浦和ご近所探索 氷川神社
(旧中山道、さいたま新都心駅近くから氷川神社の参道が別れている。参道は約2キロ。並木に囲まれた道の片側が一方通行の車専用、片側が遊歩道になっている)
氷川神社はご近所とはいえ、旧浦和市ではなく旧大宮市にある。
かつて浦和は急行の停まらない、どころか電車(京浜東北)しか停まらない県庁所在地として「有名」だった。20年ほど前まで、大宮駅を出た東北線や高崎線の列車は浦和駅を素通りして東京都内に入った。なぜそういうことになったのか。そこには氷川神社の存在が大きくかかわっている。そこに面白い角度から光をあてた本を読んで、久しぶりに氷川神社へ出かける気になった。
原武史『<出雲>という思想 近代日本の抹殺された神々』(講談社学術文庫)。著者の原武史は近代日本政治思想史を専門とする研究者で、『大正天皇』(朝日選書)、『昭和天皇』(岩波新書)とユニークな天皇論で立て続けに賞を得た。
『<出雲>という思想』は二部に分かれている。第一部が長くて「復古神道における<出雲>」、第二部は短く「埼玉の謎 ある歴史ストーリー」。
(一の鳥居からしばらくは人通りも少ない。周囲は閑静な住宅地で、ケヤキの古木を主とした見事な並木が続く)
氷川神社というのはほとんどが荒川流域、つまり埼玉県と東京都に集中している。埼玉に162社、東京に59社、それ以外の県には7社しかない。その中心が大宮の氷川神社で、昔から武蔵一の宮とされてきた。
祭神はスサノオ、オオクニヌシ、クシイナダヒメの三神。いわゆる出雲系の神だ。『国造本紀』によれば、景行天皇(実在しない)の代に出雲族がスサノオを奉じてこの地に移住してきたと言い伝えられている。
スサノオはアマテラスの弟。オオクニヌシはスサノオの子孫にあたる。『日本書紀』によると、葦原中国(日本)を治めていたオオクニヌシに対し、高天原を治めるアマテラスの子孫タケミカズチらが国を譲れと要求した。オオクニヌシはいったん拒否するが、やがて国を譲って退き、死者の国を治めることになった。
いわゆる「国譲り」というやつで、神話の背後に、スサノオを奉ずる出雲族がアマテラスを奉ずる大和朝廷勢力と争い、敗北したのではないかという仮説を考えることができる。
(10分ほど歩くと、参道は大宮駅前からまっすぐ延びる道と交差する。その交差点を超えると人通りが多くなり、すぐに二の鳥居がある。僕も昔何度か氷川神社へ行ったときは、大宮駅からこのコースをたどった。参道の両側にはちらほら商店もある)
1968(明治1)年10月、京都から江戸城に入った明治天皇は、わずか4日後に大宮氷川神社を「武蔵国総鎮守」とする勅書を出し、10日後には大宮氷川神社を訪れて親祭を行った。新首都に入った明治天皇の最初の行幸が氷川神社だったのはなぜか。
原はこう書いている。「スサノオを武蔵国、もっと端的にいえば『帝都』を守護する神として公式に認めたことのもつ思想的意義は、決して小さくない。それは結局、<伊勢>ではなく大宮、つまり<出雲>こそが、新しい首都にとっての祭祀的、宗教的中心であることを、天皇自らが認めたということにもなる」。
新政府が氷川神社の重要さを認めたのを証明するように、翌1869(明治2)年1月、廃藩置県に先立って大宮県(現在の埼玉県東部一帯)が置かれ、大宮に県庁が置かれた。ところが8カ月後の9月、突然に大宮県は廃止され、浦和県とされて県庁も浦和に移ってしまう。
当時、浦和は中山道の小さな宿場町で、人口も経済規模も大宮とは比べようもなく小さかった。その後、1871(明治4)年の廃藩置県で埼玉県となり、その5年後には西隣の熊谷県(県庁は熊谷)を吸収して、ほぼ現在の埼玉県ができあがる。
もう一度、引用。「この奇妙な県庁移転の背景に、<伊勢>と<出雲>の対立をめぐる問題があったのか、そのことを含めて、廃止の理由はよくわかっていない」。
