2025年5月31日 (土)

今週の読書は経済の学術書など計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、安達貴教『不完全競争の経済学に向けて』(勁草書房)では、市場支配力を有する経済主体が存在する不完全競争市場の分析について市場支配力アプローチを取り、ミクロ経済的な課税や広告や金融、あるいは、競争政策や消費者政策への応用を試みようとしています。森永卓郎『保身の経済学』(フォレスト出版)は、今年2025年1月に亡くなった経済アナリストが教育現場、職場、金融村、大手メディア、ザイム真理教、立憲民主党、官僚、若者といったさまざまな保身について、何らの忖度なしに解き明かそうと試みています。ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』上下(河出書房新社)は、情報ネットワークの視点から人類史を問い直し、民主主義が全体主義に取って代わられるのを防止し、また、AIがテロリストなどに悪用されて文明世界が壊滅するのを防ぐにはどうすればいいか、などについて議論を進めようとしています。新川帆立『目には目を』(角川書店)では、幼い我が子を殺された母親が加害者の少年を殺害し復讐を果たすのですが、少年法の精神により実名や居住地などの不明な加害者の情報をどのように入手したかを女性ジャーナリストが明らかにしようと試みるミステリです。原田泰『検証 異次元緩和』(ちくま新書)は、アベノミクスの3本の矢のうちの中心的存在であった金融緩和について、その経済的な効果と副作用について検証し、異次元緩和は成長や雇用には効果があったことは確かであると結論し、日銀財務状況などの副作用を否定しています。吉田敏浩『ルポ 軍事優先社会』(岩波新書)は、岸田内閣から始まった大軍拡、軍事費膨張、米日軍事一体化について詳細な取材を基に報告するとともに、軍事優先の下で削減される社会保障も併せて議論しています。飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(平凡社新書)は、出版社-取次-書店という書籍流通の中で、消費者への接点となる町の本屋さんについて、書籍流通の特殊性などを基に、いかに書店経営が成り立たなくなったかを歴史的に後付けています。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの30冊と合わせて計129冊、さらに今週の8冊を加えて137冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。

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まず、安達貴教『不完全競争の経済学に向けて』(勁草書房)を読みました。著者は、私の母校である京都大学経済学部の教授であり、ご専門は産業組織論、競争政策、応用ミクロ経済学、実証ミクロ経済学だそうです。本書は完全なミクロ経済学の学術書であり、数式を展開した理論モデルを用いて分析を進めようとしています。私はどちらかといえばマクロ経済学が専門分野ですので、十分に理解したかどうかはそれほど自信ないものの、オールラウンドなエコノミストでありたいと望んでいますので、マイクロな経済学についても手を伸ばしてみました。本書は、タイトル通りに、不完全競争をテーマにしていますので、何らかの市場支配力を持つ経済主体が存在する市場を分析対象にしています。そして、4部構成であり、まず、第Ⅰ部で後述のような市場支配力指数アプローチの基礎、第Ⅱ部と第Ⅲ部でその応用や拡張、最後に、第Ⅳ部で垂直構造、というか、一般均衡への拡張が論じられています。本書では不完全競争市場を考える際に、マクロ経済学と相通ずるものとして、市場競争を総体的な水準で捉えようとするシカゴ学派的な「シカゴ価格理論」(CPT)にもいくぶんなりとも近い部分があります。ただ、未読ながら最近では『競争なきアメリカ』といった本があるものの、日本よりも競争政策にとても敏感な米国の古典派的な経済学にも通ずるミクロ経済書は、それなりに価値あると考えています。ということで、本書では第Ⅰ部にて本書の基礎的なツールである「市場支配力指数」を解説し、本書全体でこの市場支配力指数によるアプローチを取っています。すなわち、市場支配力を持った経済主体のいない完全競争市場と、逆に、独占を考えた後に、ゲーム理論を応用して不完全競争を理解しようと試みています。ですから、本書で考える市場支配力指数の経済学というのは、ゼロで完全競争市場を、そして、100で独占市場を、それぞれ両極端に含む市場分析といえます。コストのパススルーや租税負担の帰着などを含めた完全競争と不完全競争の比較が p.49 の表3.1に示されています。そういった基礎の上に、第Ⅱ部と第Ⅲ部で課税や広告や金融、あるいは、競争政策や消費者政策への応用が分析され、最後に、一般均衡に通ずる理論的基礎付けがなされています。理論モデルの分析からは、まずまず常識的な結論が導かれています。すなわち、貸出市場の市場支配力が強まれば預金金利が低下し、逆に、預金市場の市場支配力が強まれば貸出金利が上昇する、あるいは、垂直的な取引関係の中で、小売業者の数が減少すれば卸売価格が低下する、などです。後者の小売と卸売の関係は交渉を伴う垂直的関係における分析でも市場支配力指数アプローチが有効であることが示されているといえます。もちろん、市場支配力の上昇は資本分配率を上昇させ、経営者や資本家の所得を増加させるとの分析結果も示されています。ですので、ミクロ経済学では従来は完全競争からの逸脱という意味で市場の失敗の中で取り扱われてきた不完全競争を連続変数によるオペレーションで扱えるようにするという市場支配力指数アプローチの有効性が概ね示されているように私は受け止めました。ただ、繰り返しになりますが、完全な学術書であり、一般ビジネスパーソンや学部学生レベルでは理解を超える部分がいっぱいあると思います。

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次に、森永卓郎『保身の経済学』(フォレスト出版)を読みました。著者は、今年2025年1月に亡くなった経済アナリストです。この方の著書をいくつか読んできたのですが、本書で私も一区切りとしたいと考えています。本書は、タイトル通りに保身を経済学の視点から考えているのですが、8章から成っており、順に、教育現場、職場、金融村、大手メディア、ザイム真理教、立憲民主党、官僚、若者、がそれぞれ取り上げられています。私の興味の赴くままに、まず、教育現場ではマニュアル化された教育が槍玉に上がっています。私も大学教員として、初等・中等教育までの指導要領に則った教育が、その後の大学における自由な発想や批判的な思考の妨げになっていて、大学生が大学段階での教育を十分に享受できない一因となっているように受け止めています。でも、本書では、企業がブランド大学の学生の採用に傾いたり、学生の方でも大企業志向が強かったり、という点を「保身」と捉えています。まあ、そうかもしれません。職場に至っては、本来あるべき企業活動よりも上司の意向に沿った業務遂行が「保身」であると指弾されています。ただ、この点については私は不案内で、上司に従う部下がよくない、というよりは、企業活動を歪める業務指揮を取る上司の方がよくないのであって、その上司は保身のために部下に業務命令、というか指示を出しているわけではないような気がしてしまいました。ここでは、ご本人の経験から三和総研の例が持ち出されています。それから、金融村では「株が下がるとはいえない」のは一面の真理であって、株の営業をしている場合はそうなのですが、株よりも人数としてはグッと少ないものの債権の営業をしている場合もあり、金利の動きに対しては株と債券は逆に動くわけですので、まあ、ようするに、金融村に限らず、いわゆるポジショントークをしている、ということなのだろうと思います。そして、私の考えでは、特に、罪が重いと感じるのはメディアの保身です。大手限定ではなく、メディアは国家権力と一定の緊張関係にあるべきであると私は考えるのですが、NHKから始まって、多くのメディアが国家権力に逆らうことなく、政府・与党の情報垂流しの「御用メディア」に成り果てているように感じています。最近では、国家権力だけではなく、ジャニーズ事務所のような芸能界権力にまで抵抗することなく、海外メディアの情報をキャリーするしかないように見受けられます。挙げ句の果てには、国民にキチンと情報が伝わらずに、したがって、国民が正しい判断を下すことの妨げになっているような気がしてなりません。「保身」というよりは、ほぼほぼ権力に対する忖度の塊になってしまい、「社会の木鐸」としての役割を果たしているメディアは、私の見たところ「赤旗」と週刊文春くらいしかないように思えてしまいます。ですから、権力のサイドでは、例えば、万博事務局などでは、「赤旗」記者に取材させまいと記者証の発行を長らく拒んでいたりするわけです。ザイム真理教をはじめとする官僚はいうに及びません。私は60歳の定年までキャリアの国家公務員として長らく働いていましたので、身にしみて理解できる部分が少なくありませんでした。そのあたりや若者の保身については、読んでみてのお楽しみです。

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次に、ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』上下(河出書房新社)を読みました。著者は、イスラエルにあるヘブライ大学歴史学部教授であり、10年ほど前の『サピエンス全史』で世界に読者を得たと記憶しています。ただ、その後の『ホモデウス』や『21 Lessons』なども私は読んでいますが、それほど感心はしません。本書もやや期待外れでした。本書の英語の原題は NEXUS であり、2024年の出版です。まず、日本語タイトルは「情報の人類史」となっていて、これはこれで正確です。ただ、英語の副題は A Brief History of Information Networks from the Stone Age to AI であり、本書は情報ネットワークの歴史ではないので、情報の歴史という意味で日本語タイトルの方がより正確であり、本邦出版社は十分理解しているのだろうと私は認識しています。ということで、本書は情報の歴史であり、まず、タブレットに、そして、すぐ後には紙に情報が記録されるところから始まり、それが官僚によって管理され、支配されるところから歪み始めて、無謬性が付加される、と論じています。そして、その無謬性に立脚して全体主義が生まれ、一定の基礎の上で民主主義を凌駕して世界を戦争に巻き込む、という歴史観です。ネットワークとどこまで関連するのかは私には不明でした。ただ、この著者の歴史観、最初のベストセラーである『サピエンス全史』で明らかにされた人間のつながりの重視、協力する動物としての人間=ホモサピエンスという視点は本書でも受け継がれており、共同主観的現実が歴史の原動力であるという観点を提供しています。私はこの歴史観には賛同しません。うがってみれば、共同主観的歴史観の前から指摘されていた2つの歴史観、すなわち、主観的現実に立脚する唯心論と客観的現実に立脚する唯物論の対立から生まれる弁証法的な共同主観的現実を提示しているように私は受け止めたのですが、ナラティブとしての物語を代表する共同主観的現実には、あくまで主観的現実が入り込んでおり、私自身は客観的現実に即した唯物論が正しいと考えています。ビッグバンから始まる宇宙の歴史の大部分、そうです、圧倒的大部分の歴史は共同主観的現実ではなく客観的現実でしかありえません。具体例としては、小惑星が地球に衝突して恐竜が絶滅したのは主観的現実とも、共同主観的現実とも何の関係もなく、あくまで客観的現実です。加えて、本書では何らネットワークを問題にしていません。情報は死蔵されている限りは何の歴史的役割も持ち得ません。何らかのネットワークに乗って流通することが重要です。その意味で、私は古典古代から中世にかけては図書館が、そして、活版印刷が発明された後の近世ないし近代ではメディアが重要な役割を果たすと考えています。ところが、本書では図書館や印刷についての言及はまったくなしに、いきなり飛んでAIになってしまいます。ですから、本邦でも注目されたのはAIがテロリストによって悪用されて世界が壊滅する、というわけのわからないシナリオです。ただ、何と申しましょうかで、私はこの結論には賛同します。賛成であるが故に、歴史的にていねいに解明して欲しかった気がします。AIについては、そう遠くない将来に明らかに人間の総合的な認知能力を超えることが予想されますから、AI開発については明らかにブレーキをかけるべきであると考えます。ストップしてもいいかもしれません。なぜなら、本書の第5章の表現でいえば、「完全なる統制」は人間の側からAIに対しては近い将来に不可能にあり、その逆方向の統制がなされる可能性が極めて高いからです。この結論のために、本書を長々と読む必要はまったくなかった、と読み終えて気付かされた次第です。いずれにせよ、この著者の本はそれほど頻度高く出版されるわけではないので、今後も読み続けるような気がしますが、経済史についてはアイケングリーン教授の本をさらに重視するようになる予感があります。はい、予感です。

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次に、新川帆立『目には目を』(角川書店)を読みました。著者は、弁護士として活動していたミステリ作家です。コンスタントにミステリの新作を発表しています。本書の主人公はジャーナリストの仮谷苑子であり、彼女が取材を進めて真相に近づくという体裁のミステリ、というふうに私は読みました。まず、N少年院のミドリ班に所属していた少年の触法事実が明らかにされます。少年ですから触法であって、犯罪とはいわないのでしょうが、まあ、一般的に判りやすく犯罪といっていいのかもしれません。そのミドリ班に所属していた少年たちが少年院を退院した後、そのうちの1人である少年Aが田村美雪によってメッタ刺しにされて殺害されます。この殺人事件は謎でもなんでもありません。実は、犯人の田村美雪は少年Aによって幼い我が子を殺されており、その復讐が実行されたわけです。犯人が田村美雪であるとすぐに特定されて逮捕され、裁判により無期懲役の刑が確定します。その裁判で、被告の田村美雪は何らの反省の姿勢も見せず、「目には目を」というハンムラビ法典を実行しているわけです。ただ、被害者として殺害された少年Aは少年法の精神により実名が公表されないばかりか、居住地などの情報も一切伏せられているわけですから、誰かが少年Aに関する情報を田村美雪に流したことになります。この少年Aに関する情報を田村美雪に伝えた少年Bを特定するのが解明すべきミステリの謎、ということになります。そして、主人公の仮谷苑子が少年Aと同じ時期にN少年院ミドリ班に属していた少年A以外の6人に関して取材を進めるわけです。少年たち本人への取材に加えて、少年院の青柳主任、あるいは、必要に応じて少年たちの家族、さらに、少年たちの犯罪の被害者なども取材対象としています。ミステリですので、あらすじはここまでとしますが、なかなかに興味深いストーリー展開で、まあ、途中の紆余曲折の大波にしては、ラストは穏当な結末が用意されています。ミステリとしては評価が分かれると思います。おそらく、この作者の実績としての今までの作品群から考えても、高く評価する人が圧倒的に多いと思いますが、私はそう高く評価しません。やはり、復讐というテーマが暗くて重いことに加えて、実に穏当なラストで収束するからです。幼い我が子の復讐で殺人を実行した田村美雪の犯行に対比すればするほど、ラストはつまんないと私は感じました。逆に、このラストを安心して読む読者も多そうですし、そういった読者はこの作品を高く評価するんではないか、と私は想像します。ただ、はやりの作家さんですから読んでおいて損はありません。その意味で、オススメです。

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次に、原田泰『検証 異次元緩和』(ちくま新書)を読みました。著者は、私もよく知る官庁エコノミストご出身で、現在は名古屋商科大学ビジネススクール教授を務めています。私の上司だったこともあり、したがって、共著論文もあったりします。本書は著者が日本銀行政策委員会審議委員としての経験を持ち、当時の黒田総裁が進めた異次元緩和を積極的に支えた立場からの検証結果を取りまとめています。です7から、当然ながら、異次元緩和を悪く書いているハズもありません。よかった点を列挙して、よくなかった点は言及されていません。雇用は改善されました。これは明らかです。異次元緩和の否定論者は雇用が増加したとはいえ、非正規雇用の増加であった点を強調しますが、本書ではそれを否定しています。私は両方とも成り立ちうる点を指摘しておきたいと思います。ただ、賃金が上昇しなかった点は異次元緩和否定論者に近いです。そして、財政赤字については明らかに低金利の維持という点で貢献しています。指数関数的な債務の累増、いわゆる雪だるま的な債務の増加を抑止するのに低金利は大いに役立ちました。同様に、株価の維持や上昇にも貢献しているハズですが、その点は本書ではそれほど強調されていません。しかし、金融市場の緩和によって資金調達が容易に運んだことは当然で、企業倒産の抑止に役立っています。ただ、これらの点で反論する向きはモラルハザードの観点を強調していて、そこには一定の理解を示すべきです。いずれにせよ、異次元緩和否定論の根拠を批判している本書の根拠は明白であり、特にターゲットのひとつにされている山本謙三『異次元緩和の罪と罰』に比較して、本書の方がずっと説得力あると私は受け止めています。特に、日銀財務状況に対する副作用との批判は、本書の指摘と同じで、私はまったく的外れだと受け止めています。最後に、1点だけ本書が取り上げていない異次元緩和の副作用、というか、否定的な側面は住宅価格です。特に東京の住宅価格は異次元緩和によってメチャメチャな上昇を見せました。もはや一般的なサラリーマンが東京で然るべき住宅を購入することは不可能になっています。その昔に「億ション」といえば、贅を極めた豪華マンションでしたが、現在ではごくフツーのマンションが1億円では買えなくなっています。思い起こせば、1980年代後半のバブル経済が破綻したのは、当時いわれていた「年収の5倍で住宅が買えない」という点が大きく批判されたため引締めが始まったのが引き金になりました。バブル崩壊から35年を経て、異次元緩和の最大の副作用は住宅価格に現れました。もちろん、中央銀行が政策目標とすべきは物価であって、資産価格ではないという議論はあり得ますが、中央銀行がバブルやバブル崩壊に対応するのであれば、住宅価格にも目を配るべきです。しかも、住宅は教育や医療とともに国民の権利のひとつであり、どこまで市場での供給に依存すべきかは疑問、と私は考えていますが、いまだに多くの国民は自己責任で住宅を買うべきと認識しているようです。その住宅が一般的なサラリーマンには手の届かない価格になってしまっています。この副作用をいかにして解決するかは現時点で誰も指摘していません。国政選挙の争点にすらなりません。こういった点が私には大いに疑問です。

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次に、吉田敏浩『ルポ 軍事優先社会』(岩波新書)を読みました。著者は、ジャーナリストであり、本書は岩波の月刊誌『世界』などに掲載されていた記事を取りまとめています。「国家安全保障戦略」、「国家防衛政略」、「防衛力整備計画」を本書では「安保三文書」と呼び、2022年12月に当時の岸田内閣において決定され、その後、岸田内閣によって強力に軍拡と軍事費膨張、米日軍事一体化が進められてきたと主張し、それらを軍事や安全保障の面からだけでなく、軍事優先のために切り捨てられる社会保障などもあわせて本書でルポしています。まず、台湾有事や中国との武力衝突を想定した九州から沖縄・南西諸島の軍事化が進んでいる現実を詳細にリポートしています。特に、弾薬庫の増強が特徴としてあげられています。本書でも言及されていますが、私の生まれ故郷の京都府南部には祝園弾薬庫があります。弾薬庫とは自然の地形を利用して弾薬を備蓄する施設であり、当たり前ですが、敵の標的になるような目立つ建物があるわけではありません。それだけに、地域住民などの目にもさらされることなく、拡充が進められているのは脅威といえます。こういう形で地域の軍事化が進められ、軍産学複合体の利益が図られている点が詳細に報告されています。おそらく、学術会議法案の審議が衆議院に次いで参議院で始まっていますが、明らかに、こういった学術の軍事化の先にあるものであり、それを本書ではていねいに提示しています。それから、まさか日本で徴兵制が復活するなんてことはあり得ないと考える国民が大多数だろうと私は想像していますが、第2章では、所得などのメリットを強調した経済的徴兵制が事実上始まっている可能性も指摘しています。加えて、軍事費の増加の影で社会保障、特に生活保護が削減されている点も詳細な取材に基づいて明らかにされています。特に、私が不安を感じるのは、日米合同委員会などの米国のコントロール下で、軍事面を中心に日本の対米従属が強まっている可能性です。私は安全保障や軍事面はそれほど詳しくありませんが、経済面では最近の日米間税交渉なんて、報道に接する限りでも、とても対等平等な交渉が出来ているようには見えません。米国の意向に沿ってオスプレイを飛ばし、自衛隊は米軍の指揮監督下に置かれ、科学や学術まで軍事優先で米国に利用されるとなれば、もはや日本は独立国の体をなしません。本書では指摘されていませんが、特に日本では司法の独立性が低くて、内閣の方針を追認するだけの役割しか果たしておらず、最近、米国の国際貿易裁判所がトランプ関税の差止めを命じる判決を出したような役割はまったく期待できません。全国の地方公共団体の中で政府の方針に異議を唱えている沖縄県も裁判で芳しい結果を得ているようには見えません。これまた、本書では取り上げていませんが、メディアの対抗力、権力との一定の緊張関係もまったく失われつつあります。軍事面を中心に対米従属を強める政府を押し止めるには一体どうすればいいのか、本書はこういった大きな課題を突きつけるルポだったと思います。

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次に、飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(平凡社新書)を読みました。著者は、編集者を務めた後に独立し、現在ではWEBカルチャーや出版産業などの論評をしているようです。同じ作者が同じ出版社から出している『「若者の読書離れ」というウソ』を私は2年ほど前に読んだ記憶があります。この事実を、おそらく、高齢の方々は認めたくないでしょうが、若者が読書離れしていないという事実は決して間違っていません。ということで、本書では、ソフトウェアである読書ではなく、ハードウェアの書店、それもネット販売などではなく町の書店について歴史的に振り返っています。カバーしているのは、基本的に、新刊書を販売する書店であり、古書店は含みませんが、雑誌などのメディアを考える際は駅のスタンドなども含めています。誰の目から見ても、町の本屋が減っていることは明らかです。私が勤務する立命館大学のびわこくさつキャンパスのJR線の最寄り駅である南草津駅では、昨年だったか、駅ビルに本屋がオープンしたのですが、こういった動きは大きな例外といえます。その町の本屋の経営について、よく指摘されるのが不合理な出版流通の現状です。本書でも指摘しているように、本屋さんには本の入荷に関して自主的な経営判断をする余地が少なくなっています。出版社というメーカーがあるのはよく知られた通りですが、日本では取次と呼ばれるいわば本の卸売業者が出版社と書店をつないでいて、この取次が配本を事実上決めているという事実があります。すなわち、書店サイドで頼んでもいないのに、取次が見計らい配本でもって書店に本を配本し、定価で売れなければ返品する、というシステムです。定価販売という再販制度についても本書では取り上げています。文化振興のためという名目が嘘っぱちに近いと指摘していて、はい、私もそう思います。要するに、賞味期限間際の食品を、本部が値引き販売させてくれない、というコンビニの問題と同じで、例えば、新刊が出た後の前週の週刊誌を値引き販売したり、あるいは、在庫一掃セールなんかでも書店の裁量で値引き販売できないわけです。量の面からは取次が見計らい配本で書店の自主性が奪われ、価格の面からも定価販売で値引きも出来ない、という営業自由の原則に照らしてどうか、と思わせるような経営を強いられているのが実情というわけです。その上、日本の書店の粗利益率=粗利は20%強しかなく、先進各国の中でも利幅が小さくなっています。もちろん、ネット販売のシェア拡大、あるいは、そもそも、若者以外の年齢層の読書離れ、もちろん、人口減少などなど、書店の売上にネガな影響を及ぼす原因はいっぱいあります。今では廃止されたとはいえ、大店法もそうだったかもしれません。ただ、図書館で本をそろえて貸し出しても書店の売上が減るということはないとの指摘を紹介しています。いずれにせよ、日本では出版物に限らず、まだまだ、需要のバイサイドに比べて、供給のセルサイドが強い、という分野が決して少なくありません。かつての松下幸之助の「水道理論」が当てはまるわけです。金融なんかでも投資信託などの資金運用会社のバイサイドは、セルサイドの証券会社にいわれるままに金融商品を買わされているところがまだまだ残っていたりします。基本的に、私の経験でも途上国では掛売りがあったりする関係で、消費者よりもお店の方にアドバンテージがある場合が多く、大先進国の米国でも消費者がパワーを持ち始めたのは1960年代にラルフ・ネーダーが本格的に消費者運動を組織し始めてからだという気がします。その消費者とお店の力関係が、書籍流通においては取次と書店の間に現れている、と私は感じていしまいました。

