評価されません。ライトノベルが評価に値する作品であること示すためには、まずライトノベルというものを紹介しつつ、一般に向けて作品群を深く語り批評すること、と考えたのです。
この考え方は、奇しくも『ライトノベルは文学か』の最後の質疑応答にあった文言と似ています。
とどのつまり、『ライトノベル書評宣言』は、ライトノベルを文学として評価しようということなのです。上述したように、私は、ライトノベルを純文学に対するカウンターカルチャーだと思っています。小説でありながら、ひたすら楽しいこと、面白いことを追求する自由さが売りだと思っています。ライトノベルを書評、批評することが文学に繋がるなら、私にとってライトノベルが権威化していくように感じたのです。それは、私が望んでいるライトノベルの形とは違っていました。
そこから、このツイートになります。
故に私は、「ライトノベルは文学じゃなくてもよい」と言いたいのです。そこにこだわる理由はないのです。
もちろん、私は、皆さんがライトノベルを文学と思うことを否定しません。あなたがそう思うならそうなんでしょう、あなたの中ではね。
関連リンク
鼎談「ライトノベルは文学か」にまつわる議論 - Togetterまとめ
続・鼎談「ライトノベルは文学か」にまつわる議論 - Togetterまとめ
事の発端は、『藝大我楽多文庫 第七集 2015』に収録された鼎談『ライトノベルは文学か』です。元文芸誌編集者が、近年文芸において勢いを増しているライトノベルについてどう考えているか。文学的にどう捉えるか。それを語り合ったものです。
内容をかなりザックリと、意訳も入れてまとめると以下の通り。
今の若者にライトノベル作家を志望する者が多い。若者の読み物としてライトノベルが当たり前になった今、文学を伝えるものとしてライトノベルをどう捉えればいいのか。ライトノベルの中に文学はあるのか。過去の歴史に照らし合わせ考えてみたが、ごめん、やっぱり文学としてのライトノベルは判らない。故に文学とは言いがたい。でも、ライトノベルを読んで育った世代が、ライトノベルの良さを広く伝える努力をすれば、それが文学の一つになり得るかもしれない。
正直、しんどいながらも鼎談を読み終わって思うのは、ライトノベルというものの上っ面の部分だけすくい取って、よく理解もせずにあーだこーだと話し合っても結論なんか出ようはずがない、ということです。
ライトノベルは、非常に多様性に富んでいます。ファンタジー、SF、恋愛(ロマンス)、青春、ラブコメなどなど、様々なジャンルを全て受け入れた歴史があります。それらを中学・高校生向けエンターテインメントに昇華させる小説群。読者優先主義の若者向け娯楽小説。それがライトノベルと言えます。
私は、こう思ったのです。娯楽を文学として評価するってどうなの?
少し昔話をします。私は、中学2年生の時、初めて自分で文庫小説を買い、最後まで読みました。それが、水野良先生の『ロードス島戦記』です。この1冊が切っ掛けで、私は小説の魅力に取り憑かれました。当時のライトノベルを中心に恋愛、SF、ファンタジーなど様々なジャンルの小説を貪るように読む中で、一つだけ、全く読まなかったジャンルがあります。純文学です。学校の課題図書で嫌々読まされる以外は、大人になるまで、ホントにほとんど読みませんでした。「何で読まなかったの?」と聞かれても、正直、全く判らないというか、何となくイヤだったとしか言いようがありません。その一方でライトノベルに魅力を感じていたのは、純粋に面白かったからです。今でこそ、それなりに文学小説を読むようになりましたが、ライトノベルには純文学に対するカウンターカルチャーを感じています。それが文学として評価されることに、とても違和感を覚えるのです。
ここで思い出されるのが、2004年に発売された『ライトノベル完全読本』という本です。この頃は、ライトノベルという言葉がネットを中心に広まりつつも、まだ一般的には知られていませんでした。ただ、最も勢いのある文芸ジャンルとして、一部で認知されていました。『ライトノベル完全読本』は、ライトノベルの今と歴史を様々な作家、デザイナー、イラストレーター、編集者など関係者のインタビューや対談、人気作品や代表的作品の紹介を交えて解説した本です。全部で3冊発売されており、これを読めばライトノベルがどういう作品群か大体判る代物です。この1冊目のまえがきに『ライトノベル書評宣言』があります。文芸書評家の細谷正充さんは、当時のライトノベルの現状を鑑みてこのように書きました。
