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BLOG「獨評立論」

BLOG「獨評立論」です。ブログ名は「獨り評し論を立てる」の意。主にアジアを中心にニュースや体験などから「獨評立論」を行います。

減速する中国の外交力と周辺地域動向(11)

(続き)

4.4.4. 周辺の友好勢力を中華秩序の一員とする民族主義的体質

  ①ベトナムによる民主カンプチア国(現カンボジア国)への侵攻、②ベトナム政府による華僑商人への弾圧、③軍内部に残る文革派勢力の残存――以上3点を中越戦争の背景として解説した。
  中越戦争前後の流れの中で特筆すべきは、中国・ベトナム・カンボジアという当事国3国に共通する、伝統的な民族主義的体質である。20世紀の国際共産主義運動の総括として、「共産主義・社会主義などの左翼イデオロギーは最終的に民族主義的イデオロギーと分かちがたく結びつき左翼ナショナリズムとなることで、プロレタリア国際主義が解体に向かった」という指摘は良くなされる。特にその傾向は、世界宗教であるキリスト教から発展した共通の文化基盤を持つヨーロッパ諸国の共産主義運動に比べ、儒教的価値観と民族主義的価値観が強いアジアの共産主義運動の中で顕著であった。

  ■中国とベトナムの共通点:自国を宇宙の中心と規定する中華思想

  ここでは特に、中国とベトナムにおける中華秩序的な民族主義体質を指摘したい。中国共産党指導部においては、革命目標がアジア周辺に絶対な影響力を有するいわば「華夷秩序」の回復にあった。先の毛沢東の講話をもう一度引用する。

  日本佔領了朝鮮、臺灣、琉球、澎湖群島與旅順,英國佔領了緬甸、不丹、尼泊爾與香港,法國佔領了安南,而彈丸小國如葡萄牙也佔領了我們的澳門。


  日本は朝鮮・台湾・琉球・澎湖諸島・旅順、イギリスはビルマ・ブータン・ネパール・香港、フランスは安南(ベトナム)、さらにポルトガルの如き小国までもが我らの澳門を奪った。