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2025年5月24日 (土)

今週の読書は森永卓郎の本をはじめ計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、森永卓郎『読んではいけない』(小学館)と『森永卓郎 最後の提言』(日本ジャーナル出版)は、週刊誌に掲載されていたコラムを単行本に取りまとめています。いわゆる「ザイム真理教」による緊縮財政を批判し、加えて、現在の日本の株式市場はバブルである可能性を指摘しています。スティーブン・レビツキー & ダニエル・ジブラット『少数派の横暴』(新潮社)は、20世紀末から約30年間一貫して少数派であった共和党がどうして民主党を押さえて政権を担う、あるいは、実質的な決定権を握ってきたのか、という問いとともに、現在のトランプ大統領が民主党を乗っ取った謎を解明しようと試みています。周防秋『恋する女帝』(中央公論新社)は、タイトルから容易に想像されるように、21歳で史上唯一の女性皇太子となり、即位した後に孝謙天皇、一度譲位し重祚した後の称徳天皇を主人公に、法王道鏡との恋路を描き出しています。ラストは驚くような結末が用意されています。慎泰俊『世界の貧困に挑む』(岩波新書)では、民間版の世界銀行を目指して、少額無担保融資を行うマイクロクレジットに加えて、決済、送金、貯蓄、保険などのユニバーサルな金融サービスを提供するマイクロファイナンスの会社により、貧困削減に取り組む活動が紹介されています。本田由紀[編著]『「東大卒」の研究』(ちくま新書)では、東大卒業生に対する詳細な調査を実施し、回答数は少なかったものの、地方出身の女子学生、東大生の学生生活、卒業後のキャリア形成、同じく卒業後の家族形成、そして、東大卒業生が社会をどう見ているか、などを解明しようと試みています。ピーター・トレメイン『風に散る煙』上下(創元推理文庫)は、7世紀のアイルランドの5王国のひとつであるモアン王国の王妹フィデルマがカンタベリーへの船旅の途上で時化にあって寄港した地の修道院長からの依頼により、エイダルフとともに謎の解明に挑みます。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの22冊と合わせて121冊、さらに今週の8冊を加えて129冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。なお、本日の9冊のほかに、西村京太郎『犯人は京阪宇治線に乗った』(小学館文庫)も読んでいます。いくつかのSNSにてブックレビューをポストする予定ですが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、森永卓郎『読んではいけない』(小学館)と『森永卓郎 最後の提言』(日本ジャーナル出版)を読みました。著者は、経済アナリスト、獨協大学経済学部教授です。2023年12月にステージ4のがん告知を受け、今年2025年1月に亡くなっています。私は自分のことをエコノミストと自称する場合が多いのですが、この方は頑ななまでに「経済アナリスト」と紹介されていたような気がします。それはともかく、私はこの経済アナリストの最後の著作をできるだけ読もうと予定していて、この2冊と後はフォレスト出版による『保身の経済学』でほぼほぼ完了ではないか、と考えています。なお、本日取り上げる『読んではいけない』は『週刊ポスト』誌上の連載「よんではいけない」を中心に、また、『森永卓郎 最後の提言』は『週刊実話』誌上の「森永卓郎の"経済千夜一夜"物語」を、それぞれ取りまとめています。同じような時期の週刊誌上に連載されていたコラムですので、大きな違いはありませんが、前者の『読んではいけない』には最終章で、「真実を見抜く目を養う名著25選」を収録していて、全部ではないものの、部分的ながら参考になる価値ある名著が紹介されています。経済書だけではありません。両方の本はともに、基本的なラインは、いわゆる「ザイム真理教」による緊縮財政を批判し、財務省解体まで視野に入れつつ、加えて、現在の日本経済、特に株価はバブルである可能性を指摘し、したがって、株価の大暴落と令和不況の到来を予測していたりします。さすがに死を目前にして誰にも、どんな組織にも臆することなく、また、忖度することなく、日本の経済社会の闇を喝破しています。バブル崩壊と令和不況を見込んでいるわけですので、特に引退世代の投資に対して冷徹な目を持って臨んでいて、NISAやiDECOをはじめとして『投資依存症』ではかなりあからさまな不信感を表明しています。『森永卓郎 最後の提言』は、冒頭で社会保障をカットして防衛費=軍事費を増やすことを強く批判していますし、私のようなエコノミストの主張とも通ずる部分は少なくありません。そして、繰り返しになりますが、『読んではいけない』の最後に収録されている「真実を見抜く目を養う名著25選」のリストを見れば、著者が単なる極論や非現実的な意見を表明するだけのキワモノではなく、深い教養と自由な発想を持ったアナリストであったことが理解できると思います。ついでながら、我が同僚の立命館大学経済学部の松尾匡教授の『コロナショック・ドクトリン』もリストアップされています。

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次に、スティーブン・レビツキー & ダニエル・ジブラット『少数派の横暴』(新潮社)を読みました。著者は、2人とも米国ハーバード大学政治学教授であり、英語の原題は Tyranny of the Minority となっていて、2023年の出版です。なお、同じ2人の共著により同じ出版社から『民主主義の死に方』が2018年に出ていて、私は2018年12月にレビューしています。前著と同様に、トランプ大統領をはじめとするポピュリズムの台頭に対して、米国民主主義の危機を感じ、米国に焦点を当てた分析を展開しています。特に、大きな問いが2点あり、20世紀末から約30年間一貫して少数派であった共和党がどうして民主党を押さえて政権を担う、あるいは、実質的な決定権を握ってきたのか、という問いに加えて、その共和党がどうして現在のトランプ大統領に代表される「過激派」に牛耳られてきたのか、という問いです。もちろん、19世紀の南北戦争から米国政治史を説き起こし、奴隷解放で有名なリンカーン大統領のころには北部のリベラル層を代表していた共和党に対して、南部の保守層を代表していた民主党が、20世紀前半のローズベルト大統領によるニューディール政策のころから、いかにして逆転現象を生じ、1960年代のジョンソン政権でそれが決定的になったか、などについても分析した上で、この2つの問いに対して回答しようと試みています。その回答、というか、分析結果については読んでいただくしかありませんが、ひとつだけ将来への期待、や明るい見通しに関しては、2022年にハーバード大学政治研究所が実施した調査から、18歳から29歳のいわゆるZ世代の有権者の⅔が米国民主主義が「問題を抱えている」あるいは「破綻している」と回答した点を上げています。このZ世代の認識は著者たちと共通しているといえます。この問題や破綻の現実については、本書では人工妊娠中絶、銃規制、最低賃金引上げの3つの重要な問題について世論調査と議会や政府での議論の間できわめて重大な不整合がある点を指摘しています。すなわち、国民の声と政府や議会が一致していないわけです。我が国でいえば、明らかに夫婦別姓の議論になぞらえることができると思います。裁判制度、すなわち、日本では重大な政治的決定に対して裁判所が不関与を示すケースが多いのに対して、裁判所が民主主義の観点からの異議申立てを行って、緊張感を持った三権の独立が観察される場合が少なくない点など、日本にそのまま当てはめることは難しいかもしれませんが、米国だけでなく欧州も含めて世界的に民主主義が危機に向かっている中で、大いに参考となる読書でした。

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次に、周防秋『恋する女帝』(中央公論新社)を読みました。著者は、小説家であり、我が国における古典古代である奈良時代や平安時代の時代小説を私は高く評価しています。本書は『婦人公論』に連載されていたものを単行本に取りまとめています。主人公は、タイトルから軽く想像される通り、東大寺の大仏で知られる聖武天皇と光明皇后の子として生まれ、21歳で史上唯一の女性皇太子となり、即位した後に孝謙天皇、一度譲位し重祚した後の称徳天皇です。そして、恋した相手は、これまた、いうまでもなく法王道鏡です。下世話な話として、男女の肉欲の関係で両者の恋仲を考えようとする向きがないわけでもありませんが、本書はそういう解釈ではありません。この作品の中で女帝は「姫天皇」と呼ばれています。歴史的事実でそうなのかどうかは、私は知りません。孝謙天皇としては阿倍、称徳天皇としては高野、という通称も併せて用いられています。権謀術数渦巻く平城京、特に、天智天皇と天武天皇の兄弟の血統の争い、壬申の乱まで引き起こした背景の醜聞めいた話もいっぱい出てきます。天武天皇の妻であった持統天皇が、天智天皇の血統に皇統を渡すまいとした基礎に立ち、その皇統を継ぐ聖武天皇や孝謙天皇・称徳天皇なのですが、歴史的事実が明らかにしているように、称徳天皇の次代の天皇は光仁天皇であり、天武天皇の血統から兄である天智天皇の血統に移りました。そして、光仁天皇の次の桓武天皇が平城京から平安京に遷都するわけです。本書でも軽く言及されている通り、孝謙天皇より前の女帝は、史上最初の女帝であった推古天皇にせよ、天武天皇の妻であった持統天皇にせよ、現代風にいえば、ワンポイントリリーフであり、次の男帝までのつなぎ役だったわけですが、孝謙天皇は明らかに天智天皇の血統に天皇の座を渡すことを阻止するための本格的な天皇です。しかし、結果的には、称徳天皇の後には天智天皇の血統から天皇を出すこととなり、ある意味で、皇統争いが終結したわけです。そういった中で、道鏡に恋する女帝を支えたのは朝廷の中枢に位置した吉備真備とその娘の吉備由利であり、高位高官ではない人々としては女官の広虫、そして、広虫の養い子であるキメやアラが、実に、生き生きと描き出されています。そして、政治向きのお話は歴史などで明らかにされていますが、ラストは驚くべき結末を用意しています。私は不べんきょうにして知りませんが、ひょっとしたら、今までにもあったのかもしれません。それでも、この作者の想像力の豊かさを感じます。そのラストは読んでみてのお楽しみです。

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次に、慎泰俊『世界の貧困に挑む』(岩波新書)を読みました。著者は、民間版の世界銀行を目指して、2014年に五常・アンド・カンパニーを創業し、発展途上国で多くの低所得世帯に金融サービスを提供しているそうです。サブタイトルは「マイクロファイナンスの可能性」となっています。ただし、本書冒頭の序章でも明記しているように、世界から貧困を撲滅するためにはマイクロファイナンスが唯一の方法ではありませんし、もっとも有効な方法かどうかについても幅広いコンセンサスがあるとはいえず、あれかこれか、というわけではなく、どれも必要、という点に関しては私も同じ考えです。まず、本書のサブタイトルにはマイクロファイナンスとありますが、世界的に注目されたのは、現在のバングラデシュの大統領であるユヌス教授が始めたグラミン銀行であり、特に、2006年にノーベル平和賞を受賞して、一気に注目を集めたのは周知の事実です。ただ、グラミン銀行が始めたのはマイクロクレジットであり、いわゆる少額の無担保融資です。マイクロファイナンスはこのマイクロクレジットの少額無担保融資に加えて、決済、送金、貯蓄、保険などのユニバーサルな金融サービスを提供するものです。グローバルサウスの発展途上国では、銀行口座を開設することがそれほど容易ではありませんし、銀行口座を保有しない個人や家計もそれほどめずらしくもありません。ですから、幅広い金融サービスを提供するマイクロファイナンスは低所得層の経済活動を支援する上でとても有効な手段だというコンセンサスはあると思います。コンセンサスが必ずしも十分ではないのは、マイクロクレジットの有効性です。本書でも言及されているように、後にノーベル経済学賞を受賞したバーナジー&デュフローらがインドにおけるRCTを用いた研究によれば、家計の所得や消費にはマイクロクレジットは効果がないと結論されています。実は、私もグローバルサウスの経済発展のために、家計に対するマイクロクレジットがどこまで効果あるかには疑問を持っています。どうしてかというと、マイクロクレジットは零細な個人経営レベルの農業ほかの第1次産業向けが多い印象があり、所得弾性値が高くて経済発展とともに需要の伸びが見込めたり、海外への輸出に向いていたりする第2次産業や第3次産業の振興が必要ではないか、と考えているからです。でも繰り返しになりますが、決済、送金、貯蓄、保険などのユニバーサルな金融サービスを提供するマイクロファイナンスは経済発展に有効だというのは確かだろうと思います。

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次に、本田由紀[編著]『「東大卒」の研究』(ちくま新書)を読みました。編著者は、東京大学教育学研究科の教授であり、各チャプターの執筆者も東京大学の研究者や博士後期課程の大学院生です。すべての執筆者が女性のようです。本書は、東大卒業生約6万人に対して調査票を送付して、わずかに2437名からの回答を得て、大胆にも数量分析を試みています。本書でも「代表性がない」旨の記述ありますが、どこまで分析結果に統計的な有意性を見出すかは不明であり、加えて、東大卒業生の母集団情報についてもイマイチ不明ですので、一応、参考意見程度の情報ながら、今までになかった計量分析ですので興味あるところです。各チャプターでは、地方出身の女子学生、東大生の学生生活、卒業後のキャリア形成、同じく卒業後の家族形成、そして、東大卒業生が社会をどう見ているか、を扱っています。私自身は60歳の定年まで国家公務員をしていて、キャリアの国家公務員に東大卒業生が多いという事実は広く知られている通りです。私自身は京都大学の卒業生なのですが、親戚の中には国家公務員をしていたことから、私のことを東大卒だと勘違いしている叔父叔母もいたりするくらいです。ただ、本書では、東大は医者や弁護士といった専門職の卒業生を多く排出している、という分析結果を示しています。そうかも知れません。そして、本書で特徴的なのは、東大生、というか、その後の東大卒を地域と性別でいくつかのサブグループに分割して分析を進めている点です。すなわち、地域としては、首都圏と地方圏、そして、性別はいうまでもなく男女です。私の限られた経験からも、決してマジョリティというわけではありませんが、本書では首都圏ないし大都市圏の男子単学の中高一貫制の私立高校出身者が一定のウェイトを持っているという点が強調されています。典型的には、東京の開成高校とか麻布高校、あるいは、関西の灘高校などが想像されると思います。はい、東大でなく京大ですが、私もそうです。そういった認識の下に、冒頭のチャプターで地方出身の女子の東大生を対象にした分析がなされています。一般的に、男女ともに地方出身者が勉強をがんばる一方で、首都圏や大都市圏出身者はサークルなどの活動にも力を入れて、結局のところは、大差なく学生生活を終えるような結論が示されています。ただ、そういった男子校をはじめとするグループに対して、女性、あるいは、地方出身者などに門戸を開いてダイバーシティを進める重要性も強調されています。慎重な表現ながら、いわゆる「女子枠」の議論も盛り込まれています。終章では、逆に、東大卒業生が世間をどう見ているか、について、自己責任意識、再分配への支持、社会運動への関心、ジェンダーギャップ、の4点に関して、ISSP国際比較調査や内閣府の世論調査といった調査結果と比較した分析結果が示されています。そのあたりは、読んでみてのお楽しみです。何といっても、日本を牽引するエリートを多く排出している東大だけに、いくつか、興味ある結果が示されています。

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次に、ピーター・トレメイン『風に散る煙』上下(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国のケルト学者、小説家です。7世紀アイルランドを舞台とし、修道女フィデルマを主人公とするシリーズが有名で、本書はシリーズの中の長編第10巻であり、いうまでもありませんが、最新刊です。私は邦訳されているシリーズは長編も短編もすべて読んでいると思います。フィデルマは、アイルランドの5王国のひとつであるモアン王国の王妹であり、ドーリィ=弁護士・裁判官の資格も持つ美貌の女性という設定です。この作品では、主人公のフィデルマがエイダルフとともに、カンタベリーに向かっていたのですが、乗っていた船が時化にあってウェールズにあるダヴェット王国沿岸の港のプルス・クライスに寄港することになります。フィデルマは聖デウィ修道院のトラフィン修道院長から食事に招かれ行ってみると、修道院長だけでなくダヴェット王国のグウラズィエン国王が来ていて、謎の解明を依頼されます。すなわち、スァンパデルン修道院という小さな修道院から修道士が全員消え失せてしまった怪異現象の捜査です。しかも、そのスァンパデルン修道院にはグウラズィエン国王の長男が修道士をしているといいます。フィデルマは捜査の権限を国王から委任されたという正式な文書をもらった上で、捜査に乗り出すことになります。ただ、フィデルマの同行者であるエイダルフはそれほど乗り気ではありません。というのも、ウェールズ人から見れば、多くのサクソン人はキリスト教徒ではなく異教徒であり、しばしば侵略を試みる蛮族という見方がされていて、要するに、サクソン人はダヴェット王国では歓迎されない、というか、明確に嫌われているからです。さらに、そのスァンパデルン修道院の修道士消失のほかにも、鍛冶屋の娘が殺された殺人事件、また、森に潜んでいる追い剥ぎの跳梁があったりもします。フィデルマとエイダルフの捜査により、きわめて大きな陰謀を背景にした事件の真実が明らかにされます。7世紀のアイルランドやウェールズですから、当然に科学捜査というのはありません。指紋の照合やDNA鑑定はありえない時代です。ですから、論理的な思考を基にして大胆な推論を繰り出して、証言や事実関係を集めた上で判断する謎解きです。ただ、私はこのシリーズが大好きで読んでいるんですが。人名や地名に加えて、職名などもまったく馴染みない用語がいっぱい飛び出しますので、ハッキリいって、読み進むのは苦労します。でも、ミステリとしてとってもいい出来であり、オススメです。

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2025年5月17日 (土)

今週の読書は新書と文庫をたくさん読んで計9冊

今週の読書感想文は以下の通り、新書と文庫をたくさん読んで計9冊です。
まず、メリッサ S. カーニー『なぜ子どもの将来に両親が重要なのか』(慶應義塾大学出版会)は、2人親世帯は1人親世帯よりも金銭的・非金銭的なリソースを子どもに提供できる能力が高い、という点を統計的に解明するとともに、結婚や10代の妊娠についても論じています。鹿島茂『古本屋の誕生』(草思社)では、江戸期の書店の発生から明治期以降の主として東京における古本屋の地理的・商業的・文化的な発展を、「知と文化の集積地」と本書で呼ぶところの古書街について、歴史的に後づけようと試みています。和田哲郎『バブルの後始末』(ちくま新書)は、1990年代に日銀職員として不良債権の処理やひいては金融機関の破綻処理の実務で携わった著者が、バブル崩壊後の金融機関の後始末について実名を明らかにしつつ歴史的に後づけています。海老原嗣生『静かな退職という働き方』(PHP新書)は、それほど出世を望まず、むしろ、期待される最低限の仕事をこなしておくだけの働き方について、行動指針のアドバイスや収入などのライフプランの情報、また、管理職に向けた対処の方法などについて取りまとめています。勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)では、卒業校の偏差値によるランク付けのようなものは、学歴のバックグラウンドに努力の蓄積があるとの想定の下、能力が高く、お給料をたくさん渡すに適した人材を評価するために会社の方で必要としている、と指摘しています。岩波明『高学歴発達障害』(文春新書)では、中高生、大学生、社会人などの人生のライフステージ別に高学歴や高IQのエリートが発達障害になるケースを実例に基づいて紹介し、再生へのポイントなどを示していますが、私はやや高学歴のエリートに対する偏見やバイアスを感じてしまいました。藤崎翔『お梅は次こそ呪いたい』(祥伝社文庫)は、戦国時代から蘇った呪いの人形であるお梅が前作からパワーアップして、お受験に挑戦する家庭、障害者のいる母子家庭、二世代住宅に暮らす家族、ファミレスのウェイトレスに片思いする男性、などを呪おうとしますが、前作と同じように真逆の結果を招きます。松下龍之介『一次元の挿し木』(宝島社文庫)は、ヒマラヤ山中の湖から発掘された200年前の人骨をDNA鑑定したところ、4年前に失踪して行方不明になった主人公の妹と完全一致したところからストーリーが始まり、巨大宗教団体や製薬会社などが関係する大きな陰謀の謎を解き明かそうと奮闘します。貴戸湊太『図書館に火をつけたら』(宝島社文庫)では、市立図書館の地下書庫が火事になり、焼死体が発見されるところからストーリーが始まり、小学生のころに図書館に居場所を見出していた幼馴染の3人が、殺人と放火の謎解きに挑戦します。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの13冊と合わせて112冊、さらに今週の9冊を加えて121冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。なお、本日の9冊のほかに、アガサ・クリスティ『検察側の証人』(創元推理文庫)も読んでいます。いくつかのSNSにてブックレビューをポストする予定ですが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、メリッサ S. カーニー『なぜ子どもの将来に両親が重要なのか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国メリーランド大学のニール・モスコウィッツ経済学教授を務めています。本書の英語の原題は The Two-Parent Privilege であり、2023年の出版です。ありふれた日本人からすれば、本書の主張はあまりにも明らかかもしれません。すなわち、両親がそろっている2人親世帯は、1人親世帯よりも金銭的・非金銭的リソースを子どもに提供できる能力が高い、という点を論じています。重要なのは、2人親世帯であるという点であって、1人親世帯であっても2人親世帯よりも所得が高い世帯はいっぱいありますが、所得だけに要因が還元されるのではなく、時間的な余裕の有無やロールモデルの提供も含めて、2人親世帯である点が重要という主張です。もちろん、2人親の性別がヘテロである必要はありません。すなわち、同性婚であっても2人親世帯である、という点が重要という結論です。そして、この結果、親の世代の家族の衰退が子どもの世代の経済格差を拡大させている、と指摘しています。加えて、さまざまなほかの論点を議論しています。すなわち、まず、学校にできることは限られているという事実です。家庭の重要性を強調しているわけです。ただ、家庭を持てる、すなわち、結婚できるかどうかは、これは日本でも同じように見受けられますが、所得も含めて男性の要因が大きく作用します。したがって、家庭を持てる男性である必要があります。大きな要因のひとつが所得であることはいうまでもありません。加えて、本書ではシングルマザーから貧困に陥って子どもへのリソースが十分でなくなる可能性を減じるために、10代での妊娠出産について分析しています。当時のオバマ大統領夫妻らによるキャンペーンもありましたが、テレビ番組の影響についても論じています。さらに、出生率低下については、米国でも子育てがあまりにたいへんである点を強調しています。日本も同じ、というか、もっと子育て環境が厳しい気もします。最後に、本書では米国のデータを中心に議論が進められていることから、日本における男性の家事や子育てに関する関与の小ささについて私は懸念しています。2人親家庭であっても、かつての高度成長期のように男性が企業で長時間労働を強いられ、女性に一方的に家事育児が押し付けられて、男性の家事や育児への関与がきわめて小さい経済社会であれば、2人親世帯である利点がいくぶんなりとも減じるおそれを私は感じます。もちろん、人類をはじめとして生物は単なる遺伝子の伝達役だけではなく、自分自身の人生について考えるべきであり、子どもがすべてというわけではない、という反論はあり得ると私も思います。逆に、親として子どもの幸福を願うというのはきわめて自然な感情であるこも当然です。一方で、個人としてそれほど子どもを考慮せず、子どもではなく自分の人生のためにリソースを使う、他方で、自分の人生を犠牲にしてでも子どもにリソースを提供する、という両極端の間のどこかに最適解があるのはいうまでもありませんし、それは個々人で異なるのだろうと私は受け止めています。