原は研究者らしい慎重さで「よくわかっていない」と書きながら、県庁が大宮から浦和へ移ったことに伊勢系神道と出雲系神道の対立が絡んでいたのではないかと匂わせている。
(三の鳥居。やけにJ1のユニフォームを着た人が多いと思ったら、この日は大宮アルディージャ対FC東京のゲームがあるんだった。神社の周囲に広がるかつての神域が大宮公園になっていて、スタジアムがある)
この本の第一部「復古神道における<出雲>」は、幕末から明治にかけての復古神道をたどり、それがアマテラス中心の国家神道に取ってかわられるまでを追っている。一地域の動きに中央新政府の動向を重ねてみると、県庁移動の背後にどんな事情があったのか、おぼろげながらわかってくる。
復古神道を確立したのは幕末の平田篤胤で、その神学の特徴はアマテラスではなくオオクニヌシを中心に据えたことだった。尊王攘夷を思想的に支えたのは水戸学と神道だったが、神道内部では、篤胤門下でオオクニヌシを重視する平田派と、アマテラスを重視する津和野派が主導権を争っていた。
1867年、大政奉還直後に出された政治綱領「献芹譫語」には、王政復古を助けたのはアマテラスとオオクニヌシであることが記されている。翌1868(明治1)年には祭政一致を実現するため神祇事務局が置かれ、平田派の神官が判事に任命された。ところが、この平田派の判事は任命わずか1カ月で職を解かれてしまう。
1869(明治2)年に設置された神祇官では、アマテラスを中心とする神学の津和野派が主要ポストを独占した。「結局彼ら(平田派)の神学は、実際には一度も日の目を見ることなく維新の表舞台から姿を消しているのである」と原は書いている。
こうした新政府の動きと、大宮から浦和への県庁の移動を重ねてみると、明治天皇が氷川神社を訪れ、大宮に県庁が置かれた1968年から翌69年にかけて、ほんの一瞬だけ、スサノオを重視する平田派の神道が明治政府の中枢を占めていたことが分かる。
しかし平田派はすぐに新政府から排除された。ここからアマテラスを中心とする伊勢神道が主流を占めることになり、それがやがて国家神道となる。スサノオを中心とする出雲神道は、その後、大本教など民間宗教に受け継がれるが、これも昭和に入って弾圧された。出雲の神々は記紀の時代に抹殺されただけでなく、近代国家建設の時代にもう一度抹殺されたわけだ。
(社殿。スタジアムに向かうサポーターが立ち寄ってチームの勝利を(?)祈ってゆく)
その後、大宮氷川神社は全国に数十ある官幣大社のひとつになり、昭和天皇や皇太子時代の現天皇も訪れているから、それなりに遇されてはいる。でも明治初年に、伊勢神宮に代わる国家の守護神とされた一瞬の光芒を今の氷川神社から想像することはむずかしい。
埼玉県の県庁が浦和に置かれたいきさつについては、もうひとつの政治的事情もありそうだ。
江戸時代、いま埼玉県になっている地域で、氷川神社の門前町・大宮と並ぶ大きな都市は川越だった。川越藩の城下町で、藩主は松平氏。徳川の親藩だったから、維新直後の新政府にとって川越は警戒を要する土地だった。大宮が束の間、大宮県となったように、川越もごく短期間、川越県となったが、すぐに入間県、次いで熊谷県(県庁は熊谷)となり、明治9年には浦和を県庁とする埼玉県に編入されてしまう。
大宮、川越という大きな都市をさしおいて、小さな宿場町だった浦和に県庁がおかれたのには、そんな政治的いきさつがあったらしい。その後、高崎線と東北線が大宮で分岐することになったことも含め、さまざまな歴史の紆余曲折の結果として、浦和は列車の停まらない県庁所在地になったのだった。
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