東京工業大学・青山学院大学名誉教授の永井陽之助は「この民族主義者としての毛の言葉は、中国の周辺諸国を、かつての朝貢国イメージとの二重写しで捉えていることは疑う余地がない」と指摘している。またアメリカの中国研究の権威でありハーバード大学の教授を務めたベンジャミン・イサドア・シュウォルツも、共産中国の建国という中国革命については「“天子”のオリジンの検証」と指摘し、ゴンチャロフは「世界における中国の固有地位を取り戻すという夢」(=習近平が現在言うところの「中國夢」である)と指摘している〔127〕
  その場合の一番の恐怖は、北方民族が万里の長城を越え、その存在を南下させることにあった。漢民族が長い歴史で警戒したのは第一に「北」(ないし西北方向)であり、匈奴の昔から中ソ対立まで北方民族は漢民族を脅かしてきた。列挙すれば、烏孫、月氏、五胡(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌)、柔然、北魏、吐谷渾、突厥、ウイグル、吐蕃、契丹(遼)、西夏(大夏)、女真(金)、モンゴル(元)、女真(清)、日本軍国主義および日本軍国主義傀儡(大満州国、のち大満洲帝国)、そしてモンゴル人民共和国ひいてはソビエト連邦である。西方におけるローマ帝国がかつてそうであったように、東アジアにおける漢帝国は、中国を統一すると今度は北方の異民族と対決しなければならなかった〔128〕。中ソ対立はまさに、「漢と匈奴の対立」以来の連綿と続く伝統的なものであった。
  伝統的な民族主義的体質は、ベトナムもまた同様であった。そしてそれこそが、中国が「小覇権主義」として危険性を警戒してきたベトナムのインドシナ覇権主義である。ベトナムの民族主義とインドシナ全域における覇権主義は傑出しており、自らこそがインドシナ3国の盟主として確固たる優越を有するというものであった。ベトナムの主体民族であるキン族は東南アジア地域における先住民族ではなく、中国南部から南下してきた民族と考えられている(言語学的には諸説あるが、シナ・チベット系ではないとされている)。インドシナと称される地域は、インドと中国の間にあることからその名称を冠しているが、キン族居住地域が中国大陸に近かったがゆえに中国文化の影響が強い。東南アジア各国の諸民族(ビルマ族など)にインドの影響が強くみられるのと比べれば、キン族は中国の影響が強い。仏教についても、東南アジアでは珍しいことに上座部仏教ではなく北方より伝来した大乗仏教を受容しており、中華秩序的世界観を導入している。これにより、ベトナムは自らを東南アジアの盟主として強く意識していた〔129〕
  それは中越戦争直後のベトナム第6期国会第5回会議で、ボー•グエン•ザップ副首相兼国防相が行った長時間の演説に表れている。中国側が「反中国演説」を行った〔130〕とみなす同演説の中で、中国について公然と「ベトナムとインドシナ三国」の脅威だとしている。即ち、中越戦争はインドシナに対する脅威であると述べているわけである。この表現は、まさにベトナムこそインドシナに責任を持つべき存在であるという意識が表面化したものといえるだろう。
  また1982年に開催された、ベトナム共産党第5回党大会の決議では、最高権力者レ・ズアンが政治報告を行い、1979年のカンボジア侵攻以降の路線について、ほぼ全ての点で継続していくことが再確認されている。加えて“国防”と“社会主義建設”という二つの「戦略的任務」の更なる継続を真先に訴えている〔131〕。また中国を改めて「膨張主義,覇権主義者」「われわれの敵」と規定し、ソ連・ラオス・カンボジアとの「戦闘的団結の強化、全面的協力の拡大」は「戦略的意義を持つ任務である」とも述べ、引き続きカンボジア介入を継続してゆくという意志を強く表明している。
  であるがゆえに、中国はベトナムのカンボジア侵攻に、「大インドシナ連邦の結成、地域的覇権主義の推進という野心」を嗅ぎ取った〔132〕。先に述べた人民戦争理論を軸に据えていた中国側は、ソ連式の機械化軍隊である統一ベトナム軍がカンボジアに侵攻したことについて「ヒトラー式の電撃戦を発動」と、ナチス・ドイツのポーランド進撃になぞらえた理論的攻撃を行っている〔133〕。カンボジア侵攻は「ベトナムの“インドシナ連邦”樹立計画の落し子にほかならない」〔134〕ものであり、「ラオスを支配し、カンボジアを征服し、“インドシナ連邦”をデッチあげ、さらには東南アジアへの侵略、拡張をはかる」ことが「これが地域覇権主義を推進するベトナム当局の既定政策」と認識した〔135〕