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次に、鹿島茂『古本屋の誕生』(草思社)を読みました。著者は、明治大学文学部名誉教授であり、フランス文学者、作家でもあります。本書では、まず、江戸期の書店の発生、ちょうどNHK大河ドラマでやっている蔦重の物語のように、書店がどのように成立したのかを概観した後、明治期以降の書店、というよりも古本屋の歴史を後づけようと試みています。まず、本については、出版、取次=流通、新刊書販売と古本販売の4業態を区別しています。ただ、私自身は、確かに日本では見かけないものの、外国では新刊書と古本を同じ店で同時に売っている例はいっぱい見かけています。ニューヨークのストランド書店なんかは完全にそうです。というか、それが世界の本屋さんの標準であって、日本のように新刊書と古本が明らかに別の業態で販売されているのが異例なのかもしれません。例えば、人口に膾炙したお話として、東京で本の街といえば神田神保町になります。でも、新刊書販売をしている書店と古本屋は、確かに別の業態として成立しているように見えます。まあ、それはともかく、明治期に入って徳川宗家の移動にしたがって旗本が大量に江戸から駿河に移ることになり、これまた大量の蔵書が処分され、それらが書籍をもっとも必要とする僧侶がいっぱい住んでいる増上寺周辺で古本街が成立した、と本書では指摘しています。したがって、当時は、芝神明町・日蔭町が東京随一の古本街だったようです。その後、大学の設立に伴って古本街も北に移動した、という見立てです。すなわち、当時は夜学中心でオフィス街の近くに大学が立地する必要があり、大学が集積していた神田・一橋地区に学生相手の古本屋が移動するとともに、新たに出版社が設立された、ということです。現在まで残っている主要な出版社として、有斐閣と三省堂を上げています。その後、大正期の関東大震災で古本需要が高まった、と分析しています。すなわち、新刊書の場合は出版=印刷、取次=流通、そして書店の三者がそろわないと消費者の手に渡らないわけですが、古本の場合は豊富な在庫をそのまま店頭に並べればOKなわけで、関東大震災で新刊書販売のいずれかの段階でダメージを受けたとしても、古本はすぐに消費者の手に届けることができた、とその利点を強調しています。終戦直後もご同様だったかもしれません。ただ、本書でも決して無視しているわけではなく、ある程度の考察を割いてはいますが、街中の書店が大きく減少してネット販売が無視できない割合を占め、加えて、古本に関しても、メルカリやBOOKOFFの果たす役割が大きくなっている点は事実として認めざるを得ません。最後に、本書には豊富に古本街の略図が収録されていて、ある程度の土地勘あれば、そういった地図を眺めているだけでも結構な情報を得られ、また、時間も潰せる気がします。

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次に、和田哲郎『バブルの後始末』(ちくま新書)を読みました。著者は、日銀のご出身であり、日銀退職後は野村総研などにお勤めだったようです。私よりも数歳年上で大雑把に70歳くらいです。1990年代は日銀においてバブル経済崩壊後の金融機関の破綻処理に明け暮れていた、などというご様子です。1990年代の不良債権の処理について、世界的にもほとんど経験のなかった未知の実務を手探りで進めていった経緯がよく理解できます。というよりも、ここまで人名にせよ、企業名にせよ、実名を明らかにしても大丈夫なのだろうか、と心配になるくらいに赤裸々に不良債権処理や金融機関の破綻処理などを歴史的に後づけています。そのあたりは読んでいただくしかありません。そして、最終的に、国民の間で人気の高かった、したがって、政治家の間でも受けのよかった懲罰的な金融機関の破綻処理によるハードランディングから、Too Big To Fail の原則に基づいて、公的資金注入というソフトランディングに方針変更される経緯を実例に基づいて把握することが出来ます。本書についても、全体を通してというよりも部分的ながら、日銀実務担当者として破綻処理というハードランディング処理に向かいながら、結局、当時の大蔵省の不見識によって破綻処理を誤った、と読める部分が少なからずあります。ただ、日本の金融当局の方針として、モラルハザードの防止の重視から国民経済や雇用の観点に立脚する Too Big To Fail の金融機関の救済に転じたことは事実であり、そのあたりが印象的でした。逆に、日銀の実務家による記録ですので、理論的にあるいは実証的に、どのように考えるべきかについてはほとんど分析がありません。カテゴリー分けして分類的な分析はあるとはいえ、エコノミストにはその意味で物足りない可能性もありますが、ここまで歴史的な実例を豊富に持ち出して事実関係を明らかにしていますので、一般的なビジネスパーソンには十分な読みごたえがあるものと推測します。最後に、私は大学院には進学せずに役所に就職して定年まで勤務し、アカデミックなコースを歩んだわけではないので、大学では「実務家教員」と呼ばれて、場面によってはディスられることも少なくありませんが、それでも、ここまで詳細な実務に携わったことはありません。せいぜいが、1980年代末のバブル経済期の金のペーパー商法で摘発された豊田商事事件を見知っているだけです。

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次に、海老原嗣生『静かな退職という働き方』(PHP新書)を読みました。著者は、リクルート系列の企業勤務を中心に、人材コンサルではないかと思います。日本では、その昔の高度成長期にいわゆる「エコノミックアニマル」とか、「モーレツ社員」というのがありましたし、バブル経済期にも「24時間戦えますか」なんて歌が流行ったりもしましたが、最近では、米国の "Quiet Quitting" を和訳した本書のタイトルのような働き方が出始めている、という内容です。すなわち、出世を目指して意欲的に働くのではなく、会議などでも発言を控えたりして、最低限やるべき業務をやるだけ、という働き方です。そして、本書では過剰な会社への奉仕を止めれば、逆に生産性が高まる、と指摘しています。もちろん、そういった背景には最近の「ワーク・ライフ・バランス」の重視や「働き方改革」などが大いに関係しているわけで、そういった経済社会の構造変化の分析もしています。その上で、「静かな退職」の実践についてのアドバイス、すなわち、行動指針や収入などのライフプランの情報に限らず、そういった職員や部下のいる管理職、あるいは、企業に向けた対処の方法などについても言及しています。日本の場合は特に職場での仕事に限らず、いろんなものに対して料金や見返り以上のオーバースペックを期待する場合が少なくありません。ホントは100の必要しかないのに、150や200のスペックを求めるのはムダとしかいいようがないのですが、そういったムダによりコストが高くなっている面もあり、低生産性につながっているとも考えられます。他方で、最近の新入社員の意識調査などによれば、出世を強く望んでいるふうでもなく、そういった仕事面だけでなく人生観や処世術の総体的な呼び方として「草食系」という表現があるのは広く知られている通りです。草食系までいかないとしても、コスパやタイパの重視はそういった方向と一致している動きだと考えるべきです。他方で、肉食系・モーレツ系の管理職なんかが、そういった草食系を扱いかねているのも事実かもしれません。最後に、私自身はキャリアの国家公務員として、役所で平均的なレベルに満たない出世しかできかったのですが、決して出世を望んでいなかったわけではなく、平均的には出世したいものだと常々考えていました。でも、ダメだったわけです。

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次に、勅使川原真衣『学歴社会は誰のため』(PHP新書)を読みました。著者は、組織開発専門家だそうです。はい、私にはよく理解できない種類の活動をされているような気がします。本書での問いは、学歴不要論などが何度か定期的に繰り返し浮上する一方で、学歴社会は一向になくなりそうもありませんし、誰のために、どういった組織のために学歴社会があるのかも不明ですから、そういった学歴を何らかの指標にするのはどういった必要からか、を問いとして考えています。ただ、いつも日本にある言葉の問題で、本書も高卒と大卒といった学歴による区別や差別、あるいは、順位付けを問題にしているのではなく、卒業校の偏差値によるそういったランク付けのようなものを問題にしているわけです。結論は本書で早々に示してあり、能力が高く、お給料をたくさん渡すに適した人材を評価するため、ということになります。そして、そういった学歴のバックグラウンドに努力の蓄積があると考えているわけです。がんばって努力したので、いい大学に入れたのではないか、という推測を成り立たせているわけです。私も大学教員ですので、学生諸君の就活には大いに利害関係があり、さまざまな情報に接していますが、かなり前に日本の超一流メーカー、国際的にも名の知れたメーカーで就活のエントリーシートに大学名を書くセルのないものを用意して、大学名によらない選考をしたところがありました。結果としては、私が確認したわけではなく、世間のウワサ程度の信憑性ながら、みごとに偏差値順による評価と同じだった、と聞き及んだことがあります。ですから、何がいいたいのかというと、就活の選考の結果として、企業の採用部門で評価するのは大学入学の際の偏差値ときわめて強い相関がある、ということです。これはある意味で当然の結果であり、卒業して就職する際に高く評価される大学がいい学生が集まって競争が激しく、偏差値が高い、という因果関係になるわけですから、就活から逆算された偏差値が出るのは不自然ではありません。ただ、規模の大きな企業で働くとすれば、何人かのグループで、あるいは、他の組織と協力して業務を進める必要があるわけで、そういった意味で、コミュ力というのも重要です。本書では、最後の方で学歴社会の弊害防止のために、現在のメンバーシップ型ではなく、業務を職務記述書などで明記するジョブ型の採用を今後の方向として推奨しているようです。私はこれは疑問です。単に採用方法を変えればいいというものではありません。本書のような小手先のお話ではなく、日本の雇用を根底から変更する可能性も視野に入れた本格的な議論が必要です。

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次に、岩波明『高学歴発達障害』(文春新書)を読みました。著者は、昭和大学医学部精神医学講座主任教授です。本書以外にも、発達障害についての著書があり、私も読んだ記憶があります。本書では、中高生、大学生、社会人、さらに、起業家やフリーランスといったライフステージ別に、おそらく、実際の医療行為を施した患者の実例を基にして、症状の例や治療・投薬の実際を紹介しています。終わりの方で、継続的に症状が改善しない例や治療困難な例を示しています。ただ、実例そのものではないにしても、実例に即した治療や投薬ですので、一般化された発達障害の議論ではなく、やや応用性に乏しい気がしました。特に、医者のいうことを聞かない、とか、思い込みが治療を阻害するとか、治療に当たる医者として、治療が長引いたり、難しくなったりする原因としては、ある意味で当然なのかもしれませんが、高学歴エリートだから医者のいうことを聞かない、とか、思い込みが激しい、といったニュアンスを感じさせるのは、私は少しバイアスを感じないでもなかったです。副題が「エリートたちの転落と再生」となっていて、各実例の最後に「再生のポイント」というのがあり、「転落」とか「再生」という言葉遣いがややどぎつい気もしました。加えて、「覗き見趣味」とまではいいませんが、タイトルからしても、ややキワモノっぽくしてありますし、高学歴のエリートであることが治療を難しくしているという明確な記述はそれほどありませんが、タイトルや副題からして誤解を生じさせる可能性が排除できません。その上、明確に断っているとはいえ、高学歴のエリートではないと考えられる例を基にした部分もあり、少し違和感を覚えました。小説であれば、発達障害の中でもADSとかサヴァンのポジな面を強調して、話を盛ることもひとつの手段であるのに対して、医者が症例を基にした新書ですので、話を盛るような逆バイアス的な記述を避けようというい意図は理解しますが、繰り返しになるものの、高学歴、あるいは、エリートだから発達障害が治療しにくい、治りにくい、といった暗示的な記述は避けるべきであり、私の気にかかった部分もあった点は指摘しておきたいと思います。本が売れりゃあいいってものではありません。

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次に、藤崎翔『お梅は次こそ呪いたい』(祥伝社文庫)を読みました。著者は、お笑い芸人から小説家に転身しています。本書は『お梅は呪いたい』の続編であり、戦国時代に作られた呪いの人形であるお梅なのですが、前作ではブランクが長くかったため、人間を呪うどころか、逆に幸福をもたらしてしまった、というコメディでした。続編である本書では、冒頭に解体された家屋にあった次郎丸という同じ呪いの人形から、新しく空中浮遊と胴体分離の能力を教示されます。従来からの瘴気も少しパワーアップされ、ネガな気分を増幅させる能力も駆使して、新たな標的に呪いをかけます。まず、第1に、有名私立小学校のお受験に挑む家族なのですが、両親は離婚寸前までいっていて、崩壊しかねない一家の「間者童を呪いたい」、そして、第2に、その一家のお受験の少女と仲のいい女の子、この少女は障害を持っているのですが、その少女と兄を抱える母子家庭の「母子家庭を呪いたい」と、それぞれの一家を呪うのですが、ことごとく失敗して逆に幸福をもたらしてしまうのは前作と同じ趣向です。そして次の第3に、二世帯住宅に居住する一家なのですが、母親が父と娘から邪険にされ、おばあさんのいる方に入り浸っている一家、となります。この「二世帯住宅で呪いたい」が、単にコミカルなだけではなく、実に劇的な真相解明がなされます。要するに、ミステリ仕立てになっているわけです。第4話の「恋患いで呪いたい」では、ランチによく行くファミレスのウェイトレスの女性に恋する男性の危機を救ってしまいます。これもミステリ仕立てになっています。詳細に、お梅ではなく作者が謎解きを展開します。最後の「しんがあそん某を呪いたい」では、一発だけヒットを飛ばしたシンガーソングライターの男性を呪おうとしますが、結局、というか、やっぱり、成功に導いてしまうわけです。明らかに前作よりも、お梅ではなく作者がパワーアップしています。ミステリ仕立ての謎解きがあったり、各話のリンケージがよくなって、前の短編の一部が次の短編の伏線になっていて回収されたり、あるいは、各話にチラホラ登場するテレビのワイドショーの司会者の沖原が重要な役割を果たしたり、もちろん、前作も十分に面白かったのですが、小説としてのクオリティが爆上がりだと思います。

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次に、松下龍之介『一次元の挿し木』(宝島社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家なのですが、まだ専業作家ではないようで、第23回「このミステリがすごい!」大賞・文庫グランプリを受賞してデビューしています。当然、私は初読の作家さんでした。ということで、800人ほどの遺体が眠るヒマラヤ山中の標高5000メートルにあるループクンド湖で石見埼明彦が採掘した200年前の人骨のDNAが、4年前に失踪して行方不明になっている七瀬悠の妹である七瀬紫陽のDNAが一致したところからストーリーが始まります。古今東西トップテン入りするであろうSF名作『星を継ぐもの』を思わせる出だしです。主人公の七瀬悠は大学院で研究しており、石見埼明彦は指導教授です。遺伝子をキーワードにした科学SFっぽいミステリなので、瀬名秀明の『パラサイト・イブ』も思わせますし、さらに、巨大なカルト宗教教団も登場します。その教団の意を呈して動く怪物、あるいは、死神のような大男も登場します。もちろん、ミステリですから殺人事件が起きます。DNA鑑定結果に不審を持った七瀬悠が指導教授の石見埼明彦を訪ねると、石見崎教授は殺害されています。さらに、ループクンド湖での人骨の発掘に関わった調査員も次々と襲われ、研究室からは問題の人骨が盗まれてしまいます。七瀬悠は、行方不明の妹の生死の謎とDNAが一致する真相を突き止めるため、石見崎教授の姪を名乗る唯とともに調査を開始することになります。しかし、その調査の過程で巨大な宗教団体「樹木の会」や製薬会社が関わる陰謀、想像を絶するような大きな闇に巻き込まれていくことになります。謎解きは鮮やかですが、DNAが完全に一致するのですから、科学的・論理的に一卵性双生児でなければ、その理由はひとつだけですから、DNAの一致に関する謎がこの作品のもっとも重要な謎というわけではありません。ですから、石見崎教授をはじめとする、というか、石見崎教授以外にも死ぬ人が出てくるわけですが、そういった殺人事件の謎の解明が主たる謎解きとなります。でも、それらの背景にある極めて大きな謎については、まあ、読んでみてのお楽しみ、ということになります。繰り返しになりますが、出だしが『星を継ぐもの』みたいな雰囲気を出していますし、『パラサイト・イブ』っぽい部分もあります。加えて、最近の作品の中では、遺伝子関連という意味で『禁忌の子』を連想させる部分もあったりします。ただ、宗教団体の行動原理については、合理性を欠く可能性がありますので、注意が必要です。いい出来のミステリです。大いにオススメです。

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次に、貴戸湊太『図書館に火をつけたら』(宝島社文庫)を読みました。著者はミステリ作家なのですが、第18回「このミステリーがすごい!」大賞U-NEXT・カンテレ賞を受賞し、『そして、ユリコは一人になった』で2020年にデビューしています。宝島社文庫から出ている「認知心理検察官の捜査ファイル」シリーズも人気だそうです。ただ、不勉強にして私には初読の作家さんでした。ということで、千葉県にある七川市立図書館の地下書庫で大規模な火災が発生し、焼け跡から死体が発見されるところからストーリーが始まります。焼死と思われたその死体の頭部には何者かに殴られた痕があり、火災の前に殺人事件が起きていたことが発覚しますが、発見場所である七川市立図書館の地下書庫は事件当時、密室状態にあったことが明らかになります。主人公の瀬沼刑事が真相を探ることになります。実は、冒頭の挿話では小学校に馴染めずに図書館を居場所にしていた3人の小学生のお話が置かれています。小学6年生だった瀬沼貴博は刑事になり、5年生だった島津穂乃果は図書館司書として市立図書館で働いています。4年生だった畠山麟太郎は小説家を志望して調べ物でしょっちゅう図書館に来ます。この3人が協力して事件解決、謎解きに当たるわけです。そして、真相解明の前に「読者への挑戦状」が置かれています。真相解明は、ホームズ的な消去法にしたがってなされます。殺されたのが誰かは真相解明のずっと前に明らかになるものの、地下書庫はいかにして密室状態となったのか、誰が殺人犯なのか、などなど典型的なミステリといえます。図書館を舞台にしたミステリですので、馴染みやすい読者も少なくないだろうと思います。そして、その図書館の人間関係がていねいに記述されている上に、いかにも実際にありそうで親しみが持てます。人間関係の詳細は読んでみてのお楽しみです。ただ、謎解きに関しては、瀬沼刑事が示した犯人に対して、島津司書が異議を唱えたりしますので、少なくとも作中人物は混乱をきたしているように見えたりしなくもなく、読者ももたついた印象を持つかもしれません。ただ、死ぬのはたった1人ですし、しかも、密室殺人です。「読者への挑戦状」もあって、ミステリとしてではなく、別の面で小説としての完成度は高くてオススメです。

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2025年5月10日 (土)

