今週の読書は経済の学術書など計8冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、安達貴教『不完全競争の経済学に向けて』(勁草書房)では、市場支配力を有する経済主体が存在する不完全競争市場の分析について市場支配力アプローチを取り、ミクロ経済的な課税や広告や金融、あるいは、競争政策や消費者政策への応用を試みようとしています。森永卓郎『保身の経済学』(フォレスト出版)は、今年2025年1月に亡くなった経済アナリストが教育現場、職場、金融村、大手メディア、ザイム真理教、立憲民主党、官僚、若者といったさまざまな保身について、何らの忖度なしに解き明かそうと試みています。ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』上下(河出書房新社)は、情報ネットワークの視点から人類史を問い直し、民主主義が全体主義に取って代わられるのを防止し、また、AIがテロリストなどに悪用されて文明世界が壊滅するのを防ぐにはどうすればいいか、などについて議論を進めようとしています。新川帆立『目には目を』(角川書店)では、幼い我が子を殺された母親が加害者の少年を殺害し復讐を果たすのですが、少年法の精神により実名や居住地などの不明な加害者の情報をどのように入手したかを女性ジャーナリストが明らかにしようと試みるミステリです。原田泰『検証 異次元緩和』(ちくま新書)は、アベノミクスの3本の矢のうちの中心的存在であった金融緩和について、その経済的な効果と副作用について検証し、異次元緩和は成長や雇用には効果があったことは確かであると結論し、日銀財務状況などの副作用を否定しています。吉田敏浩『ルポ 軍事優先社会』(岩波新書)は、岸田内閣から始まった大軍拡、軍事費膨張、米日軍事一体化について詳細な取材を基に報告するとともに、軍事優先の下で削減される社会保障も併せて議論しています。飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(平凡社新書)は、出版社-取次-書店という書籍流通の中で、消費者への接点となる町の本屋さんについて、書籍流通の特殊性などを基に、いかに書店経営が成り立たなくなったかを歴史的に後付けています。
今年の新刊書読書は1~4月に99冊を読んでレビューし、5月に入って先週までの30冊と合わせて計129冊、さらに今週の8冊を加えて137冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。
まず、安達貴教『不完全競争の経済学に向けて』(勁草書房)を読みました。著者は、私の母校である京都大学経済学部の教授であり、ご専門は産業組織論、競争政策、応用ミクロ経済学、実証ミクロ経済学だそうです。本書は完全なミクロ経済学の学術書であり、数式を展開した理論モデルを用いて分析を進めようとしています。私はどちらかといえばマクロ経済学が専門分野ですので、十分に理解したかどうかはそれほど自信ないものの、オールラウンドなエコノミストでありたいと望んでいますので、マイクロな経済学についても手を伸ばしてみました。本書は、タイトル通りに、不完全競争をテーマにしていますので、何らかの市場支配力を持つ経済主体が存在する市場を分析対象にしています。そして、4部構成であり、まず、第Ⅰ部で後述のような市場支配力指数アプローチの基礎、第Ⅱ部と第Ⅲ部でその応用や拡張、最後に、第Ⅳ部で垂直構造、というか、一般均衡への拡張が論じられています。本書では不完全競争市場を考える際に、マクロ経済学と相通ずるものとして、市場競争を総体的な水準で捉えようとするシカゴ学派的な「シカゴ価格理論」(CPT)にもいくぶんなりとも近い部分があります。ただ、未読ながら最近では『競争なきアメリカ』といった本があるものの、日本よりも競争政策にとても敏感な米国の古典派的な経済学にも通ずるミクロ経済書は、それなりに価値あると考えています。ということで、本書では第Ⅰ部にて本書の基礎的なツールである「市場支配力指数」を解説し、本書全体でこの市場支配力指数によるアプローチを取っています。すなわち、市場支配力を持った経済主体のいない完全競争市場と、逆に、独占を考えた後に、ゲーム理論を応用して不完全競争を理解しようと試みています。