  ■南方に行くほど強い?中華秩序的宇宙観

  これは全くの持論であるが、自らを宇宙の中心と位置付ける中華思想は、中国大陸沿岸部を南下するほど強いのではないだろうかと筆者個人は考えている。すなわち、中華思想がもっとも純化された地域は、中国国内であれば南方の華南地域であり、アジア全体で見ればベトナムであると考えている。インドシナ半島は、ベトナム語でBán đảo Đông Dương[半島東洋]と書く。ベトナムは、西洋に対置する存在であるアジアの中心が、インドシナであると考えているのである。ならば中国人が中華という宇宙の中心を南京であると捉えているとして、ベトナム人はどうか。ベトナム人にとっては宇宙の中心はハノイであるはずだ。
  その文脈で言えば、ベトナムがどこまでソ連を信用していたのかという点についても怪しい節がある。例えば、中華思想の本家である中国では、アヘン戦争以来「夷狄同士の争いをいかに利用し、いかにして夷狄同士の均衡を我らに有利なように作り上げ、夷狄を制するために夷狄の優れた技術を利用するか」〔136〕と考え、抗日戦争ではアメリカから援助を受けて日本と戦っていた。ベトナムもまたハノイを宇宙の中心として、モスクワに居る「夷狄」を地域覇権のために利用しただけではないのか。ベトナムがカンボジアに樹立した傀儡政権カンプチア人民共和国の初代最高権力者ペン・ソバンは、クメール・ルージュの政権掌握よりはるか以前からベトナムに亡命していた親ベトナム派の代表格であったにもかかわらず、党と国家の最高職を解任され、ベトナムのハノイで投獄された。その理由にあるのは、ハノイよりもモスクワに接近したためだったという。クメール・ルージュがカンボジアで行った政策にしても、一般に「毛沢東思想の影響を極端に具現化したもの」といわれるが、これも疑問符である。
  筆者が中華秩序的宇宙観は南方に行くほど強いと考える背景には、先に述べた歴史的背景を有する民族主義的体質に加え、中国の革命は南方から起きると良く言われることがあるためだ。筆者は以前、とある政治活動家と酒を飲んでいた。彼は既に他界したが、台湾・華南の華僑とのパイプも有していた人物だっただけに、学生の私に対しアジアを見ていくうえでの幾つかの示唆も残した。亡くなる直前に語って曰く、「アヘン戦争、太平天国、国民革命、…中国の風は常に南方から吹く」と〔137〕。中国大陸の歴史を見る場合、もっとも解りやすく発生した「南方からの風」は清王朝末期の動乱であろう。アヘン戦争は広東省広州湾で1841年に、太平天国の乱は広東出身の洪秀全が1861年に南京を占領し十数年間続いた。そして20世紀に入った1911年、辛亥革命が清朝打倒を目的に発生し、これにより清王朝は滅び、中国に初めての共和制国家・中華民国が形式上は成立した。中国を現在統治している中国共産党は1921年に上海で結党。最終的に主導権を確立する毛沢東は、湖南省の出身であった。
  中国大陸南方の居住者にある民族主義的宇宙観は、しばしば中国国内でも混乱を引き起こしている。文革期には「我こそは革命派、奴らこそは反革命派」と自己規定する紅衛兵のセクトにより、全国的に「武鬥」(=武装闘争)の波が全国を襲った。それはやはり南方の華南において、非常に顕著に出現した。殆ど工業化されておらず、また都市ごとに言語が異なり最も方言差の激しい福建省では、支配的なのは最終的には南方特有の愛郷心だった。厦門の紅衛兵が福州に到達したとき、彼らを攻撃したのは、「福州は福州人のものだ!! そして福州人は祖先のことを忘れてはならない!! 我々はいつまでも厦門の奴らの敵でなくてはならない!!」という南方の宇宙観だった〔138〕
  この背景には、歴史的に発生してきた「械鬥」も存在していた。械鬥とは水利や地境の争いを原因に起きた集落や労働者集団間の武力闘争であり、清代から連綿と続いてきた。また華僑に見られるように同族により閉鎖的な村落の多い華南では、「客民」(土着民から見て外来者を指す言葉)と「本地人」(=土着民)の対立が起きるのが常であった。文字通りの「客民」である客家人は清代末期に移住先で本地人と衝突してきた。
  今日でも華南の集落では労働争議や役人の腐敗に対する反発という形で、騒乱が散発している。この場合、外地から派遣されてきた共産党幹部の腐敗に対し、村民が集落一丸となって抵抗するのが一般的なパターンとなっている。この傾向は清代末期から変わっていない。中国の革命が南方発ということの、もう一つの側面でもある。ミャオ族の最後の反乱におけるスローガンは「客民を追放しよう!!黄河まで攻め上ろう!」であった〔139〕

  中国における中華民族的宇宙観
  ▲中国における中華民族的宇宙観(クリックで大きくなります)

  ベトナムにおける中華民族的宇宙観
  ▲ベトナムにおける中華民族的宇宙観(クリックで大きくなります)