今週の読書は経済書のほか小説や文庫本まで計7冊

今週の読書感想文は以下の通り計7冊です。
まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『不平等・所得格差の経済学』(明石書店)では、スミス、リカード、マルクスなど、経済的不平等や所得格差の思想について過去2世紀以上にわたる進化をたどり、最近の研究業績として、ピケティ教授の『21世紀の資本』の役割をきわめて高く評価しています。ジョン・ローマー『機会の平等』(勁草書房)では、機会の平等については「競技場を平準にする」ために、社会はなしうることをすべきであり、特に、不遇な社会的背景を持つ子供達は補償の教育により、ジョブをめぐる競争で必要とされるスキルを獲得できる、と結論しています。モーリッツ・アルテンリート『AI・機械の手足となる労働者』(白揚社)では、現代の工場、広い意味での工場における労働者の実態を明らかにしようと試みており、Eコマースにおける労働者、ゲーム労働者、クラウドワークやオンデマンドの労働者、そして、SNSの労働者などを取り上げています。伊坂幸太郎『楽園の楽園』(中央公論新社)は、作家のデビュー25年を記念した書下ろしの短編であり、強力な免疫を持った3人が世界の混乱を解決するために<天軸>の制作者である先生の行方を探し、その手がかりとなる「楽園」と名付けられた絵画を頼りに「楽園」を目指します。田中将人『平等とは何か』(中公新書)では、ロールズやスキャンロンの平等観を発展させて、実証研究ではなく規範研究の方法を取りつつ、政治哲学と思想史の知見から世界を覆う不平等について議論を展開し、「財産所有のデモクラシー」をひとつのヴィジョンとして提示しています。C.S. ルイス『ナルニア国物語4 銀の椅子と地底の国』(新潮文庫)では、ペペンシー4きょうだいのいとこであるユースティス・スクラブが学校の仲間と2人でナルニア国を訪れ、カスピアン王の息子であり、行方不明になっているリリアン王子を探しに、巨人国や地底国を冒険します。森見登美彦[訳]『竹取物語』(河出文庫)は、竹取の翁が竹から見つけ出したかぐや姫が絶世の美女となりながら、いい寄る求婚者たちに無理難題を課して退散させた後、月に帰ってゆく、という古典に現代訳をほどこし、森見ワールドを展開しています。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの6冊と合わせて105冊、さらに今週の7冊を加えて112冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の7冊のほかに、ロバート・ロプレスティ『休日はコーヒーショップで謎解きを』(創元推理文庫)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『不平等・所得格差の経済学』(明石書店)を読みました。著者は、所得格差研究で有名なルクセンブルク所得研究センター(LIS)の研究員です。本書の英語の原題は Visions of Inequality であり、2023年の出版です。本書では、経済的不平等や所得格差の思想について、過去2世紀以上にわたる進化をたどっています。7章構成のうちの6章までが歴史上の偉大なエコノミスト個々人を取り上げ、最後の章で冷戦期という不平等研究の暗黒期をタイトルにして、全体を総括している印象です。1~6章で焦点を当てているのは、重農主義のケネー、経済学の創設者とも目されるスミス、古典派経済学を完成させたリカード、そして、マルクス、ここまでが古典的な経済学に属するエコノミストであり、限界革命以降の新古典派経済学からパレートとクズネットが取り上げられています。まず、古典的な経済学の4人に関しては、本書でも指摘しているように、個人間や家計間の不平等ではなく階級間の不平等、すなわち、生産手段としての土地所有者である地主、資本設備の所有者である資本家、そして、生産手段を持たない労働者の3大階級の間の不平等に着目しています。もちろん、マルクスが少し例外的な視点を提供していますが、本書では冒頭に「規範的な見方を扱うことはしない」として、同時に、マルクスの価値理論が階級間の所得分配の不平等に影響するという分析はスコープ外として扱わないとしています。少し残念です。でもまあ、マルクス主義的な見方をすれば資本制が停止されない限り、不平等削減の方策は不徹底な「日和見主義」でしかない、とするものですから、まあ、理解できる気はします。私は不勉強にして、マルクスも含めた古典的経済学の範囲では、それほど大きな現代的含意を汲み取ることは出来ませんでした。その意味で、クズネッツは注目されます。いわゆるクズネッツの逆U字仮説、すなわち、経済成長の初期段階では不平等が拡大し、その後、不平等は縮小に転じる、という仮説を提示したことで不平等研究に大きな貢献をなしています。ただし、1980年くらいから現在までの新自由主義的な経済政策の下で、逆U字仮説ではなく、N字に近い歴史的経過をたどる、すなわち、不平等は再び拡大する可能性が認識されている点は指摘しておきたいと思います。それを明らかにしたのは、章として独立に取り上げられてはいませんがピケティ教授の功績です。最終章で連戦機が不平等研究の暗黒期だったというのは、東西の両陣営でイデオロギー的な経済学の支配があったからであると指摘しています。すなわち、資本主義では市場による資源配分と所有権の尊重、共産主義では生産手段の社会的所有が、それぞれもっとも重視され、いわゆる制度学派的な見地も含めて、こういった制度が重要であり、格差や不平等の問題が片隅に追いやられた、というわけです。共産主義体制下では統計に基づく経験主義ではなくイデオロギー的に考えられたフシがあります。例えば、私がJICAから統計の短期専門家としてポーランドに派遣された際には、共産主義政権下では定義的に失業は発生しないとして、経験的な統計を取らずに失業率はゼロとカウントしていたらしいです。逆に、資本主義世界では、不平等研究は思想的に望ましくないものとみなされて、研究資金の配分が少なかったり、ジャーナルにおける査読で不利に扱われたりしたと指摘しています。その観点も含めて、不平等研究の最近における画期としてピケティ教授の『21世紀の資本』の役割をきわめて高く評価しています。

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次に、ジョン・ローマー『機会の平等』(勁草書房)を読みました。著者は、米国イェール大学の政治学・経済学名誉教授であり、ご専門は数理マルクス主義経済学だそうです。立命館大学の吉原直毅特任教授と帝京大学経済学部の後藤玲子教授が巻末に解説を付しています。本書の英語の原題は Equality of Opportunity であり、1998年の出版です。冒頭では本書のよって立つ前提として、いくつかの点が強調されています。すなわち、著者は、結果の平等を志向するものではなく、機会の平等を支持していると明記されています。その上で、機会の平等については「競技場を平準にする」ために、社会はなしうることをすべきであり、特に、不遇な社会的背景を持つ子供達は補償の教育を受けることにより、より有利な子供時代を送った人々とのジョブをめぐる競争で必要とされるスキルを獲得できる、という結論です。ただし、教育を財政の観点からだけ見て、教育設備の平等を達成しても、そういったリソースを有効・効率的に用いる能力に差があることから、不十分である可能性を示唆しています。その上で、機会平等化を目指す政策(EOp)の下で、等しく努力している諸個人は最終的に等しい帰結に至るべきである、と結論しています。「等しい帰結」を求めているからといって、これは結果の平等を目指すものではありません。スタートラインを調整した上で、あくまで等しい努力をすれば等しい帰結を得るわけですから、努力水準に帰結は依存します。努力水準に依存せず等しい帰結に至るのであれば、結果の平等かもしれませんが、等しい努力水準が等しい帰結をもたらす、という点は忘れるべきではありません。ということで、第4章あたりから数理マルクス主義的な議論の展開が始まり、基本的に、平等性に関しては100分位の分布に沿う議論が展開され、数式を解くことにより結論が得られます。数式の展開を省略して結論だけを一部取り出すと、分析の結果、機会の平等政策(EOp)は、才能の分散が小さい場合は功利主義に接近し、才能の差が大きい場合はロールズ主義に近くなります。これは直感的にも理解できるところではないかと思います。ですので、成人になった後の収入と消費の有利性=アドバンテージに関する機会の平等をもたらすためには、子供のころに教育的資源をどのように配分するか、という機会の平等化政策(EOp)の結論は、教育的資源を将来の生産性に転換する能力の低い子供により厚く配分されるべきである、ということになります。おそらく、従来の、というか、新自由主義的な政策の観点からは、将来の生産性に転換する能力の高低にかかわらず教育資源は1人当たりで等しく配分されるのが機会の平等化政策(EOp)である、ということになるような気がしますが、本書では異なる結論が導かれています。これを一般化すれば、教育資源は同一の努力をする子供が、成人となった際に同一の稼得能力を有することになるように配分=投資されるべき(p.78)ということになります。結果の平等はあくまで努力水準を無視していますが、同一の努力であれば同一の結果を得られる、というところが重要なポイントです。その後、子供や教育を離れて、失業保険の議論などが展開されますが、それは読んでみてのお楽しみです。

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次に、モーリッツ・アルテンリート『AI・機械の手足となる労働者』(白揚社)を読みました。著者は、ドイツにあるフンボルト大学の研究員です。私が読んだ印象ではマルクス主義経済学の専門家ではないかと思います。邦訳書の底本となる原書の言語は明記されていませんが、米国のシカゴ大学出版局から2022年に出ている The Degital Factory に基づいて訳出されています。タイトルだけを見ると英語で書かれているように見えます。ということで、本書では、現代の工場、広い意味での工場における労働者の実態を明らかにしようと試みています。イントロダクションの第1章から始まって、第2章ではアマゾンなどのEコマースにおける労働者、第3章ではゲーム労働者、第4章ではクラウドワークやオンデマンド労働者、第5章ではSNSの労働者、第6章で結論を示すように広く工場としてのプラットフォーム労働を議論し、最終第7章がエピローグとなっている構成です。英語版はシカゴ大学出版局から出ているのですが、決してバリバリの学術書ではありません。まず、AI登場前の段階で、労働者が機械の手足となって働いているのは、それほど新しい現象ではありません。チャプリンの『モダン・タイムス』のころから、工場の主役は機械であって労働者ではありません。せいぜい、タイトル的にいえば「AI」が新たに加わっているだけです。全体を通じていえば、AIなども導入された現代の工場では、労働者はさまざまなデジタル技術で管理され、仕事内容は多くが熟練不要の単純労働で、フルタイムで働いてもパートタイムで働いても同じという意味で短時間労働と同等といえますし、日本でも指摘されている通り、「柔軟な労働」が可能となっています。したがって、必要とされる熟練の程度が低下し、労働の柔軟性が増すに従って雇用の安定は失われます。デジタルに基づいたフォード主義(フォーディズム)と科学的管理(テイラー主義)が生産の現場で専制的な指揮権を揮って労働者の管理に当たっていると考えるべきです。本書では、フレキシブル・ネオテイラー主義と呼んでいる例を紹介しています。しかも、「柔軟的」とされる働き方は雇用ですらない場合があって、デジタルなプラットフォームに集まるUberの運転手はUberに雇われているわけではありません。ほかのフリーランスに関しても同様です。Airbnbの部屋のオーナーが労働者でないのは判らなくもないのですが、Uberの運転手については、少なくとも、運転手とプラットフォーム企業が対等平等な役務提供に関する契約を持てるのかどうか、疑問が残ります。Uberの運転手やクラウド・ソーシングについては空間的にも労働者がオフィスや工場にとどまらずに分散している点もひとつの特徴です。我が国でも、連休谷間の2025年5月2日に厚生労働省で労働基準法における「労働者」に関する研究会の初会合が持たれています。労働基準法における最後の労働者の定義の改定は1980年ですから、50年近くを経て雇用と労働について大きく変化が見られるのは当然です。その上、コロナのパンデミックを経て、デジタルワークはますます広がりを見せています。日本と世界の今後の動向に注目するためにも基礎的な情報を提供してくれる良書だとオススメできます。

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次に、伊坂幸太郎『楽園の楽園』(中央公論新社)を読みました。著者は、日本でも有数の人気作家の1人だと思います。本書は、作家のデビュー25年を記念した書下ろしの短編であり、100ページに満たないボリュームです。人気作家の25周年ですから、この本の出版に関しては出版社でも力を入れているようで、特設サイトが開設されたりしています。応募期間は終了しましたが、登場人物3人のアクスタやポストカードセットなどのプレゼントがあった模様です。まず、本書はSF、というよりか、ファンタジーであり、特に植物のパワーを強調しています。同様に植物のパワーに着目するテーマを持った作品が時を同じくして、荻原浩『我らが緑の大地』が角川書店から出ていて、加えて、同じ角川書店から私も読んだ鈴木光司『ユビキタス』もホラー小説として出版されています。ここまで植物のパワーに着目した小説が立て続けに出るのは、ちょっと、不思議な気がします。めずらしいかもしれません。ということで、本書の舞台は近未来であり、人工知能<天軸>が暴走し、所在不明になってしまいます。各国の都市部で大規模な停電が発生し強毒性ウイルスが蔓延し、大きな地震が頻発するなど、世界が大混乱に陥り、逃げ出した人の乗った飛行機まで墜落する始末となります。この中で、<天軸>の制作者である先生の行方を探し、その手がかりとなる「楽園」と名付けられた絵画を頼りに、五十九彦=ごじゅくひこ、三瑚嬢=さんごじょう、蝶八隗=ちょうはっかい、の3人が、絵画に描かれた「楽園」にいると推測される<天軸>と先生を探す旅に出ます。要するに、楽園を目指す旅に出るわけです。このあたりは、明らかに三蔵法師の天竺旅行をテーマとする『西遊記』を踏まえているわけです。ただ、3人はある意味でスーパーマンであり、あらゆる感染症の免疫を持っているとともに、個々人も、五十九彦はスポーツ万能な少年、三瑚嬢はおしゃべりで頭の回転もいい少女、蝶八隗は食べ物関係の情報豊富な大柄な少年、という設定です。3人の姿は挿し絵に出てきます。その目的地の楽園は大樹がシンボルとなっていて、まあ、要するに、表紙画像のようなところというわけなんだろうと思います。そこで植物パワーに注目する思想的背景が出てきます。<天軸>をはじめとする人工知能=AIではなく、自然知能=NIという考え方も登場したりします。3人の旅の結果などは読んでいただくしかありませんが、ただ1点だけ、ボリューム的にページ数は少ないものの、非常に壮大なスケールの物語です。最後の最後に、「物語」に「ストーリー」というルビが振ってあるのですが、「ナラティブ」の方がいいような気がしました。

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次に、田中将人『平等とは何か』(中公新書)を読みました。著者は、岡山商科大学法学部の准教授です。ご専門は、政治哲学・政治思想史だそうです。ということで、その昔の「1億総中流」から、昨今の「親ガチャ」まで、平等・不平等や格差に関する流行語は大きく変化してきましたが、本書では、冒頭の第1章でそもそも不平等のどこが悪いのかを考えるとともに、日本の「失われた30年」を振り返り、政治哲学と思想史の知見から世界を覆う不平等について議論を展開しています。そして、本書は実証研究ではなく、規範研究の方法を取ります。これは、ミラノヴィッチ『不平等・所得格差の経済学』とは正反対の考え方です。そして、結論を先取りすれば、「財産所有のデモクラシー」をひとつのヴィジョンとして提示しています。ということで、まず、ロールズやスキャンロンの議論から不平等に反対する理由を4点上げています。すなわち、(1) 剥奪、(2) スティグマ化、(3) 不公平なゲーム、(4) 支配、となります。私はどちらかといえば、人間としての尊厳を重視するのですが、さすがに、政治学や政治思想史の視点からはこの4点に集約されるようです。ですから、その昔の自然がもたらす不運ではなく、社会に起因する不正義とみなされるようになってきているわけです。この4点の不平等への反対を反転させれば平等に対する支持理由となります。加えて、不平等を3種類に分類しています。もっとも大きな不平等は差別であり、許容されません。その次が格差であり、望ましくはないもののの、ゼロにすることは出来ず、一定の範囲で容認されます。最後の差異は承認される不平等で、これをなくそうとする試みは別の問題を生じることになります。私がもっとも注目したのは第4章の経済上の平等であり、ピケティ教授により世界的にも注目度が上昇しています。特に、日本では2010年代に入ると就職氷河期の世代がアンダークラスを形成するようになります。ベーシックインカムに関する本書の議論は、エコノミスト間の認識と少し違っている気が私にはしました。ベーシックインカムに関する議論に加えて、第5章の政治上の平等については、お読みいただくしかありませんが、一言だけ付け加えると、ここでもピケティ教授の用語が使われています。「バラモン左翼」です。能力競争に勝ち抜いて、リベラルな思想を持つビジネスパーソンなどです。ただ、私は、経済上の平等についてはフローとしての所得やストックの資産などが貨幣単位で計測できることから、不平等の是正はそれなりに可能であると考えるのですが、政治上の平等については影響力の差異をどのように計測するのか、というそもそものベースから不案内です。ですので、本書でも言及しているくじ引きによるロトクラシーに将来を見出しています。最後に、著者の言う「財産デモクラシー」については、財産が平等に行き渡るためにはフローの所得についても考える必要があります。その点は少し議論が不足している気がします。

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次に、C.S. ルイス『ナルニア国物語4 銀の椅子と地底の国』(新潮文庫)を読みました。著者は、アイルランド系の英国の小説家であるとともに、長らく英国ケンブリッジ大学の英文学教授を務めています。英語の原題は The Silver Chair であり、日本語タイトルにある地底の国は含まれていません。1953年の出版です。本書は、小澤身和子さんの訳し下ろしにより新潮文庫で復刊されているナルニア国物語のシリーズ第4巻です。本書では、ペペンシー4きょうだいのいとこであるユースティス・スクラブが学校の仲間と2人でナルニア国を訪れます。ユースティスの友人とは、学校でのいじめられっ子のジル・ポールです。いじめっ子に追われて学校の体育館裏に逃げ、そこにある扉から2人はナルニア国へと飛び込みます。ナルニア国ではすでに長い時間が経過していて、カスピアン王は晩年を迎えています。しかし、カスピアン王の息子であるリリアン王子は何年も前に魔女にさらわれて行方知れずになっていました。アスランからリリアン王子を探し出してカスピアン老王の元に連れ戻すというミッションをユースティスとジルが受けて冒険に旅立ちます。その際、アスランは4つの道しるべを示します。すなわち、(1) ユースティスが出会う懐かしい友人に挨拶する、(2) いにしえの巨人たちの廃墟となった都を目指す、(3) そこで、石に刻まれた言葉を実行する、(4) アスランの名にかけて、なにかしてほしいと頼む最初の人物こそが王子である、というものです。そして、2人はヌマヒョロリン族のドロナゲキとともにリリアン王子を探しに出かけます。巨人国の都であったハルファンから地底国に向かいます。タイトルになっている「銀の椅子」はリリアン王子が囚われて座らされていたものです。なお、巨人は、このナルニア国シリーズに限らず、ハリー・ポッターの物語などでも、決して、いいようには描かれていません。我が日本でも、特に、私の住む関西地方では巨人を嫌う人が多い印象です。ヌマヒョロリン族のドロナゲキは、ムーミンに出てくるスナフキンのような姿の挿し絵が挿入されています。ここで英語のお勉強ですが、ヌマヒョロリン族は Marsh-wiggle、であり、陰キャで悲観的な発言を繰り返しているドロナゲキは Puddleglum という名前です。ハリー・ポッターのシリーズについては、私は7巻中5冊までを英語の原書で読みましたが、ナルニア国物語などの子供向けの本から英語を勉強するのもいいんではないかと思います。

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次に、森見登美彦[訳]『竹取物語』(河出文庫)を読みました。現代訳者は、小説家であり、私は『有頂天家族』や『シャーロック・ホームズの凱旋』なんかを読んだ記憶があります。また、河出文庫のこの古典新訳コレクションのシリーズでは、酒井順子[訳]『枕草子』上下、円城塔[訳]『雨月物語』なんかを読んでいます。ということで、何分、「竹取物語」ですから、多くの日本人が見知っていることと思います。竹取の翁が光る竹を切ったら姫が現れ、家に連れ帰ればものすごいスピードで成長し、やがて絶世の美女に成長したかぐや姫は、いい寄る求婚者たちに無理難題を課して退散させた後、月に帰ってゆく、というストーリーは広く人口に膾炙しているところであり、本書でも何ら変更ありません。私は「竹取物語」を古語で読んだことはありませんが、例えば、2年ほど前に、あをにまる『今昔奈良物語集』に収録されている「ファンキー竹取物語」なんてのを読んだ記憶もあります。本書では、広く知られた「竹取物語」のストーリーを森見登美彦の小説の世界で表現しています。この訳者の小説のファンであれば押さえておくべきかと思います。

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2025年5月 3日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』(集英社)では、資本主義の次に来るシステムは社会主義ではなく、デジタル取引プラットフォームが市場に取って代わるテクノ封建制であり、クラウド領主がレントを農奴から搾取するシステムはもう始まっていると指摘しています。小山大介・森本壮亮[編著]『変貌する日本経済』(鉱脈社)は、マルクス主義経済学の観点から縮小し衰退しつつある日本経済や格差が拡大している日本や世界経済を分析し、グローバル化に疑問を呈し、ベーシックインカムの是非について議論を展開しています。河村小百合+藤井亮二『持続不可能な財政』(講談社現代新書)では、現在の財政は持続可能ではないとし、30兆円単位の財政収支改善を提案していますが、財政収支を30兆円規模で改善するとどうなるかについては覚悟と良心でもって気合で乗り切れ、といわんばかりです。ドナルド E. ウェストレイク『うしろにご用心!』(新潮文庫)は、不運な大泥棒のドートマンダーが主人公になるシリーズで、故買屋のアーニー・オルブライトから依頼を受けて、投資家で大富豪のプレストン・フェアウェザーから美術品を盗もうと計画します。高野結史『バスカヴィル館の殺人』(宝島社文庫)は、前作『奇岩館の殺人』の続編であり、実際に殺人が行われる推理ゲームであり、顧客の大富豪が探偵となって殺人事件の謎解きに挑みますが、相変わらず、シナリオ通りには進みません。西村京太郎『SLやまぐち号殺人事件』(文春文庫)は作者の絶筆であり、SLやまぐち号の最後尾の客車5号車が山口と仁保の間の7.5キロを走行中に消失し、乗客32名が誘拐され、乗客の1人が死体で発見されます。十津川警部が謎解きに当たります。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月は24冊、5月に入って今週の6冊と合わせて105冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の6冊のほかに、ロバート・ロプレスティ『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』(創元推理文庫)も読んでいます。2019年に読んでいて再読です。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』(集英社)を読みました。著者は、経済学者=エコノミストなのですが、経済政策の実践の場では、2015年のギリシア経済危機の際に財務大臣を務めています。本書の英語の原題は Technofeudalism であり、2023年の出版です。なお、本書は集英社のシリーズ・コモンの1冊として出版されており、本書に至るまでの既刊5冊のうち、斉藤幸平・松本拓也[編]『コモンの「自治」』とジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』は私も読んでいます。ということで、通常、というか、何というか、現在の資本主義の後には社会主義が来る、というのがマルクス主義の歴史観、唯物史観に基づく見方であり、私もその可能性は十分あると考えています。私のような不勉強なエコノミストだけではなく、例えば、日本でもイノベーション理論で人気の高いシュンペーター教授なんかも、資本主義はいつかは社会主義に取って代わられる、と考えていたように記憶しています。しかし、本書では資本主義の次に来るのは社会主義ではなく、テクノ封建制であると分析しています。というか、すでに、資本主義は死んでいて、テクノ封建制が始まっているとすら指摘していたりします。かつては、格差が大きく拡大し資本主義の存続ではなくコモンの拡大による社会主義的なシステムが主流になる可能性が十分あると、私なんかの凡庸なエコノミストは考えていたんですが、そうではない可能性を強く指摘しているわけです。資本主義における市場に対して、テクノ封建制ではデジタル取引プラットフォームが取って代わり、資本主義において企業が最大化するターゲットであった利潤ではなく、レントの追求に変質した、と主張しています。デジタル取引プラットフォームはかつての中世の「封建領地」になぞらえられ、私のような一般市民はその「封建領地」を耕す農奴なわけです。もちろん、対極にはテクノ封建領主=クラウド領主がいて、クラウド・レントを求めて農奴を搾取しているという構図です。軽く想像される通り、本書では明示されていませんが、GAFAMを想像すればいいわけで、アマゾンなどのデジタル・プラットフォームを基礎にしたEコマース、あるいは、SNSなどの経営者がクラウド領主に該当します。そして、世界経済に視野を拡大すれば、米国と中国がテクノ封建制の新たな土俵で覇権を争う冷戦が始まっているわけです。インターネットが提供するコモンズは、やや「お花畑」的に想像された自由で平等な世界を実現するのではなく、逆に、テクノ封建制を準備したに過ぎなかった、という評価です。このあたりまでは、直感的に理解できるところではないでしょうか。もちろん、その「変容」=メタモルフォーゼの詳細、そして、テクノ封建制の実態の解明、そして、何よりも本書が最終章で提示するテクノ封建制からの脱却=クラウドへの反乱、などなどにつては、お読みいただくしかありません。細かな論証については、決して学術的にコンセンサスを得られるものではない可能性が高いと私は受け止めていますが、現在の世界経済の現実を的確に説明できる可能性があり、専門家でなくても直感的な理解は十分可能だろうと思います。とても散文的で難解な表現も含まれていますが、本書の内容は多くのビジネスパーソンが日々接している現実経済を解明している部分が多々あると考えるべきであり、その意味で、とってもオススメです。