ですから、本書で考える市場支配力指数の経済学というのは、ゼロで完全競争市場を、そして、100で独占市場を、それぞれ両極端に含む市場分析といえます。コストのパススルーや租税負担の帰着などを含めた完全競争と不完全競争の比較が p.49 の表3.1に示されています。そういった基礎の上に、第Ⅱ部と第Ⅲ部で課税や広告や金融、あるいは、競争政策や消費者政策への応用が分析され、最後に、一般均衡に通ずる理論的基礎付けがなされています。理論モデルの分析からは、まずまず常識的な結論が導かれています。すなわち、貸出市場の市場支配力が強まれば預金金利が低下し、逆に、預金市場の市場支配力が強まれば貸出金利が上昇する、あるいは、垂直的な取引関係の中で、小売業者の数が減少すれば卸売価格が低下する、などです。後者の小売と卸売の関係は交渉を伴う垂直的関係における分析でも市場支配力指数アプローチが有効であることが示されているといえます。もちろん、市場支配力の上昇は資本分配率を上昇させ、経営者や資本家の所得を増加させるとの分析結果も示されています。ですので、ミクロ経済学では従来は完全競争からの逸脱という意味で市場の失敗の中で取り扱われてきた不完全競争を連続変数によるオペレーションで扱えるようにするという市場支配力指数アプローチの有効性が概ね示されているように私は受け止めました。ただ、繰り返しになりますが、完全な学術書であり、一般ビジネスパーソンや学部学生レベルでは理解を超える部分がいっぱいあると思います。
次に、森永卓郎『保身の経済学』(フォレスト出版)を読みました。著者は、今年2025年1月に亡くなった経済アナリストです。この方の著書をいくつか読んできたのですが、本書で私も一区切りとしたいと考えています。本書は、タイトル通りに保身を経済学の視点から考えているのですが、8章から成っており、順に、教育現場、職場、金融村、大手メディア、ザイム真理教、立憲民主党、官僚、若者、がそれぞれ取り上げられています。私の興味の赴くままに、まず、教育現場ではマニュアル化された教育が槍玉に上がっています。私も大学教員として、初等・中等教育までの指導要領に則った教育が、その後の大学における自由な発想や批判的な思考の妨げになっていて、大学生が大学段階での教育を十分に享受できない一因となっているように受け止めています。でも、本書では、企業がブランド大学の学生の採用に傾いたり、学生の方でも大企業志向が強かったり、という点を「保身」と捉えています。まあ、そうかもしれません。職場に至っては、本来あるべき企業活動よりも上司の意向に沿った業務遂行が「保身」であると指弾されています。ただ、この点については私は不案内で、上司に従う部下がよくない、というよりは、企業活動を歪める業務指揮を取る上司の方がよくないのであって、その上司は保身のために部下に業務命令、というか指示を出しているわけではないような気がしてしまいました。ここでは、ご本人の経験から三和総研の例が持ち出されています。それから、金融村では「株が下がるとはいえない」のは一面の真理であって、株の営業をしている場合はそうなのですが、株よりも人数としてはグッと少ないものの債権の営業をしている場合もあり、金利の動きに対しては株と債券は逆に動くわけですので、まあ、ようするに、金融村に限らず、いわゆるポジショントークをしている、ということなのだろうと思います。そして、私の考えでは、特に、罪が重いと感じるのはメディアの保身です。大手限定ではなく、メディアは国家権力と一定の緊張関係にあるべきであると私は考えるのですが、NHKから始まって、多くのメディアが国家権力に逆らうことなく、政府・与党の情報垂流しの「御用メディア」に成り果てているように感じています。最近では、国家権力だけではなく、ジャニーズ事務所のような芸能界権力にまで抵抗することなく、海外メディアの情報をキャリーするしかないように見受けられます。挙げ句の果てには、国民にキチンと情報が伝わらずに、したがって、国民が正しい判断を下すことの妨げになっているような気がしてなりません。「保身」というよりは、ほぼほぼ権力に対する忖度の塊になってしまい、「社会の木鐸」としての役割を果たしているメディアは、私の見たところ「赤旗」と週刊文春くらいしかないように思えてしまいます。ですから、権力のサイドでは、例えば、万博事務局などでは、「赤旗」記者に取材させまいと記者証の発行を長らく拒んでいたりするわけです。ザイム真理教をはじめとする官僚はいうに及びません。私は60歳の定年までキャリアの国家公務員として長らく働いていましたので、身にしみて理解できる部分が少なくありませんでした。そのあたりや若者の保身については、読んでみてのお楽しみです。