  ■徹底したベトナムの中華秩序:対南工作と対ラオス・対カンボジア工作

インドシナの共産主義者グループの系譜  そもそも、インドシナ3国の共産化を成し遂げた勢力は、源流を全てインドシナ共産党に持ち、その主体はベトナム人であった。結果的にそのなかで反逆したのは、民族的にベトナム民族への反感が強い、東南アジアの先住民族であったカンボジア共産党(クメール・ルージュ)のみである。
  これまでに触れることもなかったので、インドシナの3カ国を共産化したグループについて図表で整理したうえで改めてここに触れておきたい。結論から言えば、インドシナ3カ国における共産主義グループは、すべてベトナム人を中心とするインドシナ共産党を起源としているのである〔140〕〔141〕。これはクメール・ルージュですら、勢力拡大の中で指導者層の入れ替わりが進むまで、その系譜に沿った活動を行ってきた。インドシナ共産党は、戦前より帝国主義に対する独立闘争を行ってきた共産主義グループであるが、1945年に偽装解散。インドシナ共産党の実力者でソ連・コミンテルンのホー・チ・ミンが主導するベトナム独立同盟会(ベトミン)として活動する。
  やがて1951年の第2回党大会で、再び表舞台に出現する。と同時に、3カ国の実情に合った活動をめざし3党に解党。ベトナム人グループはベトナムを舞台に活動する「ベトナム労働党」として、ラオス人グループはラオスを舞台に活動する「ラオス人民党」として、クメール人グループはカンボジアを舞台に活動する「クメール人民革命党」となる。この中では、まさしく人民戦争として都市部の資本主義者や帝国主義者を駆逐するため、戦前から同様に活動していた民族主義者グループも取り込んでいく。
  だが実のところ、戦前に活動していたグループにおいても主要な地位にあったのは当時のインドシナ共産党の党員であった。その代表はラオスであろう。ラオス人民党は、従来ラオスで活動していたネオ・ラーオ・イサラのメンバーを取り込んでいる。しかし同組織も実際は、指導者がインドシナ共産党員のカイソーン・ポムウィハーンであり、彼はベトナム系の家計に育った人間である〔142〕。彼は後に共産化されたラオスの初代最高指導者となる。またインドシナ共産党時代から、ベトナム人グループはベトナムの独立をめざし、ラオスでの勢力拡大に一貫して専念。ラオスの都市部に党細胞を構築し、ベトナム語新聞などを発行していた。またラオス人民党が結成されたのち、その軍事部門の指導には、ベトナム労働党より派遣されたベトナム人が関与している。
  この流れは、ベトナム北部が独立した後も一貫している。ベトナムに北部において独立を獲得したベトナム労働党は、南ベトナムの「解放」をめざした対南侵攻と戦略物資輸送に当たり、ラオス領内・カンボジア領内を通過するホーチミン・トレイルを建設。第三国を経由して南部に物資を輸送するという国際法違反を平然と行っている。ベトナム共産勢力は、インドシナ3カ国を単一の戦場と捉えていた。
  またベトナム戦争中から、北ベトナムは南ベトナムに対してラオス同様の工作を行っていた。その象徴が南ベトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam、ベトコン)である〔143〕。ベトコンは、南ベトナムで1960年12月に反サイゴン政権・反アメリカ・反帝国主義を目的に結成された統一戦線で、南ベトナム政府に対し、あくまで建前としては「南ベトナムの人民が自主的に自国の政府に対抗した」という建前を取っていた。同組織には、ホーチミン・トレイルを利用して北ベトナムから武器弾薬など戦略物資が大量に運び込まれていた。
  一方で戦争が進行するこの時期、カンボジアにおける共産主義グループでは、変化が発生する。古参のインドシナ共産党系ベトナム派に代わり、のちのカンボジア共産化でクメール・ルージュの指導層となるポル・ポトらが台頭。ベトナムへの恐怖心を抱く彼らは、ベトナム派を失脚に追い込んでいく。