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次に、小山大介・森本壮亮[編著]『変貌する日本経済』(鉱脈社)を読みました。編著者2人は、それぞれ、京都橘大学経済学部准教授と立教大学経済学部准教授です。ほかの章ごとの分担執筆者も基本的にマルクス主義経済学のエコノミストではないかと思います。なお、『季刊 経済理論』第59巻第4号に書評が掲載されています。ご参考まで。実は、ゴールデンウィークの合間を縫って、私の勤務する立命館大学経済学部の研究会に出席したのですが、私以外はマルクス主義経済学のエコノミストで、他方、官庁エコノミスト出身の私はほぼほぼまったくマルクス主義経済学の専門性はなく、いわゆる「界隈」が違うのですが、実証分析や対象のエリアによっては理解できる部分もあります。本書は日本経済を対象にしていますので、今年度前期の授業が本格的に始まった段階で目を通してみました。まず、当然ながら、事実認識に大きな違いがあるわけではありません。すなわち、日本経済が縮小している、別の表現では、衰退している、という認識は変わりありません。この点は誰の目から見ても明らかです。さらに、日本のみならず世界で格差が拡大しつつあリ、格差拡大は決して好ましいことではない、という認識も共通しています。加えて、日本では格差拡大は雇用の劣化から生じている可能性が高い、という認識も同じではないか、という気がしています。ですので、かなり多くの分野でマルクス主義経済学と主流派経済学は同じ認識を共有し、同じ方向を向いていると考えても差し支えありません。しかし、主流派経済学との相違がまったくないわけではなく、いくつかの点に現れています。例えば、グローバル化がホントに日本経済に役立っていて、国民生活を豊かにするのか、という点に対しては本書は大いに疑問を呈しています。ただ、主流派経済学でもそういった見方が広がりつつあり、特に、米国トランプ政権がむやみな関税政策を振り回し始めて以来、ホントにグローバル化の進展が企業にもいいことだったのだろうか、という疑問が生じ始めている可能性はあります。マルクス主義経済学ではもっと脱成長の議論が盛んなのかと思っていましたが、主流派経済学と同じで日本経済が衰退しているのは決して好ましいことではなく、国民生活を豊かにするためには決して成長を諦めるべきではない、という認識は共通しているようです。もちろん、社会保障や福祉の観点からは主流派経済学よりもマルクス主義経済学の方が進んでいる可能性もあり、本書ではベーシックインカムについて章立てして議論をすることを試みています。もちろん、ベーシックインカム万能論では決してなく、その否定的な側面も指摘しています。それだけに、議論をきちんと進めようという姿勢も見えます。ただし、雇用を考えるチャプターでは、主流派経済学の本と同じように、日経連の『新時代の「日本的経営」』をまったく無視しています。ついでながら、第3章では置塩定理が援用されています。私にはもちろん、大学の学部レベルでは難しいのではないかと思いますが、実に判りやすくていねいに説明されているのが印象的でした。ちょっと、私には不慣れな分野だったかもしれませんが、「セカンドオピニオン」を求めるような気軽さで読んでみた次第です。

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次に、河村小百合+藤井亮二『持続不可能な財政』(講談社現代新書)を読みました。著者は、それぞれ、日銀から民間シンクタンクの日本総研に転じたエコノミストと参議院事務局を退職した白鴎大学法学部教授です。本書の意図は明らかであり、現在の財政赤字の継続は公的債務残高の累増を招いており、このままでは財政は持続可能ではなく、したがって、歳出削減または歳入増加により財政収支の改善を図るべきで、その財政収支改善幅は30兆円程度である、というものです。何度か書きましたが、はい、私は一応この方面では学術論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" も書いていて、日本の財政は成長率と利子率の関係が動学的効率性を満たしておらず、その上、政府の基礎的財政収支改善努力もあって、財政はサステイナブルである、と結論しています。もちろん、本書は新書でのご議論であって学術論文のような正確性を問うものではありませんが、財政破綻したらたいへんなことになるとか、将来世代に負担を先送りするとかの、やや根拠が不確かで扇情的な議論は回避すべきだと私は考えています。ですから、私が論文で指摘したような公的債務のGDP比での安定を図るか、横断条件を満たすように国債をすべて償還することを考えるのか、などの議論はすっ飛ばしてもいいのですが、せめて、財政破綻のコストと30兆円の財政収支改善のネガな経済効果を比較するくらいの議論はあって然るべき、と私は考えます。そういう議論がなく、本書の隠し味は、日銀がこれから利上げする方向にあるので、それをサポートするように財政収支を改善するべし、という形で、アベノミクス期の逆回転を試みようとしているように見えてなりません。私が長らく見てきた中で、本書のような stirve the beast でもって、財政破綻回避を「錦の御旗」にしてある種の政策に対する拒否感を示すのは、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)で示されていたように、過剰に客観的な根拠を求めてある種の政策に拒否感を示すのと、まったく同じだと考えるべきです。要するに、政策に反対する根拠が希薄であることを自覚しているため、財政破綻のおそれや客観的根拠の要求を持ち出しているとしか思えません。ですので、本書の第5部の最後の節のタイトルは 問われる"国全体の覚悟"と"日本人の良心" となっていて、覚悟と良心を持って30兆円の財政収支改善を気合で乗り切ることができるかのような表現になっています。エコノミストとしては、実に、悲しい限りです。

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次に、ドナルド E. ウェストレイク『うしろにご用心!』(新潮文庫)を読みました。著者は、米国のミステリ作家であり、多作なことでも有名です。著作は100冊を超え、米国探偵作家クラブ(MWA)賞を3度受賞しているそうです。多くの作品が映画化もされています。なお、この作品は本邦初訳です。この作者によるドートマンダーを主人公とするシリーズはユーモア・ミステリとして有名らしいのですが、私は2年半ほど前にこの著者の『ギャンブラーが多すぎる』を同じ新潮文庫で読んでいるものの、それはドートマンダー・シリーズではなく、不勉強にしてドートマンダーを主人公とするミステリは初読でした。参考ながら、巻末にドートマンダーのシリーズの著書が長編10冊超をはじめとしてリストアップされています。ということで、主人公は運の悪い大泥棒のジョン・ドートマンダーです。本作品では、付き合いは深いものの、それほど好感を持っているわけではない故買屋のアーニー・オルブライトからの依頼があり、ニューヨーク在住の投資家で大富豪のプレストン・フェアウェザーがコレクションしている美術品を盗み出すことを計画します。プレストン・フェアウェザーご本人はカリブ海のリゾートで休暇中なのですが、謎の美女が誘拐目的で接近してきます。大富豪のプレストン・フェアウェザーは露出度の高いビキニ水着のまま海に逃げ出して、ニューヨークの自宅を目指します。そして、帰り着いてぐっすり眠っているところにドートマンダーと仲間が盗みに入って大騒動となるわけです。なお、アムステルダム・アヴェニューにあって、ドートマンダーと仲間がいつも作戦会議に使う<OJ>という店、ロロというバーテンダーがいる店が、美術品の盗みとは直接関係ないながらも、まあ、キーポイントのひとつ、重要な要素となります。ドートマンダーの盗みの副産物といえるかもしれません。

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次に、高野結史『バスカヴィル館の殺人』(宝島社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、半年ほど前に同じ出版社から出ている『奇岩館の殺人』を私は読んだ記憶があります。基本的に、繰り広げられるのはリアルな殺人を含む推理ゲーム「推理遊戯」であり、実際に殺人が実行されるゲームに富裕層の顧客が大金を払って探偵として謎解きを行い、運営スタッフが探偵をサポートしつつゲームを進行する、ということであり、設定は同じです。ですから、謎が難しすぎると顧客の探偵が解けませんし、簡単すぎると満足度が上がらない、というフェアウェイの狭いゲームです。前作ではカリブ海の孤島でしたが、本書では森の奥に立つ洋館、バスカヴィル館がクローズド・サークルとなります。タイトルのバスカヴィルは当然ながらホームズの長編小説のひとつから取られていて、火を吹く魔の犬にちなんで死体が焼却されるところからの命名のようです。前作と同じところは、運営サイドのシナリオから実際の進行がズレまくる点で、軌道修正に運営スタッフが大きな苦労をします。今回作品の新規な点としては、誰が探偵役なのかが判別しきれず、運営スタッフのうちの1人が早く謎を解かせたいにもかかわらず、なかなかヒントを提供する相手が特定できない点です。もうひとつは、米国本社から日本支社の支社長だか、支部長だか、に対する査察役が運営スタッフとして密かに加わって、いわば、スパイのような役割を担うところもポイントかと思います。このため、前作よりも謎が複雑になっていることはいうまでもなく、出版社のうたい文句によれば「多層ミステリ」ということになるのですが、それでも、2番煎じであることは明白であり、他の読者はともかく、私自身は前作の方の評価が高いと考えます。評価高い読者は、ひょっとしたら、前作を読まずに本作品を読んでいるのかもしれません。何となく、続編がさらにありそうな気がしないでもないのですが、私が編集者であればヤメにしたら、とアドバイスします。

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次に、西村京太郎『SLやまぐち号殺人事件』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。ほぼ3年前の2022年3月に亡くなっており、本書が絶筆といわれています。本書も、この著者の作品の一連のシリーズである十津川警部が主人公となります。ということで、舞台はタイトル通りに山口県であり、何と、SLやまぐち号の最後尾の客車5号車が山口と仁保の間の7.5キロを走行中に消失し、乗客32名が誘拐されます。乗客の中に東京に本社がある警備会社の社長が含まれており、身代金、というか、諸経費として請求された2億円をこの警備会社が株式売却により調達して支払ったことが明るみに出ます。しかし、乗客の1人の死体が発見されます。加えて、鉄道敷設の際の延長問題、さらには、もっと古い幕末の山口における歴史的事件などが怨念を伴って関係してきます。列車消失ミステリは、この作者の代表作のひとつである『ミステリー列車が消えた』もありますし、私が読んだ範囲内でも、島田荘司『水晶特急』とか、いっぱいあります。その意味で、それほど奇想天外でも奇抜でもないのですが、本書のミステリの肝は列車消失とともに、同じような列車内の殺人事件であるクリスティの『オリエント急行殺人事件』も緩やかな関連性を持っている点だと思います。絶筆という意味で記念すべき作品といえるかもしれませんが、あるいは、全盛期のサスペンスフルな展開は望めないと考えるべきかもしれませんし、評価はさまざまだと思います。ただ、ここまで大昔の怨念のようなものを持ち出されての謎解きでは、「どうして、今になって?」という疑問が生じるのはやむを得ません。10年後でもいいでしょうし、5年前であってもいいような事件だと受け止めるのは私だけなんでしょうか。

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2025年4月26日 (土)

今週の読書は経済書からミステリまでいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、コリン・メイヤー『資本主義再興』(日経BP)では、資本主義の危機の克服のためにビジネスのパーパスを重視し、問題の解決策を追い求め、それを実現することをもって行動原理とする、そのため、現実的には、会社法を然るべく改正する、という方向性を打ち出しています。トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義』(みすず書房)は、フランスの夕刊紙として世界的に有名な『ルモンド』紙に、ピケティ教授が2016年から21年初頭にかけて寄稿した時評コラムから44本を精選しています。三浦しをん『ゆびさきに魔法』(文藝春秋)は、ネイルサロンを経営する30代半ば過ぎの女性を主人公に、ネイルの仕事や商店街の仲間、もちろん、顧客といった周囲の人々を幸福にしようとするお仕事小説です。藤崎麻里『なぜ今、労働組合なのか』(朝日新書)は、格差が拡大し賃上げが進まない中で、カスハラ問題のクローズアップなど、職場の働きやすさの改善が進む背景としての労働組合の果たすべき役割について取材した結果を取りまとめています。ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』(新潮文庫)では、ノーベル賞作家がラテンアメリカの独裁者を取り上げて、きわめて独創的かつ幻想的な小説に仕上げています。全6章の各章は単一のパラグラフから成っています。若竹七海『まぐさ桶の犬』(文春文庫)は、タフで不運な女探偵・葉村晶を主人公とするシリーズの最新長編ミステリであり、有名学校法人創設者一族に属し、自身もエッセイストとして著名な元教師から人探しを依頼されるところからストーリーが始まります。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月に入って先週までに計18冊、さらに今週の6冊と合わせて99冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の6冊のほかに、田中啓文『銀河帝国の弘法も筆の誤り』(ハヤカワ文庫)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、コリン・メイヤー『資本主義再興』(日経BP)を読みました。著者は、英国オックスフォード大学サイード経営大学院名誉教授であり、早稲田大学商学学術院の宮島英昭教授が監訳者となっています。本書は資本主義の危機の解決に取り組んだ著者の三部作の締めくくりの3冊目に当たります。三部作とは、すなわち、『アーム・コミットメント』、『株式会社規範のコペルニクス的転回』と本書です。勉強不足にして、私は前の2作は読んでいません。本書の英語の原題は Capitalism and Crises であり、2024年の出版です。本書はパート1~5で構成されていて、各パートに2章ずつ配置されています。各パートのタイトルは、順に、問題、義務、方法、真の価値、コミットメント、となります。ということで、資本主義、おそらくは、18世紀後半のイングランドから始まった産業革命以降の資本主義は、先進国では経済成長が達成され、国民経済は大いに豊かになった一方で、同時に、格差や不平等の拡大、加えて、最近では、気候変動や環境悪化、社会的排除や差別など、さまざまな弊害を伴う成長であり、これらは20世紀終わりから現在まで悪化の一途をたどっていることも事実です。今世紀に入ってからでも、リーマン・ブラザース証券の破綻に端を発する大規模な金融危機と景気後退、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ侵攻などの武力衝突の激化、そして、現在 on-going で進行中の米国トランプ政権による世界経済の大規模な混乱、さらに、本書ではまったく問題ともされていないように見える途上国の経済開発の遅れ、などなど、こういった資本主義の拡大する矛盾をいかに考えて解決するかを本書、というか、一連の三部作では目指しているようです。そして、本書では、やや「お花畑」的な解決を示しているように私には見えてなりません。道徳律を修正して、企業行動の基本原理を変更する、という解決策です。いわゆる黄金律、すなわち、「自分がして欲しいと望むことを、他者にする」のではなく、「他者がして欲しいと望むことを、他者にする」に変更し、ビジネスのパーパスをミクロ経済学的な企業の行動原理である利潤の最大化ではなく、問題の解決策を追い求め、それを実現することをもって行動原理とする、そのため、現実的には、会社法を然るべく改正する、ということになります。私は最後のこういった一連の結論で完全に拍子抜けしてしまいました。巻末の解説では、従来から議論されているような企業活動の負の外部性ではなく、いかにして正の外部性を発揮させるかが重要と指摘しています。それはそれとして、私が重要と考えるのは、資本主義の矛盾を解決する根本的な経済主体が企業である点を指摘しているという事実です。解決策としては大いに「お花畑」的ではあるのですが、従来の解決策が政府に重きを置き過ぎていて、したがって、選挙をがんばりましょう、政権交代しましょう、ばかりだったのに対して、資本主義の諸問題を解決する本丸が企業活動にあるのであって、企業に政府が介入するのも結構だが、企業行動に対して何らかの直接的な影響を及ぼす可能性が暗示的に示されている点を私は評価します。ドイツ的な労使による経営協議会、あるいは、私は全く詳しくないのですが、北欧的な労働の経営参加、などなど、選挙や政権交代ばっかりではなく、労働者代表がいかに企業行動に影響を及ぼすことができるか、そういった方向の議論が進むことを本書は示唆しているように感じられてなりません。まあ、本書の本筋とは違う読み方かもしれません。はい、その点は理解しています。

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次に、トマ・ピケティ『来たれ、新たな社会主義』(みすず書房)を読みました。著者は、10年ほど前の著書『21世紀の資本』で格差に対する警鐘を鳴らしたフランスのエコノミストであり、パリ経済学校やフランス社会科学高等研究院の経済学教授を務めています。本書は、フランスの夕刊紙として世界的にも有名な『ル・モンド』紙に、ピケティ教授が2016年から21年初頭にかけて寄稿した時評コラムから44本を精選しています。時系列的に3部構成としていて、第Ⅰ部が2016-2017年、タイトルは「グローバル化の方向性を転換するために」、第Ⅱ部が2017-2018年、タイトル「フランスのためにはどんな改革をすべきか?」、第Ⅲ部が2018-2021年、タイトル「欧州を愛することは欧州を変えること」となります。当然、フランスの夕刊紙へ寄稿されたコラムですのでフランスや欧州のトピックが多くなっています。表紙画像でも見られるように、明らかにトリコロールのフランス国旗を意識している、といえます。しかも、タイトルで標榜しているのが社会主義ですので、やや敬遠する向きがあるかもしれませんが、ピケティ教授は「社会国家」という用語で、おそらくは、「福祉国家」と似たような意味を持たせていますので、社会主義がマルクス主義的な概念とは限らず、少なくとも、旧来型の旧ソ連や現在の中国における社会主義とはまったくの別物と考えるべきです。したがって、何よりも、本書で重視しているのは経済的格差の是正、そして、経済面に限定せずに、男女間、民族間、などなどの格差や差別に対する是正、そして、ひいては、参加型の民主主義や循環型の経済の実現、何より一言でいえば、社会的正義の実現を目指していると考えるべきです。逆にいえば、現在の日本や欧米先進国はもとより、世界の多くの国でこういったピケティ教授の目標が達成されていないわけで、ひとつひとつのコラムは当然にそれほど長くもなく、一般紙のコラムですので難解でもなく、分量としても内容としても一般読者に読みやすくなっています。加えて、綿密に構成された書籍ではなくコラムを時系列的に並べているだけ、といえば、まあ、そういうことですので、どこから読み始めてもいいですし、適当に興味あるトピックだけを拾い読みすることも出来ます。話題になった『21世紀の資本』が大部の専門書でしたので、本書の興味あるトピックを追うことにより、ピケティ教授の主張に触れておくのもいいんではないかと思います。

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次に、三浦しをん『ゆびさきに魔法』(文藝春秋)を読みました。著者は、直木賞も受賞した小説家です。私のもっとも好きな作家の1人です。タイトルや表紙画像から読み取れるように、主人公はネイリストです。すなわち、弥生新町駅前の商店街でネイルサロン「月と星」を経営する30代半ば過ぎの月島美佐が主人公です。サロンの名前は、月島美佐ご本人とともに、同じ専門学校に通っていた同級生であり、かつて、いっしょにサロンを経営していた星野江利にも由来しています。今では、2件の棟割長屋でサロンを開いていて、どちらも1階が店舗で2階が住宅という造りです。もう1軒は居酒屋「あと一杯」が入っています。大将は松永という中年男性で、1人で居酒屋を切り盛りしています。中年男性らしく、チャラついたネイルに軽い偏見を持っていますが、巻き爪を施術により矯正してもらってからは、ネイルについての理解が深まります。その「あと一杯」の常連客で、大将である松永の煮付けをこよなく愛している酔っ払いが大沢星絵となります。ネイルをオフする時の摩擦熱が強烈だったり、一部の技術に未熟さが残っていますが、月島美佐は大沢星絵をネイリストとして雇うことを決めます。基本的に、お仕事小説ですので、ネイルサロンやネイリストの活動がストーリとして展開されて行きます。赤ちゃんの子育てに忙殺され、ネイルをしたいが、チャラついた母親と思われるのではと気に病む主婦、国民的な有名俳優などがサロンを訪れたり、さらに、子連れ客への利便性を高めようと保育士を雇ってキッズコーナーを店舗内に設けたり、商店街の中では隣接した居酒屋だけでなく、八百屋の奥さんとの交流があったり、さらには、老人施設にボランティアに赴いたりと、いろいろとあります。中でも、華やかなセンスを持った大沢星絵の才能を伸ばすために、かつてのパートナーだった星野江利のサロンに修行に行かせるところが、ひとつのハイライトとなります。主人公の月島美佐自身は丁寧で正確な施術が得意なのですが、独創的なセンスを持つ大沢星絵のためを考えての武者修行です。主人公は、30代半ば過ぎの独身女性で、「仕事に忙しく、恋の仕方は忘れてしまった」なんて部分もありますが、いかにも小説にありがちな展開で、ある日突然運命の人に出会って大恋愛に発展した、なんてところが微塵もなく、結婚や恋愛の要素はまったく欠落した小説です。それはそれで、この作者らしいともいえるかもしれません。最後に、ネイルに関して、私はネイルについてはまったく知りません。そこは典型的な中年男性である点は自覚していますし、本作に登場するネイルの施術や器具などにつてもまったく無知です。その点はレビューとしては割り引いて下さるようにお願いします。ただ、私自身の運動習慣として週3日はプールで泳いでいて、気が乗れば1時間ほどかけて2,000メートル泳ぐ日もありますので、爪はボロボロです。何とかしたいと考えなくもありませんが、何もしていません。