次に、ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史』上下(河出書房新社)を読みました。著者は、イスラエルにあるヘブライ大学歴史学部教授であり、10年ほど前の『サピエンス全史』で世界に読者を得たと記憶しています。ただ、その後の『ホモデウス』や『21 Lessons』なども私は読んでいますが、それほど感心はしません。本書もやや期待外れでした。本書の英語の原題は NEXUS であり、2024年の出版です。まず、日本語タイトルは「情報の人類史」となっていて、これはこれで正確です。ただ、英語の副題は A Brief History of Information Networks from the Stone Age to AI であり、本書は情報ネットワークの歴史ではないので、情報の歴史という意味で日本語タイトルの方がより正確であり、本邦出版社は十分理解しているのだろうと私は認識しています。ということで、本書は情報の歴史であり、まず、タブレットに、そして、すぐ後には紙に情報が記録されるところから始まり、それが官僚によって管理され、支配されるところから歪み始めて、無謬性が付加される、と論じています。そして、その無謬性に立脚して全体主義が生まれ、一定の基礎の上で民主主義を凌駕して世界を戦争に巻き込む、という歴史観です。ネットワークとどこまで関連するのかは私には不明でした。ただ、この著者の歴史観、最初のベストセラーである『サピエンス全史』で明らかにされた人間のつながりの重視、協力する動物としての人間=ホモサピエンスという視点は本書でも受け継がれており、共同主観的現実が歴史の原動力であるという観点を提供しています。私はこの歴史観には賛同しません。うがってみれば、共同主観的歴史観の前から指摘されていた2つの歴史観、すなわち、主観的現実に立脚する唯心論と客観的現実に立脚する唯物論の対立から生まれる弁証法的な共同主観的現実を提示しているように私は受け止めたのですが、ナラティブとしての物語を代表する共同主観的現実には、あくまで主観的現実が入り込んでおり、私自身は客観的現実に即した唯物論が正しいと考えています。ビッグバンから始まる宇宙の歴史の大部分、そうです、圧倒的大部分の歴史は共同主観的現実ではなく客観的現実でしかありえません。具体例としては、小惑星が地球に衝突して恐竜が絶滅したのは主観的現実とも、共同主観的現実とも何の関係もなく、あくまで客観的現実です。加えて、本書では何らネットワークを問題にしていません。情報は死蔵されている限りは何の歴史的役割も持ち得ません。何らかのネットワークに乗って流通することが重要です。その意味で、私は古典古代から中世にかけては図書館が、そして、活版印刷が発明された後の近世ないし近代ではメディアが重要な役割を果たすと考えています。ところが、本書では図書館や印刷についての言及はまったくなしに、いきなり飛んでAIになってしまいます。ですから、本邦でも注目されたのはAIがテロリストによって悪用されて世界が壊滅する、というわけのわからないシナリオです。ただ、何と申しましょうかで、私はこの結論には賛同します。賛成であるが故に、歴史的にていねいに解明して欲しかった気がします。AIについては、そう遠くない将来に明らかに人間の総合的な認知能力を超えることが予想されますから、AI開発については明らかにブレーキをかけるべきであると考えます。ストップしてもいいかもしれません。なぜなら、本書の第5章の表現でいえば、「完全なる統制」は人間の側からAIに対しては近い将来に不可能にあり、その逆方向の統制がなされる可能性が極めて高いからです。この結論のために、本書を長々と読む必要はまったくなかった、と読み終えて気付かされた次第です。いずれにせよ、この著者の本はそれほど頻度高く出版されるわけではないので、今後も読み続けるような気がしますが、経済史についてはアイケングリーン教授の本をさらに重視するようになる予感があります。はい、予感です。