  ■各国の共産化後:大インドシナ連邦の可能性

  1975年、3勢力はそれぞれ自国の共産化を果たす。その後の経緯は先に書いたとおりであるが、そのなかでラオスでは中国派が失脚。中国派の一部は中国に逃れていく。またカンボジアにおいてはベトナム派は粛清され、一部はベトナムに亡命する。ベトナムがカンボジア侵攻に当たって担ぎ上げ、クメール・ルージュへの勝利後に民主カンプチア(クメール・ルージュ政権)に代わる傀儡政権としてベトナムが打ち立てた、カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)は、このベトナム派の共産主義者であった。
  興味深いのは、この新政権における教育政策であろう。使用された教科書はベトナムの教科書をそのまま翻訳したものかベトナム人専門家の検閲を受けたものであり、その内容はポル・ポト政権の残虐性を批判し、カンボジア人を救ったベトナムおよびベトナム人に対する感謝や友好関係を強調したものであった〔144〕。そのなかで示されたインドシナの「あるべき姿」は明らかにベトナムの意思を受けたものであり、児童には「ベトナム的な社会主義化」が望まれていたといえる。1982年の中学生の「道徳と政治教育」課目では「ポル・ポト/イエン・サリ/キュー・サンパンの反動主義的グループや家族,学校,祖国を破壊した中国の思想を拡大した政治グループに反対する」「ベトナムとラオスとそのほか社会主義国家との確かな団結」といったカリキュラムが見られ〔145〕、次世代には「戦闘的団結の強化」が期待されていた。
  この一連の流れの中で、中国は統一ベトナムに対して「ベトナム当局はその軍事力を頼み、『大インドシナ連邦』実現計画に熱中し、さらに東南アジアやもっと広はんな地域で覇権主義をおしすすめようとした」と捉え〔146〕、警戒感を隠さなかったのである。中国はソ連と組んでインドシナに影響力を構築するベトナムは「地域覇権主義」であり、ベトナムに隷属したラオスとベトナムの関係は「特殊関係」と見做した。即ちこれはベトナム版の華夷秩序であり、即座に冊封体制であると認識した。
  中越戦争前後の中国は、ベトナムのカンボジア侵攻は「征服」であるのに対し、ラオスに対する影響力拡大は「支配」であるとみなし〔135〕、ベトナムが推し進めているのは「ラオスとベトナムとの区別をなくそうとする『ラオスのベトナム化』」〔147〕であり、「カンボジア問題とラオス問題はほぼ同性質」(=大インドシナ連邦を狙ったもの)と指摘。中国もインドシナを単一の戦場として認識していることを隠さなくなる。
  ベトナムに対して「植民地化の目的で同国に拡張をすすめているベトナムのレ•ズアン集団の行為」を糾弾するとともに〔148〕、ラオスに対しても「ラオス当局の中の一部のものは卑屈な態度でソ連とベトナムに追随し、ますます反中国の道をつっぱしっている」〔149〕と警告している。

  ■民族主義的宇宙観が必然的に招いた中越戦争

  中越戦争における中国とベトナムの関係に話を戻すと、モンゴルなど伝統的に北方民族の抑圧を受けてきたともいえる漢民族にとって、①南方へ出現したソ連影響力への直面、②ベトナムという中華南方での異分子の出現、③華南出身である華僑(まさに上述の福建省などは代表的な華僑出身地で、山岳地帯に囲まれた同地域は、陸路で中国大陸内部へ出るより海路で東南アジア各地へ出る方が遥かに容易である)商人への弾圧、――以上の3点は、極めて民族主義的な宇宙観を背景に国家レベルでの攻撃的行為に駆り立てるに十分であった。即ち「戦争」である。東南アジアの複雑化する紛争とその混乱において、最終的な軸となるのは民族主義的宇宙観だった。

  ■北ベトナムの工作に近似する北朝鮮の対南工作と、現在の中朝関係

  以上のように説明してきた中越戦争前後の状況の中、とくに「民族主義的宇宙観」の視点からベトナムの対南ベトナム・対ラオス・対カンボジア工作を論じてきた。しかしここで朝鮮半島に目を転じてみたい。ベトナム統一ひいてはインドシナ共産化に向けたプロセスは、北朝鮮の対南工作でも見られた構図である。韓国においても、北朝鮮シンパの韓国人という建前でありながら、実際には北朝鮮の支援を受けているとされる南北共同宣言実践連帯や韓国大学総学生会連合(韓総連)が活動。これは南ベトナム解放戦線に値する。同団体は、在韓米軍の撤収や帝国主義的支配政策からの自主権奪取という民族主義・民族統一を前面に出しつつも、主体思想を理論的裏付けに自国である大韓民国へのバッシングを行っている。
  韓国で2010年3月17日付の『東亜日報』指摘した「中国の対北朝鮮外交は対東南アジア外交の踏襲である」と論理は、この点においても、深い共通点を持つ。すなわち、朝鮮半島においては民族主義的宇宙観と民族の統一という悲願を建前にして、北朝鮮との統一を訴える韓国側勢力が存在するということである。その中にあって、中国は冷戦構造が続くなか北朝鮮サイドに立ってきた。しかし一方で、それら民族主義的宇宙観を根拠に中国が北ベトナムと関係を険悪化させたのと同様、今の中朝関係は極めて冷却化している。その意味でも、朝鮮半島の今後については、東南アジアの歴史的経緯は非常に深い示唆を有していると言えよう。