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次に、藤崎麻里『なぜ今、労働組合なのか』(朝日新書)を読みました。著者は、朝日新聞のジャーナリストです。朝日新聞のGLOBEの連載を新書にい取りまとめています。4部構成であり、3部までが日本、4部が米国となっていて、日本の各部は現場、政策提言、労働組合の可能性、ときわめて意識高い系のタイトルとなっています。逆から見て、上から目線を私は感じましたが、ジャーナリストですので、私のような一般庶民はついついそう感じるのかもしれません。昨今の物価高で賃上げが進み、昨年2024年春闘では賃上げ率5%を超えて、33年ぶりの高い伸び率になったと報じられています。ただ、実際には物価上昇が賃上げを上回って、実質賃金はマイナスが続き、国民生活がますます貧しくなっていることは周知の通りです。正規職員と非正規職員の格差は一向に是正される気配もなく、労働組合の組織率は長期的に低下の一途をたどっていることは、これまた、広く知られている通りです。しかし、他方で、本書冒頭でも取り上げられているように、かつては神さまだった客からのカスハラの問題などがクローズアップされて、職場が働きやすい方向にわずかなりとも進んでいる実感もあります。私自身は、役所ではキャリア公務員らしく早々と管理職になって組合からは離れましたが、大学に再就職してヒラ教員となり再び労働組合に所属しています。実は、昨今の賃上げ獲得やカスハラ是正などの労働条件の改善に、労働組合が果たした役割が大きいとは私はまったく考えていません。むしろ、典型的に使用者側からのおこぼれに労働側があずかっている、という印象しか持っていません。ですので、本書の指摘にはやや違和感がありますが、欧米で労働組合がそれなりの役割を果たしている点については、まったく異存ありません。フランスなんかでは、労働組合の組織率は日本よりも低いにもかかわらず、影響力は日本より大きくすら見えます。しかし、本来、労働組合というものは、労使のアンバランスな力関係をわずかなりとも是正する目的で、労働側に有利な扱いを認めているわけですが、少なくとも日本では、そういった労働側に有利な点を活かした活動を進めようとする意図が、私には感じられません。特に、1980年代後半の3公社の民営化、特に国鉄の分割民営化により国労が消滅してからは、労働組合の力量が大きく低下したことは明らかだと私は考えています。現在の連合の芳野会長にしても労働者間の分断を志向するかのような反共の姿勢は明らかですし、何といっても、日経連の『新時代の「日本的経営」』に対する対抗軸を見いだせずに、「失われた30年」で実質賃金が一向に上がらなかった責任の一端は明らかに労働組合にあると考えるべきです。ただ、タイミングの問題として本書では取り上げられていませんが、朝日新聞の記事「フジテレビ労組、組合員が急増 専務が労組とのやり取りで辞意表明」などで報じられたように、職場や雇用のピンチには労働組合とは一定の役割を果たすべき存在であることは明らかです。労働者から頼りにされているともいえます。その意味で、まったく活動が目立たず奮わない日本でも労働組合の重要性を認識させようとするこういった試みは重要だろうと、私も考えています。

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次に、ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』(新潮文庫)を読みました。著者は、中南米文学の最高峰の作家の1人であり、この作品に先立って出版された『百年の孤独』でノーベル文学賞を受賞しています。スペイン語の原題は El Otoño del Patriarca であり、1975年に出版されています。日本では今年2025年2月に新潮文庫から新装再刊されています。この作品は中南米の独裁者をテーマにした小説であり、同じように独裁者を主人公に据えたマリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』を私は読んだ記憶があります。『チボの狂宴』はドミニカ共和国のトルヒーヨ将軍という実在した独裁者をモデルとしている一方で、本書『族長の秋』ではそういった特定のモデルではなく、架空の国の独裁者であり、ヘルニアの巨大な睾丸を持っている大統領を中心とするストーリーです。ただ、『百年の孤独』の主人公であるブエンディア大佐のなれの果てではないか、とする解釈もあったりします。6章から構成されているのですが、各章は単一のパラグラフから成っています。すなわち、パラグラフひつとで各章を構成しています。そして、ほぼほぼすべての章が独裁者である大統領の死から始まっています。その意味で、この作者独特のとても幻想的な雰囲気を感じることが出来ます。大統領のほかの登場人物は以下の通りです。すなわち、ロドリゴ・デ=アラギルは、大統領の腹心の将軍でしたが、野菜詰めにされてオーブンで丸焼きにされます。ベンディシオン・アルバラドは大統領の母であり、元娼婦で父の不明な子を産んだとされています。マヌエラ・サンチェスは、美人コンテストの優勝者で大統領の恋の相手ですが、日食の日に姿を消します。パトリシオ・アラゴネスは、街のチンピラでしたが、大統領と外見がそっくりなため、影武者としての役割を与えられます。レティシア・ナサレノは、修道女でしたが誘拐されて大統領の妻となります。ということで、ストーリーらしいストーリーは、なかなか明確には読み取れませんが、大統領府にハゲタカが群がり、牛が徘徊したりして、異常を感知した国民が大統領官邸に押し寄せ、無惨に殺害された大統領の死体を発見します。章ごとに視点を切り替えつつ、独裁者であった大統領のとんでもない数々の残虐かつ冷酷な行為を羅列し、母や妻や恋人との関係を描写し、独裁者としての孤独な心情を描き出しています。私は傑作や名作というよりも、カオスに満ちた怪作ではなかろうかと考えていますが、この『族長の秋』を『百年の孤独』よりも高く評価する人が決して少なくないことも知っています。

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次に、若竹七海『まぐさ桶の犬』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は、タフで不運な女探偵・葉村晶を主人公とするシリーズの最新長編ミステリであり、出版社によると5年ぶりの出版だそうです。文春文庫オリジナルの書下ろしです。ということで、主人公の葉村晶は着実に年齢を重ねて50代となり、老眼に悩まされるようになっていますが、相変わらず、吉祥寺のミステリ専門書店 MURDER BEAR BOOKSHOP でアルバイトをしつつ、白熊探偵社のただ1人の調査員として、非情なオーナー富山の下でこき使われながら働いています。なお、老眼のほかにも、更年期障害、五十肩、花粉症に加えて歯も悪くなるなど、年齢とともに体にはアチコチ無理が来ています。タイトルの意味は本書のp.141にありますが、イソップ寓話に由来するようで、「自分には役に立たないが、誰かがそれでいい思いをするのを邪魔するため、その『自分には役に立たないもの』を手放さずに意地悪や嫌がらせをし続ける」人を指しています。犬はまぐさを食べないのですが、牛に食わせないようにまぐさ桶に陣取って邪魔する、というわけです。本書では、ストーリーの冒頭は人探しで始まります。すなわち、東京多摩地区にある有名私立大学とその付属校から成る魁皇学園の創設者一族、というか、創設者の孫であり、学園の元理事長を務め、エッセイストとしても有名なカンゲン先生こと乾巌から、絶対に秘密厳守で「稲本和子」という女性の行方を捜すよう葉村晶が依頼を受けます。一見、殺人事件とかではなさそうなのですが、殺人ではないにしても過去の死亡事件に加えて、複数の死者が出ます。その意味で、立派に「ノックスの十戒」に則ったミステリです。葉村晶が調査を進めるうちに、創設者である乾一族の何ともいえない複雑怪奇な人間関係とともに、リゾート開発に欲が募っていたりして、実にドロドロした人間関係が複雑に絡み合っていることが判明します。このシリーズでは、葉村晶の傷や痛みなどのダメージが累積されていくうちに、少しずつ謎が解き明かされる展開であり、そのプロットは実に巧みといえます。ひょっとしたら、ラストに不満を感じる読者がいるかもしれませんが、ストーリーの展開と謎解きは実にいい出来だと思います。

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2025年4月19日 (土)

今週の読書はディズニーを題材にした経済学入門書をはじめ計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山澤成康『新ディズニーで学ぶ経済学』(学文社)は、東京ディズニーリゾート(TDR)を題材にして、消費者の効用最大化といったミクロ経済学の初歩、あるいは、国際経済まで含むマクロ経済学の視点、などなど、さまざまな要素を詰め込んだ経済学の入門書です。山下一仁『食料安全保障の研究』(日本経済新聞出版)は、シーレーンが利用できなくなった際には、食料だけではなくエネルギーも輸入できなくなり、我が国で餓死者が出かねないという危機感を基に、食料安全保障のあり方について議論しています。ジェイソン・ブレナン『投票の倫理学』上下(勁草書房)は、リバタリアンである著者がエリート主義に基づいて、有権者がいかに投票するかについての議論を展開し、何と、「バカは選挙に行くな」という結論に達しているように見えます。伊与原新『宙わたる教室』(文藝春秋)は、東新宿高校定時制を舞台に理科の教師が個性豊かな生徒4人とともに火星でのクレーターの再現実験に取り組み学会発表を目指します。本書を原作としたNHKドラマ10でも感動をよびました。朝日新聞取材班『ルポ 大阪・関西万博の深層』(朝日新書)は、この4月に開幕した大阪・関西万博について維新政治とともに取り上げており、当初計画から大きく膨らんだ建設費、海外パビリオンの建設遅れやグレードダウン、メタンガスの事故のリスク、などの取材結果を取りまとめています。稲羽白菟『神様のたまご』(文春文庫)は、2013年の下北沢を舞台に、小劇場創設者の孫がワトソン役、小劇場の支配人がホームズ役となる謎解きのトピックをいくつか収録しています。西條奈加ほか『料理をつくる人』(創元文芸文庫)では、6人の作家がタイトル通りに料理をつくる人をテーマに、短編6話を収録したアンソロジーです。いずれも粒ぞろいでオススメです。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月に入って先々週と先週で計10冊、さらに今週の8冊と合わせて93冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。なお、本日の7冊のほかに、小川哲『君のクイズ』(朝日新聞出版)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えますので、本日の感想文には含めていません。

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まず、山澤成康『新ディズニーで学ぶ経済学』(学文社)を読みました。著者は、跡見学園女子大学マネジメント学部教授です。数年前には2年ほど総務省統計委員会担当室長として役所に出向されていたことがあり。シェアリング・エコノミーの計測などで私は内閣府経済社会総合研究所のカウンターパートにいましたので、個人的にも存じ上げています。どうでもいいことながら、ご令嬢が今春4月に進学された大学なんぞも把握していたりします。ということで、タイトルから容易に想像される通り、「新」のつかない『ディズニーで学ぶ経済学』もあって、同じ著者により同じ出版社から2018年に出版されています。新旧の構成はほぼほぼ同じで、今回出版された新版は基本的にデータをアップデートした印象です。冒頭の序章では、テーマパーク業界の中で東京ディズニーリゾート(TDR)がガリバー的な存在であることが理解できます。ただ、大阪のユニバーサルスタジオ・ジャパン(USJ)も入場者数ではTDRの半分強ですので、首都圏と関西圏の経済規模から考えるとUSJの検ともいえるところです。第1章ではディズニーリゾートのレイアウトを建築学で分析し、第2章のディズニーリゾートの歩みを日本経済史で解説し、ほかにも、全15章に渡って株価、人事管理、価格戦略、消費者の効用最大化、企業の利潤最大化、などなど、ディズニーを題材に経済学を解説しています。例えば、東京ディズニーリゾートの入園者数をGDPを説明変数として単回帰で分析していたりします。ただ、2018年の旧版よりも今回の新版の方がフィットが悪くなっているのは、2020年からのコロナの影だったりするんでしょう。なお、どうでもいいことながら、回帰分析する際は説明変数に対するパラメータの符号や大きさだけでなく、定数項にも注意を払うように、私は大学院生などには教えていて、旧版でも新版でも回帰分析では定数項がマイナスになっています。したがって、GDPが一定の水準に達するまで東京ディズニーリゾートの入場者がプラスになることはない、ということを意味していると解釈されます。まあ、ディズニーだけではなく観光はある意味でぜいたく財ともいえるので、所得が一定の水準に達しないと需要がそもそも発生しない、ということなのかもしれません。また、エコノミスト誌によるビッグマック指数の向こうを張って、東京ディズニーランドとフロリダのディズニーワールドにあるマジック・キングダムの入場料で円ドル為替の購買力平価を計測しようとしていますが、購買力平価はかなり円高を示し、逆から見て、東京のディズニーランドは割安で入場できるという結果が示されています。最後の最後に、観光学と題している第8章については、もう少し遊園地とテーマパークの違いをクリアにした方がいいんではないか、と私は考えています。テーマパークが1965年の明治村から始まる、といわれても、浅草の花やしきは戦前からあるんじゃないの、と思う人がいっぱいいそうな気がします。

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次に、山下一仁『食料安全保障の研究』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、農林水産省のご出身で、現在はキャノングローバル戦略研究所の研究主幹だそうです。本書の主張はかなり回りくどくて、私のような専門外のエコノミストには理解し難い点もありますが、基本的には、台湾有事でシーレーンを使った輸送が困難になると国内で餓死者が出かねない、という危機感は私でも読み取ることが出来ました。ただ、農協に対する激しい批判や政府の減反政策廃止をフェイクニュースと論じるなど、本筋から少し離れたところかもしれませんが、私には理解が及ばない点がいくつかありました。まず、現在のコメをはじめとする食料の価格上昇については、私はエネルギー価格と歩調を合わせたものだと認識しています。もちろん、相対価格の変化があるとはいえ、減反政策の続行や廃止とコメ価格が連動しているわけではなく、コメ以外の農産物の価格と連動していると考える方が論理的です。例えば、私が驚愕したことに、キャベツ1玉500円、キュウリ1本100円といった価格は減反政策とはほとんど関係ありません。コメというよりは園芸作物なのかもしれませんが、農業機械の運転のみならず、施設などの暖房や乾燥などに用いられるエネルギー価格、あるいは石油を原料とする肥料の価格に起因する可能性が高いと考えるべきです。例えば、2024年9月末に日経新聞では「農業生産コスト高止まり、肥料も重油も 新米高騰の一因」と題する記事を報じていたりします。ただ、本書で指摘しているように、食料輸入が途絶するときは、同時に石油輸入も途絶する可能性が高い点は認識しておく必要があります。もう1点、私が本書の指摘を正しいと考えている点があります。すなわち、食料安全保障の観点からは、戦後一貫して政府が取ってきた価格支持政策でははなく、民主党による政権交代気に一時模索された農家への直接給付の方が望ましいと考えられます。価格支持政策は、結局のところ、価格に応じた生産をもたらすだけであり、農家が安定的に食料を生産するためには個別給付による経営安定の方が望ましいのは判りきっています。そうしないのは、本書が指摘するように財政負担を回避する目的なのかどう不明ですが、経済合理性からは不可解に私には見えます。最後に、本書のテーマに関連して、私は食料安全保障ではなく経済社会の不平等や貧困を是正する上で、市場取引される商品として供給されるべきかどうか疑わしいサービス、もっといえば、脱商品化された公共サービスとして供給される方が好ましいサービスとして、医療と教育を考えています。その医療と教育に次いで公的セクターから供給される方が望ましい財は食料と住宅ではないかと思っています。特に、食料は生存のために不可決な財であり、政府による一定の価格支持あるとはいえ、市場の価格に従った生産や消費を脱する時期が来ているような気がします。

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次に、ジェイソン・ブレナン『投票の倫理学』上下(勁草書房)を読みました。著者は、米国ジョージタウン大学のマクドノー・ビジネススクールの教授であり、ご専門は政治哲学、応用倫理、公共政策などだそうです。リバタリアンとしても有名です。英語の原題は The Ethics of Voting であり、2011年の出版です。英語の原書の出版はプリンストン大学出版局であり、こういった情報からもほぼほぼ学術書であると考えるべきです。ただ、専門用語を駆使していたりはしますが、政治学や倫理学の学術書ですので、経済学や自然科学のように数式がいっぱい並ぶわけではありません。じっくりと取り組めれば読みこなす読者は少なくないものと思います。ということで、英語の原題からしても、邦訳タイトルからしても、そのままであり、有権者がいかに投票するか、についての議論を展開しています。そして、結論を一言でいえば、巻末の解説に簡潔に表現されているように「バカは選挙に行くな」ということに尽きます。基本的に、著者も否定していないように、エリート主義の立場から公共善、について自信ない有権者は投票を棄権すべきであり、政治学や経済学などの専門知識を十分持っていて、公共善について正しく認識している自信がある場合のみ投票すべきである、ということになります。なお、公共善については、時に、共通善とも呼んでいますが、私は同じものと考えています。ということで、結論を考える前に本書の構成に従ってレビューすると、前半では、いくつかの選挙に関する常識を否定しています。まず第1に、市民は投票すべきであって、選挙で投票する道徳的な義務がある、という点を否定します。日本のシステムではそうなっていませんが、南北米州大陸のいくつかの国では、選挙があると投票者登録をした上で投票を行う必要があり、国によっては登録をしたにもかかわらず投票しなければ何らかのペナルティを課される場合があります。そのシステムにはこういった「投票義務」がバックグラウンドにあることは間違いありません。第2に、日本でも投票率が低下しているという事実に対して不安や憂慮を示す有識者の意見はよく聞きますが、本書では投票率が高いことに特段の価値を見出していません。第3に、投票は自分の良心に従って行うべき、という常識に対しても、自分の良心ではなく公共善にしたがって投票すべき、という点を強調しています。そして、公共善に関して正しく認識しているという自信がある場合のみ投票すべき、という結論を分解すれば、第1に、公共善とは何か、第2に、公共善について理解しているのではなく、理解していると自信を持っているとは何か、の2点から成り立っていることは容易に理解できると思います。第2の点から、すべての投票者の考える公共善が一致する保証はないという点は理解できると思います。そして、第1の公共善とは何か、がもっとも重要となります。はい、正直いって私は本書の展開する議論を十分理解した自信がありません。繰り返しになりますが、本書では明示的にエリート主義に基づく智者政 epistcracy を目指しています。はい、これまた明らかなように、民主主義や個人の平等や尊厳というものを無視ないし否定しているように見えます。そういう内容の倫理学の専門書であると私は認識しました。最後の最後に、このレビューでは本書の結論だけを紹介しましたが、当然ながら、本書ではこの結論が導かれる理由を詳細に議論しています。私はこれらを十分理解した自信がないので、ご興味ある向きは読んでいただくしかありません。

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次に、伊与原新『宙わたる教室』(文藝春秋)を読みました。著者は、小説家であり、本作品の次に出版した『藍を継ぐ海』で直木賞を授賞されています。東京大学大学院を終了し、博士号を取得していて大学で研究者の経験もあるようです。本書は小説という媒体よりは、昨年10月から同タイトルで窪田正孝が主演したNHKのドラマ10の方がよく知られているかもしれません。なお、ドラマでは大阪が舞台になっていましたが、小説は東京、しかも、歌舞伎町やコリアンタウンの新大久保などからほど近い東新宿が舞台です。私も統計局勤務の際には、副都心線の東新宿駅で降りて統計局に通っていたりしましたから、どうでもいいことながら、土地勘はあります。主人公は都立東新宿高校定時制の教師である藤竹叶です。本来は理科の教師らしいのですが、人員不足により数学も教えています。一般のイメージ通りに、定時制高校はやや荒れているのですが、科学部を創設して実験などの活動を始め、個性豊かな4人の生徒ともに火星のクレーターの再現実験をして、日本地球惑星科学連合大会における高校生の部で学会発表を目指す、というストーリーです。4人の生徒はストーリーでの出現順に、中心的な役割を果たす2年生の柳田岳人は、ディスレクシアのために本が読めず、中学校から不登校になり、20歳になって定時制高校に通い始めています。すでに成人ですから喫煙ができたりするのですが、ストーリーの途中で禁煙したりします。フィリピン人の母と日本人の父を持つ日比ハーフの越川アンジェラは、同じく日比ハーフの夫とともにフィリピン料理店を経営していますが、2年生になって勉強についていけなくなり始めています。名取佳純は起立性調節障害で朝に活動できないことから夜間定時制高校に通っていますが、定時制高校でも保健室登校になってしまっています。集団就職で上京して高校に通えなかった長嶺省造は中小企業の経営を引退した70代であり、ものづくりには詳しく実験装置の作成で貢献します。生徒以外では、東新宿高校定時制の教師として、名取佳純の保健室登校をサポートする養護教諭の佐久間理央、明るい英語教師で年中アロハシャツの木内泉水がいます。ディスレクシアや起立性調節障害などといった障害をはじめとする生徒自身の問題に加えて、家庭の問題はもちろん、同じ教室を使う全日制生徒との軋轢、昔付き合っていた不良仲間とのトラブル、などなど、いろんな困難がありますが、教師の藤竹というよりも、それ以上に生徒たち自身ががんばりを見せます。私も教師として、この読書から得るものがあった気がします。

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次に、朝日新聞取材班『ルポ 大阪・関西万博の深層』(朝日新書)を読みました。著者は、朝日新聞のネットワーク報道本部の行政担当グループ、大阪経済部、大阪社会部の担当記者が中心ということです。表紙画像に見えるように、副題は「迷走する維新政治」となっていて、まさに、大阪維新の会や日本維新の会の政治的な影響力とともに大阪・関西万博を論じています。その意味で、第1章では昨年2024年総選挙における維新の低迷の要因のひとつとして、万博への国民の懐疑的な眼差しを上げています。ただし、本書の構成からうかがえるように、万博懐疑論は私のようにカジノ構想(統合型リゾート=IR)と結びつけられてはいません。すなわち、本書の第2章では開催経費が当初予定より大幅に上振れた点に焦点を当て、第3章では「万博の華」とも位置づけられている海外パビリオンの建設遅れやグレードダウンなどを取り上げ、そして、第4章ではメタンなどの可燃性ガスによる爆発や引火といった物理的な危険に着目し、その第4章の中でカジノ構想とのシームレスなリンクではなく、IR設備工事による万博への騒音問題などに言及しているに過ぎません。最後の点は、4月14日付けの日経新聞記事「日本初のIR、大阪万博会場隣地で24日に本体工事着工へ」でも取り上げられています。しかし、本書に収録されたp.6の会場周辺地図でも、同じ日経新聞記事に添付されている地図でも、極めて明確に理解できるように、大阪メトロ中央線を延伸して建設した夢洲駅は万博会場というよりも、カジノ設備への利便性を優先しているようにすら見えます。というのも、私は本書で初めて知りましたが、鉄道延伸などのインフラ整備のためにIR事業者から200億円の負担(p.48)を求めていたから、という点も忘れるべきではありません。いずれにせよ、本書で指摘している3点、すなわち、膨らみ続けている建設費とそれを支える公的負担、「万博の華」といわれつつもパッとしないパビリオン、メタンガスの爆発や引火などの危険、だけでも万博を疑問視する意見が出ているのですから、大手メディアがまったく報道することなく情報隠蔽を続けている万博とカジノ構想とのリンクを考え合わせると、万博がいわば「うさん臭い」ものから、中止すべきもの、になりかねない可能性を十分考える必要があります。