次に、新川帆立『目には目を』(角川書店)を読みました。著者は、弁護士として活動していたミステリ作家です。コンスタントにミステリの新作を発表しています。本書の主人公はジャーナリストの仮谷苑子であり、彼女が取材を進めて真相に近づくという体裁のミステリ、というふうに私は読みました。まず、N少年院のミドリ班に所属していた少年の触法事実が明らかにされます。少年ですから触法であって、犯罪とはいわないのでしょうが、まあ、一般的に判りやすく犯罪といっていいのかもしれません。そのミドリ班に所属していた少年たちが少年院を退院した後、そのうちの1人である少年Aが田村美雪によってメッタ刺しにされて殺害されます。この殺人事件は謎でもなんでもありません。実は、犯人の田村美雪は少年Aによって幼い我が子を殺されており、その復讐が実行されたわけです。犯人が田村美雪であるとすぐに特定されて逮捕され、裁判により無期懲役の刑が確定します。その裁判で、被告の田村美雪は何らの反省の姿勢も見せず、「目には目を」というハンムラビ法典を実行しているわけです。ただ、被害者として殺害された少年Aは少年法の精神により実名が公表されないばかりか、居住地などの情報も一切伏せられているわけですから、誰かが少年Aに関する情報を田村美雪に流したことになります。この少年Aに関する情報を田村美雪に伝えた少年Bを特定するのが解明すべきミステリの謎、ということになります。そして、主人公の仮谷苑子が少年Aと同じ時期にN少年院ミドリ班に属していた少年A以外の6人に関して取材を進めるわけです。少年たち本人への取材に加えて、少年院の青柳主任、あるいは、必要に応じて少年たちの家族、さらに、少年たちの犯罪の被害者なども取材対象としています。ミステリですので、あらすじはここまでとしますが、なかなかに興味深いストーリー展開で、まあ、途中の紆余曲折の大波にしては、ラストは穏当な結末が用意されています。ミステリとしては評価が分かれると思います。おそらく、この作者の実績としての今までの作品群から考えても、高く評価する人が圧倒的に多いと思いますが、私はそう高く評価しません。やはり、復讐というテーマが暗くて重いことに加えて、実に穏当なラストで収束するからです。幼い我が子の復讐で殺人を実行した田村美雪の犯行に対比すればするほど、ラストはつまんないと私は感じました。逆に、このラストを安心して読む読者も多そうですし、そういった読者はこの作品を高く評価するんではないか、と私は想像します。ただ、はやりの作家さんですから読んでおいて損はありません。その意味で、オススメです。
次に、原田泰『検証 異次元緩和』(ちくま新書)を読みました。著者は、私もよく知る官庁エコノミストご出身で、現在は名古屋商科大学ビジネススクール教授を務めています。私の上司だったこともあり、したがって、共著論文もあったりします。本書は著者が日本銀行政策委員会審議委員としての経験を持ち、当時の黒田総裁が進めた異次元緩和を積極的に支えた立場からの検証結果を取りまとめています。です7から、当然ながら、異次元緩和を悪く書いているハズもありません。よかった点を列挙して、よくなかった点は言及されていません。雇用は改善されました。これは明らかです。異次元緩和の否定論者は雇用が増加したとはいえ、非正規雇用の増加であった点を強調しますが、本書ではそれを否定しています。私は両方とも成り立ちうる点を指摘しておきたいと思います。ただ、賃金が上昇しなかった点は異次元緩和否定論者に近いです。そして、財政赤字については明らかに低金利の維持という点で貢献しています。指数関数的な債務の累増、いわゆる雪だるま的な債務の増加を抑止するのに低金利は大いに役立ちました。同様に、株価の維持や上昇にも貢献しているハズですが、その点は本書ではそれほど強調されていません。しかし、金融市場の緩和によって資金調達が容易に運んだことは当然で、企業倒産の抑止に役立っています。ただ、これらの点で反論する向きはモラルハザードの観点を強調していて、そこには一定の理解を示すべきです。