(続く)



※127 建国前夜における毛沢東の対米戦略:「黄華・スチュアート会談」を中心に
  (林賢参,アジア研究 49(4), 3-25, 2003, 一般財団法人 アジア政経学会)
※128 大唐帝国―中国の中世
  (宮崎市定,『大唐帝国 中国の中世』,1988年9月,中央公論社)
※129 「相互認識」 東アジア・イデオロギーと日本のアジア主義
  (古田博司,第13章 近代日韓間の相互認識, 第4部 研究の成果と相互認識,第3分科 報告書,日韓歴史共同研究報告書 第1期,2005年6月,日韓歴史共同研究委員会,)
※130 ベトナム国会におけるボー•グエン•ザップの報告を評す
  (1979年『北京週報』24号)
※131 内外情勢に変化の兆し1982年のインドシナ
  (木村哲三郎,竹内郁雄,『アジア動向年報』,1982年,アジア経済研究所)
※132 華国鋒総理、キュー•サムファン氏に祝電
  (1980年『北京週報』1号)
※133 大、小覇権主義を非難
  (1979年『北京週報』4号)
※134 カンボジア情勢の動向
  (1985年『北京週報』51号)
※135 中越間の問題ではない
  (1983年『北京週報』27号)
※136 19世紀の中国における世界地理への関心と林則徐著『俄羅斯国記要』
  (セルゲイ・ヴラディ,スラブ研究センターニュース116号,2009年1月,北海道大学スラブ研究センター)
※137 2010年夏、大学生時代に歌舞伎町での彼との最後の飲み会の席上
※138 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
  (クルトワ・ステファヌ、マルゴラン・ジャン・ルイ,2006年,恵雅堂出版)
※139 中国歴代王朝下史書に現われたモンとその処遇、地位、抵抗史
  (竹内正右,『モンの悲劇―暴かれた「ケネディの戦争」の罪』,毎日新聞社,1999年)
※140 ラオス戦略と対マキ工作―インドシナ共産党,第二章 仏領インドシナ下のモン
  (竹内正右,『モンの悲劇―暴かれた「ケネディの戦争」の罪』,毎日新聞社,199年)
※141 インドシナ共産党から三つの党へ――1948〜51年のベトナム共産主義者の対カンボジア・ラオス政策
  (古田元夫,アジア研究 29(4), p42-78, 1983-01 アジア政経学会)
※142 ラオス ― インドシナ緩衝国家の肖像
  (青山利勝,中央公論社〈中公新書〉,1995年)
※143 ベトナム労働党の外交闘争と南ベトナム解放民族戦線――パリ「四者」会談実現の意義
  (遠藤聡,1997年,早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊,早稲田大学大学院文学研究科)
※144 カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開③ ― 学校教育の復興(1979年から1993年) ―
  (平山雄大,『学術研究―人文科学・社会科学編―』第62号,2014年3月,早稲田大学教育・総合科学学術院教育会)
※145 ヘン・サムリン政権下カンボジアにおける教育改革と教科書にみる国家像
  (羽谷沙織,立命館国際研究23,2011年3月,立命館大学)
※146 崩壊した「世界第三の軍事強国」の神話
  (1979年『北京週報』11号)
※147 ラオスに抗越連合戦線成立
  (1980年『北京週報』43号)
※148 ベトナムのラオス支配の実態を暴露
  (1981年『北京週報』52号)
※149 ラオス当局はどこまでつっぱしるのか
  (1979年『北京週報』25号)












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