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次に、稲羽白菟『神様のたまご』(文春文庫)を読みました。著者は、私には初読でよく知らないのですが、ミステリ作家のようです。舞台は東京の下北沢、ただし、2013年の下北沢です。私の読み方が浅かったり適当だったりしたためか、今後、何らかの必然性ある展開が待っているのか、どうして、2013年なのかは読み取れませんでした。アパートを改造したセンナリ劇場を創設した俳優の孫、竹本光汰朗が東京の大学に入学するために引越してきます。センナリ劇場は叔父に当たる木下薫が経営を引き継いでいます。この竹本光汰朗が主人公となり、センナリ・コマ劇場の支配人で日英ハーフのウィリアム近松とともに謎解きに当たります。というか、ホームズ役となる謎解きはウィリアム近松が当たり、タケミツとあだ名された竹本光汰朗がワトソン役となります。というのも、タケミツはセンナリ・コマ劇場で支配人である近松の下で助手としてのアルバイトを始めるからです。劇場が大いに関係しますので、演劇人やミュージシャンが関係する事件が多くなります。独特の用語も飛び交います。「ブタカン」が舞台監督だというのは、初読の読者である私には理解がおよびませんでした。ということで、劇中で使う小道具の指輪が紛失したり、プライベートなCDに収録した曲の作曲者を解明したり、下北沢の伝説となっている「白い夜」に現れた伝説のダンサー、すでに死んでいるはずのダンサーの正体を突き止めたり、公開中に舞台から忽然と消えた劇団主催者の謎を解いたりします。最初の指輪の謎は、何と電話1本で解決したりして、そんな謎解きはミステリとして許されるのかと思ったりしましたし、伝説の死んだはずのダンサーの正体を探るのも、単なる人探しではないか、と思わないでもありません。でも、簡単に解決できる謎からだんだんと難しげな謎に進んで、読み進むほどにミステリの度合い、謎解きの完成度が高まっていく気がして、もしも、そのように意図しているのであれば、なかなかのものだと思います。私自身は独身のころに東急新玉川線の桜新町を最寄り駅として世田谷区の深沢に住んでいたことがあり、三軒茶屋を経由して下北沢はそれなりに土地勘あります。私の土地勘は本書でいうところの再開発前であり、土地勘なくても本書は楽しめますが、土地勘あればさらに面白く読める気がします。

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次に、西條奈加ほか『料理をつくる人』(創元文芸文庫)を読みました。著者は、6人の小説家です。テーマはタイトルに込められている通りです。収録順に、西條奈加「向日葵の少女」では、飯田橋を舞台に、祖母の元に持ち込まれた絵画の謎を解くために、秘密を知る客を迎えるに当たって、孫が料理を用意します。ややミステリ調です。千早茜「白い食卓」では、水族館で出会った女性が、主人公である男性に弁当を差し出し、その後、主人公に対して料理を作ることを始めます。その理由が極めて興味深い、というか、ややホラーな理由でサスペンスフルでもありました。深緑野分「メインディッシュを悪魔に」はニューヨークを舞台に、女性シェフが悪魔=サタンから最高の料理を作ることを要求されます。果たして、サタンが満足した料理とは何なのか。まあ、ファンタジーですね。秋永真琴「冷蔵庫で待ってる」では、大学生になって自炊を始めた女性が手料理を盛り付けたくて憧れの食器を購入したりしますが、恋の行方も気になります。織守きょうや「対岸の恋」では、姉弟で同居している弟は姉のために料理していたのですが、姉が結婚することになり、その結婚相手の男性の妹とともに結婚披露宴当日に思い切った行動に出ます。越谷オサム「夏のキッチン」では、夏の日の午後に、空腹に耐えかねて小学生男子がカレーを作り始めます。ということで、どの短編も水準が高くてオススメです。中でも、私は「メインディッシュを悪魔に」がもっとも出来がいいと感じました。その次に出来がいいと感じた「白い食卓」と「対岸の恋」はいずれも、少し背筋が寒くなるホラー的な要素を併せ持っています。「冷蔵庫で待ってる」と「夏のキッチン」はともに主人公が若いこともあって、前進する勢いのようなものを感じました。私は従来から強調しているように、飲み食いと着るものには何らこだわりがありません。ユニクロの服とカミさんの作った食事やジャンクといわれようとファストフードがあればそれで十分です。料理は飢え死にしようともまったくやりません。長崎大学に出向して単身赴任していた際も、買い食いと外食ばかりでした。でも、こういった料理をする人の短編小説もいいと思います。

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2025年4月12日 (土)

今週の読書は政治経済学の学術書をはじめ計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、和田淳一郎『一票の平等の政治経済学』(勁草書房)では、憲法で保証されている法の下での平等や個人としての尊重などを基本原理とする「一票の平等」に関して理論的に解明するとともに、制度的な保障まで幅広く議論を展開している学術書です。山口未桜『禁忌の子』(東京創元社)は、本屋大賞4位となっています。救急医の下に運び込まれた溺死体は、当の救急医に極めて肉体的条件が類似していました。生殖医療の光と闇を通して謎を解明するミステリです。今井悠介『体験格差』(講談社現代新書)では、子どもの体験格差についてアンケート調査から浮かび上がる事実を明らかにし、所得や障害などにより体験が不十分な子供に対する社会情動的スキルの育成などについて議論しています。田中秀征・佐高信『石橋湛山を語る』(集英社新書)では、戦前に「小日本主義」を提唱し戦争や植民地支配に反論を加え、戦後は短期間ながら内閣総理大臣にもなった石橋湛山の考えや戦後日本の政治に関する対談です。深木章子『闇に消えた男』(角川文庫)は、『消人屋敷の殺人』に登場したフリーライターの新城誠と文芸編集者の中島好美の2人が、行方不明になったノンフィクション作家の稲見駿一の調査と謎解きを行います。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、4月に入って先週は5冊で計80冊、さらに今週の5冊と合わせて85冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。なお、本日の5冊のほかに、北村薫のベッキーさんシリーズの3冊『街の灯』、『玻璃の天』、『鷺と雪』(すべて文春文庫)も読んでいます。すでに、いくつかのSNSにてブックレビューをポストしていますが、新刊書ではないと考えるべきですので、本日の感想文には含めていません。

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まず、和田淳一郎『一票の平等の政治経済学』(勁草書房)を読みました。著者は、横浜市立大学国際商学部教授であり、選挙制度や定数配分などを研究のキーワードにしているようです。本書では、憲法で保証されている法の下での平等や個人としての尊重などを基本原理とする「一票の平等」、英語では "One Person, One Vote, One Value." に関して理論的に解明するとともに、制度的な保障まで幅広く議論を展開しています。はい、完全な学術書であり、難解な数式がいっぱい用いられています。私のような専門外のエコノミストには理解が及んでいない部分が多々ありそうですし、一般的なビジネスパーソンにはそれほどオススメできないかもしれませんが、それでもテーマに興味を持つ向きには読んでおく値打ちがある本だと思います。まず、高校生でも理解できることながら、小選挙区制は候補者が乱立した場合に、いわゆる「死票」が大量に生じる可能性があります。私の記憶する範囲で、衆議院小選挙区の法定有効得票数は有効得票総数の1/6です。ですから、極端な場合、5/6近い死票が出る可能性があります。ですので、本書ではほぼほぼ比例代表制でもって議論を進めています。比例代表選挙の場合、端数処理が問題となりますが、日本では、いわゆるドント方式で端数切上げです。閾値の上限で判断しているともいえます。それに対して、端数切捨てで閾値の下限で判断するアダムズ方式、また、ドント方式とアダムズ方式の中間、というか、端数を四捨五入して閾値の平均を取るサンラグ方式、などの計算方法が紹介されます。ただし、こういった方式を考える場合の不都合、というか、パラドクシカルな状況を生じるケースとして2点に言及していて、総定員を増やすと定員配分が減る選挙区がある、あるいは逆に、総定員を減らすと定員配分が増える選挙区がある、というアラバマ・パラドックス、さらに、総定員を固定して再配分した場合、人口増加率、すなわち、人口総数ではなく人口の増える割合が高い選挙区から人口増加率の低い選挙区に定員が移されてしまう、という人口パラドックス、これらの不都合を避ける必要について分析を加えています。数式をいっぱい並べた理論的な分析です。ですので、このあたりは、私も十分理解した自信がありませんし、ご興味ある向きには読んでいただくしかありません。そして、こういった不平等について、一般に人口に膾炙した「格差」という用語ではなく、「較差」という用語を用いて、報道でも取り上げられることが少なくないジニ係数やほかの指標を紹介しています。ただ、結論の前の章で経済学者の視点から、都市部の賃金が地方の賃金より高いと仮定すれば、地方の政治的影響力を都市部よりも大きくする余地がある、とも指摘しています。本書の著者は都市部と地方のそれぞれの賃金=経済的利益と政治的影響力の和を均衡させることが解決策となる可能性を示唆しています。本書のタイトルが政治経済学となっているゆえんの一端ではないかと思います。最後の最後に、私からひとつだけ指摘しておくと、「一票の平等」は極めて重要なのですが、その平等な投票に基づいて選ばれた国会議員が、憲法改正や参議院否決後の衆議院の再議決などを例外としつつも、そのたの多くの議案に関して、はたして、単純過半数で法律や予算を議決していいものかどうか、こういった視点も本書のスコープの外ながら気にかかる点です。

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次に、山口未桜『禁忌の子』(東京創元社)を読みました。著者は、医師なのですが、昨年2024年本作品みより第34回鮎川哲也賞を授賞されてデビューしています。有栖川有栖の創作塾のご出身であるとの報道を見かけたことがあります。本書は今年の本屋大賞の4位に入っています。ということで、本書の主人公は兵庫県の芦屋と神戸の間にある病院の救急医である武田航です。33歳です。4月初旬に「キュウキュウ12」とコードをふされた溺死体が運び込まれてきます。なんと、その溺死体は、見た目はもとより、身長・体重、さらに体毛の生え方まで武田航とソックリ瓜二つでした。どう見ても遺伝子上の類似性が想定されるので、武田航の中学校のころの同級生で同じ病院に勤務する消化器内科医の城崎響介とともに調査を始めます。この城崎響介が謎解きの探偵役を務めるわけですが、この人物のキャラが何とも独特で、この人物造形だけでも新人作家が文学賞に入選するだけの値打ちがあるような気がします。ただ、このキャラについては、読んでみてのお楽しみです。武田航の両親はすでに亡くなっており、一家には双子どころか兄弟もおらず、戸籍を調べても双子であった形跡はなく、母子手帳にも「単胎」と記載されているばかりです。ただ、さすがに警察の調査により、「キュウキュウ12」は岐阜県在住の中川信也という人物であることが判明します。調べを進めるうちに、大阪にあるリプロダクティブ医療のクリニックに武田航の母親が妊娠のごく初期に通っていたことが判明し、武田航と城崎響介の2人はその生島リプロクリニックの生島京子理事長から「知る権利がある」といった趣旨の返事を受け取って話を聞く機会を得ますが、そのアポイントの直前に生島京子理事長は密室状態の鍵のかかった理事長室のドアのノブにかけられたベルトで首を吊って亡くなってしまいます。他殺か自殺か、警察とともに武田航と城崎響介の2人も独自に調査を進めます。といったあたりから、生殖医療による何らかの医療的な措置により、武田航と中川信也の2人は極めて類似した、あるいは、同一の遺伝子を有する、との暫定的な結論が導かれます。後の謎解きは、城崎響介のキャラとともに、読んでみてのお楽しみです。最後にいくつか私の方から指摘しておくと、まず、テーマからして重いです。生殖医療の倫理性、そして、犯罪行為の倫理性、そういったものを含めて重くて暗いストーリーです。まあ、その分、考えさせられる部分もありますが、私のような生殖医療などに専門性ない読者が考えてもどうなるものでもありません。そして、ミステリとしては、ストーリーの展開とともに徐々に真相が明らかになるタイプのミステリであり、名探偵が最後の最後にどんでん返しの真相を明らかにするタイプのミステリではありません。ですから、私も途中で真実に気づいてしまいました。その意味で、タイトルがあまりにもダイレクトに結末を暗示していて私は好きになれません。でも、謎解き役の城崎響介のキャラは大好きです。

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次に、今井悠介『体験格差』(講談社現代新書)を読みました。著者は、チャンス・フォー・チルドレンという団体の代表だそうで、これだけでは何のことやら判りませんが、この団体は生活困窮家庭の子どもの学びを支援しているということです。本書では、タイトル通りに、「子どもにとっての必需品」、すなわち、その社会に生まれたすべての子どもが享受できて然るべきものとしての体験について、第1部でアンケート調査の結果を、また、第2部でインタビューの概要などを明らかにするとともに、第3部では体験格差の縮小や解消に向けた取組みを論じています。なお、本書では年間所得300万円に満たない家庭を低所得としています。ということで、軽く想像されることですが、低所得家庭においては小学生などの体験が少なく、体験格差が存在することが明らかにされています。特に、体験ゼロの割合は300万円未満家庭では約30%であり、600万円以上の10%あまりの約3倍となっている事実を明らかにしています。子供たちの想像力の幅はもとより、長じての人生の選択肢の幅まで、大なり小なり人生における体験に依存している部分があるとか、小学校4年生くらいまでは学習よりも体験の方が重要といった主張がなされています。特に、本書では意図してか、意図せざるかは別にして、母子家庭をはじめとするシングルペアレントの家庭に一定の焦点が当たる形となっていて、低所得で金銭的な負担が出来ない上に、子どもの体験をサポートするための時間的な余裕もない姿が浮き彫りにされています。第2部のインタビューでは低所得に加え、障害などのマイノリティ、また、多子の家庭の実情が明らかにされています。体験が少ないと、社会情動的スキル、というか、学力などの認知能力に対比して忍耐強さややり抜く力などの非認知能力と呼ばれるスキルを伸ばす機会が限定されるおそれを指摘しています。最後の第3部では、p.164から5項目の提案がなされています。このあたりは読んでいただくしかありません。最後に、我が家の場合ですが、やや突飛にめずらしい体験としては、大雑把に子どもたちの幼稚園のころ、というか、小学校に上がる少し前くらいの3年間を私の仕事の関係で海外で過ごしています。南の島のジャカルタで3年間を過ごし、定期的にメディカルチェックでシンガポールを訪れ、年末年始休みや夏休みといったまとまった休暇では、日本に一時帰国することもありましたし、インドネシア国内のバリ島などや近隣国のタイのプーケット、マレーシアのペナンなどといったリゾートは満喫しました。はたまた、オーストラリアのパースまでカンガルーやコアラを見に行ったこともあります。帰国してからは普通だと思うのですが、夏休みの海水浴はよく行きましたし、水泳教室なんてのも行かせましたが、でも、今となっては何の役にも立っていないように見えなくもありません。長じてからは、レクリエーション活動が減った裏腹に、塾などで学校学習を補助することもしましたし、それなりに、本書でいうところの体験は、通り一遍ながら、いろいろとさせたつもりです。でも、本屋大賞にもノミネートされていた『アルプス席の母』のような強烈な親のサポートを必要とする体験は、どこまで役立つんでしょうか。少し謎です。

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次に、田中秀征・佐高信『石橋湛山を語る』(集英社新書)を読みました。著者は、元衆議院議員の政治家と評論家、なんだろうと思います。「語る」というタイトル通りに対談なのですが、軽く想像されるように、著者のうちの佐高信が聞き手になって、元衆議院議員の政治家である田中秀征が語り手になっている部分が多い印象です。なお、出版は昨年2024年10月なのですが、現在の石破内閣については何の言及もなく、出版の時期からして石破内閣、あるいはその前段階の石破自民党総裁が決まる前の時点での対談ではないか、と私は想像しています。まず、本書p.12に石橋湛山の略年譜がありますが、経済評論家というか、『東洋経済新報』のジャーナリストであり、戦後は内閣総理大臣に就任するも急性肺炎のために3か月ほどで辞任しています。ということで、冒頭の対談では石橋湛山の「小日本主義」を取り上げています。戦前昭和期の世界的にも帝国主義の時代に、我が日本は本州ほかの4島だけでやっていける、したがって、満州や朝鮮や台湾は不要などを主張し、石橋湛山は「小日本主義」として論陣を張っています。結果として、ヤルタ宣言だか、ポツダム宣言だか、を受け入れて、日本は戦後4島の基盤のもとで戦後復興や高度成長といった経済発展を成し遂げたわけで、先見の明を見ることが出来ます。この「小日本主義」の背景に、アダム・スミスの自由放任経済、J.S.ミルの功利主義、グラッドストンの植民地経営に対する見方などがあるといった議論を対談では展開しています。そして、その「小日本主義」を成り立たせる条件を4点上げていて、国際的には、自由な通商とブロック経済への批判、高度な科学技術を基礎とする魅力的な財の供給、国内的には、積極的な経済拡大を支援する財政政策、そして、まっとうな倫理観に支えられた経済政策運営、と指摘しています。やや本書のオリジナルな表現とは異なりますが、私の理解した限りでの本書の主張を私の表現にしたがって展開すれば以上の通りとなります。ここまでが第1章であり、残りの2章から6章は読んでいただくしかありませんが、1点だけ私の方から疑問を呈しておくと、本書では現在の自民党、というか、日本ではリーダーが不在であり、小選挙区制のために世襲議員が増加している、と主張しています。私はこの点は疑問です。すなわち、タイミングの点から本書でカバーしきれなかった現在の石破自民党総裁、石破内閣を見ても明らかですが、自民党総裁選における発言と総理総裁に就任してからの発言が大きく異なっています。メディアではもう忘れているようですが、いろんな総裁選当時の発言を反故にしているのは明らかです。意図的に虚偽の公約を掲げていた可能性は否定しませんが、逆に、まあ、好意的に解釈するとすれば、党総裁選の際に掲げていた公約は総理総裁に就任してからは実現が不可能であったわけで、それは石破総理のリーダーとしての力不足に起因するものではありません。すなわち、自民党、というか、公明党も含めて現在の与党体制の中で、リーダーとしての力量にはそれほど関係なく、システムとして制度疲労を起こしているのだと考えるべきです。ですから、強力なリーダーが必要なのではなく、本書で主張しているような政策、あるいは、広い意味でのシステムを実現するためには、政権交代が必要、という点は理解すべきです。

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次に、深木章子『闇に消えた男』(角川文庫)を読みました。著者は、60歳にして弁護士を引退して小説を書き始めたミステリ作家です。私は、この作家さんは『消人屋敷の殺人』しか読んだことがないのですが、本書はそこで登場したフリーライターの新城誠と、文芸編集者の中島好美の2人が謎解きに当たる作品、というか、2人で調査し新城誠が謎解きをする長編ミステリです。ですが、シリーズをなしているというよりも独立したミステリであり、前著をすっ飛ばして本書だけでも十分楽しめます。ストーリーは、ノンフィクション作家の稲見駿一が取材旅行に出かけて、そのまま行方不明となって3か月が経過し、妻の稲見日奈子から出版社の粂川を通じて2人に調査の依頼があります。稲見駿一は資産家の跡取りであり、多額の不動産収入があることから、コストを気にせずに徹底した取材で作品を仕上げる主義で、寡作だが定評あるライターでした。仕事に関しては秘密主義というか、家族にも何も知らせず、何日も帰宅しないことがあるということです。でも、さすがに3か月というのは今までになく長期間である上に、仕事で借りているマンションのメールボックスに「地獄に堕ちろ」で始まる脅迫状めいた怪文書が投函されていて、調査の依頼につながっています。そして、まあ、いろいろあって調査が進んで謎解きがなされるわけです。はい、驚愕のラストといえます。最後に、2点だけつけ加えておきたいと思います。第1に、本書は5章から構成されていますが、奇数章では中島好美から見た1人称の視点でストーリーが進められている一方で、偶数章では稲見日奈子の視点ながら3人称で進められます。これは、性別としては同じ女性ですので、ひょっとしたら、混乱をきたす読者がいるかもしれませんが、まったく気づかない読者も多そうな気がします。何と申しましょうかで、ひとつの趣向であることは明らかなのですが、作者が何を意図していて、読者がどういった受止めをするかは私には不明です。もうひとつは作者に関して、60歳にしてデビューというのは、年齢だけを考えると、幼稚園教諭と幼児教育教材会社勤務を経てミステリ作家となった天野節子を思い出してしまいました。天野作品も、デビュー当時の『氷の花』と『目線』くらいまでは興味深く読んだのですが、不勉強にして、その後はご無沙汰しています。

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2025年4月 5日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。週半ばに久しぶりに風邪をひいて発熱して寝込んでいて、それほどの量は読めませんでした。
まず、横山和輝『インセンティブの経済学』(新世社)は、タイトル通りにインセンティブが経済活動で果たす役割を解明するというよりは、明治期の殖産興業の際のエピソードから日本の経営史を考える材料として評価すべきです。吉田修一『罪名、一万年愛す』(角川書店)は、長崎県の九十九島のプライベートアイランドを舞台に、一代で財を成した経営者の人生をなぞるミステリ仕立てのストーリーです。白井智之『ぼくは化け物きみは怪物』(光文社)は、5話の独立した短編から編まれたミステリ短編集です。謎解きはとても意外で鮮やかなのですが、ややグロいと感じる読者がいるかもしれません。一色さゆり『ユリイカの宝箱』と『モネの宝箱』(文春文庫)は、アートに特化した旅行会社に勤める20代半ばの女性を主人公に、各地の美術館に同行して解説もする教養小説といえます。
今年の新刊書読書は先週までの1~3月に75冊を読んでレビューし、本日の5冊も合わせて80冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。

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まず、横山和輝『インセンティブの経済学』(新世社)を読みました。著者は、名古屋市立大学経済学部の教授です。タイトルでも、本書冒頭でも、インセンティブを強調しているのですが、ハッキリいって、本書はそれほどインセンティブについて何かを主張しているわけではありませんし、著者が特にインセンティブの経済学にお詳しいという印象は持ちませんでした。研究成果から判断すると日本経済史ないし経営史のご専門のようで、タイトルから想像してインセンティブにより経済を解説するという目的なら、少し失望する可能性があります。ただ、明治の殖産興業期の7つのエピソードから日本の経営史について知りたいということであれば、大いに参考になることと思います。エピソードは収録順に、伊藤八兵衛の訴訟問題、鐘紡職工誘拐事件、三井家の株式会社としてのビジネス展開、東京製綱のワイヤロープ開発におけるイノベーション、大日本製糖の疑獄事件である日糖事件、生糸商標の品質保証、そして、海運業の独占と寡占、となります。特記しておきたい点は、明治に至る前段階の開国当時から明治中期くらいまで、日本のビジネス・モラルはまったく先進国レベルに達せず、特に今でも部分的にそうですが、契約は遵守せねばならないという意味での契約概念が希薄であり、契約遵守よりも契約に反してでも目先の利益を優先するケースが目立ったりしていました。株式取引は少し前までインサイダー情報を仕入れて儲けるくらいの証券マンが優秀と考えられていたこともあります。そういった中で、先進国レベルのビジネス・モラルがどのようにして、また、いかにして確立されたかについては興味深いものがあります。繰り返しになりますが、インセンティブについて勉強しようという向きには物足りなさが残ると思いますので、出版社の本書のサイトで今一度目次を確認しつつ、日本の明治期の経済史や経営史を勉強する向きにはオススメであることを改めて明らかにしておきたいと思います。