いずれにせよ、異次元緩和否定論の根拠を批判している本書の根拠は明白であり、特にターゲットのひとつにされている山本謙三『異次元緩和の罪と罰』に比較して、本書の方がずっと説得力あると私は受け止めています。特に、日銀財務状況に対する副作用との批判は、本書の指摘と同じで、私はまったく的外れだと受け止めています。最後に、1点だけ本書が取り上げていない異次元緩和の副作用、というか、否定的な側面は住宅価格です。特に東京の住宅価格は異次元緩和によってメチャメチャな上昇を見せました。もはや一般的なサラリーマンが東京で然るべき住宅を購入することは不可能になっています。その昔に「億ション」といえば、贅を極めた豪華マンションでしたが、現在ではごくフツーのマンションが1億円では買えなくなっています。思い起こせば、1980年代後半のバブル経済が破綻したのは、当時いわれていた「年収の5倍で住宅が買えない」という点が大きく批判されたため引締めが始まったのが引き金になりました。バブル崩壊から35年を経て、異次元緩和の最大の副作用は住宅価格に現れました。もちろん、中央銀行が政策目標とすべきは物価であって、資産価格ではないという議論はあり得ますが、中央銀行がバブルやバブル崩壊に対応するのであれば、住宅価格にも目を配るべきです。しかも、住宅は教育や医療とともに国民の権利のひとつであり、どこまで市場での供給に依存すべきかは疑問、と私は考えていますが、いまだに多くの国民は自己責任で住宅を買うべきと認識しているようです。その住宅が一般的なサラリーマンには手の届かない価格になってしまっています。この副作用をいかにして解決するかは現時点で誰も指摘していません。国政選挙の争点にすらなりません。こういった点が私には大いに疑問です。
次に、吉田敏浩『ルポ 軍事優先社会』(岩波新書)を読みました。著者は、ジャーナリストであり、本書は岩波の月刊誌『世界』などに掲載されていた記事を取りまとめています。「国家安全保障戦略」、「国家防衛政略」、「防衛力整備計画」を本書では「安保三文書」と呼び、2022年12月に当時の岸田内閣において決定され、その後、岸田内閣によって強力に軍拡と軍事費膨張、米日軍事一体化が進められてきたと主張し、それらを軍事や安全保障の面からだけでなく、軍事優先のために切り捨てられる社会保障などもあわせて本書でルポしています。まず、台湾有事や中国との武力衝突を想定した九州から沖縄・南西諸島の軍事化が進んでいる現実を詳細にリポートしています。特に、弾薬庫の増強が特徴としてあげられています。本書でも言及されていますが、私の生まれ故郷の京都府南部には祝園弾薬庫があります。弾薬庫とは自然の地形を利用して弾薬を備蓄する施設であり、当たり前ですが、敵の標的になるような目立つ建物があるわけではありません。それだけに、地域住民などの目にもさらされることなく、拡充が進められているのは脅威といえます。こういう形で地域の軍事化が進められ、軍産学複合体の利益が図られている点が詳細に報告されています。おそらく、学術会議法案の審議が衆議院に次いで参議院で始まっていますが、明らかに、こういった学術の軍事化の先にあるものであり、それを本書ではていねいに提示しています。それから、まさか日本で徴兵制が復活するなんてことはあり得ないと考える国民が大多数だろうと私は想像していますが、第2章では、所得などのメリットを強調した経済的徴兵制が事実上始まっている可能性も指摘しています。加えて、軍事費の増加の影で社会保障、特に生活保護が削減されている点も詳細な取材に基づいて明らかにされています。特に、私が不安を感じるのは、日米合同委員会などの米国のコントロール下で、軍事面を中心に日本の対米従属が強まっている可能性です。私は安全保障や軍事面はそれほど詳しくありませんが、経済面では最近の日米間税交渉なんて、報道に接する限りでも、とても対等平等な交渉が出来ているようには見えません。米国の意向に沿ってオスプレイを飛ばし、自衛隊は米軍の指揮監督下に置かれ、科学や学術まで軍事優先で米国に利用されるとなれば、もはや日本は独立国の体をなしません。本書では指摘されていませんが、特に日本では司法の独立性が低くて、内閣の方針を追認するだけの役割しか果たしておらず、最近、米国の国際貿易裁判所がトランプ関税の差止めを命じる判決を出したような役割はまったく期待できません。全国の地方公共団体の中で政府の方針に異議を唱えている沖縄県も裁判で芳しい結果を得ているようには見えません。これまた、本書では取り上げていませんが、メディアの対抗力、権力との一定の緊張関係もまったく失われつつあります。軍事面を中心に対米従属を強める政府を押し止めるには一体どうすればいいのか、本書はこういった大きな課題を突きつけるルポだったと思います。