ライトノベルは、文壇で正当な評価を受けなければならない。語るべき価値のある作品を創出していながら、若者層を中心とした新興ジャンルゆえに、活字の“ジャンクフード”扱いされてきた状況を変えなければならない。
なぜなら私たちは、ライトノベルに優れた作品があることを知っている。優れた作家がいることを知っている。それは他のいかなる創作ジャンルに対しても、決して劣るものではない。
だから、声を大にして言おう。今こそ、積み重ねてきた歴史を踏まえ、作品を、作家を、ライトノベルそのものを、正しく評価することが求められているのだ。新たなる文芸ジャンルの、さらなる発展と成熟を願い、ここにライトノベル書評宣言をするものである。
『ライトノベル完全読本』まえがきより
実はライトノベルは、2004年の当時でもかなり捉えどころのない文芸ジャンルで、ネット上におけるライトノベル定義議論も盛んに行われていました。ジャンルとしてよく判らないが故に、優れた作品があっても一般に評価されません。ライトノベルが評価に値する作品であること示すためには、まずライトノベルというものを紹介しつつ、一般に向けて作品群を深く語り批評すること、と考えたのです。
この考え方は、奇しくも『ライトノベルは文学か』の最後の質疑応答にあった文言と似ています。
やっぱりライトノベルと付き合っていくなら、その良さを、人を選ばず共通の良さとしてみんなに語って欲しい。理解できるかどうかは別として。そうすれば、それがこれからの「文学」になるかもしれない。今となってはもはや、我々は「純文学」を失ってしまったから、意味性を介してものをいえなくなっている。だからあなた方の世代が、ライトノベルの良さはこうだと、上の世代にやこれからの世代を刺激して語って欲しい。その責任が君らにあるかどうかと問われたら、俺はやはり責任があると思うよ。自分たちの愛好しているものはこんなにいいものだと主張しないのは、やっぱり責任放棄だと思うわけです。
『藝大我楽多文庫 第七集 2015』31Pより
とどのつまり、『ライトノベル書評宣言』は、ライトノベルを文学として評価しようということなのです。上述したように、私は、ライトノベルを純文学に対するカウンターカルチャーだと思っています。小説でありながら、ひたすら楽しいこと、面白いことを追求する自由さが売りだと思っています。ライトノベルを書評、批評することが文学に繋がるなら、私にとってライトノベルが権威化していくように感じたのです。それは、私が望んでいるライトノベルの形とは違っていました。
そこから、このツイートになります。
「ライトノベルは文学か」という議論が昨日、一昨日(?)辺りからツイッターを賑わせてるけど、今から11年前「ライトノベル完全読本」で「ラノベ書評宣言」した時に賀東招二大先生が返した言葉をスクショしとくね。 pic.twitter.com/9coO4pOHPr
— 藤堂志摩子提督 (@eternalsisters) 2015, 3月 17
元のページは、賀東招二大先生のブログの2004年7月28日の日記。→ http://t.co/d5bO60xHAm これについての賀東大先生と新城カズマ大先生の対談が、「ライトノベル完全読本 Vol.2 http://t.co/inbHrD1ZBd 」に載っている。
— 藤堂志摩子提督 (@eternalsisters) 2015, 3月 17
ちなみに、この時の賀東招二大先生と新城カズマ大先生の対談タイトルは「ライトノベルの現在を語ろう」。
— 藤堂志摩子提督 (@eternalsisters) 2015, 3月 17
故に私は、「ライトノベルは文学じゃなくてもよい」と言いたいのです。そこにこだわる理由はないのです。
もちろん、私は、皆さんがライトノベルを文学と思うことを否定しません。あなたがそう思うならそうなんでしょう、あなたの中ではね。
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