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次に、吉田修一『罪名、一万年愛す』(角川書店)を読みました。著者は、日本を代表する人気小説家の1人です。私ももっとも好きな小説家の1人でもあります。小説の舞台は長崎県内の九十九島です。「くじゅうくしま」と読みます。私も長崎大学経済学部の教員をしていた時に、まさに今くらいの4月初めのころに新入生のオリエンテーションで泊まり込みで九十九島の中のリゾート開発された島に行った経験があります。本書では、プライベートビーチならぬプライベートアイランドとして個人に買い取られた島が舞台です。でも、視点を提供するという意味での主人公は、横浜の探偵である遠刈田蘭平となります。この主人公のもとに、九州を中心にデパートで財を成した有名一族の3代目である梅田豊大から「一万年愛す」という宝石を探すよう依頼が舞い込みます。紹介者は最後の最後に明らかにされます。主人公の探偵は、創業者であり、依頼人の祖父に当たる梅田壮吾の米寿の祝いのため九十九島の中の梅田家のプライベートアイランドを訪れます。お祝いの会には、ご本人である梅田壮吾のほか、依頼人の両親と依頼人の双子の妹といった家族のほかに、警視庁の元警部である坂巻も招待されています。しかし、その祝いの宴の翌朝にご本人の梅田壮吾は行方不明になります。島中を探しても見つかりません。主人公は依頼された宝石とともに、梅田壮吾も探すことになるわけです。とてもいいラストです。もちろん、元来がミステリ作家ではありませんから、プロットや謎解きに不満が残る読者は少なくないものと思います。でも、ミステリとしてよりも一代で財を成した経営者の人生をなぞるストーリーとして読めば、とてもいい小説です。私のようにこの作者のファンであれば、ぜひとも押さえておくべきであり、ファンでなくても大いにオススメの小説です。

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次に、白井智之『ぼくは化け物きみは怪物』(光文社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書はいくつかのミステリ小説のランキングで上位に入っています。5話の短編からなる短編集なのですが、いわゆる連作短編ではなく、まったく独立した短編を収録しています。収録順にあらすじを紹介すると、「最初の事件」では、小学校の児童が襲われる事件が立て続けに起き、小学校の名探偵が捜査を行います。他方、北アフリカでは反政府デモから内戦状態に突入します。「大きな手の悪魔」では、未来を舞台に、地球にやって来た異星人が地球を16のエリアに分割し、知能の高いエリアへの攻撃を中止する一方で、知能の低いエリアでは殺戮が続きます。地球人は対抗するために特殊な最終手段を講じます。「奈々子の中で死んだ男」では、昭和初期を舞台に、ならず者が罠に嵌められて訳あり遊女の集まる地域に逃げ込みますが、結局殺されて幽霊となって遊女に真相解明を依頼します。「モーティリアンの手首」では、縁起物として高値で取引されることから、一攫千金を夢見て異星生物モーティリアンの化石を発掘する3人組でしたが、地震の後に大量の化石が現れ、その中に、切り落とされた手首の化石が発見されます。「天使と怪物」では、教会の孤児院から逃走した姉弟は、フリークショーを見世物にしている世界の真実博物館にやってきて、天使の子として手紙により殺人事件を予言します。ということで、まったく何の関連もない5話のミステリ短編ですが、それぞれの短編はとても意外性が大きい上に完成度が高く、鮮やかな謎解きを展開していて、全体としても素晴らしいミステリに仕上がっています。ただ、読者によってはエロよりもグロい方で少し敬遠する向きがあるかもしれません。

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一色さゆり『ユリイカの宝箱』『モネの宝箱』(文春文庫)を読みました。著者は、東京芸大美術学部ご出身であり、『神の値段』で第14回「このミステリーがすごい!」大賞受賞して作家デビューしています。芸大ご出身らしく美術ミステリでしたが、私も出版直後の2016年にに読んでいて、やや物足りない旨のレビューを残しています。本書は2冊ともやっぱり美術に関連する小説なのですが、まったくミステリではありません。主人公の優彩は高校卒業から勤めていた画材店が廃業して、小さなアートの旅に特化した旅行会社である梅村トラベルで働き始めます。経営者である梅村夫妻と先輩女子社員の桐子に主人公を合わせても4人だけの小さな旅行会社ですが、通常の旅行会社と同じように交通手段や宿の手配とともに、展示内容の把握、入館チケットの入手、さらに、各地の美術館を解説者として同行して、読者に対しても美術への旅を誘いかけます。2冊とも4話の短編を収録しています。訪れる美術館は、収録順に、『ユリイカの宝箱』が瀬戸内海の直島にあるベネッセの地中美術館、京都の河井寛次郎記念館、安曇野の碌山美術館、佐倉のDIC川村記念美術館、そして、『モネの宝箱』はタイトル通りにすべてモネの睡蓮を所蔵している美術館であり、東京上野の国立西洋美術館、箱根のポーラ美術館、倉敷の大原美術館、京都のアサヒグループ大山崎山荘美術館、となります。河井寛次郎記念館はその名の通り陶芸家の河井寛次郎の作品を所蔵しているわけですが、短編の中で京都のもう1人の美術家として福田平八郎先生のお名前が言及されています。私が中学生のころですから、1970年代初め、福田平八郎先生が亡くなる1974年の前だと思うのですが、私の父親がお客さんを連れて行ったお店で福田平八郎先生の絵をあしらった団扇をもらってきたことを記憶しています。夏の季節ですからナスの絵をあしらった団扇でした。ああいった美術品を普通に配るのが京都の文化なのだと感じたのですが、どうでもいいことながら、今となっては、きれいに保存しておけば結構な値で売れるお宝だったかもしれない、と思わないでもありません。さらにどうでもいいことながら、我が家が青山に住まいしていたころ、子供が参加していたボーイスカウト港第18団が麻布十番納涼夏祭りに焼きそばを出店していて、宇野亞喜良先生デザインの団扇をもらっていました。保存状態は決してよくありませんが、2009年と2010年の団扇は私は今でも身近に持っていたりします。メルカリで検索すると結構なお値段がついていたりします。はい、どうでもいいことでした。私の美術に対する関心は、この程度なのかもしれません。

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2025年3月29日 (土)

今週の読書は経済書と経済エッセイのほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、浅沼信爾・小浜裕久『経済発展の曼荼羅』(勁草書房)は、経済発展論や開発経済論について日本やアジアの経験を基に歴史的観点も含めた分析をしています。根井雅弘『経済学の余白』(白水社)は、日経新聞夕刊などに掲載されたコラムを基に、専門の経済学史の学識を活かした幅広い経済に関するエッセイです。鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)は、南極から持ち帰った氷に含まれていた何かにより大量の不審死が発生するところから始まるホラー小説です。志賀信夫『貧困とはなにか』(ちくま新書)では、貧困をあってはならない生活状態とし、ピケティ教授のいう人間の尊厳に近い観点から議論を展開しています。山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか』(ちくま新書)では、市場と国家に次いで市民社会を第3のセクターと位置づけ、ウェルビーイングを議論しています。円城塔[訳]『雨月物語』(河出文庫)は、江戸期に上田秋成が取りまとめた書物の現代訳であり、怨霊とか妖怪のたぐいのホラーが多い印象です。
今年の新刊書読書は先週までに69冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて75冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。なお、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』も読みましたが、新刊書読書ではないと思いますので、今日の読書感想文ブログには含めず、すでに、いくつかのSNSにポストしてあります。

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まず、浅沼信爾・小浜裕久『経済発展の曼荼羅』(勁草書房)を読みました。著者は、いずれも開発経済学の専門家であり、一橋大学教授と静岡県立大学教授を務めていました。本書は、経済発展論や開発経済論について、日本やアジアの経験を基に歴史的事実を参照しながら分析しようと試みています。タイトルにある「曼荼羅」について、まえがきには「本質を図解したもの」と表現しています。もちろん、仏教用語です。その曼荼羅、経済発展の曼荼羅は p.32 の図序-9 に示されています。私は、そもそも、開発経済学を体系的に勉強したことはありませんが、というか、少なくとも私が京都大学経済学部の学生であったころには開発経済学という授業や講座はなかったように記憶していて、ただ、戦後日本の経済成長やアジア各国の経済発展の歴史などから、帰納的に抽出できるものを体感として感じているだけです。ただ、研究成果としてはいくつか開発経済学に基礎を置く論文はあったりもします。主として、日本経済の戦後の経験を振り返ったもので、役所に勤めていたころに同僚と取りまとめた "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" があり、世銀のリポートやいくつかの学術論文で引用されていたりします。戦後日本の経済発展の転機として、終戦直後から高度成長期前の期間で本書が着目しているのは、傾斜生産方式の採用、ドッジ・ラインによるインフレ収束と360円レートの設定などを上げています。そして、1950-60年代には高度成長期に入るわけですが、やや強権的ともいえる通産省による産業政策よりも、経済企画庁による経済計画のガイドライン的な役割が私は大きかったと考えています。本書第3章でも同様の見方が示されています。しかし、経済計画と聞くと旧ソ連型の社会主義を連想するビジネスパーソンが多いのですが、決してそうではありません。すなわち、ちょっと考えれば理解できると思うのですが、現在でも少なくとも上場企業であれば事業年度ごとに、多くの大企業では中期の計画を持っているのではないでしょうか。上場企業でなくても、気の利いた企業であれば会計年度ごと、また5年間くらいの中期の計画は策定していると思います。そういった事業計画をまったく持たずに、すべてを市場の動向に任せて事業展開している企業は少ないと私は認識しています。政府が民間部門に何らかの指令を発するわけではないとしても、ガイドライン的な指針を明らかにするのは経済発展の初期の段階では大いに有益だと考えます。アジアの経済発展について考える上で、また、日本経済の戦後の歴史を振り返るためにも、なかなか本書はオススメです。

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次に、根井雅弘『経済学の余白』(白水社)を読みました。著者は、京都大学経済学部の教授であり、ご専門は経済学史です。本書は、webメディアである「日経フィナンシャル」と日経新聞夕刊に掲載されていたコラムの「あすへの話題」を単行本として取りまとめています。さすがに経済学史の専門家ですので、幅広い経済学の知識を活かしたエッセイとなっています。著者は大学まで東京で、大学を卒業して大学院から京都に住んでいる一方で、並べるのはおこがましいながら、私は逆に、大学まで京都で、大学を卒業して就職してから60歳の定年まで東京でしたので、地理的にはかなり対象的な暮らしといえなくもありません。ですので、本書の冒頭の方で、大学生の通学事情について言及している点は、私も逆の意味で不思議に思った記憶があります。すなわち、本書では京都の大学生が自転車で通学している点を本書の著者はめずらしく受け止めていますが、逆に、私は東京の大学生が大学近くに住まずに地下鉄で通学しているのを不思議に感じた記憶があります。もうひとつ、本書の底流にあると私が読み取ったものには、エコノミストの、あるいは、大学教育の専門性と一般性、とでもいうか、幅広い学識というよりも高度に専門的で、その意味で、狭いながらも深い専門性を身につけることが望ましいと考えるのか、それとも、専門的な学識は一定必要としても、浅いながらも広く一般常識を身につけるリベラツアーツのような教育を目指すかという点です。識者の中には両立するという人がいそうな気もしますが、私は両立しないと考えています。その昔の大学教授といえば、典型的には専門性高いが世間からは遊離しているような前者の人物像、すなわち、牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、服装やヘアスタイルなんぞは気にもかけず、霞を食って生きているような人物像を思い浮かべる人もいましたが、今ではまったくそうなっていません。しかも、私が考えるように、両立できないとすれば、大学教員は狭いながらも深い専門性を持ったスペシャリストな学者と浅いながらも幅広い見識を身につけたジェネラリストの学者の2種類がいるように私は考えています。繰り返しになるものの、大昔は前者のスペシャリストの学者だけだったのですが、現在では後者のジェネラリストの学者も高等教育の業界に進出してきているわけです。私なんぞは後者であって典型的にオールラウンダーでジェネラリストですから、前の長崎大学のころは「役所出身の教員は1-2年生に基礎を教えてくれればよくって、大学院の修士論文指導なんかは専門の先生方に任せておけばいい」と学部長なんかからいわれていました。今の立命館大学では少し違います。というか、大いに違います。大学院の修士論文指導の授業を私はいっぱい受け持たされています。逆に、経済学部1回生の授業なんて私には回ってきたためしがありません。でも、明けて来週4月から始まる2025年度には、とても久しぶりに経済学部1年生の授業を秋学期に担当しますので、ひそかに楽しみだったりします。

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次に、鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)を読みました。著者は、『リング』、『らせん』、『ループ』の三部作やそれに続く貞子のシリーズなどで有名なホラー作家です。日本を代表するホラー作家の1人といってもいいような気がします。出版社のうたい文句によれば「16年ぶりの完全新作!」ということでしたので、早速に大学生協で予約して買い求めました。適当なタイミングを見計らって、ホラー好きの倅に下げ渡す予定です。ごく簡単なストーリーは、一方で、ジャーナリストから探偵に転じた主人公の女性がカルト教団に所属していた女性を探し、他方で、南極から持ち帰られた氷に含まれる何かで不審死が出て、地域限定ながら大量死も発生します。3月26日に発売された出版ホヤホヤのホラーですので、出版されてから、指折り数えてまだ数日だということもあって、あらすじすらコト細かに明らかにすることは現時点では避けたいと思います。いくつか、SNSでも読後の感想文が出ていますが、何と、ホラーではなくてミステリだと読む読者もいたりします。今さら『リング』が死因を解き明かすミステリだと思う人はいないわけで、とても不思議に感じました。死因を解き明かすという意味で謎解きの要素がまったくないとはいいません。『リング』にせよ、本書にせよ、人が死ぬところからストーリーが始まっていますから、その死亡の原因を探るのは謎解きかもしれません。でも、その謎を解き明かすことがテーマとなるミステリではなく、本書はその人が死ぬ、しかも、原因が必ずしも明らかではない不審死であり、その連鎖をいかに防ぐか、をテーマにしていますので、完全なホラーと考えるべきです。詳しくは読んでみてのお楽しみなのですが、一応、2点だけ私の印象的を上げると、植物のパワーに着目し、特に、「ヴォイニッチ・マニュスクリプト」を持ち出しているのは秀逸といえます。もうひとつ、ラストのシーンをはじめとして、色彩的に鮮やかな作品ではないかと思います。この作者の『リング』の映像化は、なぜか、ハリウッドのリメイク版の方が有名になったように記憶していますが、この作品は何とか国内でしっかりと映像化して欲しいと願っています。まあ、映画ではなくドラマでもいいといえばいいのですが、いずれにせよ、映像化すればミステリではなくホラーだということが明らかになると思います。ぜひ、色彩感覚に鋭敏な監督の手で映画化して欲しいと私は希望しています。

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次に、志賀信夫『貧困とはなにか』(ちくま新書)を読みました。著者は、大分大学健康福祉科学部の准教授であり、ご専門は貧困理論、社会政策だそうです。まず、いきなりタイトルの問いに回答すると、本書ではp.28で「貧困=あってはならない生活状態」と定義しています。そして、序章ではジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』を題材として、貧困に関して何らかの数値基準からアプローチするか、実際の生活状態からアプローチするか、の違いを上げています。はい、軽く想像される通り、本書は後者の生活状態からのアプローチに重きを置いていると考えるべきです。ちなみに、私はそれほど貧困問題に詳しくないエコノミストながら、それなりに関心もありますので、長崎大学のころに紀要論文で "A Survey on Poverty Indicators: Features and Axioms" と題するペーパを取りまとめた経験があります。はい、本書でいうところの典型的な数値基準からのアプローチといえます。私自身も貧困については、基本的に、不平等と同じような問題点を考えています。ですから、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』でピケティ教授が不平等の問題点を3点指摘していて、経済的には財へのアクセス、政治的な権利行使、そして、人間としての尊厳を上げています。本書ではこの最後の人間としての尊厳に近い考え方で貧困問題を論じていて、私も大いに賛同します。ノーベル経済学賞を受賞したセン教授のケイパビリティ理論をさらに拡張したような貧困に関する社会的排除理論などの議論を本書では展開していて、英国のベバリッジ報告に始まって、戦後の先進国における福祉概念の拡張や貧困対策の充実なども実にに適切に取り上げられています。本書でも注目している教育に加えて、医療や衛生や健康といったヘルスケア、さらに拡張して住宅などについても、資本主義的な投資アプローチを脱して、商品としてではなく脱商品化された社会福祉として、すなわち、市場を通じた貨幣でのやり取りではない供給の方法がないものか、と考えるべき段階に日本や欧米先進国は達しています。そういったコンテキストでも貧困を考えるべきではないでしょうか。

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次に、山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか』(ちくま新書)を読みました。著者は、名古屋大学経済学部の名誉教授です。研究成果を見ている限り、フランス的なレギュラシオン理論に基づく理論経済学、現代資本主義論、市民社会論がご専門のように見受けます。本書では、英語のwell-being=ウェルビーイング=豊かさ、と定義しつつ、実際に独自の計測の理論的な展開をしているわけではなく、経済的な規模としてのGDPやその昔のGNPに代わって、生活の豊かさを政策目標、とまではいいませんが、経済だけではない社会活動の主要な目標と位置づけて、いくつか、すでに推計されて試算結果が公表されている豊かさの指標について本書後半で解説しています。まず、本書では、第1セクターとしての市場、第2セクターとして国家、そして、第3セクターとして社会ないし市民社会を考えています。その第3セクターの市民社会が小さければコミュニティになるわけです。そして、政府の現在の政策目標がウェルビーイングであるかどうかは疑わしいと結論しています。もちろん、第1セクターである市場の活動の結果を計測する一つの指標がGDPであり、所得と表現しても同じことです。ところが、私でも知っていますが、イースタリンのパラドックスというのがあって、所得が低い水準であれば幸福度=ウェルビーイングと所得は一定の正の相関を示すのですが、1人当たりGDPで大雑把に1万ドルくらいの閾値で所得が増加してもウェルビーイングが高まらない状態になってしまいます。要するに、俗にいう「幸福はお金では買えない」段階に達してしまうわけです。そのあたりから互酬と相互扶助、あるいは、協力の市民社会におけるウェルビーイングを議論する必要が出てきます。第3セクターの市民社会において、本書では、ポランニーの互酬、オストロムのコモンズ、宇沢の社会的共通資本、ハーバーマスの市民社会、ボウルズのホモ・レシプロカンス、の5類型を上げて解説を加えています。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。そして、最終章に近い第7章で経済的なGDPに代替するウェルビーイングの指標をいくつか解説しています。国連開発計画(UNDP)の人間開発指数(HDI)や国際協力開発機構(OECD)のベターライフ・インデックス(BLI)などです。本書p.148 図表7-1のテーブルに一覧が示されています。そして、最終第8章でウェルビーイングな社会をどう作るかを議論しています。最後の最後に、私から1点だけ付け加えると、経済活動といってもいいですし、社会活動といってもいいですが、雇用あるいは労働をどのように考えるかが重要です。単に、新自由主義的に所得を得るための労働サービスの提供と考えるか、経済社会に必要な財やサービスを提供するための活動と考えるかです。前者が伝統的なミクロ経済学の見方であり、労働をしないという意味での「余暇=レジャー」が正の効用をもたらす一方で、労働は負の効用すなわち苦痛であって、その苦痛を耐え忍んで賃金を得るために働く、という考えがミクロ経済学では基本となります。しかし、ホントにこの伝統的な経済学の前提が正しいかどうかは私自身は疑問を持っています。本書ではこの労働についてほぼほぼ無視されています。この点だけは物足りなさが残ります。

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次に、円城塔[訳]『雨月物語』(河出文庫)を読みました。『雨月物語』の著者は、広く知られているように上田秋成なのですが、本書は河出文庫の古典新訳コレクションの一環としてSF作家により現代訳されています。このコレクションは30冊ほど出版されていますが、私は不勉強にしてエッセイストの酒井順子の訳になる『枕草子』上下しか読んでいなかったりします。ということで、そもそも上田秋成による『雨月物語』そのものが作者のオリジナルというわけではなく、中国や本邦の小説や古典を翻案して取りまとめたものであることは広く知られている通りです。それを現代訳しているわけです。収録されているのは全9話、「白峯」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧富論」となります。当然ながら、オリジナルの上田秋成による『雨月物語』と同じです。1話ごとの詳細なあらすじは省略しますが、基本的に、怨霊とか妖怪のたぐいのホラーが多いと感じます。例えば、冒頭の「白峯」は配流された崇徳院の怨霊と弔いの目的で立ち寄った西行との会話から成っています。「菊花の約」は、義兄弟の約束を果たすために千里を行ける幽霊になった武士のお話です。舞台は戦国時代の日本に設定されていますが、元はといえば中国の小説です。「浅茅が宿」は夫婦の悲恋もので、夫が行商に出るのですが、戦乱の世のためになかなか妻の元へ帰れず、やっと家に戻って妻と一夜をすごし、翌朝目覚めてみると我が家は見る影もない廃屋だった、というものです。このお話が私には一番でした。「夢応の鯉魚」では、絵から飛び出して鯉になって泳ぎ回る高僧の過去に琵琶湖が登場します。「仏法僧」は、高野山の燈籠堂で一夜を明かすことになった俳人の夢然の前に武士団の幽霊が現れます。「吉備津の釜」からは、よく、女の嫉妬心は怖い、特に、源氏物語の六条御息所を彷彿とさせる、という感想を聞きます。私もそうでした。少し飛ばして、最後の「貧富論」では、戦国時代の実在の武将である岡左内のところに、「黄金の精霊」が現れて左内の問いに答え、貧富、というか、金持ちについて論じます。そして、富貴の観点から徳川が天下を取ることを予言します。いかにも、江戸時代の幕府に忖度した短編といえます。

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