次に、飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』(平凡社新書)を読みました。著者は、編集者を務めた後に独立し、現在ではWEBカルチャーや出版産業などの論評をしているようです。同じ作者が同じ出版社から出している『「若者の読書離れ」というウソ』を私は2年ほど前に読んだ記憶があります。この事実を、おそらく、高齢の方々は認めたくないでしょうが、若者が読書離れしていないという事実は決して間違っていません。ということで、本書では、ソフトウェアである読書ではなく、ハードウェアの書店、それもネット販売などではなく町の書店について歴史的に振り返っています。カバーしているのは、基本的に、新刊書を販売する書店であり、古書店は含みませんが、雑誌などのメディアを考える際は駅のスタンドなども含めています。誰の目から見ても、町の本屋が減っていることは明らかです。私が勤務する立命館大学のびわこくさつキャンパスのJR線の最寄り駅である南草津駅では、昨年だったか、駅ビルに本屋がオープンしたのですが、こういった動きは大きな例外といえます。その町の本屋の経営について、よく指摘されるのが不合理な出版流通の現状です。本書でも指摘しているように、本屋さんには本の入荷に関して自主的な経営判断をする余地が少なくなっています。出版社というメーカーがあるのはよく知られた通りですが、日本では取次と呼ばれるいわば本の卸売業者が出版社と書店をつないでいて、この取次が配本を事実上決めているという事実があります。すなわち、書店サイドで頼んでもいないのに、取次が見計らい配本でもって書店に本を配本し、定価で売れなければ返品する、というシステムです。定価販売という再販制度についても本書では取り上げています。文化振興のためという名目が嘘っぱちに近いと指摘していて、はい、私もそう思います。要するに、賞味期限間際の食品を、本部が値引き販売させてくれない、というコンビニの問題と同じで、例えば、新刊が出た後の前週の週刊誌を値引き販売したり、あるいは、在庫一掃セールなんかでも書店の裁量で値引き販売できないわけです。量の面からは取次が見計らい配本で書店の自主性が奪われ、価格の面からも定価販売で値引きも出来ない、という営業自由の原則に照らしてどうか、と思わせるような経営を強いられているのが実情というわけです。その上、日本の書店の粗利益率=粗利は20%強しかなく、先進各国の中でも利幅が小さくなっています。もちろん、ネット販売のシェア拡大、あるいは、そもそも、若者以外の年齢層の読書離れ、もちろん、人口減少などなど、書店の売上にネガな影響を及ぼす原因はいっぱいあります。今では廃止されたとはいえ、大店法もそうだったかもしれません。ただ、図書館で本をそろえて貸し出しても書店の売上が減るということはないとの指摘を紹介しています。いずれにせよ、日本では出版物に限らず、まだまだ、需要のバイサイドに比べて、供給のセルサイドが強い、という分野が決して少なくありません。かつての松下幸之助の「水道理論」が当てはまるわけです。金融なんかでも投資信託などの資金運用会社のバイサイドは、セルサイドの証券会社にいわれるままに金融商品を買わされているところがまだまだ残っていたりします。基本的に、私の経験でも途上国では掛売りがあったりする関係で、消費者よりもお店の方にアドバンテージがある場合が多く、大先進国の米国でも消費者がパワーを持ち始めたのは1960年代にラルフ・ネーダーが本格的に消費者運動を組織し始めてからだという気がします。その消費者とお店の力関係が、書籍流通においては取次と書店の間に現れている、と私は感じていしまいました。
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